国際大学GLOCOM RGN第3回「コンピュータゲームにおけるプレイヤーという存在」
2006年7月29日,国際大学GLOCOMにて,RGN(Research on Game design and Narrative。コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会)の第3回が開催された。今回のテーマは,コンピュータゲームにおける「プレイヤーという存在」について。
発表を行ったのは,フリーライターでゲーム評論サイト「intara.net」を運営する茂内克彦氏と,武蔵野大学現代社会学部 非常勤講師にして,ゲーム評論サイト「ゲームを語ろう」の管理人である増田泰子氏の両名。 茂内氏が「プレイヤーとプレイヤーキャラクターの関係性」という極めて基本的かつシンプルな箇所に論点を絞った発表を行ったのに対し,増田氏は,「プレイヤーとゲームルールの関係性」,そしてゲームプレイを社会的行動の一つとして捉えた場合にゲームを介してプレイヤー同士がどう関係しあうかという,ややマクロな視点からの考察を披露した。 パネリストとしては,日本デジタルゲーム学会(DiGRA JAPAN)の理事を務める伊藤憲二氏をはじめ,本イベントの総合司会役であるGLOCOM研究員 井上明人氏,トライクレッシェンドの伊藤 悠氏,そしてレトロゲームミュージックのサイト「VORC」を主宰し,ゲームの歴史に並々ならぬ関心を持つ田中治久氏と,RGNの常連の面々が参加。研究会自体がまだ立ちあげ初期ということもあり,ややぎこちない面こそ否めなかったが,いろいろな側面からの活発な議論が取り交わされた。
さて,井上氏による簡単な挨拶と紹介が行われたあと,まず始めに講演を行ったのは,「プレイヤーキャラクターとプレイヤー体験」と銘打った発表を行った茂内氏だ。氏はまず,ゲームにおけるプレイヤーキャラクター(以下,PC)の機能/役割の定義を,
・化身:ゲーム内世界におけるプレイヤーの代理。 プレイヤーが物語に参加するために必要。 →物語上の要請 ・道具:ヒューマンインターフェイス。 プレイヤーがゲームに参加するために必要。 →ゲームデザイン上の要請
と二つに明確に分けた上で,主に“物語表現におけるPC”について言及。「物語の“主人公”と,PCは必ずしもイコールではない。主人公とは,あくまで“物語上の中心人物”であって,PCが主人公の場合もあれば,そうでない場合もある。これはPCとプレイヤーの関係についても同じだ」と説明した。 「“プレイヤー”と“プレイヤーキャラクター”はイコールではない」……一見するとトンチのように聞こえるこの文言ではあるが,これは少し考えれば至極当たり前のこと。例えば,シーンによって複数人のキャラクターを切り替えて操作するアドベンチャーゲーム(最近だと「バイオハザード4」,少し昔だと「街」「EVE burst error」など)などを連想すると分りやすいだろうか。ゲームにおけるプレイヤーとPCの関係は,必ずしも1対1ではないし,1対Nの場合もある。ということは,つまるところプレイヤーとそのプレイヤーの操作するプレイヤーキャラクターというものが「イコール」ではないよね?……と,乱暴に言えばそういう話になる。 ※むろん,ゲームによってはプレイヤーとイコールの場合もあるわけだけれど,茂内氏は,ここでゲーム全般における「プレイヤーキャラクター」という存在(言葉)の定義として,「必ずしもイコールではない」ということを整理しているわけだ
続けて茂内氏は,必ずしも「PC=プレイヤーではない」はずなのに,プレイヤー(とくにRPGという分野における)の間には,「PC=プレイヤー(主人公)」という意識が未だに根強いのではないか?という分析続け,またそれはなぜか?と問いかける。 かみ砕いて説明すれば,「RPGなのにムービーを見ている時間の方が長い。こんなのRPGじゃない!」「RPGの本来の意味とは役割を演じるということであって云々……」というような議論(それこそ10年以上前からこの手の議論はあったと思うけれど)が,未だに繰り返されているのでは?という話。いわゆる
