連載
ビデオゲームの語り部たち 第6部:誰よりもプレイヤーに近い場所でゲーム業界を支え続けたゲームズマーヤの足跡
日本における家庭用ゲームの歴史が始まったのはいつだろうか。人によって見解は異なるだろうが,筆者は1983年7月15日だと考えている。理由はもちろん,この日発売となった任天堂のファミリーコンピュータ(以下,ファミコン)なのだが,セガ・エンタープライゼスからSG-1000が発売されたのも,この日なのだ。
それから35年近くが経過した2018年4月8日,東京都江戸川区中葛西にあるゲームショップ「ゲームズマーヤ」が閉店した。
決して大型店とは言えない規模であるにもかかわらず,著名なクリエイターが参加するイベントが多く開かれ,広くその名を知られた同店は,ゲームメーカーとプレイヤーたちをつなぐ役割を果たし,家庭用ゲームビジネスを“現場”で支え続けてきた。
今回の「ビデオゲームの語り部たち」では,そんなゲームズマーヤの店長を務めた秋谷久子氏に,同店の歴史を語っていただいた。
何のつてもないところから「おもちゃの店 マーヤ」を開業
筆者が今回の取材でゲームズマーヤを訪れたのは,閉店まであと約2週間というタイミングだった。閉店を知った客がひっきりなしに訪れる中,秋谷店長はご主人の秋谷 実氏(ゲームズマーヤを運営する有限会社オータム・バレーの代表取締役)とともに,快く取材に応じてくれたのだが,印象的だったのは,秋谷店長の接客だ。常連と思われるお客とは,商品の受け渡しや代金の支払いが終わった後も,時間が許す限り言葉を交わし続けていた。
今の時代,このような風景はなかなか見られるものではない。筆者は1980年代にレコード会社で働いていたのだが,その頃のレコード店とお客の関係を思い出した。
当時のレコード店は,お客との会話からその嗜好を理解して,ロックが好きそうな人には新着のロックLPレコードを薦め,アイドルマニアには新人アイドルの店頭用サンプルレコードを聴かせる……といったことを当たり前のように行っていた。しかし,そんな接客はいつの間にか消えてなくなってしまった。
だが,ゲームズマーヤには,今でも店とお客のコミュニケーションが残っている。これは秋谷店長の人柄ゆえだろう。
「お客さまには,お名前が分かる限り,『何々さん,いらっしゃいませ』って言うようにしているんです」
親子二代や三代のお客もいるという。
「さっきのご家族連れのお父さんは,子どもの頃から来てくれていたんですが,ご家庭にいろいろと問題があったようで,ひとりで生きていかなければいけないような境遇だったんです。それで,自分の子みたいに,生きていくために必要なことをいろいろと教えたりしました。立派に育ってよかったと思います」
ゲームズマーヤは1983年に,「おもちゃの店 マーヤ」として,現在の場所から徒歩2分ほどの場所で開業し,1993年に現在の場所へと移っている。面白いことに,お客の間では「おもちゃのマーヤ」という呼び方が定着し,秋谷店長自身も,それを好んで使用していたようだ。
秋谷店長は忙しい中,私を創業時の場所に案内してくれた。
東京メトロ東西線の高架線路沿いにある,日当たりの良い場所だ。今は洋品店になっていて,確かに今の店の大きさと比較すると,こじんまりした感じがある。開業当時,同じ通り沿いには書店やレコード店があり,小さいながらも地元住民がエンターテイメント要素に触れられるエリアとして賑わったという。
秋谷店長は,なぜここに玩具店を開いたのだろうか。
「江東区北砂から葛西に引っ越してきたとき,『街に子供がいっぱいいるな』と思ったんです。商社系のサラリーマンだった主人は海外出張や海外赴任が多くて,自分が日本に1人でいることが多かったので,子供向けのおもちゃのお店をやったらいいんじゃないかと思い立ったんです」
とは言え,つてがあったわけではない。
「当時は,小売店が直接メーカーと取り引きすることはできず,問屋さんを通すことになっていました。問屋なんて知らないし,どうしていいか分からないので,浅草の『おもちゃのサワダ』さんに飛び込んだんです。『すみません。私,おもちゃ屋さんをやりたいんですけど,どうしたらいいですか?』って。そうしたら,問屋さんを教えてくれたんです」
秋谷店長の行動力は,この頃から発揮されていたようだ。
