― 連載 ―

奥谷海人のAccess Accepted

10代からゲーム開発に携わり,20代でid Software社を設立したジョン・ロメロ氏は,古き良き時代を知りながらも「新世代のゲーム開発者」と謳われたこともある,伝説的なゲームデザイナーである。彼が1996年に設立したION Storm社は,まさに"嵐"という表現が似つかわしい5年間を経験した。同社のウォッチャーだった筆者が,「Daikatana」開発の裏で何が起こっていたのかを,これから何回かに渡って解説していこうと思う。まず今回は,1998年あたりまでの同社を振り返ろう。



ION Stormダラス本社は,この45階の最上階にあるペントハウスに陣取っていた。ガラス張りの吹き抜けが豪華だが,太陽光が明るすぎるためか,内部は黒幕で覆われていた。月額の賃貸料は日本円で8桁に及んだといわれている
 ION Storm社では,本当に嵐が吹き荒れていた。
 筆者が同社を訪れたその日は,午後から中西部特有のどす黒い雲がダラスに立ち込め,取材が終わる頃には雷を伴う大雨となっていた。この地で最も高いビルであるチェイス・タワーの最上階部分に陣取った同社オフィスにいると,四方八方に稲妻が走る様子を,真横のアングルから傍観しているような気になる。1999年夏のことだった。今からしてみれば,非常に象徴的なことだったように思える。

 ION Storm社は,1996年6月にジョン・ロメロ(John Romero)氏らによって創設された。ロメロ氏は,id Software社の看板デザイナーとして頭角を現し,「Wolfenstein 3D」や「DOOM」などでFPSジャンルを生み出した有名なゲーム開発者だ。日本でも,名前を聞いたことのある人は多いだろう。
 ゲーマーの中には,id Software社のジョン・カーマック(John Carmack)氏を「FPSの父」と呼ぶ人もいるが,厳密にいえばカーマック氏は「FPSグラフィックスエンジンの父」であり,そのデザインはロメロ氏に負うところが大きい。丸3年の歳月をかけて制作された「Daikatana」でミソを付けてしまったものの,レベルデザインという概念をゲームデザインからスピンオフさせたり,ゲーマー参加型のオンラインコミュニティを築き上げたりした彼の功績は,今後も消えることはないはずだ。

 ジョン・ロメロ氏がid Software社を退社した理由について,一般的には「ロメロは大きく出たかったのだ」と言われている。一連の作品の成功と,パブリッシャの広報キャンペーンによって,ロメロ氏はロックスターのイメージで各メディアに登場し,ゲーム誌はおろか一般ニュース系の週刊誌でも"新世代のゲーム開発者"として売り出された。内向的な性格のカーマック氏とは異なり,長い黒髪がトレードマークだったロメロ氏は,実際にゲーム大会やゲーマーのチャットルームにも顔を出し,同社を代表する存在になっていた。
 その半面,カーマック氏の意向によりid Sotware社には"少数精鋭の規模を守り抜く"という鉄則があり,また実質的にゲームエンジンの開発はカーマック氏一人の手に委ねられていたために,ロメロ氏のデザインやアイデアはフレームレートへの負担から却下/後回しになることも少なくなかったらしい。「Quake」の開発終了と共にION Storm社を設立したのも,デザイナー本位の開発チームを手に入れるためだったと思われる。

 ION Storm社のコアメンバーとなったのは,id Software社創設メンバーの一人ながらもDOOM時代に退社していたデザイナー,トム・ホール(Tom Hall)氏,7th Level社から移籍したプロデューサーのトッド・ポーター(Todd Porter)氏,そしてアーティストのジェリー・オフラエティ(Jerry O'Flahety)氏,そしてロメロ氏の計4人。経営面では,マイク・ウィルソン(Mike Wilson)氏がCEOとして加わっている。彼は,id Software社時代にDOOMデモをさまざまなハードウェアにバンドルさせたり,コンビニで店頭配付したりなど当時としては斬新な戦略を繰り返し打ち出し,DOOMの「1600万本の奇跡」を陰から支えた一人である。
 Daikatanaの企画が完成したのは,1997年3月のことだった。ロメロ,ホール,ポーター氏がそれぞれにゲームの企画を作り上げ,それぞれがリードデザイナー兼プロデューサーとしてチームを引っ張っていくことになっていた。
 ION Storm社のプロフィールに魅了された販売元は多かったはずだが,彼らが選んだのは「トゥーム・レイダー」の成功で勢いに乗っていたEidos Interactive社である。アメリカ進出への本格的な足がかりとしてロメロ氏の知名度を利用できるということもあり,またララ・クロフトに続く二人めの看板ゲームキャラクターを求めていた同社は,ウワサによると「5本で約20億円」というギャランティでも採算が取れると見込んだという。
 ともかく,かなり早い段階から「Daikatana」「Anachronox」「Doppelganger」の3作の企画は出来上がっていたようだ。


