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ゲーム開発会社のトップとして約20年活動してきた須田剛一氏と松山 洋氏が,業界のこれまでとこれからを語った「黒川塾 六十四(64)」レポート
今回のテーマは,「ゲーム産業のあれから20年、これから20年」。会場では,グラスホッパー・マニファクチュア代表取締役の須田剛一氏と,サイバーコネクトツー代表取締役の松山 洋氏をゲストに迎え,創業から約20年になる両社の歩みや,その間のゲーム業界を振り返るとともに,これからのゲームコンテンツやデバイス,エンターテイメントの姿などが語られた。
ゲームとの出会いから,デベロッパ代表として活動するまで
トークの最初の話題となったのは,須田氏と松山氏のゲームとの出会いについて。須田氏はビデオゲーム以前,遊園地やデパートのゲームコーナーに置かれていたエレメカの時代からゲームに親しんでいたが,一番最初に衝撃を受けたのは1983年にリリースされたATARIのアーケードゲーム「STAR WARS」だったという。とくに,ベクタースキャンディスプレイを使った画面表示には「これがアメリカのゲームか」と感銘を受けたそうだ。
同時に須田氏は,アメリカのプロレスや映画など,日本とはまったく異なる表現に憧れを抱いていったとのこと。さらに学生時代には,イギリスのロックにも傾倒していく。
その一方で,「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」をきっかけにアニメにハマり,刊行されているアニメ雑誌をすべて購入していた時期もあったという。須田氏は「アニメの作画はプロレスの技のようなもので,金田伊功さんの描くエフェクティブな動きとタイガーマスクの動きは,僕の中で同じ芸術」と話していた。
やがて高校を卒業した須田氏は,上京したいという理由からアパレルの専門学校に入学するが,そもそもファッションデザインに関する知識がなかったこともあり,早々に辞めて,その後さまざまな仕事を転々とすることになった。
その中には葬儀社もあり,須田氏は「毎日のようにご遺体や遺族と向き合っていたことが,ゲームの中で“死”をきちんと描くことにつながったのかもしれない」「“ゲームの中の死は軽い”という意見もあるが,そうじゃない」と語っていた。
一方の松山氏は,ゲームセンターで「スペースインベーダー」や「ドンキーコング」などに触れていたものの,本格的にゲームを遊び始めたのは,中学生の頃にファミコンが登場してからだったという。
最初に遊んだのは「マリオブラザーズ」で,兄弟でプレイして対戦の面白さなどを学んだとか。そのほか,友人とのROMカセットの貸し借りで「ゼビウス」や「ドアドア」など,著名なタイトルは当たり前のように遊んでいたとのこと。
ただ,さまざまな場で本人が言及しているとおり,松山氏は幼少の頃から漫画やアニメ,特撮,映画が大好きであり,ゲームに対する関心は相対的に低かったそうだ。会場では,学校の授業が終わると走って帰宅し,夕方に放映されるアニメを観る生活を高校生の頃まで続けていたというエピソードや,アニメを観るために部活を抜け出していたというエピソードが披露された。
松山氏は大学卒業後,一般の大手企業に就職する。そこから1996年にサイバーコネクトに合流し,2001年にサイバーコネクトツーの代表に至るまでの経緯は,「黒川塾 三十二(32)」聴講レポート(関連記事)に詳しいので,興味のある人はぜひ参照してほしい。
その中でも苦労したのは,サイバーコネクト創業当時,パイプや後ろ盾のない中,企画書とスタッフの職務経歴書だけでパブリッシャに営業をかけなければならないことだったという。とくに当時のゲーム業界は閉鎖的で,担当者になかなか取り次いでくれない会社もあったそうだ。
須田氏に話が戻り,1993年にヒューマンに入社し,プランナーとして「スーパーファイヤープロレスリング」シリーズや「ムーンライトシンドローム」を手がけたことが語られた。
