連載
ビデオゲームの語り部たち 第10部:ナムコの未来を夢見た「ベラボーマン」たちの肖像
人それぞれの人生があるように,企業にもまた“生き方”がある。
同業種であっても,成り立ちや業績の変動,増資,事業拡大,合併,倒産など,歩む道は異なり,それぞれがオンリーワンであることは間違いない。そして,会社を突き動かすのは結局のところ人であり,会社の生き方は関係者達の人生が溶け合ったものと呼べるかもしれない。
今回の「ビデオゲームの語り部たち」では,ナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)で新しい挑戦を重ね,ゲーム以外の分野で同社を支えた規格外の人々を紹介しよう。ナムコがかつてリリースしたゲームに「超絶倫人ベラボーマン」というタイトルがあったが,彼らはまさにベラボーな人たちだった。
純粋さゆえに空気を読まない穴田 悟氏
本連載の第4部で少し触れたように,筆者は映画配給会社のギャガ・コミュニケーションズ(現ギャガ)に在籍していたとき,ナムコが出資する映画「カブキマン」で「ナムコ製作映画お蔵入りの危機!!」という記事をスポーツ新聞に書いてもらう刺激的な宣伝を仕掛けたことがある。
その結果ナムコの社長である中村雅哉氏を激怒させ,謝罪文を書くことになったのだが,ちょうどその頃,ナムコから1人の男が出向してきて(ナムコとギャガには資本関係もあった),私が部長を務める宣伝企画部に所属することとなった。それが穴田 悟氏である。
筆者が最初に受けた穴田氏の印象は,マイペースで独自の世界観を持った「空気を読まない男」だった。だが一緒に働いてみると,とにかく何事にも一生懸命で,自分の知らない世界で新しい何かを吸収しようと奮闘していることが伝わってきた。ナムコとは違う社風のギャガでは空回りしてしまうのではないか,と思うぐらいの情熱を感じたのだ。
空気を読まないのは純粋さゆえだと分かってからは,年齢が近かったこと,映画が好きだったことなどもあり,個人的に親しくさせてもらった。お酒が好きな穴田氏は,酔うと同じ話を繰り返したり,情に脆くなったりするが,一晩経てばすっかり忘れている,という憎めないキャラクターでもあった。
「がんこ職人」の宣伝用チラシに自ら登場した穴田氏 |
穴田氏が筆者のデスクに来て,「黒さん,僕がナムコで作ったキャラクターです。好きな坂本龍馬をイメージして開発したんです」と見せてくれたのが,「はげまし人形 龍馬くん」だった。腰の刀を引くと「小さなことにこだわってちゃいかんぜよ」「心はいつも太平洋ぜよ」といった音声を発するもので,当時ナムコがリリースしていた「エモーショナル・トイ」シリーズの商品だった。同シリーズには「がんこ職人」もあるが,こちらにも穴田氏が関わっている。
筆者が初めて「龍馬くん」を見たとき,「ナムコって変わったモノを作るなぁ」「キャパシティのある会社だ」と思ったことを覚えている。そんなナムコからギャガに出向し,不安もあったであろう穴田氏を,龍馬くんが励ましていたのかもしれない。
「龍馬くん」 |
「がんこ職人」 |
「龍馬くん」「がんこ職人」はいずれも和風テイストのキャラクターだが,穴田氏はゲームでも,当時としては珍しい和風の世界観を取り入れた「源平討魔伝」(1986年リリース)で,キャラクターデザインを担当した。
「源平討魔伝」は,浄瑠璃「出世景清」をモチーフとしたアーケード向けアクションゲームだ。壇ノ浦で命を落とした主人公の景清が地獄から蘇り,世を乱す頼朝を倒すため,鎌倉を目指して東上するというストーリーになっている。
穴田氏が描いた,景清のキャラクタースケッチの複写をご覧いただきたい。鉛筆で一心不乱に描いたと思しきイラストのおどろおどろしい雰囲気は,ゲームでもしっかりと再現されていたと思う。異様かつ妖気漂う,見事な出来栄えのキャラクターだ。