「それで問屋さんに行ったら,『初めての商売だろうから,おもちゃ屋さんで修行していらっしゃい』と言われて,亀戸の『トンボ屋』さんを紹介されました。そこはイトーヨーカ堂を創業した伊藤雅俊さんのいとこの奥様が経営されていたので,私も女だから丁度いいんじゃないかって。
そこで1か月ぐらい勉強させてもらったら,『もういいわよ。あんたできるから行きなさい』って……おそらく気力とか根性があると感じてくれたんでしょう」
店を回すノウハウを身につけて,あとは開業資金だが……。
「開業資金は借金です。実家に帰って両親に頼んだら,『じゃあ,あんた銀行行きなさい』と言われたので,その通りに銀行に行って,支店長さんに『お願いします。お金貸してください』って。結局,親が保証人になってくれたので借りられました」
こうして,後にゲームズマーヤとなる「おもちゃの店 マーヤ」は開業にこぎ着けた。当時よく売れたのは,超合金ロボットや,ウルトラマンのソフビ人形だったというが,当時の店内写真を見ると,トミーから1983年11月に発売された音声認識ロボット「KI-KU-ZO」や,同じくトミーの「オムニボット」なども店頭を飾っていたことが分かる。
ちなみに,これらのロボットは新店舗への移転のときにダンボールにしまわれ,そのまま店舗の奥の倉庫に眠っていたそうだ。
玩具業界の慣習に戸惑いつつも,地域の人気店に
そうしておもちゃ屋を開業した秋谷店長だったが,玩具業界独特のルールには戸惑うことが多かったという。
「おもちゃ屋さんの流通って,ものすごく理不尽な世界なんです。問屋さんから行くように指示された見本市で『これは売れそうだ』という商品を見つけてオーダーしても,『おたくの分は1個です』と言われて入ってこないんですよ。『超合金ロボをいっぱい欲しい』って言っても卸してはくれない。配給制みたいなものです」
おもちゃのマーヤは「開業したばかり」の「個人経営店」だったわけで,人気商品の入りづらさはほかの店以上だっただろう。
「私も大学の経済学部を出ていますから,何をどれくらいで仕入れて,どれだけ売れば,どれだけ利益が出るか……くらいはすぐ分かります。だから,流通の理不尽さをなおさら感じて,ずっと不満を抱いてたんですよ。
それであるとき『一体何なら下ろしてくれるの』って,問屋さんに直談判したら,『そこに置いてある金魚すくいとかならいいですよ』って。ただ,普通に金魚すくいを下ろしてもらうのも嫌なので,『サンプルください』って言って,10セット無料でもらってきました」
何とも勇ましいエピソードだが,秋谷店長の凄さは,タダでもらったものを成功に結びつけてしまったところにある。
「来店する子どもに店内で金魚すくいをさせてあげようと思って,庭作りとかに使うようなプラスチックの池を買いました。私は毎日ティッシュペーパーをすくい枠に挟んで,子どもたちに渡していたんですが,そうこうするうちにお母さんたちが,『うちの子をいつも遊ばせてもらって申し訳ない。金魚すくいを買って行きます』となって。そんなことが続いて,問屋さんにあった金魚すくいは全部ウチで売っちゃったんです。
そんなことが起こったら,問屋さんも『いったいどうやって売ったの?』ってなりますよね。そうやって少しずつ認めてもらえるようになりました」
もちろん,この裏にもさまざまな苦労があった。最初に買ったビニール製のプールは,子どもがフチに手を置くとそこから水が流れ出て,あたりが水浸しになったそうだし,毎日閉店後には,プールの底に溜まったティッシュペーパーのゴミを拾って水を入れ替えることにもなったという。
おもちゃのマーヤが名を上げた商品には,チョロQもある。
「最初はあまり下ろしてもらえなかったんですけど,私が子どもたちとチョロQで遊んで,店頭で大会を開催するようになると,月に1000個くらい売れるようになって,タカラの営業さんが直接来るようになりました」
そのつながりで,秋谷店長は意外なことに関わることにもなった。
「あるときタカラの営業さんから,『おはようスタジオ』(当時テレビ東京で放送していた朝の子ども向け番組)でチョロQ大会をやるから,お子さんたちを連れてきてください,って言われたんです。夏休みに朝5時半集合で子どもたちを連れてスタジオに行って,放送が終わったら帰ってくる,ということをよくやりました。
