連載
ビデオゲームの語り部たち 第3部:“バーチャファイターの聖地”新宿カーニバルプラザで格闘ゲームの隆盛に心血を注いだ林田貴光氏の若き日々
衝撃的だった「バーチャファイター」との出会い
林田氏が新規出店の作業で奮闘していた1993年の8月,第31回アミューズメントマシンショーで,アーケードゲームシーンを大きく変える対戦格闘ゲーム「バーチャファイター」が発表された。
少々余談になるが,筆者がバーチャファイターの存在を知ったのは,発表の約9か月前,1992年の11月ごろだったと記憶している。友人から「セガがゲームの宣伝をできる人を探している。黒川さん会ってみたら」と聞いて行ってみると,待っていたのは宣伝担当の社員ではなく,バーチャファイターのプロデューサーである鈴木 裕氏だった。この出会いが筆者のゲーム業界におけるキャリアのスタートになり,林田氏とのつながりも生むことになったのだ。
その林田氏がバーチャファイターを実際に見たのは,発表直後だったという。
「池袋GIGOで行われたロケテストのときだったと記憶しています。破損したパーツの代わりになる材料を探しに池袋の東急ハンズに行くところだったんですが,店頭から入ってすぐのところに見たこともない白い筐体があって,開発スタッフと思われる人がベタ付きでプレイをチェックしていました」
林田氏はすぐに2,3回プレイして,「これはイケる」と直感したという。
「バーチャファイターは自社タイトルでしたし,初の3D対戦格闘ゲームという大きな特徴がありました。ストII通信対戦台での出遅れを巻き返すチャンスとして,これ以上はないと思ったんです」
林田氏はバーチャファイターの正式稼働に合わせていろいろと策を練ったが,思ったほどの成果を上げることはできなかった。
「バーチャファイターのプレイ料金はほぼ100円で横並びだったので,価格で負けるということはなかったんですが,ゲーム系メディアで大きく取り上げられていたゲームスポット21(以下 GS21)とは,とても太刀打ちできないほど差がありました。
ネットがない閉鎖的な時代ですから,自分の店で対戦をやる楽しさや動機を作るために,何か別の方法を確立しなければならないなと思いました」
考えた末に行き着いた答えは,シンプルなものだった。
「遠征してまで違うお店に行くようなゲーマーの来店動機は何なのかを考えると,やっぱりゲームの情報が欲しいからなんです。自分もスコアラーだったときはそうでしたから。なので,歌舞伎町のゲーセンに,カーニバルプラザに来れば常に最新の情報が手に入るという状況を作ろうとしました」
これには,ゲームセンターにおける情報提供手段だったコミュニケーションノートの存在感が低下したことも理由にあるという。
「コミュニケーションノート,いわゆるゲーセンノートは対戦台の普及とともにその多くが機能不全に陥っていました。ネットの匿名掲示板で見られるような,対戦相手を口汚く罵る書き込みで埋め尽くされるようになり,かつての牧歌的なコミュニケーションツールではなくなってしまっていたんです」
また,バーチャファイターではニフティサーブなどのパソコン通信による情報交換も行われるようになったが,それがゲームセンターでの“格差”を生んでいた。
「パソコン通信は基本的に閉鎖的で,導入のハードルも高いわけですから,情報の広がりはあくまでも限定的なんです。さらに情報にアクセスできるゲーマーは,『自分たちだけが知っている』という状況のほうが有利なわけですから,積極的に広げようとはしませんよね。
対戦ゲームで自分が知らない技を相手にやられると『なんだよ……それインチキじゃん』としか思われないので,プレイヤーの裾野が広がるわけがない。そこで店舗主導による攻略情報の提供を考えました」
しかし,具体的な行動に移すまでには時間がかかってしまったという。
「その頃,セガのアーケードゲームでは『DAYTONA USA』がヒットしていたんですが,これがちょっとした問題を抱えていました。実車を模したHパターンのシフトレバーを採用していたんですが,稼働初期に搭載されていたものが非常に壊れやすくて,マシンの内部でバラバラになってしまうことももあったんです。
大ヒットマシンですから歌舞伎町では合計20台以上が稼働していて,毎日どれかが壊れるくらいのペースでしたから,その修理に追われてほかのことをやる時間がありませんでした」
