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バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部
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印刷2021/07/17 00:00

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バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部

画像集#009のサムネイル/バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部

 コロナ禍において,NetflixやHulu,Amazon Prime Videoといった動画視聴サービスは,外出を制限された人々にとっての重要な娯楽となった。見逃していた映画をまとめて観た人も多いだろう。

 かつては映画館に行かないと見られなかったものが,ビデオカセットで販売・レンタルされるようになり,そのメディアがDVD,Blu-rayと移って,現在はストリーミングサービスが急速に成長している。映像サービスはその形態を変えながらも,常に人々を楽しませてきた。

 山科 誠氏がバンダイ時代に指揮を執った事業として,「機動戦士ガンダム」に代表されるキャラクター玩具やプラモデル,そして「光速船」「ピピンアットマーク」といったゲーム機が挙がるはずだが,忘れてはならないものの一つが映像事業だった。

「ダロス」
(C)1990バンダイビジュアル
画像集#001のサムネイル/バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部
 これがきっかけとなって,バンダイの映像パッケージソフトを扱うエィ・イー企画が1983年8月に設立。同年12月に業界初のオリジナルビデオアニメーション(OVA)である「ダロス」が発売された。
 同社は1991年にバンダイビジュアルへと商号を変更し,翌年にバンダイのメディア事業部の営業を譲り受けた。その後は大友克洋氏,押井 守氏,北野 武氏らの監督作品をリリースするなどして映像レーベルとしての認知度を高め,現在はバンダイナムコアーツとして,音楽・映像・ライブ等,幅広いエンターテイメント事業を手がけている。

 バンダイが映像事業に乗り出した頃,筆者は映画配給会社のギャガ・コミュニケーションズ(現在のギャガ)に在職しており,「おもちゃのバンダイが映像事業を?」と,懐疑的な目で見ていた。バンダイのパブリックイメージと映像事業のギャップが大きすぎて,勝算のあるビジネスとは感じられなかったのだ。

 だが,山科氏はバンダイが進めるキャラクターコンテンツの展開に映像が必要なことをしっかり見抜いていたのだろう。
 本稿では,“門外漢”だったバンダイが映像事業を始めた経緯や,その成長過程を山科氏に振り返ってもらった。

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 メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏による連載「ビデオゲームの語り部たち」。今回は,バンダイの元代表取締役社長である山科 誠氏に,同社を飛躍させたキャラクター商品への思いを語ってもらいました。

[2021/07/16 00:00]


裁判沙汰から一転してディズニーとの契約に


 バンダイが映像事業に乗り出すきっかけとなったのは,家庭用ビデオテープレコーダーだった。

山科 誠氏
画像集#014のサムネイル/バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部
 「1970年代の後半から,日本の家電メーカーから家庭用ビデオテープレコーダーが続々と発売されました。ところが高くて全然売れなかったんですよ。
 松下電器(現在のパナソニック),ビクター,東芝といったVHS陣営と,ソニーを筆頭としたベータマックス陣営は,ともにテレビ番組の録画を想定してビデオテープレコーダーを売り出し,規格争いを始めたわけですが,一般のユーザーはその必要性をあまり感じていなかったようです。
 ところが,アメリカからだったと思うんですが,映画や映像のビデオソフトが出現した頃から,急に売れ始めました」

 山科氏が話したように,1980年代に入るころから,アメリカではライブビデオやミュージックビデオのパッケージが人気となり,ビデオテープレコーダーの需要が高まっていった。音楽専門のケーブルテレビチャンネル,MTVが時代を席巻したのもその頃だ。

 「バンダイで映像事業をやってみようと思ったのは,ちょうどその頃のことです。簡単に言えば,バンダイ独自でキャラクタービジネスを強化しようという狙いです。
 同じ目的で,漫画雑誌をやってみようと思いました。『週刊少年ジャンプ』の人気が急上昇していた頃ですね。
 ただ,キャラクタービジネスを手がけるうえで重要なのは,やっぱり映画とテレビなので,映画かテレビ業界に入っていくしかないんです」

 だが,当時広く名を知られるようになっていたバンダイであっても,新規参入は難しかったようだ。

 「業界の既存会社からすれば,当時のバンダイは新参者です。それは実写でもアニメーションであっても。
 大手の映画会社やテレビ局からすれば,ライセンシー(許諾を受ける側)はウェルカムだけど,ライセンサー(許諾する側)としてバンダイが参入してくるのはとんでもないということだったのでしょう。
 製作を邪魔されるようなことはありませんでしたが,協力もしてもらえない感じです。『作りたいならご自由にどうぞ,当たりそうなものを持ってきていただければ,配給・放送します』と」

 こういった映画会社やテレビ局の態度は,ある意味当然ではある。だが,流す場所が決まっていない作品を製作するのは,あまりにリスキーだ。
 ネットが普及した現在なら,こういったハードルは個人,法人に関わらず低くなっている。スマホで撮影した映像をYouTubeにアップして広告収入を稼ぐことも,“映像事業”になり得る。
 しかし1980年代当時は既得権益がモノを言う時代であり,特に映画は歴史がある企業が隆盛を誇っていた時代だった。東宝,松竹,東映の“御三家”がその典型だ。