「源平討魔伝」は,野心溢れるナムコ社員達が非公式に立ち上げ,勤務時間外で打ち合わせを重ねた末,最終的に社内の承認を得たプロジェクトである。
このような型にはまらない作品を生んだナムコが,その後映画出資,ミュージカル「スターライトエクスプレス」日本公演への協賛,「ナムコ・ワンダーエッグ」などのテーマパーク開設,ロボット開発など,活動の場をゲーム以外に広げていったのは自然なことだったのかもしれない。
話を穴田氏に戻そう。ナムコでの彼を知る人から,「とんでもない暴れん坊でしたね(笑)」という穴田氏評を聞いたことがある。穴田氏はあるとき,中村氏に面と向かって「社長,それちょっとおかしいよ」と真顔で言ってのけたというのだ。
当時のナムコはすでにゲーム業界で大きな成功を収めていた。一代でその業績を築いた中村氏に直言できる社員はそうそういなかっただろう。会社によっては何らかの処分が下されるかもしれないような話だが,中村氏は逆に穴田氏をかわいがったという。
大きな成功を得るということは,その分何かを失うことでもある。中村氏は,会社が大きくなるにつれてイエスマンが増える中,本音を言ってくれる穴田氏を貴重な人材と捉えていたのだろう。
穴田氏は「源平討魔伝」の後,オリジナルビデオ作品「未来忍者 慶雲機忍外伝」のプロデューサーとなる。同作は雨宮慶太氏の初監督作品で,キャラクターデザインに寺田克也氏,造形に竹谷隆之氏など,雨宮氏が在籍した阿佐ヶ谷美術学校つながりで,後にゲーム業界や特撮業界を支えることになる人物が参加していた。
タイトル名に「外伝」とあるのは,並行して開発されていたゲーム版が本編とされていたからである。だが,開発の遅れから,外伝であるオリジナルビデオ版が先に発売されることになってしまった。
そのストーリーはサイボーグ化された忍者(機忍)である白怒火(しらぬい)の戦いを描くもの。時代劇風の世界とサイボーグなどの近未来的なメカニカル表現が混在する異色の作品に仕上がっている。ビジュアルエフェクトはCGではなく,光学合成などのアナログ的手法だが,それが使われているシーンの多さは当時の作品として異例だった。
ちなみに本作の誕生には,現コーエーテクモホールディングス代表取締役会長の襟川恵子氏が意外な形で関わっていて,筆者はその話を襟川氏ご本人から聞いたことがある。
中村氏は穴田氏が所属する映像プロジェクトチームが提出した「未来忍者」の企画に対し,予算のボリュームや慣れないオリジナルビデオ製作という点で判断しあぐねていた。
たまたまナムコを訪れた襟川氏に,中村氏がこの件を包み隠さず相談したという。
「いやー襟川さん,困っちゃったよ。映像プロジェクトっていうチームを作って,ゲーム開発を活性化させようと思ったら,『映画を作りたいから,製作費を出してくれ』って言われちゃって。どうしたらいいかな?」
襟川氏は「雅哉さん,お宅の会社は儲かっているから,多少お金がかかっても,新しいことならいいんじゃない」と返したそうだ。
その後,中村氏は映像プロジェクトのメンバーに「給料が半分になっても作りたいか?」と迫り,メンバーが「それでもやりたい」と即答するのを確認して,その熱意にほだされる形で稟議を承認したそうだ。
やりたいことがありすぎて,ひたすら突き進んだ中潟憲雄氏
中潟氏はナムコにてゲームクリエイターやサウンドクリエイターを務めた後,現在は有限会社デジフロイドの代表取締役としてゲームをプロデュースする傍ら,音楽制作やライブ活動を行っている。
「福島の高校時代にピンク・フロイドやイエスといったプログレッシブロックに影響されてバンドをやっていました。そして,田舎でバンドやっても全然ダメ,やっぱり東京に出て音楽活動しなきゃ……ということで,大学受験するわけなんですけど,もうことごとく落ちて(苦笑)」