林田氏が店舗で最初に攻略情報の提供を行ったのは,カプコンの2D対戦格闘「ヴァンパイア」だったという。
「当時の2D対戦格闘ゲームは『龍虎の拳』の『龍虎乱舞』みたいな,インスト(インストラクションカード。ゲーム機に設置されている説明書)に載っていない隠し技を盛り込むのがトレンドだったので,そういった攻略情報のニーズがあったんです」
とはいっても,最先端の3Dグラフィックスを採用した自社タイトルで,プレイヤーの人気も高かったバーチャファイターでなかったのは少々意外なところだ。
「バーチャファイターはどちらかと言えばライトプレイヤー向けで,ジャッキーのダッシュハンマーキックやラウの斜上掌など,ガチャガチャやってるだけでも強い技が出せちゃうんです。対戦内容も,駆け引きの妙というよりは“強い中段技を出した方が勝つ”といった具合でしたから。
また,バーチャファイターには通常技と必殺技の区別がなくて,技の数も膨大にあるので,どうすればわかりやすい形でお客様に情報を提供できるのかを思いつけなかったんです。2D対戦格闘の隠し技は数が限られていて,最悪テプラで印刷したものを筐体に貼るという形で,手っ取り早く対応することも可能でした」
林田氏が始めた2D対戦格闘ゲームを中心とする攻略情報の提供は,一定の成果を収めた。
「2D対戦格闘ゲームの新作は続々と出ていたので,自社・他社を問わずに情報をいち早く届けられるような体制にしました。
隠し技コマンドを探す手法は『コマンド受付猶予フレーム内に,考えられるすべての入力を行って,そこから引き算をする』というもので,これは,新宿カーニバルプラザに入ってきたゲーマーのスタッフが編み出したんです。
このおかげで大抵の隠し技は稼働開始から2,3日の間に発見できました。コマンド表にして張り出すと,その効果がインカムにも表れましたね」
多くのプレイヤーが店を訪れるようになったが,それによって別の問題も出てきたという。
「歌舞伎町という場所柄か,勝った負けたで因縁をつけたり,ゲームマシンを殴ったりといった人がよくいたんですよ。そういうのを見つけたら即,事務所に連れ込んで『そういうことはやめてもらえますか』と。実際の言葉とかはもっと荒っぽいんですが……そうでもしないと分かってもらえないので。今ならSNSで炎上間違いなしの応対でしたね。
また,僕がお店を空けていることが多かったので,その間にトラブルがあったら水商売系の常連さんに止めに入っていただく,といった協力も受けていました」
林田氏が攻略情報の提供に手応えを感じていた1994年9月,第32回アミューズメントマシンショーで「バーチャファイター2」が発表された。
「バーチャファイター2の衝撃は,ある意味初代を超えるものでした。
いかにもポリゴンポリゴンした初代は,どうしてもお客様を選んでしまうようなところがあったんです。でも2は誰が見ても『ディスプレイの中で人間が動いてる! 凄い!』と思わせるようなビジュアルでしたから。
同時に,これはチャンスが来たぞと。我ながら何度目だよって話ですけど,ある意味それぐらいバカでないと,心血を注ぐまでの原動力は生まれてこないですよ。
ウチはバーチャファイター2の情報では絶対負けないぞと決意して,黒川さんに手紙を書き,デモ映像のビデオを送ってほしいとお願いしたんです。送られてきたのは,9月か10月頃だったでしょうか」
林田氏からの手紙が来たことは記憶にある。彼以外からも似たような要望は多く届いていたのだが,すべてに応えていたわけではないので,おそらく彼の手紙の文面に何かを感じたのだろう。もちろん,メーカーにとってメリットが大きい繁華街店舗での告知という点にも魅力を感じていたとは思うが。
AM2研から林田氏へ貸し出したビデオの映像は,今となっては送った本人である私自身がよく覚えていないのだが,林田氏に聞くところでは,開発途中のデモ映像や一部の対戦プレイシーンがダイジェストでまとめられたもので,ほかのメディアでは見たことがないものだったという。
「デモ映像には物凄い反響がありました。わざわざ大阪から観に来る方や,上映中ずっと店の外で眺めている方もいたんです。ビデオにはラスボスのデュラル戦まで収録されていたので,カーニバルプラザのスタッフ全員を集めて見てもらったときに『これ,本当に流していいの?』となっちゃって。