「主人公が喋らないドラゴンクエスト」(一人称視点的ゲームデザイン) 「主人公が喋るファイナルファンタジー」(三人称視点的ゲームデザイン)
のそれぞれの是非という,今となってはやや古典的とも言える(それは言い過ぎか)ゲームデザイン論に繋がっていく議題だといえよう。この手の議論は,ファイナルファンタジーが“映画的ゲーム”路線を突っ走った90年代後半をピークに,最近では(少なくとも筆者が知る限りでは)あまり聞かれなくなったようにも思えるが,確かにプレイヤー間におけるゲーム評論の中で,PCとプレイヤーの関係のあり方が整理されないまま議論されているケースは少なくないのかもしれない。 ともあれ「PC=プレイヤー」という半ば固定的な観念……,もっと言えば「PC=プレイヤーであるべき論」とも言い換えられるプレイヤーの意識/考えが,なぜこうも根強いのか? 茂内氏は自身の論説を進めていく。 氏はその理由として,「スーパーマリオブラザーズ」や「ドラゴンクエスト」の説明書における記述を引用しながら,「あなたが主人公」言説を紹介。これは端的に説明すれば,当時ファミコンなどが普及していく過程で,新しいメディアであるコンピューターゲームを一般消費者に説明するときに,ほかのメディア(映画,テレビ,小説)と差別化するキャッチフレーズとして,「画面上の人物(PC)=あなた自身」という表現を多用したからではないか?という仮説。またその代表的作品として,氏は国民的タイトルといえるドラゴンクエストを提示し,作者である堀井雄二氏が作品を通じて一貫して通してきた「PC=プレイヤー」主義的ゲームデザインが,国内におけるPC論(ひいてはRPG論)に多大な影響を及ぼしたのではないか? と解説する。
茂内氏は,繰り返し「実際には,PC=プレイヤーというわけではない」と説明しながら,「PCが勝手に動いて詰まらない云々という話は,結局はそのゲーム自体の演出の良し悪しや好みの問題に過ぎないのでは」と解説。「PC=プレイヤーじゃないから,PCが勝手に動くから,すなわちそれはゲームではない的な議論は不毛」と巷に溢れる論法を一蹴したうえで,「ゲームにおけるPCの活用方法は多様であり得るし,決してPC=プレイヤーのみが唯一の手法ではない」とした。 誤解を恐れず筆者が補足するならば,確かにPC=プレイヤーという文法自体は,“ゲームらしい”“ほかのメディアではできない”文法ではあるけれど,それだけが「ゲーム」ではないよ,ということだろう。まぁ,PC=プレイヤーという文法が“ゲームというメディアの特徴的な表現手法”である以上,消費者にそれを求める意識が根付いてしまうのは,ある程度は仕方がないような気はする。ただここで茂内氏が言いたいのは,ゲームとは一人称視点と三人称視点を巧みに組み合わせられるメディアであり,注意深くゲームを見てみると,そういった「混在する手法」が多く見受けられる,ということである。 氏は「最近のゲームは,プレイヤー/PCの立場を巧みに置き換えることで,一人称的な視点と俯瞰的な視点の両方を同時に体験させている例も多い」と説明し,その具体例として,ナムコの「エースコンバット04」という作品を紹介した。
具体的には,エースコンバット04では,
・PCとしての戦闘機メビウス1(パイロット)の視点 ・サイドストーリーを追う人物(少年)の視点 ・無線演出で登場する無名の人々の視点
の三つを織り交ぜて描かれているとして,その三つを巧みに融合させることで,プレイヤーに“ゲームの世界を立体的に体験”させているのだと説明する。 例えば,エースコンバット04における無線演出(戦闘中に勝手に聞こえてくる無線通信)は,敵同士の無線や味方の司令部と陸軍の通信といった,つまりはPC(この場合は,一パイロット)にはまったく無関係のレイヤーの通信も,プレイヤーに聞こえてくる形式をとっているのだが,これはリアリティ云々でいえば明らかに“非現実的”であり,本来はPCが聞けるはずのない会話をプレイヤーは聞いている形と言える。茂内氏はここで,いわばこの時点でプレイヤーはゲームの中のPCとは違う「超越者的立場」になっている一方で,無線で飛び交うPCへの賛美/畏怖といった内容を,プレイヤーが「PC的な立場」で受け取っている点を指摘。「一つのゲームの中でも,PCの役割は流動的に活用されている」として,今回の発表を締めくくった。
