連載
天下統一しないV / 第3回:一領具足で一万石で 長宗我部家[前編]
「天下統一V」各シナリオの最貧大名で戦っていく本連載,第2シナリオの真田家に続いては,第1シナリオ(1541年スタート)の長宗我部家に挑戦する。シナリオ冒頭における石高ソートなる厳正極まりない選出方法により,栄えある最貧大名に選ばれましたということで,まことにありがた迷惑な白羽の矢が四国の地に深々と立ったのである。当主 国親公には他人の迷惑顧みず,覚悟を決めて天下を目指してもらおう。
真田家に続き,またも城一つからのスタートで,おまけに城の所在国である土佐(高知県)には都合三つの大名家が配されている。客観的に見ると,長宗我部家はそのうちの一つというより,一条家の有力な家臣にすぎない。主家である一条家は,お隣伊予(愛媛県)の西園寺家と同様に,摂関/羽林家の一員が領国に下って,現地の荘園経営に活路を求めたという由来の方々で,ゲーム内的にはともかく,やんごとなさは折り紙付きだ。
いきなり主家を食って波風を立てても別に利益はないので,周囲の豪族衆と,我が家から見ていきなり敵フラグが立っている本山家の城を奪い,穏便に領地拡大を図る。弱小とはいえ主従合わせて武将が4人いれば,ここまでは議論の余地なく進む。
問題は土佐から先だ。読んで字のごとく四国には四つの国があるわけだが,讃岐(香川県)は最も畿内に近いせいで領有関係が入り組んでいる。四国統一が当面の目標とはいえ,大内家,陶家,三好家,阿波三好家,十河家あたりをいっぺんに敵に回すのは得策でない(後ろの三つは事実上同族連合といってよいのだが)。
というわけで,ゆくゆく三好家と阿波三好家を排除すれば平定できる阿波(徳島県)に,まずは北上ルートを求める。続いて,まとまったお金目当てに進撃方向を西に転じ,伊予の最大勢力たる河野家から平らげさせていただこう。
阿波に進出した時点で,河野家からは友好使節団が到着していて,攻め懸かるのはたいへん心苦しいものの,そもそも四国は誰か有力な大名がまとめないかぎり,近畿/中国/九州の3方向から切り取られてサドンデスな土地柄である。ここは大事の前の小事と割り切って,河野家および伊予の豪族衆を討伐していく。
河野家を打ち倒す頃には石高も16万石くらいに成長していて,年貢収入から俸禄や兵/城の維持費を差し引いたグロスの収支は黒字に転じているはず。四国といえども西国であって,そもそも町場からの収入は多い。それをやりくりして毎ターンの戦をこなせるので,序盤の長宗我部家が財政的に破綻する心配は,あまりないだろう。
そして,史実からの大きな逸脱の第一歩は「兵農分離」策の採用である。ご近所に強敵がいない,正確に言うとしばらく強敵と戦うつもりのない我が家にとって,当面の動員兵力数はさほど問題ではない。ならば兵の維持費を切り下げて財政的なアドバンテージを拡大し,余剰資金で損耗兵力の補充や城の整備を進めたほうが合理的だ。
タイトルに「一領具足」と謳っておいてなんだが,長宗我部家は少数精鋭を目指すのである。
伊予を切り取り,阿波を平定してだいたい30万石。大名家の本城を伊予の東端に移して,瀬戸内海に睨みを利かす。ここからは西日本情勢全体をよく見極めつつ,友と敵を選んでいかねばならない。
ざっと見たところ,今回は大内家がやけに伸びている。史実における室町後期の戦乱(応仁の乱の続きといってもよい)で,京都周辺を舞台に台風の目となって活躍した大内家の台所は,日明貿易による銀の輸出に支えられていた。当時明国は私貿易を認めていなかったため,大内氏は日明貿易の実質的な利権を大義名分で守るためにも,政局に介入する必要があったわけだ。
それはともかく戦国期になると,尼子家との角逐,有力な臣下である陶家との確執を通じて弱体化していったはずなのに,今回陶家は振るわず,尼子家も大内家を追い込めていない。
この時点で我が家は主敵を大内に設定,豊後(大分県)の大友家,出雲(島根県)の尼子家,そして瀬戸内の陶家との連携を目指し,外交を展開する。同時に,讃岐で陶家が大内家に奪われた城を吸収することで,ほぼ四国の統一を完成させる。
讃岐領を我が家に奪われたところで,間もなく200万石にならんとする大内には蚊が刺した程度のものだったのか,これに対し目立った報復はなかった。
大内家は東西両方向に領地を拡大していき,西国の豪族衆も次々と大内家への服従を表明していく。この勢いはまずい。そうした流れを断ち切るべく,我が家は畿内への入り口として淡路島を確保,そこから大内方の豪族がひしめく播磨(兵庫県)に斬り込むことにした。
その狙いは二つ。このまま行けば大内の手は畿内に届く。まずはそれを断ち切らねば,そのほかの西国大名には生き延びる術がない。これが一つめの侵攻理由である。
二つめは,播磨が非常に豊かな土地であること。これがすんなり敵の手に渡れば苦戦は必至だし,我が方が手にすれば大きな支えとなる。正直,陶や尼子が大内を押し留めていてくれさえすれば,こんな心配はなかったのだが,どのみち本州への進出は我が家にとっても既定の路線である。ならば,最も合理的な手を選びたい。