そして1998年より,パブリッシャのアスキーから支援を受け,須田氏はグラスホッパー・マニファクチュアを設立し,「シルバー事件」「花と太陽と雨と」を開発する。しかし程なくして,アスキーはゲーム事業から撤退。須田氏はマスターアップした「花と太陽と雨と」のパブリッシャを探すため,自ら営業に出なければならなくなったそうだ。
何とか「花と太陽と雨と」の発売までは漕ぎ着けたが,その次の仕事がなければグラスホッパー・マニファクチュアは会社として存続できない。須田氏は,松山氏と同じように企画書と職務経歴書を持ってさまざまなパブリッシャに営業をかけたとのことで,「そこからが本当の意味での社長業だった」と当時を振り返った。
会社創立から20年,転機となった出来事は
「この20年の中で,人生を変えるような出来事はあったか」という黒川氏の質問に,須田氏は2011年の東日本大震災を挙げた。当時,グラスホッパー・マニファクチュアはエレクトロニック・アーツとともに「シャドウ オブ ザ ダムド」の開発を進めていたが,地震の発生により海外出身のスタッフの多くが帰国してしまったという。
また須田氏自身も,「このままゲームを作っていていいのか」「ゲームやエンターテイメントに力はあるのか」と疑心暗鬼になり,そのあと数年にわたって漫画や映画などのフィクションが楽しめなくなっていたそうだ。
松山氏は,自身にとっての大きな出来事として,2001年に会社の代表となり,社名をサイバーコネクトツーに変えたことを挙げた一方で,1995年の阪神・淡路大震災にも言及。当時,大阪勤務で震災に直面した松山氏は「生きていれば,こういう理不尽に遭うこともある」と自覚したとのことで,「最近は毎年のように災害が発生し,被害に遭われた方々が大変なのは理解しているが」と前置きしつつ,「我々は,そういった方々が笑顔になれるようなゲームやコンテンツを作っていくほかない。逆にいえば,それしかできない」と話していた。
松山氏個人の転機となったのは,「NARUTO -ナルト- ナルティメット」シリーズの企画開発の関係で,17年前に初めて週刊少年ジャンプ編集部を訪問したときだという。6歳の頃から1号も欠かさず週刊少年ジャンプを購入し,今なお全ページに目を通すという松山氏は,「編集部があるフロアのエレベーターの扉をくぐった瞬間,よくある漫画の演出のように自身の心臓が“ドクン”と鳴り,運命が変わったのが分かった」と表現した。
松山氏は,それ以降,ゲーム開発の進捗報告などで集英社を訪れるときは,用もないのに週刊少年ジャンプ編集部に立ち寄っているのこと。編集者に煙たがられたり,バンダイ(現バンダイナムコエンターテインメント)の担当者から注意されたりしながらも通い続けた結果,半年くらいしたら「上がってきたばかりの荒木(飛呂彦)先生の原稿見る?」などと声をかけてもらえるくらいにまでなったという。
さらに松山氏は「『NARUTO -ナルト- ナルティメット』シリーズのおかげで,海外でも声をかけてくれるファンが増えた。本当に週刊少年ジャンプには感謝しかない」と語っていた。
須田氏も海外で有名なゲームクリエイターだが,自身が海外を意識するようになったのは,グラスホッパー・マニファクチュア設立から数年後に訪れたE3からだという。「ここが世界のゲーム業界の中心だ」と感じた須田氏は,その場に自身やグラスホッパー・マニファクチュアのゲームがないことから「この中に入るゲームを作りたい」と思ったとのこと。
そのあとカプコンから「海外展開を視野に入れたゲームを作らないか」と声をかけられたときは,二つ返事で「やります」と回答したそうだ。それが「killer7」である。
そうやって,須田氏や松山氏が絶妙なタイミングでチャンスをものにしていることに対し,黒川氏が「常に努力しているからでしょうね」とコメントすると,両氏は「通った企画の裏には,ボツがたくさんある」「才能やセンスがものをいう業界だから,ヒット作は一発で企画が通ると思われがちだが,そんなことはない」と同意した。
