GLOCOM 東 浩紀研究室 RGN第2回「ゲームの定義を再検討する」
6月3日,東京は六本木にあるGLOCOM(国際大学)にて,東 浩紀研究室が主催する「コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会」RGN(Research on Game design and Narrative)の第2回が開催された。題材は「ゲームの定義を再検討する」だ。ずいぶんとまた基本的かつ抽象的なテーマで行くなあ,と思った人も多いと思うが,個別のゲームタイトルを見るに当たってそれなりに示唆的な論点も散見できたので,発表と議論の内容を追っていこう。
研究会に先立って,世界的なゲーム研究学会であるDiGRAの日本ブランチ,DiGRA Japanの始動について説明があった。説明に立ったのは,東京大学 大学院情報学環 伊藤憲二氏
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■ゲームと,ゲームでないものの境界は?
Jesper Juul(ジェスパー・ジュール)の研究を紹介し,批判的に検討するところから論を組み立てるHally氏
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今回発表を担当したのは,レトロゲームミュージックのサイト「VORC」を主宰し,ゲームの歴史に深い関心を持つHally氏と,東京大学大学院 情報学環 牛島正道氏。なぜゲームの定義を問題にするかといえば,今後の議論の大前提であるという理由に加えて,Hally氏の,ゲームの歴史に対する関心も大きな動機となっていたようだ。パネリストとして参加したのは,ゲームメーカー トライクレッシェンドの伊藤 悠氏,前回の発表者にして総合司会役のGLOCOM研究員 井上明人氏,ゲーム論考サイト「dotimpact」で知られる田中孝太郎氏,フリーのシューティングゲームを公開しているABA Gamesを主宰する長 健太氏,「gumonji」で知られるコミュニティエンジンの中嶋謙互氏である。
Hally氏はまず,効果範囲が十分で実際的なゲーム定義研究としてJesper Juul(ジェスパー・ジュール)の「The Game,the Player,the World」(2003年)を挙げ,そこに依拠しつつゲームの定義に関する先行研究を大まかに整理した。Jonathan Huizinga(ホイジンガ),Roger Caillois(ロジェ・カイヨワ)といった社会史家や,伝説のゲームデザイナーChris Crawford(クリス・クロフォード)氏などの見解も,Jesper Juulの研究では考慮されている。 さて,そんなJesper Juulの説で,ゲームの定義とされているのは,以下の6項目だ。
1.決定されたルール 2.可変かつ数値化可能な結果 3.結果に対する価値の付与 4.プレイヤーの努力 5.プレイヤーと結果とのつながり 6.対価交渉の可能な結末
これに加えて,ゲームとそうでないものの境目に属する“ボーダーラインケース”を広く挙げ,また,コンピュータゲームを強く意識して,定義には拡張可能性があるべきと主張しているのも,Jesper Juulの研究の特徴といってよい。 ボーダーラインケースについていうと,例えば1.の決定されたルールの観点から「紙とペンによるロールプレイング」はボーダーライン,「フリーフォームな遊び」はゲームでない,ということになる。同様に3.結果に対する価値の付与では「無期限シミュレーション」がボーダーライン,4.プレイヤーの努力では,「完全確率ゲーム」や「ギャンブル」がボーダーラインで,「映画」や「ストリーミング」(映像)はゲームでないことになる。 個々の判定はさもありなんといった感じだが,例えば無期限という要素をMMORPGに即して考えるとどうなるか? 今回の研究会で直接にそこが論点になったわけではないのだが,Jesper Juulの定義が,こうして現実のゲームプロダクトを捌ききれないことは,発表後段の大きな主題となる。
■“破綻したゲーム”も実はプレイ可能
さて,論理的にはすっきりまとまったJesper Juulの説だが,Hally氏はその枠組みを揺さぶる題材として,アメリカの哲学者Peter Suberによって1982年に原型が提案され,Hatakeyama Masaomi氏によって最小限までルールが絞り込まれた「ミニマムノミック」を挙げる。 有名なゲーム/遊びなので詳しくは触れないが,これは参加者が順番にルールの改編を提案していき,採択されると点数が入るという仕組みの(正確にはそういう仕組みで始まる)ゲーム。ただし,ルールの改変こそがプレイ内容であるために,Jesper Juulのいう1.決定されたルールという定義には,真っ向から反する。ところがこのミニマムノミック,展開次第では我々が思い浮かべる“ゲーム”として十分機能してしまうのだ。 実は今回の研究会,冒頭でパネリスト達によるミニマムノミックの実演から幕を開けた。そして,その場で展開を見ていた来場者の意見を挙手で判断したところでは,圧倒的多数がそれをゲームと見なしたのである。
順番にルール改変を提案していくパネリスト達と,途中から採用されたルールで,挙手により採決に参加した来場者達