ある年は9月になってもその大会があって,しかもうちで連れて行った子が優勝しちゃって,学校に遅刻しそうになったんです。そうしたら,チョロQ風の車で送ってもらえて,その子はすごく喜んでくれましたね」
チョロQと同様にミニ四駆でも,秋谷店長は子どもと一緒になって盛り上がったようだ。
「当時の店舗の前は地下鉄東西線の高架だったので,その下の空きスペースを使って週末にミニ四駆大会を開いていました。今はもうああいうことはできないでしょうね」
金魚すくい,チョロQ,ミニ四駆と,どのエピソードも最初はビジネスなど度外視で,秋谷店長が子どもに遊んでもらえると感じることをやっていたようだ。それが図らずも店舗とお客(子どもたち)の間に強固なコミュニティを形成したということなのだろう。
いつの時代もお客を育てることはなかなか難しいのだが,秋谷店長がそれをなし得たのは,絶え間ない直のコミュニケーションから生まれた,信頼関係の賜物だろう。
さて,欲しい商品を問屋がなかなか卸してくれない,ということで苦労していた秋谷店長にとって,開業の年に登場したファミコンは救世主だったようだ。
「おもちゃとは違って,ゲームソフトや本体は,早いうちから注目してオーダーすれば,その分ちゃんと入ってきました。ファミコン本体だって最初から希望数を入荷してくれましたからね。しかもボリュームディスカウントがあって,例えば100台より200台仕入れた方が安くなったんです。
支払いは大変でしたけど,すごく売れましたから。マーヤはずっとファミコンを切らさなかったんです。昔修行に行ったトンボ屋さんに余剰分を卸していたぐらいですからね。
トンボ屋さんは奥様が高齢になっていたせいもあって,新しい商品だったファミコンはあまり仕入れていなかったようでした。『マーヤさん,ファミコン分けてくれない?』って言われたので,喜んで持って行きますって」
ファミコンにまつわるエピソードは数え切れないというが,その中でも印象的だったことに,コントローラなどの簡単な修理を秋谷店長自身が対応したという話がある。
任天堂か開催する「修理研修」に参加すると,ファミコンのパーツが供給され,各店舗での修理対応が可能になったのだそうだ。
この施策はおそらく,急激なファミコンの売れ行きに,任天堂が修理体制を整えきれなかった結果生まれたものではないかと思う。秋谷店長が語ったボリュームディスカウントはその後すぐ中止になったそうだが,それも販売が活況を呈したからなのだろう。
ゲーム専門店に鞍替えし,ゲームズマーヤに
おもちゃのマーヤが,ゲーム専門店のゲームズマーヤとなったのは1993年,移転のタイミングだった。
「徐々にゲームの売り上げのほうが大きくなってきて,これはゲームをメインでやるしかないね,って。おもちゃのマーヤは15坪の店だったんですが,ゲーム人気が高まるにつれて,店内の棚一本がゲームソフトで埋まるようになって,その棚一本が店の売り上げの9割を占めるようになっていましたから。
それでゲーム専門店に業態転換して,店名もゲームズマーヤにしたんです。今の場所に移転したのも,そのタイミングでした」
ゲームズマーヤが誕生した翌年の1994年,セガサターン(1994年11月22日発売)とPlayStation(1994年12月3日発売)によるゲーム機戦争が幕を開けた。これについても秋谷店長にとって印象深いエピソードが多いようだ。
「ソニー・コンピュータエンタテインメント(当時。以下,SCE)さんと直接取引する契約を結ぶのには,ずいぶん時間がかかった記憶があります。
いろいろと条件を詰めて,最終的な契約を結ぶだけになったのに,1994年の10月になっても担当の方がいらっしゃらなくて。そこで取引のあった浅草橋のおもちゃ問屋さんに相談したら,当時のナムコの販売部長だった原口さん(後にナムコの常務執行役員やスクウェア・エニックス執行役員を務めた原口洋一氏。)を紹介してくれたんです。
原口さんを通してお願いしたら,すぐSCEさんの方がいらっしゃったんですけど……入ってくるなり『うちソニーですよ,分かってます?』って上から目線で言われまして。友達のバイヤーに『もう殴ってやろうか』とこぼしたら,『ダメ,ここは我慢のしどころ』って諭されたのを覚えています」