黒川さんからも電話が来て,全部流すのはさすがにまずい,ということで,デッキ2台でアトラクトデモだけがリピートされるテープに編集して,それを店頭で流しっぱなしにしていました」
発売前のゲームのプロモーション映像がゲームセンターで流れるといったことは,それまでほとんどなかったという。今のように動画配信サイトもない時代,ゲームファンにとって,新宿カーニバルプラザ店頭のディスプレイは,終戦後の街頭テレビのような存在だったのかもしれない。
「僕が知る限りでは,ナムコさんが『源平討魔伝』の時にやったぐらいだと思いますから,画期的なことだったんじゃないでしょうか。
あれがなかったら,新宿カーニバルプラザでバーチャファイター2があそこまでプレイされることはなかったでしょうね。『バーチャ2が出たらココでやるんだ』と楽しみにしてくれた方もたくさんいらっしゃいました。
ただ残念だったのは,筐体デリバリーが若干遅れたことです。早いところではうちより1か月ほど早く導入されたところもありました。でも,お借りした映像のおかげで盛り返せたと思っています」
林田氏はもちろん技表の作成にも力を入れた。
「お借りした映像も参考にしましたし,知らない技を使っているお客様がいたら,『それどうやって出してるんですか?』と聞いたりもして。
それと,情報を発信していると,自然と集まって来るものもあるんですよ。『BBSにはこんな技が載ってた』とか,『早稲田の店にこんな技表があったよ』とか。
コマンド技を調べる手法を考案したゲーマーのスタッフと2人でひとつずつ拾っていって,新しい技が分かったら更新し,最終的に1枚で見やすいものにまとめました」
「本当はもっとたくさん技があるんですけど,ただのパンチとか,同じコマンドの繰り返しで数回出せる技をいちいち出す回数ごとに書かなくてもいいでしょ,ということで,省略しているところはあります。
このバージョン4.3を作ったのはゲーメストの公式ムックが出た後なので,技の名前もそれに合わせてますけど,作り始めの頃は分からないので,格闘技に詳しい知人に聞いて,それらしい名前を適当につけていました。お客様から間違いを指摘されることもありましたね」
林田氏は,この技表を新宿カーニバルプラザだけで使うのではなく,新宿地区のセガ系列店舗にコピーして配っていた。
「当時はまだコンビニにコピー機がありませんでした。1枚5円程度でコピーが取れる『コピーセンター』が大抵のオフィス街にあったんですけど,歌舞伎町にはなかったので,新宿西口まで行って,ついでにGS21に顔を出して壊れたゲームマシンはないかとか,そういう話をして戻ってくるという感じでした。なんでこういう紙のものを作ったかというと,忙しくて自分がコミュニティに関わることができなかったからなんです。
メンテナンス作業でいくつかの店を回っていることが多かったので,データとして残し,それを見てもらえれば何とか伝えることができるでしょということでやっていました」
その技表がさらにコピーを重ねられて,やがては全国に広がっていったようだ。
「地方の,僕が全然知らなかったようなお店にも貼ってありました。それこそ福岡に戻った時にも,オリジナルから少し手が加えられたものを見つけたり。
アストロシティ(筐体の名称)のインストラクションスペースに合わせたB4での出力を想定して作り,お店での使い勝手がいいようにしたのが,そこまで広まった理由かもしれないですね」
「新宿カーニバルプラザだと,筐体1台あたりの1日のインカムは最高で28万円だったと思います。対戦台ですから,2台合わせた場合は50万にちょっと届かないぐらいですかね。キャッシュボックスからコインが溢れて入らなくなるということもありました」
「新宿カーニバルプラザがあそこまで盛り上がった理由としては,やっぱり立地が大きかったです。先ほども話しましたが,格闘ゲームは対戦相手をより多く集められるお店の方が有利なので。
カーニバルプラザは日本一の繁華街のど真ん中にあったわけですから,立地に関しては申し分ありません。ただ,当時のゲーマーには歌舞伎町でビデオゲームを遊ぶという意識がなかったんです。お借りしたビデオは,それを変えてくれました。