中潟氏は2年間浪人した後,早稲田大学に入学する。
「学内のプログレッシブロックのサークル『イオロス』に入ってAQUA POLISというバンドを結成しました。オリジナル曲を演奏しているうち,ライブハウスにも出演するようになったんです」
中潟氏は両親が教員だったこともあり,大学を卒業したら田舎に帰って教員になるという約束で,学費や仕送りの面倒を見てもらっていた。それを守り,大学4年時には一般企業への就職活動はせず,教育実習や教員採用試験の勉強で忙しい日々を過ごしていたが,卒業が近づくにつれ,田舎に帰ることが納得できなくなっていったという。そんな中で知ったのが,ナムコの採用試験だった。
「たまたまナムコをプログラム職で受けていたサークルの友達から,ナムコで音楽枠の採用があることを知ったんです。そのときのナムコは株式上場前ではありましたけど,かなり大きな会社になっていました。バンドのデモ曲を入れたカセットテープを持っていったら採用が決まって,1984年に新卒として入社したんです。
蓋を開けてみたらロボット事業課への配属だったので,ちょっと驚きましたけど,音楽を作ることに変わりはなかったので,楽しく仕事ができました。ロボット事業課には穴田さんも所属していました」
ロボットと聞いて意外に思う人もいるだろうが,ナムコの前身である中村製作所の事業が,遊園地やデパートの屋上で稼働する「木馬」から始まり,それがエレメカ,ビデオゲームになっていったという経緯を考えれば,それほど遠いものでもないだろう。
中村氏の夢の一つは,自社で開発したアミューズメントロボットをデパートや催事で展開して,最終的にはディズニーランドのような“ナムコランド”を作ることだった。それが後年のワンダーエッグやナンジャタウンの開園につながっていったと思われる。
まだサウンド室はなくて,原型と呼べるものとしては,シンセサイザーとエレクトリックピアノが置いてあるくらい。なので,会社には自前のキーボードを持ち込んでいました」
中潟氏が入社間もないうちから携わったのが,ロボットバンド「ピクパク」の開発だった。ピクパクはバンドメンバーである3体のロボットが,周りの観客ロボット,司会ロボットとともに,30分程度のミュージカル仕立てのショーを見せるものだった。
「入社したとき,すでにピクパクの大枠はできていたので,僕が主に手がけたのは楽曲製作でした。テーマ曲は大貫妙子さん,エンディングテーマはEPOさんにお願いし,ミュージカル曲の作曲や,声優さんの構成,レコーディング作業などは僕が担当という感じです」
ピクパクのロボットは,モーターとソレノイド(電磁力を利用し,電気エネルギーを直線的な運動に変換する装置)で動く仕組みだった。
中潟氏が主に関わったサウンド面はというと……。
「NECのPC-98が使われていました。それぞれのロボットには,セリフや音源が記録されているレーザーディスクが入っていて,それをPC-98からの命令で時間軸に沿って読み出す(話す・演奏する)という形です。
総勢8体の制御は大変でした。今だったらMIDIで一括コントロール,ってことになるんでしょうけど」
ピクパクは,中村氏の夢を実現しようと,ナムコが総力をあげて取り組んだプロジェクトだった。
「FRP製のガワは外注でしたが,内部のメカニズムはナムコ社内で作っていました。当時としては相当の開発予算を割いていたと思います」
だが,当時の大手テーマパークでは,ピクパクより緻密な動きができるロボットが既に稼働していたこともあって,満足のいく結果にはならなかったようだ。
「精一杯やりましたが,表情まで出せるようなロボットがある中で,言葉は悪いけど子供騙しにしかならなかったですね。
