連載
バンダイ・山科 誠伝 前編 キャラクター商品という“魔物”への賭け 「ビデオゲームの語り部たち」:第22部
商業的に成功した最初のゲームと言われる「PONG」の誕生から約50年が過ぎようとしている。市場は巨大になり,毎年多くの新規参入や倒産,買収,合併が繰り返されて,企業の顔ぶれは変わり続けてきた。
4Gamer読者ならご存じのように,バンダイナムコエンターテインメントも,バンダイとナムコの経営統合によって生まれた企業であり,母体となる両社はかつて,ゲーム市場でしのぎを削っていた。
ナムコはこの連載でも何度か取り上げているが,筆者はぜひバンダイも取材したいと考えていた。バンダイは1980年ごろから事業の多角化を進め,映像事業やゲーム事業に進出した。それが総合エンターテイメント企業としてのバンダイナムコグループにつながっていると感じる。
幸運にもその時代に代表取締役社長を務めていた山科 誠氏に話を聞けることになった。ゲームからは少々離れる部分もあるが,この連載「ビデオゲームの語り部たち」で3回にわたって氏の歩みを振り返ってみたい。
バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部
メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏が,ビデオゲームの歴史で記録・記憶しておくべき人々や場所などを振り返る連載「ビデオゲームの語り部たち」。元バンダイ社長の山科 誠氏の中編は,さまざまな名作を生み,バンダイが総合エンターテイメント企業へと成長するきっかけとなった映像事業を振り返ります。
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- ライター:黒川文雄
- ビデオゲームの語り部たち
- カメラマン:佐々木秀二
開放感ある東京で,裸一貫からの起業
1947年12月21日の朝6時頃,寝台特別急行「北陸」の前身である「金沢発上野行602号列車」が上野駅に滑り込んできた。そこから降り立ったのは,金沢の繊維会社「萬代産業」で働く山科直治(なおはる)氏。12月の東京は冷え込んでいたが,故郷の金沢とは違って湿度が低く,冬場特有の凛とした空気感が心地よく感じられたという。その傍らには直治氏の長男で,当時2歳の山科(誠)氏もいた。
山科氏にはこの時の記憶がないそうだが,直治氏が生前「東京は空が青くて,明るく開放感があるんだ」とたびたび話していたことを覚えているという。
「金沢はいいところだとよく言われますが,住んでいる側からすると,ジメジメして薄暗くて,気が重くなる印象があります。特に冬は寒いし,晴天の日が少ないですから。
オヤジは家業の米屋を継ぎたくなくて,とにかく金沢から出て独立したい,独立して仕事をするんだったら東京だ,と決めたらしいです。
今でいうところのベンチャー企業ですよ。裸一貫からの起業で,おもちゃ業界のこともほとんど知らなかったらしいです」
これだけ聞くと,直治氏が地元との縁を切るために上京したようにも受け取れるが,そうではない。萬代屋は,直治氏の義兄にあたる久々津一夫氏が経営する繊維卸会社「萬代産業」の玩具部門を譲り受ける形で設立されており,社員には金沢近辺の出身者が多く,雰囲気も家庭的だったようだ。
「会社は台東区小島町のあたりにあって,社員さんも一緒に生活していたんです。みんな若くて,北陸三県出身で,とくに金沢の周辺から出てきた人が多かったですね。集団就職みたいなものだったから,みんな中卒・高卒です」
山科氏によると,直治氏は「24時間仕事人間」で,家にいるときでも常に仕事のことを考えていたという。それに加えて社員との距離か近かったせいもあってか,山科氏は子供の頃から社内の状況をなんとなく分かっていたそうだ。
「玩具業界は戦前から大きい問屋やメーカーがありました。バンダイに業界の“草分け”“老舗”といったイメージを持たれている人もいるでしょうけど,そうじゃないんです。本当の老舗と言えるのはトミー(現在のタカラトミー)や増田屋斎藤貿易(現在の増田屋コーポレーション),野村トーイ(1992年にハズブロージャパンとなり,1998年に解散)などでしょう」
