9月6日から8日まで行われたAustin Game Conferenceは,MMORPGの将来について,筆者もいろいろと考えさせられるイベントであった。オースティンという,それほど知名度も高くないテキサスの町に,なぜMMORPGの開発者が集まったのか? その背景を紹介しつつ,イベントのまとめをちょっと書いてみたい。
インディーズ音楽とMMORPGの首都
通りのアチコチから音楽が聞こえてくる賑やかなオースティン。Austin Game Conferenceが行われた週末には,地元大学のフットボールチームのシーズン初戦が行われるとあって,町には多くのファンや観光客が溢れていた
テキサス州のオースティンという町を知っているだろうか? テキサス州の州都であり,ブッシュファミリーの本拠地。コロラド川の中継基地として古くから栄えた人口65万人ほどの中堅都市である。中南部の中枢とも言えるダラスやNASAのあるヒューストンほど知名度が高いわけではないが,DellをはじめとするIT産業の活性化に伴って人口も増えつつあり,北カリフォルニアの“シリコンバレー”やシアトル近郊の“シリコンフォーレスト”に対抗してなのだろうか,“シリコンヒルズ”とも呼ばれているようだ。
文化的には「ライブ音楽の首都」を名乗っており,6thアベニューを中心に160か所以上のバーやライブハウスがひしめき,週末ともなるとアチコチからギターの音色が聞こえてくる。ジャニス・ジョプリンやウィリー・ネルソン,最近でもFastballやダニエル・ジョンストンなどインディーズ系のミュージシャンを数多く輩出しているし,サンドラ・ブロック,レニー・ゼルウィガー,マシュー・マコノヒーといったハリウッドスターもオースティンの出身だ。
そんなオースティンなのだが,今ではゲーム産業の中でもMMORPG分野に特化した企業が集中し,“MMORPGの首都”として知られる町になってきた。筆者が把握しているだけでも,10社を超えるオンラインゲームの開発会社があり,その多くが現在制作中のゲームのほかにいくつかの新規プロジェクトを抱えている。
筆者が先週取材した「Austin Game Conference」(AGC)も,MMORPG開発者のための会議であることを明確にしており,毎年3月にカリフォルニア州で開催される「Game Developers Conference」(GDC)とは一線を画す。参加者2000人という小規模なイベントであり,特定の都市名を冠するのはかえってローカルなイメージが付き過ぎるようにも思えるが,MMORPG開発者達はオースティンという町になんらかのアイデンティティを感じているのかもしれない。
Origin Systemsが生んだ,
MMORPGの“オースティン派閥”
オースティンの名士といえば,やはりRichard Garriott(リチャード・ギャリオット)氏をおいてほかにないだろう。ギャリオット氏は,スカイラブ号の宇宙飛行士だった父Owen K. Garriott(オーウェン・ギャリオット)氏の援助も得て,1983年に兄Robert(ロバート)と共にOrigin Systemsを設立。「Ultima III: Exodus」をSierra On-Line(当時)ブランドでリリースした。RPGというゲームジャンルに大きな影響を及ぼしたUltimaシリーズのほかにも,「Times of Lore」(1988年),「Wing Commander」(1990年),「privateer」(1993年),「System Shock」(1994年)などの開発/制作を手がけている。
「Ultima Online」を生んだOrigin Systemsからは,多くの有能な開発者が育っていった。サービスインから9年が経っても,いまだに多くのプレイヤーがいる人気ゲームであり続けるとは,果たして当時の開発者達は予想していただろうか?
1992年にはElectronic Arts傘下に入ったものの,Origin Systemsの地域における影響力は絶大で,数多くのゲーム開発者を輩出したことから“オリジン大学”とも呼ばれている。未だに地元で活躍するStarr Long(スター・ロン)氏やWarren Spector(ウォーレン・スペクター)氏をはじめ,Chris Roberts(クリス・ロバーツ)氏,Raph Koster(ラフ・コスター)氏,Rick Vogel(リック・ヴォーゲル)氏,Paul Steed(ポール・スティード)氏,Richard Anderson(リチャード・アンダーソン)氏,Andy Hollis(アンディ・ホリス)氏ら,ゲーム業界内外の著名人の多くが,Origin Systemsからキャリアをスタートさせているのだ。
1997年9月,Origin Systemsは満を持して「Ultima Online」を正式にサービスインした。それに先立つ1年ほど前,カリフォルニア州レッドウッドシティにあったThe 3DO Companyが「Meridian 59」をリリースしているので「史上初のMMORPG」とは呼べないものの,Ultima OnlineがMMORPG分野に与えたインパクトは相当大きく,商業的に成功した初めてのオンライン専用ゲームであったのは間違いない。
MMORPGの転換期が近づいてきた?
Ultima Onlineの成功により,1990年代後半から2000年前半にかけ,カリフォルニア州サンディエゴのVerant Interactive(現Sony Online Entertainment)からは「EverQuest」が,またマサチューセッツ州ボストン近郊にあるTurbine Entertainmentからは「Asheron's Call」が,さらに韓国のNCsoftからは同社を有名にしたヒット作「Lineage」がリリースされることになった。
韓国はともかく,オースティンがアメリカにおける“MMORPGの首都”としての地位を維持し続けているのも,上記のような開発者の多くがこの町に根付いているからだろう。土地があり余っているために地価が安いことに加え,インディーズ音楽に代表されるように,保守的なテキサス州とは思えないほどラディカルな文化的側面を持っていることも見逃せない。規模の大きな大学があるため,必要な技術者の補充に事欠かないという理由もあるだろう。
ユーザーが制作したオブジェクトやアートの帰属を認めるという点で,2.0的な進化が認められる「Second Life」。ゲーム内で授業やコンサートが開かれるなど,“メタバース”化していく過程にあるともいわれている。まもなく日本語化されるというが,果たして日本ではどのように受け入れられるだろうか
Ultima Onlineがリリースされた1997年9月をアメリカのMMORPGの基点として考えると,今月でちょうど9年になる。いまや,「World of Warcraft」が市場の55%を独占する状態にある欧米のMMORPG業界だが,10年を一つの節目と考えれば,既存形態のMMORPGはそろそろ転換期を迎えるのではないかとも思えてくる。
MMORPG開発者達がそんな風向きを敏感に嗅ぎ取っているのを,AGCの取材を通じて筆者は感じた。レベル上げに終始するゲームデザインのマンネリ化や,RMT(リアルマネートレード)の弊害など,MMORPGの抱えている問題は少なくない。そのうえ,World of Warcraftが全世界で700万アカウント突破しているとはいえ,その65%近くは実態のよく分からない中国市場にあり,北米では多く見積もっても120万人ほどのプレイヤーしかいないはずだ。依然として,MMORPGがゲーム市場のメインストリームに乗ったとは言い難い。
だが,これを逆説的に捉えれば,「MMORPGにはまだまだ発展の余地がある」ともいえる。Webサイトやブログのようにオープンソース化させ,仮想世界の制作や維持が個人レベルでも行える“メタバース”のコンセプトがこのAGCで注目されているのも,そんな潜在成長性の兆しの一つである。
オースティンに集まった開発者の中には,今の閉塞的状況を打破できるだけの壮大な企画を温めている人もいるのではないかと考えつつ,筆者はこの町を後にしたのだった。