当時のSCEにはソニー・ミュージックエンタテインメント(以下,SME)から移ってきた社員が多く在籍しており,PlayStationの販売ではCD営業のルートや手法をフル活用したと言われている。SMEは当時の音楽業界における最大手と言ってもいい存在だったので,ゲーム業界では“新参者”であるにも関わらず,会社の威光を笠に着て,不遜な態度を取る社員がいたのかもしれない。
「商品の陳列に関してもなかなか厳しくて,『ブック陳列は不可,全部面陳でお願いします』って言われました(※)。当時の15坪の店で面陳は無理だったんですが,新店ならできるということで,賃借契約書を見せたり。ほかにも,中古ソフトの販売はしないとか,そういう条件をクリアして契約したんです」
※ブック陳列は本棚のようにパッケージの背を並べる陳列方法。面陳はパッケージの表紙が見えるようにする方法で,その分スペースをとることになる
また,実際の取引についても,さまざまな条件が架せられていたようだ。
「メーカーさんと直接契約になって非常に厳しかったのは,仕入れの支払いは前金で,発売日の1週間前に入金してくださいという形式になったことですね。大作であればあるほど,その傾向は強くありました」
そういった苦労はあったが,問屋を通さず,メーカーと直接取引するメリットは大きかったようだ。PlayStationはセガサターンと比べて,掛け率(小売価格に対する卸値の割合)が低く,販売したときの利益が大きかったという。
「セガサターンは問屋流通で仕入れていましたので,掛け率が高かったんです。本体と同時発売のソフトには『バーチャファイター』があったので,アーケードスティックとかを一緒に売れば利益は確保できたんでしょうが,それもなかなか難しくて……苦労しました」
この掛け率の差は,当然ながら店としての“推し”にも影響した。
「お店としては利益の高いPlayStationをどうしても薦めてしまう傾向があって……。PlayStationは直接取引でしたし,掛け率も当時SCEで働いていた人が『発売時の掛け率は失敗だった』と振り返るくらい低めの設定でしたから」
筆者は当時セガに在籍していて,セガサターンのローンチタイトルであった「バーチャファイター」などの宣伝を担当していた。
セガサターンのプロモーションには,従来の額を遙かに超える予算がつぎ込まれ,博報堂のプロモーションチームによる「土星人」のコマーシャルも好評を博したが,流通に関しては,旧来の卸しを活用した展開であった。異業種(音楽業界)の手法を活用したPlayStationとの違いが,こういうところに現れていたのかもしれない。
これがどのくらい影響を与えたのかは分からないが,最終的にPlayStationがこの世代のゲーム機戦争で勝利を収めたのは,読者もご存じのとおりだ。
「今販売しているゲーム機本体の掛け率は,メーカーを問わず高いんです。ここでは詳しい数字を話せませんが,それを聞いたクリエイターさんたちがびっくりされるくらいです。
そうなったのは,ミリオンタイトルが毎年10本以上も出るような時代に,メーカーが『ハードで儲けなくても,ソフトがいっぱい売れればいい』と考えたからだと思っています」
だが,時代は変わり,ソフトの販売本数は減少傾向にある。
「ソフトが売れなくなったからといって,いったん高くなってしまった本体の掛け率を戻すのは非常に難しいでしょうし,在庫のリスクもありますから,ゲーム機本体の販売は,ビジネスとしてはうまみがないんです。
それに加えて,ダウンロード販売や中古ソフトの市場も活発ですから,小売店としてはさらに厳しい状況になっています。パッケージ版よりダウンロード版が10%くらい安いタイトルがありますが,これが20%くらいになると,お客様は一気にダウンロードへ流れるんじゃないでしょうか。
結局,小売店がどんどんなくなっている原因の1つには,そういうところがあると思います」
ゲーム市場が様変わりした要因には,ゲームやエンターテイメント分野に限らず,日本全体における消費者の考え方が変化したことがあるように感じる。形あるものへの執着が薄れ,モノを持たないようになり,インターネットの普及によって違法コピーの共有が半ば公然と行われるようになった。