トミーは富山栄市郎氏が1924年に設立した富山玩具製作所がルーツで,飛行機などの金属(ブリキ)玩具のヒットで成長した。萬代屋が誕生した頃には,葛飾区に本拠を構える一大メーカーといった存在になっていたようだ。
「おそらく父は“トミーさんに追いつけ追い越せ”でやっていたと思います。でも,どれだけアイデアや企画が良くても,物作りはそう簡単には進みません」
そんな状況で萬代屋が力を入れたのは,営業だった。
「製造技術は何もないから,結局,仲卸の問屋から始めたわけです。
当時はテレビ放送,テレビCMも始まっていない時代ですから,製品を知ってもらうのも大変です。蔵前のおもちゃ問屋に行って商品を仕入れて,それを北海道から九州まで,地方の問屋さんやおもちゃ屋さんへ持って行って『こんな新製品が出ましたけど,どうですか?』と売り込むんです。
注文を取って帰ってきたらメーカーに伝えて,まとめて地方に卸す。そういう販売代理店みたいなことから始めたんですよ」
何も持たなかったが故に,営業力や販売力が磨かれたということだろう。筆者はバンダイという会社に「営業に強い組織」という印象を持っているが,その源流はこういうところにあるような気がする。
当時は墨田区,足立区などに金属加工の下請け工場が多く点在しており,そういったところにおもちゃ製造の多くを委託していたという。なかでも墨田区のとある工場とは良好な関係にあり,直治氏の妹がその家に嫁いだこともあって,やがてグループ会社のバンダイ工業になったそうだ。
「萬代不易」の物作りとバンダイの危機
直治氏は,社名にもつながる「萬代不易」という言葉を好んで引用したという。萬代不易とは,いつまでも変わらないこと,永久不変といった意味だが,そこには「いつの世も人々の心を満たす商品を作り,やむことのない企業の発展を願う」という思いが込められているそうだ。
その思いを具現化するかのように,萬代屋は創業から順調に売り上げ規模を拡大し,1961年には社名をバンダイに変更。社屋の場所も小島町から菊屋橋,そして現在の駒形と移転し,会社の規模はそのたびに大きくなっていた。
成長のきっかけになったのは,バンダイの“お家芸”となるキャラクター商品だ。
創業以来,試行錯誤しながらの商品開発が多かったバンダイだが,1966年に日本での放送が始まった人形劇のテレビ番組「サンダーバード」の玩具が大ヒットしたのである。
「『サンダーバード』は東北新社がイギリスからライセンスを買ってきた作品です。人形劇ですし,まして輸入ものですから,あれだけ人気になると思う人は少なかったでしょうね。さらに言えば,玩具を作ったら売れるなんて思う人は,ほとんどいなかったでしょう。マーチャンダイジングなんて誰もやっていない時代ですから,東北新社も売れるかどうか分からない。だから,商品化の権利をくださいと言ったら,安い値段でくれたわけです」
「サンダーバード」のおかげでバンダイは急成長したが,直治氏は常に危機感を持ち続けていた。
「オヤジは世襲や同族経営,縁故といったものを嫌っていたんですが,それは『会社が倒れたときに一族郎党みんなダメになるからだ』とよく言っていました。
それに加えて,経営能力に秀でた人物が会社を経営するべきであって,経営者の子や親戚縁者が後を継ぐのはおかしいという考えも持っていたようです。
私としては同族経営の良さも感じていましたので,そこまで頑なでなくても……と思っていましたが」
山科氏の話によると,戦後間もない時期に会社を立ち上げた経営者には,直治氏のような考えを持つ人物が多いという。
「戦争が終わって教育が変わり,民主主義,男女平等などと共に職業選択の自由という考え方が広がりました。むしろ今より強く意識されていたような気もします。
逆に今は会社の経営者だけでなく,政治家や芸能人といった,組織を引き継ぐ必要がない仕事でも,二世が増えていますよね」
実際,山科氏は慶應大学を卒業した後,バンダイではなく小学館に入社している。