そのうえで,攻略情報がいち早く手に入るようにして,メンテナンスも十分にして,この店で遊べば大丈夫という環境を作った結果なんだと思います」
歌舞伎町には,人が多いというだけでなく,その年齢層がやや高めというメリットもあったという。
「バーチャは2D格闘ゲームより少しアダルトなイメージを売りにしていましたから,それが歌舞伎町という街にうまくフィットしたと思います。
ほかの2D格闘ゲームのプレイヤーは未成年や学生が主なので,ピークタイムが大体15時から17時なんですが,バーチャは20時から22時くらいでした。仕事帰りから終電近くまで対戦するという感じですね。
もっともっとやりたいとなったら,当時の歌舞伎町では24時間遊べたんです。もちろんゲームセンターは閉まってしまいますが,当時あった『フロンティアランド歌舞伎町店』というお店が24時間営業していました。ここは厳密にはゲームセンターではなく,今でいう個室ビデオ店で,そこの待合スペースにゲーム機が置いてあったんです」
当時,渋谷や池袋にはチーマーと呼ばれる不良グループが跋扈していたが,林田氏によると,新宿ではあまり見かけることはなく,深夜まで安心して遊べる街だったという
「新宿カーニバルプラザは23時45分に閉店準備を始めるんですが,いよいよ電源を落とすという段階になってもお客様が筐体に張り付いてガンガン100円玉を投入してるんです。
そこまで熱中していただくのはありがたいんですが,営業時間は法律で決まっているので,『フロンティアランドなら遊べますので,そちらでお願いします』と伝えたら,『あそこはレバーもボタンも良くない』と言われてしまって。仕方ないからフロンティアのマシンまで修理していました」
そこまでの人気になるとメンテナンス作業も増えそうだが,実際にはそれほどの負担にはならなかったという。
「体感ゲームなどではなく,バーチャファイターなどのビデオゲームの場合は,修理といっても基本は部品を交換するだけなので,それほど手間はかかりません。
ただ,純正品だと頻繁に壊れてしまうパーツがあるんです。バーチャの場合は純正品レバーだと1週間程度でダメになることが多かったので,あらかじめ耐久性のあるものに替えておきました。そうすると半年程度はもちます」
思いも新たに高田馬場で「バーチャロン」の大会を企画
「ナムコさんでは『プレイマックス』というお店が西口の大ガードの近く,今はビッグエコーになっているところにあったんですが,そこでは攻略ビデオを作ったり,積極的に大会を開いたりして,初代『鉄拳』から『鉄拳3』くらいまで,盛り上がっていたと思います。
新宿カーニバルプラザやGS21と共通していたのは,そこに集まるプレイヤーのボリュームゾーンが18歳〜20代前半だったということですね。学生街や地元のゲーセンを離れた新社会人が,新宿の対戦台で遊ぶようになるという流れが新たに生まれていました」
その盛り上がりは,3D対戦格闘だけに留まらなかった。
「2D格闘ゲームでは,タイトーさんの新宿南口ゲームワールドや,新宿スポーツランド西口店,新宿スポーツランド本館といった店舗が,市場のトレンドやプレイヤーのニーズをすくい上げる形で大きく成長していきました」
その一方でブームの過熱による弊害もあったという。
「この頃から,プレイランドカーニバルのマシンが頻繁に故障するようになったんです。それまでの故障は乱暴な扱いが原因といった突発的なものだったのですが,寿命によるものが増えました。コインホッパー(メダルゲームの払い出しを行う部分)の摩耗であるとか,UFOキャッチャーのケーブル断線とか。
いつどのマシンが不具合を起こしても不思議ではない状態で,予防も難しい。カーニバルプラザもバーチャのおかげで大盛況でしたから,そのうち対処が追い付かなくなってくるんです」
「自分の待遇はアルバイトのままなので,プレイランドカーニバルの方から『お宅どうなってるんだ』といったクレームがあっても,本部に掛けあって抜本的な解決策を得るといったことはできません。結局,プレイランドカーニバルはセガとのリース契約をとりやめることになってしまいました。
そんなところに,新しく来た社員の方とそりが合わないといったことが重なりました。好きこのんでアルバイト待遇でいたわけではなかったので,そこでアルバイトを辞めて福岡に戻ったんです」