長くなってきたので要約するが,つまり氏が言わんとしていることは,プレイヤーがPCのロールプレイしているつもりになっていても,実際には複数の立場を同時に体験させられているケースがある,ということ。そして今日のコンピューターゲームにおいては,そういう複合的な手法がふんだんに取り入れられており,またそれがゲームの表現を豊かにしている今,PC=プレイヤーであるべき論というのは,過去の名作タイトルなどの刷り込みによる結果や,単なる固定観念でしかないのではないか,と。筆者としては,今回の茂内氏の講演をこのように解釈した次第。 ともあれ,ありがちなゲーム論(RPG論)の再考に一つの視点を付け加えるという意味において,茂内氏の発表は,なかなかに興味深い要素もあったように思える。RGNの今後の活動によって,より議論が深化されていくことを期待したいところだろう。
軽い休憩のあと,続いて増田泰子氏が発表を行った。茂内氏が「プレイヤーとプレイヤーキャラクター」というミクロな視点で考察を行ったのに対し,増田は,プレイヤー(プレイヤー圏)とゲーム(ルール)の関係という,大枠からの考察を披露。ただゲームという言葉の定義は,この発表ではコンピュータゲームだけに留まっておらず,カードゲーム,ボードゲームなどを含めたゲーム全般について言及される形であり,大枠の“ゲーム”考を経たうえで,それをコンピューターゲームに落とし込む流れという印象であった。 増田氏の発表は,第二回RGN「ゲームの定義を再検討する」をうけての内容となっており,前回の記事でいうと,
そうした意見を導入部として,Hally氏はJesper Juul説の問題点を,「静的な定義」とまとめる。要は,ゲームという何か定まったものがあると考える点に限界があり,ゲームとはむしろ,プレイヤーの振る舞いによって定義されるべき事柄なんじゃないの? ということだ
という部分に対して,「ゲームというものが動的に変化していくものであるならば,ゲームが変化していく過程と,そのゲーム行動を行う主体(プレイヤー)への注目が必要ではないか」というアプローチとなっている。 増田氏は始めに,
・ゲームプレイとは,原則としてルールに従うことによって進行していくもの
と定義付けたうえで,「しかし皆さんもご存じのように,プレイヤーは必ずしもルール通りの行動をするわけではない」と解説。そのうえで,「ルールを破る行為,あるいは改変するという行為がなぜ行われるのか。その動機はと何か?」について,自説を展開していった。 増田氏は,ゲームデザインに関する基礎的な文献の一つとして知られるKatie SalenとEric Zimmermanによる「Rules of Play: Game Design Fundamentals」などといった書籍からの引用を紹介しながら,まず「そもそもゲームルールとは?」という基本的な前提部分を整理。「ゲームのルール」という言葉の定義を会場の視聴者たちと確認したあと,プレイヤーがルールを破る行為……すなわち「Rule-Breaking」について言及していった。 詳しく追っていくと長くなってしまうので要約するが,つまるところ増田氏の発表は,プレイヤーがRule-Breakingを行う理由を,プレイヤーが「よりそのゲームを遊ぶため」に行うのだと結論付けている。要するに例えば,
・やり込んで飽きた >答えが分ってしまう,ルールの破綻に気付くなど ・難しくて詰まった
などといった理由から,ゲームとプレイヤーの間にある種の“軋轢”(不快)が生まれた場合,プレイヤーの取り得る行動というのは,
・さっさと止めてしまう ・なんとかして続けようとする