「自分の好きなことをしたい,というのが志望動機ですね。映画のシナリオや小説の執筆,書籍編集などの仕事をしたいと思っていたんです」
記事の冒頭で少し触れたように,山科氏はバンダイの社長時代に事業を出版や映像にも拡大させている。「好きだから」だけで事業を拡大したわけでもないだろうが,“下地”となったことは想像に難くない。
しかし,山科氏は小学館の採用面接で,その志望動機を正直に話さなかった。
「『入社したら何をやってみたいですか』と質問されたので,『売ることが大事だから営業をやってみたい』と答えたんです。編集をやりたいと話しても受からないと思ったので」
出版社の採用試験では,営業職の希望者が編集職に比べて大幅に少なくなる傾向がある。大手出版社である小学館の狭き門をくぐり抜けるために,山科氏が考えた作戦だったわけだ。
とはいえ,これはこれで“営業のバンダイ”を見て育った山科氏らしい志望動機だとも感じられる。
この作戦が功を奏したか,山科氏は小学館に入社。半年ほどの研修の後,“希望通り”に営業部へ配属となった。
「面接でああ言ったけど,編集部への配属を期待するところもあったので,失敗したと思いましたね……」
こうして,営業で書店を回る山科氏の仕事が始まった。毎月関東近辺や新潟,山形への出張があったという。
山科氏が主に売り込んでいたのは,ブームとなっていた百科事典や世界美術全集といったものだ。当時は,これらを応接間などの書棚にずらっと並べることが,一種のステータスのようになっていた。
「1店舗で百科事典が100セット売れることもありました。あとは『小学一年生』などの学習雑誌シリーズもよく売れましたね。いい時代だったと思います」
こういった地道な書店回りで,山科氏はビジネスの知識や経験を身につけていった。出張を重ねるうちに,物流についても理解が深まったという。
「よく『関東甲信越』といいますけど,営業で回る前は,なぜ甲信越がひとまとまりに扱われるのか,よく分かっていませんでした。山梨から長野,新潟というのは商流,つまり物流のルートなんですね。もちろん,単に移動するだけならほかにもさまざまな道がありますが,大量の物資を効率よく運ぶには,あのルートがいいんです。昔からの街道でもありますし」
確かに,甲州街道(国道20号)は東京から山梨県を経て長野県の塩尻市まで通じているし,そこから北上すれば新潟県にも入りやすい。現在は関越トンネルのおかげで東京から群馬,新潟というルートもルートも開かれているが,その開通以前は三国峠越えがトラックにとっての難関になっていたと聞く。
小学館の営業マンとして着実に成長していた山科氏だったが,1969年にバンダイへ入社することとなる。世襲を嫌っていた直治氏が山科氏の入社を許したのはなぜだったのだろうか。
「私がバンダイに入社したのは,オヤジが病気になったうえに,会社が潰れるかもしれない危機が迫った時期でした。“特例”として,オヤジに呼ばれたわけです。そんな状況にならなければ入社していなかったと思います」
直治氏としては,親子共倒れの危険は承知のうえで,息子の力を借りたかったということだろうか。
バンダイが倒産の危機に陥ったのは,「サンダーバード」の大ヒットの後,同じように立ち上がった「キャプテン・スカーレット」の関連商品が全く売れなかったからだった。「キャプテン・スカーレット」は,「サンダーバード」と同じスタッフが製作したSF特撮人形劇だ。
「『サンダーバード』が売れたから,恐る恐るじゃなく思い切って投資して,金型から何から先に揃えたようです。2匹目のドジョウを狙ったわけですが,全然売れなかった。大失敗でした(笑)」
さらに,この頃バンダイが導入した無返品取引制度が問屋からの反発を食らい,売り上げが大きく減少した。
「当時のバンダイは,ちょっと調子に乗ってしまっていたんですね。オモチャは書籍と違って,基本は買取りなんです。いったん買い取ってもらうので,お金は動くんですけど,売れなかったら問屋にしても小売屋にしても返品してくるわけです。