そういった時代になれば,店舗でのコミュニケーションを無用と感じる客が増えるのも,ある意味で当然のことなのかもしれない。
来店客を楽しませた秋谷店長のアイデア
秋谷店長が金魚すくいやチョロQ,ミニ四駆などの販売でさまざまな工夫を凝らし,お客との関係を深めてきたのは前述した通りだが,その姿勢はゲームズマーヤになってからも変わらなかった。
数あるタイトルの中でも,PlayStation版「ダービースタリオン」は,秋谷店長の印象に強く残っている1本のようだ。
「あるお客様がダービースタリオンを遊んでいるのを見たとき,『こんなに面白いゲームはほかにないっ!』と衝撃を受けて,大人の方とか,競馬が好きそうなお客様に声をかけて,たくさん販売させてもらいました。
すると『店長,これオレの馬』とか『オレの馬って強いんだぜ』ってお客様同士が自慢するようになったので,お店で大会をやろうということになって。みんなで集まって『ダビスタ杯』を開催しました」
ダービースタリオンの販売では,大会以外でも秋谷店長のアイデアが冴えわたった。
「店頭での告知も,ポスターを貼るだけだと何かインパクトに欠けていたので,ポスターの真ん中から馬の首を出したいなと思ったんです。それで馬の首がどこかにないかなって考えているうちに,『ファミリージョッキー』のことを思い出して,ナムコさんに『コマーシャルに使っていた馬ない?』って聞いたら,『倉庫にいました』って貸してもらえました。店内に飾ったらバッチリでしたね」
「あと,北海道にいる知り合いから,あちらの牧場にいる有名な馬の写真を送ってもらったので,それをブロマイドにして購入者にプレゼント,という企画もやりました。
そうするうちに,お客様の側でも,ダビスタといえばマーヤ,マーヤといえばダビスタと認識してもらえるようになって」
馬の首やブロマイドなどの企画は,量販店ではむしろ難しい,小さな店だからこそできたことだろう。このようにゲームズマーヤは,秋谷店長独特の感性と実行力で,それぞれのゲームソフトに応じた販売展開を繰り広げた。それはもちろん,ダービースタリオンのような人気タイトルだけにとどまらなかった。
「EAさんが1996年12月に発売した『ぐーちょDEパーク テーマパークものがたり』っていうPlayStation向けのボードゲームで,100本仕入れれば,特典のぬいぐるみを50個つけてくれるっていう話があったんですよ。
そのぬいぐるみが大きくてけっこう可愛かったので,100本仕入れたんですが,あのPlayStation全盛の時代に,ぬいぐるみをつけても30本ぐらいしか売れなかったんです。
残り70本はどうしようと考えて,次は『あの桃鉄を作ったさくまあきらさん監修』って前面に打ち出すわけですよ。そうすると,また30本ぐらい売れるんです」
ここまではゲーム販売の施策としては“正攻法”かもしれないが,当然ながら秋谷店長のアイデアはこれに留まらなかった。
「ソフトをよく見たら,有名な声優さんが参加していたので,その声優さんに関連するノベルティやサイン色紙を,いろいろなメーカーさんから提供してもらいました。それを『今買ってくれたらこれがつきます』とやったら,完売したんですよ。
本当にありがたかったですし,やっていて面白かったですね。そんなふうにして,いろいろなゲームを売ったんです。基本的にはお金をかけずにお客様に認知してもらうことを考えていました。
お客さん側も,それが楽しみだったみたいで。店内を見ると,何を売りたいのかが分かって面白いらしいんです」
閉店が近いということで,大幅に値引きすることはないのかと尋ねてみたが……。
「安売りはしません。もちろん,お客様にとっては安いほうがいいのは分かりますけどね。以前はゲームズマーヤの周りにも,新作を最初から2割引きするような店があったんですけど,うちはやりませんでした。やっぱり安売りするのは最後の手段だと思っていますし,投げ売りしたくないんです。売れ残っても廃棄するようなことはしません」
実際,閉店までに売れなかったものは,中古品販売業者に引き取ってもらったという。この安売りしないという方針も,ゲームズマーヤがここまで生き残った理由の1つだろう。取材前は,経営が不安定な時期もあったのだろうと想像していたのだが……。