当時のナムコが持っていた技術はすべて注ぎ込んだと思うんですけど,時代はもっと先に進んでいました。その点はとても残念でした。
ピクパクのセットは巨大になるので,それをトラックに積んでの輸送や現地での設営,撤去などにも手間と費用がかさみ,見合うだけの収益が上げられなかったのだと思います」
しかし,ピクパクでナムコが得た知見は,後年のワンダーエッグなどで活かされることになる。
今でこそエンターテイメント用のロボットも珍しくなくなったが,今から30年以上も前に,ロボットの事業化にチャレンジしたナムコには,自由な開発環境や発想があったのだろう。中潟氏はそれを裏付けるエピソードを話してくれた。
「モノにはならなかったんですが,脳波を使ってキャラを操作するプロジェクトがありました。『すげえなぁこの会社』と思いましたね。僕も試作制作の仕事をいくつかやりました」
本連載の第7部で,Mr.ドットマンこと小野 浩氏も語っていたように,当時のナムコではタイトルごとに開発チームが作られるのではなく,各部署のメンバーがタイトルをかけ持ちする形で開発にあたっていた。
中潟氏も1つのタイトルだけに専念することはなかったそうだが,それ以外にも,自分が面白いと思えば,割り振られた業務以外のことにも手を出していたという。言ってみればゲリラ活動のようなものだが,これは穴田氏も同じだったそうだ。
正式な業務ではないため,誰かに仕事を頼まなければならないときは,業務依頼書など書かず,直接当事者間でやりとりすることになる。こういった土壌から生まれたヒット作が「源平討魔伝」だったというわけだ。
「あの頃は,ゲーム音楽のレコード制作やライブ,PVやフィギュア製作など,やりたいことがありすぎて,常に行動していました。若かったこともありますが,保身など考えず,ひたすら突き進んでいたと思います。こうした姿勢は穴田さんの影響が大きいですね」
ゲーム音楽のレコードといっても,中潟氏が制作し,1986年にビクター音楽産業からリリースされた「ビデオ・ゲーム・グラフィティ」は,特定タイトルのサウンドトラックではなく,さまざまなタイトルから選んだ楽曲をアレンジして収録したものだった。
音楽業界に行った大学時代の友人に会ったとき,近況を話したら,『ゲーム音楽なんてやってるんだ?』と返されて,見下された感じがありました。それがすごく悔しくて。
なので,ミュージシャンやアレンジャーを起用した,生楽器やバンドによるゲーム音楽のアレンジバージョンを作って理解してもらおうと思いました」
ビデオ・ゲーム・グラフィティはシリーズ化され,アレンジ版だけでなく,オリジナル音源も収録されるようになった。今ではゲーム音楽が1つの大きなジャンルを形成するまでになっているのは読者もご存じの通りだ。
中潟氏自身が語ったように,前例にとらわれない積極的な活動は,穴田氏に影響を受けてのことだ。中潟氏は「未来忍者」でも音楽を担当しているが,この作品も,穴田氏がいなければ生まれなかったと語る。
「穴田さんの働きかけを中村社長が承認する形で,映像制作技術の研究機関を作ることになりました。それで各部署から僕を含むスタッフが集められ,映画制作に乗り出すきっかけになったんですが,当時社内には映画制作を分かっている人があまりいませんでした。
毎週のようにミーティングをして,各自がああいうことをやりたい,こういうことをやりたいと言うんですけど,素人なので具体的に動けないんですよね。そこに穴田さんが雨宮慶太さんを連れてきたんです。雨宮さんは,その頃すでに光学合成で有名なデン・フィルム・エフェクトで仕事をしていて,特撮関係の人脈もありました」