メーカーからすれば,どのぐらい返ってくるか分かりませんから,オヤジはそのやり方を嫌っていました。それで無返品取引制度を打ち出したんですが,反発がすごかった。『キャプテン・スカーレット』の不調だけなら,なんとかなったんでしょうけど,ほかの商品まで売れなくなってしまったんです。言ってみればバンダイボイコットですよ。これじゃ潰れちゃうっていうんで,オヤジは無返品取引制度を撤回しました」
山科氏が入社したのは,いわば嵐の真っ只中だったわけだが,最終的にバンダイはこの危機をなんとか乗り切った。
「まぁ,長男を自分の会社に入れるくらいだから,バンダイの経営は思うほど悪くないのだろう……という風に受け止められた部分もあったんじゃないでしょうか。
ただ,私の周りにいた先輩社員たちはやりにくかったでしょうね。どう扱っていいか分からない,みたいな感じだったと思います」
英語が堪能だった山科氏が配属されたのは,輸出部だった。
「当時のバンダイには,国内営業を担当する内地部と,国外を担当する輸出部がありました。国外といってもほぼアメリカですが。自動車や飛行機など,国内で製造した安い金属製のおもちゃ,『ダラーもの』と呼んでいたんですけど,それを海外に販売していました」
当時は国内市場が小さかったこともあって,内地部に比べると輸出部が扱う発注量は段違いに多く,その仕事はなかなか苦労が多かったようだ。
「最初の海外出張はロサンゼルスで,輸出部長に同行しました。着いてからホテルで一休みできるかと思っていたら,すぐにマテル社へOEMビジネスの売り込みで連れていかれたことを覚えています。
ゼロから海外の市場を開拓していくのは大変でした。今はアニメやキャラクターがありますけど,当時の日本のアニメなんて海外ではまったく通用しなかったですからね。
バンダイの輸出は,アメリカはトーメン,ヨーロッパは朝日通商と商社経由で行っていました。シアーズ・ローバック(※)にも営業に行きましたよ。日本から来たって言うと,何時間も待たされましてね。ようやく順番になっても『ハイ,この商品はいくら』で,わずか5分で終わっちゃうんですよ(笑)。それでも,シアーズのカタログページに載れば大金星という感じでした」
※100年以上の歴史を誇るアメリカの小売大手(百貨店)。運営するシアーズ・ホールティングスは2018年に米連邦破産法11条の適用を申請し,2021年5月の時点では,一部店舗が別会社の下で営業を継続している
アメリカの玩具メーカー,トンカとの合同会社も山科氏が手がけた仕事の1つだ。1971年8月にトンカとバンダイでジャパントンカを設立し,日本市場でトンカ製品を販売した。トンカはその製品の丈夫さで知られたメーカーだ。
このとき,山科氏は26歳の若さでジャパントンカの社長となっているが,これはトンカ側からの指名だったそうだ。大変な仕事ではあったが,輸出部時代には貴重な出会いもあった。
「バンダイは1977年4月に,バービー人形やホットウィール(ミニカーブランド)を主力商品としていたマテルと業務提携をしました。当時のトム・カレンスキー社長とは親しくさせてもらいました。トムさんは後にセガの中山隼雄さんにスカウトされて,セガ・オブ・アメリカのCEOになりましたね」
社長として推し進めた“脱おもちゃ屋”,そしてガンダムとの出会い
山科氏は1980年,35歳でバンダイ代表取締役社長に就任した。
当時のバンダイは,玩具業界では7,8番手の規模で,後発メーカーの1社に過ぎなかった。だが山科氏は「脱おもちゃ屋」を標榜し,事業の多角化を積極的に推進していく。
この「脱おもちゃ屋」には,単純におもちゃの企画や製造を止めるということではなく,もっと広い視点を持っておもちゃ産業全体を見直す,考え直す,建て直すという意味が込められていた。
その第一歩となったのが出版事業である。これには山科氏がかつて小学館に勤務していたことも影響しただろう。「模型情報」「B-CLUB」などの雑誌や,飛び出す絵本,スター・ウォーズ関連書籍など多岐にわたる出版物を刊行したが,業界の慣習の違いが大きく,社内の理解も得られなかったため,最終的にはメディアワークス(現在のKADOKAWA)に事業ごと引き取ってもらうことになったという。