と大きく分けて二通りとなる。前者は今回は置くとして,プレイヤーが後者を選択するとき,プレイヤーは“不快な要素である軋轢”をなんらかの方法で埋める必要が出てくるわけで,その軋轢を埋める方法こそがRule-Breakingであるという主張だ。具体例でもって説明するならば,難しくてクリアできない!というときにチートコマンドを使うとか,そういう話である。ちなみに増田氏の解釈をもってすれば,攻略本を読んだりするのも一種のRule-Breakingであり,またルールの改変/追加も“既存のルールの否定である”という観点から,Rule-Breakingの一つなのだという。 また増田氏は,「ゲームプレイとは,決してプレイヤー個々で完結する行動ではなく,複数のプレイヤーの間で共有されていくもの」だとして,ルールへの抵抗と「プレイヤー圏」(コミュニティと置き換えてよいのだろうか)の関係性についても触れる。これはつまるところ,攻略や裏技のプレイヤー間における情報共有であったり,仲間内でローカルルールを作るなどといった行為を指していたのだが,考察の範囲がシングルゲームだけに留まっていた点は非常に残念だ。というか,プレイヤー圏という概念自体は,安川一氏の著書である「ビデオゲーム経験の構造」からの引用であったようだが,この本の発刊が1993年とやや古く,BlogやWebサイトなど,いろいろな形で情報が伝播しやすい現状では,当時考えられたモデルでは説明しきれない箇所が多いように思える。最近では,Wikiベースで作られる攻略サイトなども多いことだし,ゲームとそれをより効率的に消費しようとするプレイヤー集団/集合知の関係性は,今後,もう少し整理して語られるべきテーマではないかと感じた次第だ。 ともあれ,「そのゲームを遊び続けたいからこそ,Rule-Breakingが行われる」という話が,今回の増田氏の発表の趣旨。なるほど,これは一理ある理屈ではあり示唆的でもある。であれば,今後はその議論をさらに一歩進めて,そもそもなぜ遊び続けたいのか?(ゲームにおける快と苦のサイクル,そのあり方について)……なども関連して考えていくと面白いのかもしれない。今後の議論の積み重ねを期待したいところだ。
一連の発表が行われたあと,パネリストらによる突っ込みと来場者に対しての質疑応答が行われた。それぞれの立場や視点から,鋭い指摘もあれば,やや論点が噛み合わない場合もあり,議論の運び方については今後の課題もありそうだが,学者/研究者向けのサロンという意味では,これはこれで良いのかもしれない。 国内でゲームの研究会というと,IGDA(国際ゲーム開発者協会)やCEDEC,BBA主催のオンラインゲーム専門部会などが挙げられると思うが,それらが比較的産業に近い立ち位置で議論や発表を行っているのと比較して,RGNはかなり研究に寄った研究会だという印象。ほかの研究会とはまたひと味違った雰囲気を感じたのは事実である。もっとも,CEDECやGDCなどが基本的に「ゲーム開発手法の研究」を志向するのに対して,RGNは「ゲームというもの自体の研究」を志向しているという雰囲気で,その視点の違いが,差異を感じる大きな理由の一つではあるだろう。 とはいえ,こういった開発者とはまた違う視点でゲームが論じられ,公の場で研究されていくことは,社会的(あるいは政治的)な意味でゲームが成熟していくために,意義がある活動に思える。DiGRA JAPANなどほかの研究会との連携を含めて,これからの課題や挑戦は決して少なくないだろうが,今後の発展に期待したいところである。
最後に。元々は国際大学GLOCOM東 浩紀氏の研究室の主催で発足されたRGNだが,当の東氏は,2006年7月をもってGLOCOMを辞職している。東氏といえば,国内のオタク/サブカル論をリードする有識者の一人として知られる人物だけに,その脱退は残念な限り。ただ今後も,個人としてはRGNには協力していくつもりとのことだ。(TAITAI)
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