雨宮氏は,北原 聡氏が原案を手がけた「未来忍者」の企画に肉付けをし,脚本と監督を担当。映画を完成に導いた。また,氏の参加によってキャラクターやクリーチャーのデザインがクオリティアップしたであろうことは想像に難くない。
筆者も映画「ゼイラム」で,当時30代前半の雨宮氏と一緒に仕事をしたことがある。企画段階でも,撮影の現場でもポリシーが一貫しており,シーンごとの撮りたい絵にもブレがないという,「未来忍者」を経ての2作品目とは思えない監督ぶりに驚いた記憶がある。
未来忍者を手がける前の雨宮氏はキャラクターデザインなどの仕事が多く,自作のイラストをポートフォリオにして営業活動をしていたが,その傍らで,映画制作への熱い想いを夜な夜な語っていたという。
中潟氏は,東急目蒲線(当時)の下丸子駅付近にあるアパートに住んでいた頃,穴田氏や雨宮氏と酒を飲みながら映画について語ったことを覚えているそうだ。
それぞれの立場は違えども「映画を作ってみたい」という思いは同じだったということだろう。
「雨宮さんは映画監督になるべくしてなった,すごい人だと思います。中村社長の信頼も厚くて,映画と関係ない案件でも雨宮さんを呼んで意見を聞いていました。蒲田に新しくアミューズメントスポットを作るにあたっても,場所選びや,店内装飾とかを相談していたみたいですね。中村社長は雨宮さんを高く評価していたと思います」
さて,正式な業務以外にも自分からさまざまな案件を手がけていた中潟氏だけに,その勤務状況はすさまじいものであったようだ。
「ナムコット(ナムコの家庭用ゲーム機向けタイトルのブランド)が立ち上がってからのサウンド制作は地獄でした。会社で寝泊まりというか,もはや会社に住んでましたね(笑)。逆に,源平討魔伝のPV撮影では,2か月近く会社に出なかったこともありしましたけど(笑)。
当時はとんでもない残業時間で,今だったらとても許されるような働き方ではありませんでした。そんな状況だったので,ドット絵のアルバイトだった細江慎治君や,同期で企画にいた川田宏行君もこちらに引き入れ,それでも何作か掛け持ちをしなければならない状況でした。今でもよく体がもったものだと思います」
そんな嵐のような時間を過ごした後,中潟氏はナムコを退職する。入社から6年が経っていた。
「理由はいくつかあるのですが,1つは,映画制作や映画音楽制作,レコード制作,ゲーム音楽のライブといった,会社で実現したかったことほぼ達成できたからです。
それと,源平討魔伝で一緒だった大久保良一君が会社を辞めたことも大きかったですね。彼にしてみたら,僕はナムコに6年もいた……ということになるんでしょうけど(笑)」
大久保氏はナムコを退職後,開発会社のトムキャットシステムを立ち上げ,「いただきストリート」シリーズなどの作品を世に送り出したが,2016年に急逝した。
「大久保君が亡くなって2年になりますが,本当に才能のある凄いプログラマーで,彼がいなければ源平討魔伝は生まれていなかったと思います」
本当のベラボーマンは中村雅哉氏
中潟氏は,「ゼビウス」の遠藤雅伸氏,「ギャラクシアン」の澤野和則氏,「パックマン」の岩谷 徹氏,“ナムコのレオナルド・ダ・ヴィンチ”こと遠山茂樹氏,本連載の第4部に登場いただいた石村繁一氏らを挙げ,最後にこう付け加えた。
「穴田さんは間違いなくその中の一人ですよ」
筆者が穴田氏と最後に会ったのは,もう25年以上前のことだ。
ナムコを退職後,事故に遭うも,一命を取り留めたことを知人から伝え聞いていたが,今回中潟氏からその後をうかがうことができた。
「事故の後遺症で一時期は介助なしで歩けないような状態だったんですが,リハビリの末,ランニングできるまでになりました。僕もそれを聞いて,2017年の東京ゲーム音楽ショーに招待したんです。
まだうまくコミュニケーションできない部分もあるようですが,筆で絵は描けるようになっています」