出版に限らず,山科氏の社長在任中は常に「保守勢力との闘い」だったという。「バンダイはおもちゃから撤退するのか? いままで育ててくれた問屋や小売を見捨てるのか?」といった誤解を受けたこともあった。
前述したように,真意はおもちゃ産業を別の視点から見て,そこに新しい商売をプラスすることにあったのだが,なかなか理解されなかったようだ。
こういった逆風にもかかわらず,事業の多角化を進めた理由には,過去の経験から得た教訓があったのではないかと思う。山科氏は「サンダーバード」のヒットや「キャプテン・スカーレット」の不調に翻弄され,アメリカ企業との仕事ではキャラクター商品の売り込みに苦戦した。それだけに,自前のコンテンツを持ち,それを多種多様なジャンルで展開することの重要性に気づいていたのではないか。
そして,あるアニメ作品が山科氏の掲げる方針を後押しし,バンダイの運命を大きく変えることになる。それが「機動戦士ガンダム」だ。
ガンダムを語るうえで忘れてはならないのが,クローバーの存在である。人々の記憶からも消えつつある玩具メーカーだが,同社はガンダムが初めて放送された時のメインスポンサーで,トミーと同じ葛飾区に本社があった。主に男児向け玩具で人気を博したが,1983年に倒産している。
アニメのメインスポンサーだったクローバーは,当然ながらガンダムの玩具商品化権を保持していた。バンダイはクローバーからガンダムのプラモデル商品化権を取得したのだ。
山科氏自身はガンダムのことをよく知らなかったが,消費者からの強い要望があり,権利取得に動いたそうだ。そういった消費者の中で多かったのは大学生だったという。
そういった,ひとつひとつは小さな声からスタートしていることもあって,リスクが少ない形でやることにしました」
ガンプラは静岡県の工場で生産されていたが,この工場に数奇な巡り合わせがある。ここはもともと模型会社の今井科学が持っていた工場だった。同社が1969年に倒産した際にバンダイが買い取ったのだが,今井科学の倒産は,バンダイと同様に「サンダーバード」のプラモデルをヒットさせた後,「キャプテン・スカーレット」の不良在庫を抱えた結果だったのだ(バンダイは玩具,今井科学はプラモデルの商品化権を有していた)。
当然ながら買収当時のバンダイも苦しい状況にあったが,山科氏の話によれば,バンダイ倒産の風評を払拭するために,あえて工場や人員,製品金型を取得したのだという。
これがグループ会社であるバンダイ模型の基盤となり,やがてガンプラへとつながっていった。クローバーがバンダイにプラモデル商品化権を渡さなかったら,あるいは今井科学が倒産をまぬがれていたら,今日のガンプラはなかったかもしれない。
バンダイが工場を取得したとき,そこがバンダイ飛躍の一大拠点となることを予測した者はいなかっただろう。それどころか,いざガンプラの製造を手がける時になっても,山科氏にはヒットの予感がなかったようだ。
「うーん,全然なかったですね。アニメの本放送は夕方の5時半からだったと思いますが,ほとんど知られていなくて。私としては,視聴率が取れなかった理由の1つに,テーマ性が難しすぎたことがあったと思います。幼稚園児や小学生では分からないでしょう。版権元の日本サンライズ(現サンライズ)との交渉で話を聞いたとき,大人の私が『これは大学生にしか分からない』と思ったくらいでしたから(笑)。
でも,設定はよくできているとも思いました。単に戦いを描くのではなくて,しっかりと考えられたSFでした。ニュータイプとか,モビルスーツができた背景とか,有視界で戦わなきゃいけない理由とかね」
いくつもの偶然が積み重なった末に生まれた小さな一歩だったが,爆発的なヒットには偶然が絡むのが世の常だ。ガンプラの人気はプラモデルというジャンルを超え,やがて社会現象と呼べるものになっていく。
山科氏が衝撃を受けたのは,1982年1月24日に当時のダイエー新松戸店で起こった事故だ。お年玉を握りしめた小中学生がガンプラ欲しさにつめかけて,エスカレーターで将棋倒しになったのである。