これからのプラットフォームとゲームの展開
話題は,10月30日に松山氏が自身のnote「週刊少年 松山洋」にて公開した,「イラストレーターを安易に目指すな」という記事にも及んだ。内容の詳細はリンク先を読んでほしいのだが,かいつまんで説明すると,最近の専門学校生には「ゲーム開発は難しそう」「ストーリーを作れないから漫画なんて無理」といったように消去法で専攻を選ぶ人もいるとのこと。その結果,一番楽そうに見えるイラストコースを選ぶケースが増えているそうで,そういった学生に対して,職業イラストレーターとして生活していくことの大変さを松山氏が説く……という内容である。
関連して,松山氏はサイバーコネクトツーの求人募集について,「変にハードルが高いと思っている人が多いのが困りもの」と言及。実際,応募した人が同社に採用されない理由の実態は,「プログラムの基礎ができていない」といったように,各職種の基本ができないからだという。
そうした人達の大半は「この会社に入れば,自分を変えてくれる。自動的に自分を成長させてくれる」という受け身の感覚でいるとのこと。すなわち,上記のイラストレーター志望の学生と似ているというわけである。
加えて松山氏は,「お金がほしい」という以上に,「とにかく人と争わないこと」「自分一人が目立って槍玉に挙げられないこと」という自己防衛心理があるのではないか,と分析していた。
話題は,日本におけるゲームプラットフォームの変遷にもおよんだ。こちらも「黒川塾 三十二(32)」聴講レポート(関連記事)の繰り返しとなるのでぜひそちらも参照してほしいのだが,まとめるとこの20年,世間で“強い”とされるプラットフォームは数年ごとに変遷しており,その傾向はこの先も変わらないだろうというのが松山氏の見解である。
須田氏は,「新しいプラットフォームが出てきても対応できるよう,面白いコンテンツを作れる体制を整えておくべき」とし,「そのうえで自分達に向いているかどうかを決める」と語った。
松山氏は,この1年で世間の認知度が高まったeスポーツについても「おそらく法律などの整備がすごい速度で進み,もっと身近なものになる。我々も競技性を踏まえたゲームを作っていく必要があると考えているし,実際に動いている」とコメント。
また須田氏は「スポーツとは競技であり,つまりルールである」とし,「今,ルールとして認定されているゲームは少なく,そこでやっていくつもりはあまりない」と話していた。
また今後のゲームの展開について,松山氏は「世界に売っていかないとペイできない時代」「ゲームだけでビジネスを展開していくのには限界がある。同じIPで漫画やアニメなども展開し,“そのIPが好きだから”という理由でゲームにも漫画にもアニメにも触れられるよう,入口を増やす努力が大事」と持論を語った。
須田氏はSteamを介した世界展開や,松山氏同様にクロスメディア展開に言及。とくに後者に関しては常に考えているが,なかなかうまく実現できていないことを明かした。
トークの最後には,須田氏と松山氏から,ゲームやエンターテイメントの業界を志望する人に向けてメッセージが贈られた。
松山氏は,自身がインプットを得るために積極的に本を読んだり,ドラマや映画を観たりしていることを紹介し,「サイバーコネクトツーのスタッフは皆,好きなものがある。何かが好きで熱中できる人は信頼できるし,安心してその分野を任せられる」「ハードルを上げずに,試してみるくらいの気持ちで,業界の門に自分の“好き”をぶつけてほしい」と語った。
須田氏は「この業界で働いている人は,人間としてはダメでも,ある技術や知識については誰よりも詳しいなど一点突破できる技術を持っている。ゲーム開発の現場は,そういう人の集合体」とし,「もちろん映画なり本なりで自分の文化圏を広げることもやってほしいが,自分の武器となる部分には磨きをかけてほしい」と話していた。
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