源平討魔伝の30周年記念アルバム「源平討魔伝 〜参拾周年記念音盤〜」の特典である扇子に,穴田氏が景清の絵を描いてくれたという。
「穴田さんはナムコの成長期の歴史を作ってきた人なので,直接いろんな話を聞けるとよかったんですけどね……」
そう語る中潟氏は,実に穴田氏らしいエピソードも披露してくれた。
「僕が夜中に仕事を終え,クタクタな状態でアパートに帰って,そろそろ寝ようかとベッドで横になると,ドアをガンガン叩く音がするんです。出てみたら穴田さんで『中潟くん,これから蒲田で世直し会議があるから来てくれよ』って言うんですよ。それで蒲田で朝まで飲んで歌って,そのまま会社に行きました(笑)。
穴田さんは坂本龍馬ですから……。龍馬になりきっているんですよ,そういうときは」
穴田氏がさらに回復し,こんな“空気の読めなさ”をまた見せてくれることを,心から願ってやまない。
規格外の人々がいた1980年代のナムコは,求人広告も秀逸を飛び越えて前衛的だった。筆者の印象に残っているのは,「集まれ前科者。」というキャッチコピーである。
もちろん本物の犯罪者を探していたのではなく,常識の中に収まらないやる気と,失敗を恐れない行動力を持った人を“前科者”と表現したわけだ。
これは建前で終わらず,実際に常識外れな人物が多く入社したようで,中潟氏はこう振り返る。
「当時はいい成績を収めてストレートで大学を出たような人はお呼びじゃない感じでしたね。浪人も全然オッケー,学校生活に限らず,いかに面白いことをやらかしてきたか,そこが採用基準だったんじゃないかと思います。なのでかなり面白い人たち,言い換えれば異才の人達が集まってきたんだと思います」
時代設定は日本の高度成長期にあたる昭和40年代。悪の科学者,爆田博士率いるロボット軍団は,世界征服の手始めとして新田4丁目への侵略を開始する。保険会社の平凡なサラリーマンである中村 等は,残業を終えた帰り道,突如として現れたアルファー遊星人から銀の力と超変身物質(ヘラとボー)を授かり,スーパーヒーロー「ベラボーマン」へと変身。ロボット軍団との戦いを決意する,というプロローグだ。
これだけでもかなりギャグ要素の強い,独特の世界設定であることが分かると思うが,ゲームのほうも,自在に伸びるベラボーマンの腕・脚・首を駆使しての攻撃方法や,その強弱(腕・脚・首が伸びる長さ)がボタンを押す強さで決まるシステムなど,当時の常識を大きく外れていた。現在のゲーム業界で,このような企画を承認できる会社を探すのは難しいだろう。まさに当時のナムコだったからこそ生まれた作品ではないかと思う。
冒頭でも書いたが,筆者には,「超絶倫人ベラボーマン」というタイトル名が,ナムコ社員を指しているように思えてならない。ベラボーマン達がいた会社だからこそ,ベラボーマンは生まれたのだ。
そして中潟氏は,日本の高度成長期にゲームを愛し,映画を愛し,ナムコとその社員を愛した中村氏も,穴田氏や中潟氏に負けず劣らずのベラボーマンだったと教えてくれた。
「中村社長はダンディーで,独特の美意識を持たれた素敵な方でした。ここでは詳しく語れませんが,“クリスマスソング制作プレゼント事件”,“真夜中の社屋裏駐車場ベンツ事件”,“深夜の六本木遭遇事件”とか,いろいろありましたね。実に人間味溢れた人で,本当のベラボーマンは中村社長だったと思います」
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
(C)BANDAI NAMCO Entertainment Inc.
写真提供 中潟憲雄/バンダイナムコエンターテインメント/石屋模型店 他
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