「翌朝の新聞記事を見て,驚きました。これは大変なことになったぞと……」
工場をフル回転させても需要には追いつかず,品薄がさらにガンプラ人気を高める中での事故だった。自社製品が絡む事故というだけでもかなりのショックだろうが,それほど期待していなかった商品がなぜか爆発的に売れ,果ては事故まで起こしてしまった状況は,そのショックをさらに大きくしていたと思われる。
危険を承知でキャラクター玩具に集中
ガンプラによってバンダイの業績は急上昇していったが,そんな中でも山科氏はブームがいつ終わるかという不安を常に抱えていた。
「論理性,確実性がないじゃないですか。僕が社長になる頃,いわゆるキャラクター玩具が業界で本格的に台頭してきましたが,非常に当たりはずれが大きくて,何社も倒産しました。『サンダーバード』と『キャプテン・スカーレット』みたいなことの繰り返しです」
山科氏の言葉からも分かるように,バンダイにとってのキャラクター商品は,会社を大きく成長させる可能性とともに,一歩間違えば倒産につながる危険性も秘めたものだった。その扱いには,直治氏が社長を務めていた時代から苦労していたようだ。
「社内には純玩具(ノンキャラクターの玩具)を作る部署と,キャラクター商品を作る部署があったんです。ただ,この体制だと市場でバンダイ製品が競合してしまうこともあります。
それで,あるときオヤジが,バンダイの一部を切り離してキャラクター商品専門の会社を作りました。それがポピーです」
そして,これがバンダイの経営方針の転換点になったという。
「あれが決定的でしたね。それまでは純玩具とキャラクター玩具が五分五分といった感じでしたが,あの変身ベルトで社内みんなが『これからはキャラクターの時代だ』となりました。実際に大きな利益も上がっていて,それがポピーのボーナスなどにも反映されていましたから。
それで私が社長になってから,キャラクター玩具だけでいこうと決断して,1983年にポピーやバンダイ模型を含むグループ会社7社と合併しました。
バンダイが最初からキャラクター玩具を手がけていたように思っていらっしゃる方が多いようですが,そうではないんです」
しかし,子会社のなかには,バンダイに吸収されるのを嫌がったところもあった。とくにポピーは大きく成功し,キャラクター玩具メーカーの先駆けとして認知され始めたときのことだけに,社員には複雑な思いがあったようだ。
「ポピーからすると,『いいとこ取りするのか』という気持ちになるのでしょうけど,バンダイの社員からすれば,売れそうなキャラクターものでもポピーに回していたわけですからね。
どちらにしても,当時は統合せざるを得ないというか,統合しないとバンダイはまとまらなかったと思います。経営統合したから,バンダイはより強く大きくなって,玩具会社として初の上場を果たしたんです」
ただ,その方針に納得できずにバンダイを離れる者もいた。
筆者は1990年代前半にセガ(当時はセガ・エンタープライゼス)で勤務していたが,当時のセガの国内販売部門を管掌していた人物も,ポピーからの転職だったと記憶している。
「ポピーの人たちは,オヤジとのバトルというか,論争があってポピーへ移ったんです。なので,やっぱりしこりが残っていたというか……オヤジはけっこう言いたいことをストレートに言いますからね。正直,役員間ではいろいろあったんじゃないでしょうか。
ただ,私としてはやはり,バンダイがあってのポピーや各子会社だったのではないかと思います。バンダイの存在がなかったら,東映や電通との協力関係も得られなかったと思います」
普通のビジネスにはない怖さがある
バンダイで数多くのキャラクター商品をヒットさせた山科氏だが,キャラクター作りの難しさはなかなか理解されないという。
「特に版権を持つアニメ制作会社やテレビ局は,キャラクターさえ作ればマーチャンダイジングができて,ロイヤリティが入ってくる……と単純に考えているような節があります」
キャラクターというものを考えるとき,山科氏はかつてバンダイでデザイナーとして活躍し,後に専務となった村上克司氏の言葉を思い出すという。