「主人が外で働いていただくお給料だけで,ご飯は食べられますから。主人のほうが大変だったと思いますよ。昼は会社に行って,夜とか土日はお店のほうを手伝っていたので」
ゲームズマーヤの名前がさらに広く知られるようになったきっかけの1つに,あるテレビ番組の存在がある。
「テレビ東京の『出没!アド街ック天国』のプロデューサーさんから,事前に行った街のアンケートで,ゲームズマーヤを挙げる人が多かったんですが,どんなお店なんですか? という電話があったんです。その後プロデューサーさんがロケハンにいらして,ぜひ番組で紹介したいということになりました。
番組内のランキングで上位になるか,下位だけど放送時間を長く取れるほうのどちらがいいですか,と相談されたので,『長くやってください』ってお願いしたんです」
ゲームズマーヤが登場した回は2001年6月16日に放送されたが,秋谷店長のやることだけに,ただお店を紹介してもらうだけではなかった。
「収録時にセガの中さん(ソニックシリーズなどを手がけた中 裕司氏。現在はスクウェア・エニックスに所属)に来ていただきました。中さんも二つ返事で『いいですよ』って言ってくれたので。このあたりから,ゲームクリエイターがよく来る店,クリエイターイチオシの店,という印象がついたように思います」
ちなみに,秋谷店長は自分の店以外の取材にも積極的に協力して,近所の人気店を教えてあげたそうだ。その1つだったある料理店は,放送後に行列が絶えない店となり,軽自動車だったオーナーの車が,放送後しばらくして高級外車にグレードアップしたという。
ゲームズマーヤも放送後すごいことになったんじゃないですか,と水を向けてみたが……。
「ウチはそうなりませんでしたね,全然。放送後も伸びてませんよ(苦笑)」
ゲームズマーヤ流顧客管理術
「最初の頃はお客様のことをだいたい覚えていられましたけど,来店人数が増えてきてからはPOSレジを導入して,データがすぐに分かるようにしました。
今はお客さんに会員証を作っていただいて,名前でも検索できますし,いつ頃何を買ったかの履歴が出るようになっています」
もちろん,POSの導入なら多くの店がやっているのだが,それを十二分に生かせるのが秋谷店長だ。
「お客さんが入って来た瞬間に,どこそこの誰までは思い出せるんです。POSレジに名前を打ち込むと履歴が出てきますから,それを見てお話しをして,これはどうですかって薦めているんです。お客さんも『僕のことを覚えている』と思ってくれますよね。
会員番号だと15777番の方までいて,そのうち常時購入してもらっているお客様は3000人ぐらいです。
来店頻度が高い人は,履歴まで私の頭の中にありますから,そういう場合は入ってきた瞬間に『今日はこれでしょっ』て出すんです。それが当たると嬉しくて……。そんな風にしてお客様とつながってきたので,閉店が決まってから,何人かのお客様が『今度から何を買うか考えなきゃいけないのが嫌だよ』って。半ば強制的に買わされてますからね(笑)」
もう1つの閉店理由
お客との密接なつながりがゲームズマーヤの強みだったわけだが,時代が進むにつれて,その関係も少しずつ変わっていったようだ。
ゲームズマーヤが閉店する直接の理由は,秋谷店長の体調不良なのだが,今回話を聞くうちに,店舗と顧客の関係性が変化したことによる影響も大きいのではないかと感じた。
「以前に比べて,店頭での質問対応が非常に増えました。最近の新しいゲーム機って,ゲーム以外にもいろいろな機能があったり,設定が細かくなったりして,何ができて,何ができないのかといったことが分かりづらくなってきたと思うんです。
質問していただくこと自体には何の問題もないのですが,困ってしまうのは,店頭でいろいろ質問して,購入は量販店とかネット通販で……となってしまうことなんです。それが頻繁に起こるので,小売店はテンションが下がるんじゃないかなと思います」
少なくない時間と手間をかけて,最後のおいしいところだけ他店に持っていかれては,たまったものではないだろう。
「悪気はないんでしょうし,店頭で質問したくなる気持ちも分かります。ネットで調べられないことも,小売店なら聞きやすいですし,店員がメーカーに問い合わせることもできますから,便利なんでしょう。