ジョン・ロメロ氏は現在もまだ30代だが,すでに業界の伝説的な人物である。id Software社時代からのトレードマークだったストレートの黒髪を,ION Storm退社後にサッパリと切っている
 Daikatanaは,ヒロ・ミヤモトなる主人公が,ミキコとスーパーフライ・ジョンソンという二人の仲間を引き連れて,過去や未来を飛びまわり,宝刀ダイカタナを引っさげて仇を討つというFPS。中世から近未来までの四つの世界には35のレベル(マップ)があり,それぞれの世界に合わせた計32種類の武器,64種のモンスターが登場するという,壮大なエピックストーリーだった。それぞれの世界に二人ずつのレベルデザイナーを配し,ロメロ氏がすべてを監督するという方式で制作し,コア部分は,Quakeのゲームエンジンをライセンスすることになった。
 驚くべきことにDaikatanaは,当初の計画では,たったの7か月でリリースされることになっていた。カーマック氏のプログラムが完成するのを待ち,そこから急いでゲームを仕上げるという作業に慣れていたジョン・ロメロ氏にとっては,そう無茶なスケジュールには思えなかったのかもしれない。実際,Raven Software社の「Heretics 2」は企画から1年以内に発売されたなど,前例もあった。とくに,ION Storm社はゲーム開発に着手した当初から50人という大所帯で,デザインチームだけでも8人がフル回転する計画になっていたのだから,気楽に考えていたのだろう。
 しかし,そんな楽観的なロメロ氏を横目に,カーマック氏は6月にTIME誌のインタビューに答えて「Daikatanaを,クリスマスまでに完成させるのは無理だ」と断言している。そして,彼のコメントは的中してしまった。

 事実,Daikatanaの開発は,初日から遅れていた。ジョン・ロメロ氏を盛んにメディアに露出させる,メディアキャンペーンが行われたからだ。中でも一番話題になっていたのが,ウィルソン氏によって企画された広告で,ゲーム画面の代わりにロメロ氏の写真が使われ,「John Romero's about to make you his Bitch!」と書かれたものだった。翻訳すると,「ロメロがお前をメス犬にするってよ!」といった感じで,あまりにも奇抜すぎたためか横柄に思われ,多くのゲーマーから反感を買う結果となる。しかも,この年にDaikatanaは完成するどころか,実際の画面写真さえ用意できない有り様だった。
 開発がロメロ氏の予想通りに進まなかったのは,単にチーム編成に問題があったと考えられる。通常,新興のゲーム会社は少人数で始めて徐々に拡大させていくが,ION Storm社は最初から50人という大所帯だった。また,ロメロ氏は会社設立当時に「他社の開発者を引き抜いて迷惑をかけるような真似はしたくない」と公言しており,多くの人材をMODクリエータや映画関係者などに頼っていた。
 しかし,フタを開けてみるとゲーム開発のイロハも知らないような人が多く,社内で「Diablo」を遊ばせて講義するようなことさえ行われたという。実際,個々のレベルデザインはあまりにもムラがあり,結局ロメロ氏が自分で作らなければならない状況になっていた。
 現在でも「レベルデザイナーは人材難」と言われているのだから,当時はさらに厳しいものだったに違いない。

◆◆ジョン・ロメロ氏のFPS作品の誕生日◆◆
1992年5月4日Wolfenstein 3D
1993年12月10日DOOM
1994年5月5日DOOM II
1996年6月22日Quake
2000年5月30日Daikatana

 1998年早々には,ION Storm社に暗雲が立ち込め始めた。1月には,マイク・ウィルソン氏が辞職。表向きにはGathering of Developers社を立ち上げることが理由だったが,トッド・ポーター氏が盛んに経営に口出しするのを嫌って,社内で軋轢が生まれていたためとも言われている。また,1997年12月にはid Software社から「Quake 2」がリリースされており,比較されることも多くなっていた。もちろん,嘲笑されるのはDaikatanaのほうだった。
 ION Storm社にとって,1998年のビッグニュースといえば,Looking Glass Technologies社の廃業と共に行き場所を探していたウォーレン・スペクター(Warren Spector)氏が加わったことだろう。もっとも,スペクター氏は華やかなダラスオフィスとは距離を置き,300kmほど南下した場所にあるオースティンに支社を構えている。彼らは,のちにION Stormの看板を背負うことになるのだが,この時点では,やがて到来する嵐を予想もしていなかったことだろう。
<以下,2005年1月掲載予定の"その2"に続く>


次回は,今回の続き……と言いたいところだが,時期も時期だし,先に2004年のPCゲーム界の総括を掲載する予定だ。お楽しみに。


■■奥谷海人(ライター)■■
本誌の海外特派員。シド・マイヤー氏の「Pirates!」は,ESRBレーティングで「E」評価を受けた"家族向けゲーム"。これなら奥さんに文句を言われることなく,子供がいる午後でもプレイできるため,奥谷氏の夕方専用ゲームとなっていたらしい。ところが,こんなゲームを見ると遊びたくなるのが子供心。7歳の娘は父親よりも早くダンスのステップをマスターし,あの回転キッスを連発させている。先輩ゲーマーとしてのメンツをつぶされた奥谷氏は,「あの胸の谷間は,Eレーティングでは許されないだろう」と八つ当たりしているとか。



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