― 連載 ―

奥谷海人のAccess Accepted

 1993年にリリースされた「DOOM」,そして1996年の「Quake」と,ジョン・カーマック(John Carmack)氏と共に新世代ゲーム開発者としての栄光を獲得していたレベル・デザイナー,ジョン・ロメロ氏。id Software社を離れてION Storm社を設立したものの,順風満帆の航海とはならなかった。開発者としての理想と,経営者としての現実の間で犠牲になったものは,彼の名誉よりも大切な新作「Daikatana」だったのである。

※今回は,「あの時,"嵐の渦中"で起こっていたこと 〜 その1」の続きです。その1を未読の人は,先に「こちら」からどうぞ



2000年5月30日にリリースされたDaikatana。決して名作とはいえない作品だが,主人公と行動を共にする味方キャラクターがいるなど,実験的な要素もあった。ロメロ氏はすべての作品の誕生日(リリース日)をWeb上で祝う習慣を持っており,ゲームに対する愛情が感じられる人だ
 1998年夏。なかなか完成のメドが立たない「Daikatana」までのつなぎとして,ION Storm社が担ぎ出してきたのが「Dominion:Storm over Gift 3」だった。このリアルタイム戦略ゲームは,元々7th Level社が存続していたときに開発中だった作品で,それを同社でプロデューサーだったトッド・ポーター(Todd Porter)氏本人のゴリ押しによってION Stormレーベルでリリースしたという経緯がある。
 Dominionは同年6月中旬に発売され,その後6週間での販売数はPC Dataの統計によると6000本以下という散々な結果に。アメリカのメディアからも平均以下の採点しか受けられず,売れ残りは秋にはバーゲンビン(※1)に直行するという有様だった。
 ジョン・ロメロ(John Romero)氏が直接関わったタイトルではないものの,ION Stormの設立からすでに2年が経ち,「PCゲームを革新する」とか「デザインが法律だ」などのスローガンを掲げていた会社の処女作というには,時代遅れのグラフィックスと魅力のないゲーム性のDominionは,あまりにも駄作だった。

 この失態に満足できなかったのが,販売元のEidos Interactive社である。もはや"Tomb Raiderシリーズ"の人気にも陰りが見え始めており,次のヒット作を熱望していた時代だ。ロメロ氏とION Stormに逆風が吹き始め,インターネットでもファンからバッシングを受けることが増えていたこともあり,Eidosは膨大な買収額を捻出して,ION Stormの体質改善に乗り出すことにした。堪忍袋の緒が切れたのである。
 ダラスには,Eidosから同社幹部のキース・ボースキー(Keith Boesky)氏が送り込まれ,経営権は完全に譲渡されることになる。

 しかしこの経営引き締めは,親元のEidosが予想もしなかった事態を招くことになる。Daikatanaの開発遅延やポーター氏の独占的なビジネス手法に満足しない開発者達がION Stormから次々と離脱することとなり,Daikatanaのキャラクターのテクスチャを手がけていた"Skingod"ことケン・スコット(Ken Scott)氏をはじめ8人のメンバーが共同で辞表を提出。彼らはのちに,元ION Storm社長だったマイク・ウィルソン(Mike Wilson)氏のGathering of Developers社に加入して「K.I.S.S.:Psycho Circus」を手がけた,ThirdLaw Interactiveを結成する主要メンバー達である。
 さらには,CFOのカーラ・スミス(Carla Smith)氏など,年末までに十数人の従業員が続々と辞めていく。この時点で,元7th Levelの人材が,ION Stormの70%を超えるという妙な構造になっていた。ジョン・ロメロ氏と相棒のトム・ホール(Tom Hall)氏には,もはや数人の信用できる仲間しか残されていなかったのだ。

ION Stormに在籍していた当時のジョン・ロメロ氏のオフィス。現在,彼は相棒のトム・ホール氏と共にMonkeystone Games社という携帯ゲーム用ソフト会社を運営する傍ら,Midway Games社でのプロデュース業でも活躍している
 しかし,これは嵐の前触れでしかなかった。1999年1月14日,ダラスの地元紙「ダラス・オブザーバ」は,ION Stormの内部告発記事「Storm over ION」を掲載する。しかも,同誌のインターネット版(※2)では,トッド・ポーター氏が送受信したEメールでのやり取り数か月分が,丸ごと掲載されるという大胆な特集記事が読めるようになっていた。
 その内容は非常に衝撃的で,ポーター氏はDominionが100万本,Daikatanaと「Anachronox」は250万本の売り上げが見込めるという根拠のない楽観的予測をし,それをEidosに認めさせていたことや,社内メールでハラスメントとも受け取れる「解雇予告」を行っていたこと,会社外部の人間に対して自分の社内での権力を自慢したり,Daikatanaチームをこき下ろしたりしていたことなどが,あからさまに描かれていた。
 この中には,ロメロ氏を含むION Storm幹部から届いたメールも当然のごとく含まれており,開発現場との狭間で苦しむロメロ氏が少しずつ経営に興味を失っていく様子などもうかがえた。「DominionにAタイトル(大ヒット作)の素質はない」と凡作でしかないことを見抜いていながらも,ポーター氏に丸め込まれていく経営者としてのロメロ氏の"不甲斐なさ"も顕著だった。