林田氏は福岡のゲームセンターで働くことも考えていたというが,いざ戻って目にしたのは,予想外の状況だった。
「福岡では格闘ゲームの市場が完全に崩壊していて,値下げ競争みたいなものが起きていたんです。バーチャファイター2の対戦台が1プレイ20円とか,2プレイ50円とか。そんな調子だと,体力のないところからどんどん閉まっていくことになるわけで。これはちょっといかんなぁと。結局,値下げではない競争がしたくなって東京に戻り,セガのゲーセンに復帰しました。またアルバイトでしたけど,ほかに取り柄があるでもないし,まあいいかと」
林田氏は新宿ではなく,高田馬場のハイテクランド・セガオアシスで働き始める。
「入ってしばらくしてから『電脳戦機バーチャロン』の大会を通年でやってみようということになりました。月例で大会をやる店は少なかったので,1つのゲームを長く遊んでもらう方法を確立して広げようと。
当時も各地のゲーセンで格ゲーの大会が開かれていましたが,常連客による常連客のための大会になってしまっていたり,トーナメントが進むに従って負けたお客様が野試合に流れ,決勝を見る人がいなかったりといった感じで,あまり盛り上がってはいませんでした。店舗側も参加者側も,ゲーム大会をどのように運営し,また楽しめばいいのか分かっておらず,数多くの課題があったんです」
社員とのそりが合わずに新宿カーニバルプラザを辞めた林田氏だったが,高田馬場では上司に恵まれたようだ。
「ハイテクランド・セガオアシスの店長は,GS21から異動してきた人でした。互いに面識もありましたし,格ゲーブームが抱える問題意識も共有していたので,大会企画を形にするのは早かったです」
2人で考えたさまざまな工夫によって,大会は成功を収める。
「大会に勝つと得られるポイントに応じて『階級』を授与するんですが,違う店舗の大会でもポイントを付与したり,他店舗と連携してサーキット方式で開催場所を巡回させたり,といったことをやりました。プレイヤーにとって金銭的な負担が大きくなることも分かっていましたから,時間制のフリープレイイベントも並行開催したんです。
結局2年近く続けて,毎回100人強が集まるイベントになりました。チラシや店内用の告知ポスターなどは手作りでしたが,いかにもメーカーの公式っぽく見えるようなものを目指していたんです」
下の写真は林田氏が保有するバーチャロンの店舗月例大会チラシである。今では権利関係の問題があって簡単にはできない素材の流用が,このような形で頻繁に行われていた。おおらかな時代だったと言えるだろう。
林田氏が今のゲームシーンを見て思うこと
1990年代における対戦格闘ゲームやゲームセンターの隆盛に一役買った林田氏は,その縮小も見届けることになった。
「格ゲーは,基本的にうまい人はずっとうまいんです。一般的なスポーツなどと違い,年齢やケガによる衰えも少ないですし。ウメハラは14歳のときからストIIでその名を知られていて,今でもトッププレイヤーですから。
そういう性質があるので,プレイヤーの序列が見えてしまうと,モチベーションが湧かなくなるんです。自分より強い人が座っているところに,100円を入れようとする人はなかなかいません。プレイヤーが固定しがちな小さい店だと,それが顕著になります」
また,海外における状況の変化が,日本のゲームセンターにも影を落としたという。
「かつてのゲームセンターは,一定期間稼働したゲームをアメリカを中心とした海外に輸出していて,それが収益の中で大きなウエイトを占めていました。ただ,それが海外の正規代理店の利益を侵害しているということで,1990年代に大きな問題になったらしいんですよ。
その対策としてメーカー側が日本市場に特化したものを出すようになったと聞いています。転売ができなくなった結果,ゲーセンの資金が足りなくなって,新作を導入しづらくなる。そうなると新作が出づらくなり……という負の連鎖です」
少々話はそれるが,この対策以降,海外のゲームコレクターが訪日して,自国に流通しなかったゲーム基板を買いあさるようになったという。
このように,日本と海外のゲームセンター間にあった流通が止まった1990年中頃から,日本だけでなく,アメリカのアーケードゲーム市場も下降線をたどることになった。メーカー側の対策だけが原因とは断定できないが,皮肉なものだ。