「彼は戦隊ものや合体ロボのデザインを担当していたんですが,キャラクターの哲学を持っていましたね。商品化できないアニメ作品が多すぎるって言うんですよ。『こういう乗り物を出せば売れるだろう』みたいな考えは大間違いだ,分かってない。とね。
いいものにしたければ,ちゃんとストーリーラインに組み込みなさいと。そこから必然的に生まれたものでないと感情移入できないよ,というのが彼の哲学で,僕も正しいと思います」
だが,アニメや特撮番組に合わせた商品開発を積極的に推し進め,それによって成長してきたのは他ならぬバンダイだ。その成功の裏で,山科氏は複雑な感情を抱えていた。
「大ヒットしたアイテムやコンテンツも,永遠に続くわけではないですよね。いつか終わる怖さは常にあるんです。
まして子供が相手ですから,売場に並べてみないと分からない。事前のリサーチとか,モニターといったものも,大して役に立たないんですよ。
明日破産してもおかしくないというか,普通のビジネスにはない,まるで毎日株の相場を張っているような感じの怖さです。オヤジはそれを私よりも強く感じていたと思います」
その危うさは,今のバンダイにも通じるという。
「もちろん今のバンダイナムコは,以前と比べものにならないほどの人気キャラクターを持っています。でも,私からすると商品の造り,中身より,キャラクターの力で売れているところがあるように見えるんです。とりあえず商品になっていればキャラクターの魅力で売れるんでしょうが,そのキャラクターがダメになったときにどうなるか」
その点で,直治氏の時代から目標にしていたトミー(タカラトミー)には追いついていないと感じているようだ。
「生産技術や品質といった点では,私が知っている限りタカラトミーさんにはかなわないと感じています。タカラトミーさんは,キャラクターによらない商品価値で売っている。そこが強さなんです。
バンダイがやっているキャラクタービジネスは,突如何倍にもなり得る一方で,ゼロになる可能性もあるんです。ガンダムの人気が40年以上も続いているのは,もう稀有中の稀有なことで,あまり参考にはできないと考えています」
確かに山科氏の言うとおり,バンダイとタカラトミーの商品ラインナップは,その性質が大きく異なる。タカラトミーには「プラレール」「トミカ」「リカちゃん」など,自社でコツコツと築き上げた定番のブランドがある。こういった商品は,今後爆発的な成長こそないかもしれないが,突如としてゼロになることも考えにくい。
もちろん山科氏は,バンダイがバンダイの道を行くしかないことは分かっている。キャラクター商品の路線は,山科氏自身が決めたものだ。だが,同時にもどかしさも感じているようだ。
「キャラクター商品は続けざるを得ない。東映さんをはじめとした外部の協力会社さんたちも,それらの売上がないと困りますから。だから毎年“続編”を作ることになるわけです。戦隊ものの何々,ガンダムの何々をやろうと。
ただ,キャラクターの本質を考えると,そこに不安を感じます。業績がいいと言ったって,同じことばっかりやっているじゃないかと。AをAダッシュにするだけで,BとかCにチャレンジしない。それで大丈夫なのか,Aがなくなったときにどうするのか……という思いは,やっぱりあるんですよね」
ガンダムの世界挑戦,そして未来
バンダイは,山科氏が社長を務めていた1994年に,ガンダムのテレビアニメシリーズの制作を手がけるサンライズを傘下に置いた。そして2019年にバンダイナムコホールディングスはガンダムの版権を管理する創通を株式公開買い付けにより完全子会社化。これにより,バンダイナムコグループはガンダムの権利を100%取得したことになる。
山科氏は1994年のサンライズ子会社化をこう振り返っている。
「サンライズから,『ガンダムという作品を大きく育てるためにも,ぜひバンダイと一緒にやっていきたい』という申し出がありました。バンダイ社内には反対意見もありましたが,ガンダムを自社の権利として行使できることに着目しての買収でした」