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そうした意見を導入部として,Hally氏はJesper Juul説の問題点を,「静的な定義」とまとめる。要は,ゲームという何か定まったものがあると考える点に限界があり,ゲームとはむしろ,プレイヤーの振る舞いによって定義されるべき事柄なんじゃないの? ということだ。 実際,ミニマムノミックは参加者の振る舞いいかんで,ゲームになったりならなかったりする。会場でも出た意見だが,例えばある参加者が「次の手番で全員自動勝利」と提案して,それが採択される可能性だって否定できない。それをやるかやらないか(やるべきかやらざるべきかでも可)は,プレイヤーの行動レベルでしか捉えられないのだ。 Hally氏は「結果が変化しうるかどうかは,誰がプレイするかによる」という,Juul自身による「ゲーム行動」(game activity)への言及に触れつつも,攻略され尽くしてもはや結末が動かないゲーム,途中で必ずクラッシュする試作版ゲーム,勝てないように細工されたイカサマスロットマシーンといった例を挙げ,それらが静的な定義ではゲームと見なせないにもかかわらず,プレイヤーはゲームとしてプレイ可能な点を指摘した。
ルールが可変だったり,プレイヤー自身のルールが発揮されたりするゲーム作品を紹介しつつ,論点を補足する牛島正道氏
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また,1990年に登場したシューティングゲーム「エアバスター」や「ガンフロンティア」を例に挙げ,ルールの変化が,スポーツのハンディキャップなどと同じくゲームプレイを活性化させることに注目。共同発表者である東京大学大学院 情報学環 牛島正道氏の挙げた実例も交えつつ,「Halo 2」でのカスタムルールや疑似3Dシューティング「ナイトストライカー」のパシフィストボーナスなど“自分ルール”を考慮し,または取り込んだゲームデザインがアリであることを示した。そして,ゲーム行動とルールは表面上独立しているが,既存のルールでは面白くなくなったときに独自のルールが導入されるなど,内実としては相互に影響し合っているとまとめ,むしろゲームの構造でなく動きに着目していくことで,より適切にゲームを定義できるのではないかという展望を示して発表を終えた。
発表の範囲で十分に論が進められたとは評しがたいものの,ゲームでなくむしろゲーム行動に着目する視点は確かに示唆的である。シューティングゲームの例で端的に示されたとおり,現実のゲームプロダクトが単一のルールを貫かねばならない道理はない。また,結末が動かない,必ずクラッシュするなど「破綻したゲーム」についての考察は,例えば選択式アドベンチャーがゲームであり得るかといった問題に,積極的な見解を与えてくれる。結末や展開が明らかでないうちは,プレイヤーにとってそれは普通のゲームと何ら変わりないのだ。 哲学における「主体」の定義が,外界と区別されながらも,外界とのインタラクション,それを通した絶えざる再定義でしか成立しないのと同じく,ゲームもまた,プレイヤーとは別個にありつつも,プレイヤーの振る舞いと切り離せないということなのだろう。
■ブラックボックス性がコンピュータゲームの特質
さて,発表が大枠で問題提起に留まったためもあって,その後の議論はいささか迷走気味ではあった。そのなかで浮かび上がってきた大きな論題は2点,「ゲーム全般の中でコンピュータゲームが持つ独特の部分とは何だろう?」ということと,「プレイヤーの振る舞いが問題なら,ゲームとはもっとずっと広く捉えられる可能性があるのではないか?」ということだ。 前者においては,処理能力の高さや,過程の正確な反復,プレイ相手を兼ねている点など,コンピュータでなければ実現し得ない内容がいくつか挙がったが,なかでも重要だと思われるのは「中身はどうあれ,コンピュータゲームでは真のルールがすべてブラックボックス化している」という指摘だ。 人の頭で処理しきれない複雑なゲームを成立させるという点で,コンピュータゲームはもちろん画期的なのだが,それは取りも直さず,プレイヤーがルールを必ずしも知らないし,それでよいということである。そうした構図が,一方でルールを変化させることへの抵抗を減らし(デザイナー側),“破綻したゲーム”を楽しくプレイ可能にしている(プレイヤー側)側面もあるだろう。 もう一つの論点であるゲームの範囲について。ここでHally氏が意識したのは「業務用シミュレータがゲームたり得るか?」という問題である。コンピュータゲームの発祥をどこに求めるかがHally氏の関心の一つだったようで,会場では「プレイヤーのゲーム行動を基準にするならば,プレイする/楽しむ,ということを大枠で捉えたうえで,黎明期の業務用シミュレータの体験者が残した記述などに当たるのが適切ではないだろうか」といった意見も聞かれた。
また,こうしたゲームの定義に関わる議論とは微妙な位置関係になるが,ゲームプレイとは,仮説とその立証を消費する行為と見なし,RPGの基本的な設計において,それがどう機能しているかを見る発表も,トライクレッシェンドの伊藤 悠氏によってなされた。
目的意識という観点では,いささか議論のための議論,理解してそれで終わりといった懸念がなきにしもあらずではあった,RGNの第2回。だが,ゲームという娯楽はおそらく,かつて映画がそうであったように,言説とともに消費されてしかるべきだし,プレイヤーが自身の思考を言葉にするための材料となるぶんには,前向きな論題提示になるといえよう。 コンピュータゲームの特異な立ち位置,そこで発揮されるべき“ゲーム性”の中身について考え,理解するためのツールとして,相応に有益な論点と感じた。(Guevarista)
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