だが今回,事態は常に予想よりも一歩早く進んだ。共に大内に対抗するはずだった大友家は,筑前(佐賀県)に本拠を定めた大内家によって,早々に豊後を逐われ,伊予に落ち延びる次第となった。包囲網のあまりに早すぎる崩壊である。当主が義鑑でなく義鎮になっているところを見ると,抵抗の過程で武運拙く果てたのであろう……。
正直,AI率いる大内家がなぜ本城を移してまで九州平定の挙に出たのか,理由はよく分からない。普通AIはなかなか本城を動かそうとせず,それが自ずと攻勢の限界点を作ってしまうものだ。もしかしたら,尼子家の一時的な奮戦で本城が落ち,強制的に移った結果なのかもしれない。だとすれば,ケガの功名もいいところである。大友なき九州に,もはや大内を止められる者はいない。大内家の成長ペースは,ますます上がっていった。
この事態を受けてどうすべきか。播磨侵攻を諦めることも考えたが,いま九州に割って入ったところで,後背地のない長宗我部の抵抗が長続きするとは思えない。ここは既定路線に沿って大内の上洛を阻止し,政治的なアドバンテージ獲得だけでも妨げるべきだろう。
尼子との連携を策しつつ,我が将兵は播磨室津に上陸する。所領の規模が大きいだけに,大内方の豪族衆は軍勢も大きく,これを打ち倒すのはなかなかの手間ではあったものの,平定は順調に進む。
そこに立ちはだかったのは,なんと毛利元就であった。……いや,考えてみればもっともである。史実において大内家が衰退し,また陶 晴賢を打ち破ったからこそ毛利が世に出たのであって,それが両方なかったとすれば,毛利家は大内家の有力な被官のままだ。
鉄砲が使えない雨のタイミングをついて我が軍に突撃をかけてきた元就配下の騎馬武者は強力で,珍しく我が家の重臣達が野戦で敗走する始末であった。とはいえ,ここがお家の大事。我が家は持てる限りの兵力を投じて敵将毛利を撃退,播磨の平定を完遂する。我が家の石高は,ようやく100万石を迎えたのである。
それでも,大内の躍進は止まらない。九州制圧が進行する傍らで,我が家の播磨領と並んで大内に対する東の防波堤となっていた尼子領が危機を迎えていた。出雲,伯耆(鳥取県西部),美作(岡山県北部),備中(岡山県西部),備前(岡山県南部)を領し,中国地方を南北に貫いて大内と対峙していた尼子家は,出雲の大半を失ったうえ,美作を失って所領が南北に分断される。
我が家は美作の戦線に介入する形で尼子を援護したものの,続いて出雲/伯耆の残りと備前をも失って,尼子家は大内に降伏した。総じて目の前の戦に勝っていながら,我が家の思惑はまたも間に合わなかったわけで,このあたりが小物の悲しさである。
否応なく,我が家は尼子に代わって美作/備前を主戦線に,大内家と対峙するという局面を迎えた。しかも,九州を大半平定して,350万石を超えた大内と,である。
第一次大内包囲網は,完全に崩壊した。ならば今度は我が家が正面に立って,次なる包囲網を考えればよい。尼子が屈服する以前の段階で,大内はすでに因幡(鳥取県東部),但馬(兵庫県北部),丹波(京都府西部)と続く,京都への道を手にしていた。播磨こそ我が家が奪取したものの,出雲/伯耆が落ちたいま,さらに美作が失われれば,大内の上洛は時間の問題である。なんとしても阻止せねばなるまい。
ここでじっくり考えてみる。畿内をほぼ固め,丹波と山城(京都府中央部)の境界線で,大内と睨み合っているのは200万石弱の六角家である。そして但馬と丹後(京都府北部)の線で,大内と向かい合うのは150万石の朝倉家。両家と結べば,物量的に見て十分大内に対抗できるはずだ。
尼子家が敵に降り,大友家と陶家をそれぞれ四国に存続させている我が家は外交方針を刷新,朝倉家,六角家への接近を目指したのである。
しかし。両家と不戦同盟を結び,続いて朝倉家と軍事同盟(攻守同盟)を結んでみて,早くもこの構想の破綻が明らかになる。そもそも朝倉家と六角家は,近江(滋賀県)北部をめぐって火花を散らしており,両家を同じテーブルに着かせることは不可能だったのだ。
「宿敵」ルールの前に,大同団結の理想は不発に終わる。朝倉と結んだ我が家は,即座に六角を敵に回すものの,六角家の支配下にある朝廷の調停(いや,ダジャレを言っている場合ではなく)で,とりあえずは和解し,朝倉との同盟は解消された。
同じ頃,畿内近国での活動を考えたとき石山本願寺との和解は必須と考えて,我が家は法主に使者を遣わしていたのだが,これがいけなかった。本願寺との関係はなぜか急速に進展,不戦同盟をとばしていきなり軍事同盟に発展してしまった。
越前(福井県東部)領内に一揆勢を逐い,その北の加賀(石川県西部)でも一向一揆に手を焼いたであろう朝倉が,これを許すはずがない。事情は近江を本拠とする六角でも同様で,たちまち両家は敵に回る。第二次大内包囲網は構想レベルで成立しないばかりか,100万石そこそこの長宗我部家による外交的策動は,周囲に都合700万石分くらいの敵を作り出して終わったのである。
ははは(笑)。いやほんとどうなるんだろう,これ? といったところで[前編]を終了したい。[後編]をお楽しみに。
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