ただ,最終的に買っていただかないと,一体私達は何をしているのか……って思います。サービスセンターではありませんから。
そういったことが,メンタルに大きな悪影響を及ぼしていると感じるんです。『これがいい』って一生懸命説明しても,本当のお客様にはなってもらえなくて,それが一度や二度じゃないものですから。そのあたりはちょっと複雑な気持ちです。
閉店を告知した後に,はるばる遠方から挨拶に来てくださるような方は,そんなことないですけどね」
20年目の謝罪
そんな中でゲームズマーヤは店を閉じることになるのだが,それを公表してから,嬉しい来客があったという。
「あるお客様が20年ぶりくらいにいらっしゃったと思ったら,『実は大学生の時に,ゲームズマーヤでソフト予約して買わなかったんです。ごめんなさい』と謝ってくれたんです。ご自身が会社で部下を持つような立場になって,ひどいことをしたと気づいたということでした。私に話せたことで『胸のつかえが取れました』とおっしゃっていました。
閉店が近づく中,たくさんの方がいらっしゃって,いろいろな想い出をお話ししてくださるので,よかったなと思っています。今は達成感でいっぱいですね」
ゴッドハンドを握った日
筆者は今回の取材にあたって,1996年にスクウェア(当時)によって設立され,コンビニエンスストアにおけるゲームソフト流通を手がけたデジキューブのことが気にかかっていた。単に小売店と対立する存在だったからだけではなく,筆者自身が宣伝販売促進の執行役員として,コンビニのみの特典添付や,発売日0時の販売開始といった,小売店にはできなかった施策を指揮していたからだ。それについてどう思っていたかも,秋谷店長に聞いてみた。
「正直,あまり影響はなかったと思います。むしろ今の方が,コンビニや量販店ごとに特典物が違ったりして困りますし,それよりダウンロード販売が……。
メーカーさんはお店に『発売日前には売るな』って強く言っておきながら,ダウンロードは前日の20時ぐらいからできるようにしているんです。あれには正直なところ,納得が行きません」
秋谷店長が言っているのは,「事前ダウンロード」「あらかじめダウンロード」などと呼ばれているサービスだ。前日にダウンロードしても,実際にプレイできるのは発売日の0時からなので,メーカーとしては問題なしという見解なのだろうが,小売店側から見れば,データを渡しているのだから“フライング”でしょう,という話だろう。
「ゲームは楽しいものですから,楽しいゲームを楽しく買って,楽しく帰って,楽しく家で遊んでもらおう,という考えでやっていたんですけれど,ある時期から世の中に“安く買う”ことだけに重きが置かれる流れが生まれて,強くなっていったように思います。
それからは,楽しさだけに注目するのは違うのかなと思うようになりましたね」
人のつながりより,その瞬間の利便性が重視されるのは,まさに現代的な風潮だ。小売店とお客の関係が変化したのは前述の通りだが,それは小売店とメーカーの間についても言えるようだ。
「私たち夫婦がおもちゃのマーヤを始めた頃は,口約束で取引ができるような時代でした。『今度お店やるから,1回めだけ商品を入れてくれださい』みたいなお願いが通用したんです。
それが今は,メーカーと必ず契約書を交わさなければなりませんし,連帯保証人も準備しなければいけません。事前に信用調査会社を使って調べてくるメーカーもあります。
そういった信用調査はあまりアテにならないんですけどね。聞かれることも話すこともだいたい決まっていますし,店舗を見たくらいで分かることなんて,限られてますよ」
もちろん,秋谷店長はそういった時代の流れの中でも,メーカーと良好な関係を築いてきた。
「各社さん良くしてくれましたよ。最初は本当に話が通じなかったですけどね(笑)」
この言葉だけで,秋谷店長がメーカーと丁々発止の交渉を繰り広げてきたことは容易に想像できる。
任天堂の商談会に行ったとき,近くにいた人たちがサーッと引いて,道を作ったんですよ。何だろう,って見たら山内会長だったんです。お付きの人が6人ぐらいいらっしゃって。