そうやって市場が縮小する中で,対戦格闘ゲームはその存在感を失っていった。
「今でも続いている『ガンダムvs.』とか,『beatmania』をはじめとする音ゲーが登場すると,若い人はそちらに流れていきました。
音ゲーは対戦ゲームと違い,お金を使っている人のプレイを止めることはないので,安心して遊ぶことができます。また,譜面の情報はすべてオープンですから,わざわざ対戦相手や情報を求めて遠征する必要もなく,そういったところが受け入れられたのではないでしょうか」
林田氏によれば,1990年代の終わりから2000年代初めに到来したパチスロブームの影響も大きかったという。
「サミーが販売していた『北斗の拳』をはじめとする4号機は,格ゲーにトドメを刺したようなものです。皮肉なもので,それとほぼ時期を同じくしてセガはサミーに買収されたんですが。
ビデオゲームとパチスロの攻略は似ていて,要するに情報の早さが勝ち負けを左右するところがあるんです。もちろん,運もあるので絶対ではないですが,格ゲーはどれだけうまくても,それで食ってはいけませんから」
近年におけるコンシューマゲームとスマートフォンゲームの市場バランスの変化に近いくらいの,劇的なものだったのではないだろうか。
対戦格闘ゲーム,そしてゲームセンターに心血を注いだ林田氏は,今のゲームシーンを見て何を思うのだろうか。
「僕は,ゲームセンターの“アメリカと日本の中間”みたいな空気感に魅力を感じていたんです。アーケードゲームは舶来の文化ですし,昔のゲームは画面に表示される文字も全部英語でしたから。
福岡は朝鮮戦争の影響で遅い時期まで米軍が駐留していたので,ゲームセンターもアメリカンダイナーみたいな店構えのものがあって,憧れていました。東京でいえば池袋のロサ会館とか,歌舞伎町のミラノとかですよね」
ただ,そういった雰囲気は林田氏がゲームセンターで働くようになった時期から徐々に失われていった。
「不思議なもので,ゲームセンターのために奮闘しているのと並行して,だんだん気持ちが離れていったというか。はっぴいえんどの曲じゃないですけど『さよならアメリカ さよならニッポン』みたいな感じで」
林田氏は,ビデオゲームでやれることはすべてやり切ったとも感じているという。
「実際,今のゲーセンがやってることで,当時の僕がやってなかったのはネット動画配信ぐらいでしょうか。『もっといろんなことができるでしょ?』と思わなくもないんですが,それは実際現場にいる人でないと分からないことですから。僕にとやかくいう資格があるわけでもないですし。
今はEVOなど,アメリカの方から新たな風が吹いてきていて,興味をそそられるというか,面白そうだなとは感じます。ただ,格ゲーシーンからも,ゲーセンの現場からも離れてからだいぶ経ちますので,『これからどうなっていくんだろうな』という,ちょっと引いた気持ちなんです」
取材後記
街はその時代に合わせるようにして変わり,それによって新たな進歩や発展を遂げていく。逆に言えば,変化のない街には流動性もなく,“シャッター商店街”となり,寂れていく運命にある。その点から見れば,新宿を始めとした各地のゲームセンターが閉店していくことは,また何か別の新しいものが生まれたという証左かもしれない。
新宿歌舞伎町は戦後復興の時代から,何度も変貌を遂げてきた。
林田氏をはじめとする多くのスタッフの貢献で,“聖地”として多くのゲーマーを集めた格闘ゲームブームが起こった。それが過ぎ去った2001年,歌舞伎町では多数の死者を出した明星ビルの火災が発生し,しばらくは人通りも少なく閑散としていたという。さらに東京都や警視庁による徹底的な巡回パトロールや消防設備の立ち入り検査により,違法風俗店などが一掃された。
そんな中で営業を続けていた新宿カーニバルプラザも,その歴史に幕を下ろし,白馬車ビルのテナントは1階にあるコンビニエンスストアのみである。
しかし,また違った形でこの場所が再び賑わうときが来るだろう。
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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