 この内部告発に至る状況の詳細はよく分からないが,1998年初めにポーター氏との喧嘩別れで退社したマイク・ウィルソン氏が絡んでいたとみるのが業界の大方の推測だ。退社した人間と共謀してメーラーに仕掛けをしておくとか,丸ごとダウンロードしてしまうといった荒い手口も使われたと考えられるが,詳しいことが訴訟などで解明された様子はない。
 メールの内容は,明らかにポーター氏の失言や詐欺的行為を中心にしたものだったが,ロメロ氏をはじめとする幹部陣,販売元のEidos Interactive,そして広報会社のTSI Communications社なども巻き込んだ大騒動となったのだ。
 これはWeb上でも一時大きな話題となり, ION Stormでマトモなのは「イライラするならほかでやってくれ」とポーター氏に楯突いていたAnachronoxのトム・ホール(Tom Hall)氏と,オースティンの支部にいたためにまったく関与していないウォーレン・スペクター(Warren Spector)氏くらいだとする意見が主流を占めた。この騒動に相乗りして批判する人も多く,元id Software社の同僚で「Quake III Arena」の開発中に移籍したゲームデザイナーも,「ロメロは昼飯後に仕事場に来てゲームしかしていない怠け者」などと語っている。暴露されたメールを読んでもロメロ氏自身が販売元や開発現場を軽んじた形跡はなかったが,彼にとっては,このときまさに四面楚歌の状態だったといえるだろう

 もちろん,Eidos及びION Storm内部では,この騒動に対する処置も行われていた。新しくEidosから送られた副社長兼販売ディレクターのジョン・カヴァナ(John Kavanagh)氏が先導役となり,プレス関係者をダラスに呼んでゲームの説明を行ったり,ロメロ氏のDaikatanaチームとホール氏のAnachonoxチームのコミュニケーションや協力体制を合理化したりした。開発者が,仕事により専念できるような現場作りも行われたのだ。
 その年の5月にはMplayer社のオンライン対戦サービス「Mpath」を利用してDaikatanaのマルチプレイヤー専用デモをリリースするなど,ゲーム開発が順調に進んでいることをアピールしている。バツが悪かったのか,この年のE3では顔を見せなかったION Stormの面々だが,Anachronoxやオースティン支部の「Deus Ex」も公開され,同社が軌道に乗っているのは,外から見ていても十分理解できた。
 E3直後の5月末には,ポーター氏がDaikatanaのゲームデザインに口出ししたことから,ロメロ氏の不満もついに爆発したという。当時の内部情報によれば,そのままロメロ氏はEidosアメリカ支社に連絡し,ポーター氏と彼の7th Level時代からの相棒役だったジェリー・オフラエティ(Jerry O'Flahety)氏の解雇を告げた。Eidosも法的に問題なく彼らを解雇させる用意は整っていたらしく,5月25日にポーター,オフラエティの両氏はION Stormのオフィスを静かに去っていった。

 この事件は,経営と開発のバランスが崩れた例として,関係企業だけでなく業界そのものに大きなインパクトを与えたはずだ。「FPSの父」ともいえるジョン・ロメロ氏が若くして栄光をつかみながらも,メディアやファンにスター扱いされ,そして手のひらを返したかのように失笑の的となり,そしてゲーム史の一幕へと消えていく。ロメロ氏が名声を失った出来事は,FPSが一握りのスーパークリエイターの手に委ねられるものではなく,ゲームの中の1ジャンルとして認められるきっかけになったといえなくない。
 Daikatanaは2000年5月末に発売。そしてトム・ホール氏の野心的なRPG「Anachronox」のプロジェクトが2001年夏に終わるとともに,ION Storm Dallas本社の門は閉ざされた。


(※1)
バーゲンビン(Bargain Bin)……アメリカのソフト販売店では,売れ残りのゲームソフトは大幅に値引きされて店頭にある大きなカゴで放出される
(※2)ダラス・オブザーバ誌のインターネット版の記事は,現在では存在しない

◆◆ION Storm社の作品集◆◆
ION Storm Dallas
1998年6月14日Dominion:Storm over Gift 3
2000年5月30日Daikatana
2000年6月22日Deus Ex
2001年6月27日Anachronox

ION Storm Austion
2003年12月2日Deus Ex:Invisible War
2004年3月25日Thief:Deadly Shadows


次回は,アメリカのゲーム業界を脅かす新商売について紹介しよう。


■■奥谷海人(ライター)■■
本誌の海外特派員。奥谷氏がダラスと聞いて思い出すのが,アメリカのワーナーブラザーズ系テレビ局で放映されている,「チーターズ」という番組らしい。テキサスを本拠にする探偵が,依頼者のパートナーが浮気をしているかを調べるという内容で,尻尾をつかめば依頼者と一緒に現場に突撃していくという過激なもの。モーテルで行為中でもカメラがドシドシ進入していくが,浮気が見つかった人は恥ずかしがることもなく,テレビで顔や体をさらけ出す。その豪気さに,テキサス魂を見いだすのだと奥谷氏は言う。



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