あ,山内さん! となって,思わず『あー! これがゴッドハンド!』とか言いながら近づいて,手を握ったんです。山内会長から『あなたはどこの人?』って聞かれたので『ゲームズマーヤの秋谷です』と答えて大喜びしていたんですけど,お付きの人はびっくりされてました」
「恐れ多い」と思いながらも,そのトップの手をいきなり握るあたり,実に秋谷店長らしいエピソードだ。
「女だから許されたんでしょうね,きっと。テレビで見ている有名人と同じように,いつも見ているから,相手も自分のことを知っているみたいな錯覚があって(苦笑)。山内会長が私のことを知っているはずがないのに。
セガさんとも仲良くしてもらって,ドリームキャストの販売のときは湯川専務(当時セガの専務取締役を務めていた湯川英一氏)を招いて,オークションなどのイベントをやりました」
店名の由来は……
秋谷店長は2017年8月頃から体調が優れず,医師から療養を勧められたことで,ゲームズマーヤの閉店を決めた。では体調が戻ったら,またゲームに関わる何かを始めるのだろうか。
「やりきりましたね。もう,何もしないと思います(笑)。もちろん何らかの形で関わっていけたらという気持ちもありますけど,例えばコンサルティングにしても,現場を離れた者にできるとは思いませんし。いいことも悪いことも経験していますから,うちはこれでうまくいきました,これで失敗しましたってお話はできても,それはあくまで過去の話なんです。
何にせよ,安静にしていますとお医者様と約束しましたので,まずは体を治すことに専念したいと思っています」
最後にずっと気になっていたことを聞いてみた。なぜ「マーヤ」なんでしょうか?
「私がいつもうるさくて,パタパタしてるのが,アニメの『みつばちマーヤの冒険』に出てくるマーヤみたいだから,なんです。
最初は『おもちゃの一番』とか,いろいろな候補があったんですけど,自分の中ではしっくりこなくて。私の名前が『秋谷まあや』だと思ってる人も多くいるみたいですよ(笑)。
そんな感じでうるさいのに,皆さんから本当に良くしていただいたことに感謝しています。ありがとうございました」
取材後記
今回の取材では,秋谷店長の飾らない人柄を象徴するエピソードをいくつも聞くことができた。取引先との商慣習やお客の個人的な話など,ここでは紹介できないものも多く,それについては残念に思っている。
秋谷店長は思ったことを実行できる人,意志を明確に伝えられる人,お客やクリエイターへの愛情にあふれた人,そして挑戦を恐れない人だろう。
そして,秋谷店長のご主人である秋谷 実氏の理解と協力も,ゲームズマーヤの発展に欠かすことができなかったことは,ここに記しておきたい。
記事の冒頭にも書いたように,今回の取材には秋谷夫妻でご対応いただいている。実氏からもさまざまなエピソードをうかがったのだが,ゲームズマーヤの発展は店長の努力あってのことだからと,記事中での登場は固辞されていた。
笑顔を振りまいて明るく接客し,メディアにも度々登場した秋谷店長と,黒子に徹して店長を支えた実氏。ありきたりな表現だが,マーヤの発展は二人三脚そのものだったと思う。
夫妻は開業から働き通しで,長期休暇は店の移転時にとったときぐらいだという。おそらく,閉店後の処理が一段落したら,ゆっくりと休まれるのだろう。
秋谷店長は「もう,何もしない」と話していたが,もし夫妻が新しい何かを始めることがあるなら,きっとまた楽しい結果がもたらされるに違いない。
筆者はゲームズマーヤ閉店後の4月中旬に再度店を訪れたのだが,なんと閉店後にも来客があるのだという。単純に『来ちゃった』というものや,『何か作業を手伝いますよ』といった感じだそうだが,やはり名残り惜しさがそうさせるのだろうか。
しかし,当然だが店内は片付けが進み,ゲームズマーヤの面影はなくなりつつあった。清掃が終わった後,貸主に返却され,一度更地になったあと,また商業用の建物ができるそうだ。
人々が記憶している街の風景は,こうして徐々に消えていくのだろう。だからこそ,ゲームズマーヤという店があったことを,ここに記録しておきたい。
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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