ガンダムシリーズはそこからもさらに成長を続け,数え切れないほどの関連作品が誕生している。2018年には,ハリウッドでの実写映画化も発表された。ただ山科氏は,欧米での展開について,少々気になるところがあるようだ。
「私が社長のときにも,実写版『機動戦士ガンダム』の企画をハリウッドにアプローチしたことがあったんですが,実現にまでは至りませんでした。ハリウッド俳優が出る実写でなければ映画ではない,という当時の風潮も影響しましたが,そのときにハリウッド関係者から,ガンダムの映画化には致命的な欠陥があるとも言われたんです」
それはロボットという存在の受け取り方,文化の違いに起因するものだという。
「欧米におけるロボットの一般的なイメージは,スレイブ,奴隷なんですね。向こうは古代ギリシャ・ローマの時代から,食べて,寝て遊んで暮らすのがひとつの理想であって,汗水たらして働くなんてことは美徳でもなんでもない,それを人間の代わりにするのがロボットだというんです。だからロボットの語源は労働(※)ですし,そもそも人間と同等に扱うものではないようなんです。
だから,人間の形をしたロボットは受け入れられない。逆に言うと,純粋に機械的な形のものだったら,どんな仕事をさせても,壊しちゃってもいいわけです。でも人型はまずいと」
※語源はチェコ語の「robota(強制労働)」
指摘された問題点はこれだけではないという。
「人型のロボットに人間が乗るというコンセプトも刺さらない,入ってこないというんです。彼らからすると,飛行機のような普通の乗り物にできないのか,となるんじゃないでしょうか。実際,欧米より中国や東南アジアでガンダムが売れているのは,人間がロボットに乗るという部分に違和感がなく,スッと入れたからだと思うんです」
とはいえ,2013年公開の映画「パシフィック・リム」には,人間が乗り込む巨大人型兵器「イェーガー」が登場しているし,2018年の「レディ・プレイヤー1」には,ガンダムそのものが登場した。
山科氏が話したように,これまで欧米でのガンダム人気が今ひとつだった理由には文化の違いもあったのだろうが,人型ロボットは少しずつ受け入れられるようになり,今回のハリウッド映画化へつながったようにも見える。
「僕がこの話を聞いたのはだいぶ前ですし,昔ほど拒否反応は強くないかもしれません。ただ,根源的なところにそうした意識があるんじゃないかと。だからハリウッドはガンダムという作品やモビルスーツのコンセプトが完全には分かっていないと思うんですよね。
ハリウッドが初めて『GODZILLA』を作ったとき,わけのわからない姿になっちゃったじゃないですか。あれと同じ道をたどってほしくないと思っています」
※1998年公開のローランド・エメリッヒ監督による映画。ゴジラの描き方が従来から大きく変わり,一部のファンの不評を買った
「ガンダムのハリウッドでの映画化は簡単ではないと思うし,ハリウッド映画のプロフェッナルたちと互角に立ち回るものなかなか大変だと思います。初代ガンダムが作られたのは日本アニメの黎明期だったかもしれませんが,そこが魅力になっているとも思うんです。実写になって映像が進化すれば,もっと迫力が出ていい作品になると思いがちですが,そう簡単ではないでしょう」
とはいえ,困難な挑戦だからこそ,成功したときに得られるものも大きい。山科氏もリスクを取って成功を収めてきただけに,そのその成功を祈念している。
「初代ガンダムは偶然の産物のようなところがありましたけど,それを超える次世代のヒーロー,日本と欧米の両方で受けるものを作れたとしたら,それは素晴らしいことです」
自身が手がけたガンダムという大ヒットコンテンツを山科氏が「偶然の産物」と評し,その未来を危惧するのは意外に思えるが,これはキャラクター商品という,予測がつかないものと向き合ってきた氏の偽らざる思いだろう。いつか自分を食らうかもしれない“魔物”を飼い続けてきたことの重みが,その言葉にはあった。
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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