 「壁はすごく高かったんですが,バンダイはそれをブチ破ってやる……という気持ちがありましたね。まぁ,私も含めてみんなあの頃は若かったな(笑)」

 そうしてバンダイは,自社で映像作品の製作を始めた。それがバンダイビジュアルへとつながっていったのは前述の通りだが,並行してビデオレンタル事業を展開していた事実を知る人は少ないだろう。

 「その頃はまだビデオレンタルサービスというものが一般的ではなくて,ビデオはセル(販売)だけだったんです。バンダイも,最初はアメリカから輸入したビデオをそのまま販売していたんですが,『お客さんに貸し出したらどうかな?』と思って……。ちょうどアメリカでもビデオレンタルサービスが始まったと聞いて,六本木のロアビルにビデオレンタルショップをオープンしました」

 ロアビル(正式名称は六本木共同ビル)は,1973年竣工。現在は老朽化による解体計画が進んでいるようだが,かつては著名なディスコやクラブなどが入る,六本木のランドマーク的存在だった。
 後に一大市場となるビデオレンタルに目を付けた山科氏の“嗅覚”はさすがだが,これに海の向こうから“待った”がかかった。

 「アメリカ映画協会(Motion Picture Association of America)から警告状が届いたので,まずは『ちゃんと自分たちがお金を払って,正規に輸入したものを日本でどうしようと勝手じゃないか!』と屁理屈で抗弁したんです(笑)」

 アメリカ映画協会はハリウッド映画の業界団体で,コンテンツ倫理規定などを設けたり,著作権問題に取り組んだりといった活動を行っている。

 「裁判まではいきませんでしたが,相談した弁護士さんからも『山科さんの言い分は分かるけど,ちょっとそれは通らないよ』って言われて。それじゃ仕方ないと,直接ロサンゼルスまで行って,映画会社各社とレンタルについての交渉を行いました。
 一番強硬な対応だったのがディズニーだったので,こちらも力を入れて反論したんです。そうしたら『お前が言うことも一理あるから,ディズニーが新しく立ち上げるタッチストーン・レーベルのセルとレンタルを日本でやってみるか?』と提案されました」

 タッチストーンは1984年に設立されたディズニーの映画部門(レーベル)で,それまでディズニーの主力だったキッズ路線とは異なる作品を製作した。代表作には,トム・クルーズの人気を決定づけた「ハスラー2」や「カクテル」,リチャード・ギアとジュリア・ロバーツが共演した「プリティ・ウーマン」,ウーピー・ゴールドバ−グ主演の「天使にラブ・ソングを…」,ブルース・ウィリス主演でエアロスミスの主題歌も大ヒットした「アルマゲドン」などがある。

 新規のレーベルとはいえ,ディズニー作品の日本展開を引き受けられるわけだから,バンダイからすれば悪い話ではない。あわや裁判沙汰の状況からここまで持ってこられたのは御の字だが,山科氏はさらに踏み込んでタッチストーン作品への出資まで主張し,最終的にはタッチストーン以外のディズニーのアニメ作品まで含めた代理店契約にこぎ着けたという。「災い転じて福となす」を地で行った山科氏だったが,その後はバンダイ社内の調整に苦労したようだ。

 「役員会にかけたら反対が続出でね。結局,やるなら別会社で……となって,それで1987年にエィ・イー企画とディズニーで映像ソフト販売契約を締結したんです」

 反対意見を押し切れるのが,山科氏の強みだったのかもしれない。もちろん創業者である直治氏の息子という立場があったからこそできたのかもしれないが,そもそも山科氏は映像事業を手がけるにあたって,社内の人事と組織を新しく作り直すことの必要性を強く感じていたという。

 「映像事業部は,新規で人を集めた“別働隊”でした。こう言っては申し訳ないのですが,当時のバンダイ社員は玩具販売しか知らないわけですから,新規事業には向かなかったんです。
 新規の販売ルート構築のために,レコード店や書店などを開拓していかなきゃいけないので,その業界を知っている人でないと何も進まない。なので外部から社員を集めたんです」


念願のオリジナル作品制作へ


 ディズニーとの契約は2年間だったが,その2年が終わったところで終了となった。ディズニーから提示されたミニマム・ロイヤリティはクリアしており,山科氏も当然更新できると思っていたようだが,この契約解消は日本市場に可能性を見出したディズニーが,自ら日本展開を手がけるためだったようだ。

 これからという矢先の出来事で,山科氏には複雑な思いもあったようだが,ディズニーのソフト販売で構築した販路と人材を有効活用し,当初からの目論見だったオリジナル映像作品,オリジナルキャラクターの創成に向けて本格的に動き出す。

 「ディズニーとの代理店契約は非常にインパクトがあったようで,映像業界の態度が軟化したように感じました。ディズニーと商売するところならしょうがない,といったところでしょう(笑)」

 しかし,この段階でも劇場公開映画への参入はハードルが高く,「ビデオストレート」「劇場未公開作品」などと銘打ったビデオのリリースがメインになった。

 「それらが比較的よく売れましてね。タイミングというか,時代も良かったんでしょう。そうしたら,その実績を見た映画会社さんからお誘いがあって(笑),映画製作にも参加できるようになったんです。そのときに出資の条件として,ビデオの販売権利をお願いしました。その頃の映画会社はビデオ販売にはあまり強くなかったですから『たくさん売ってくれるんだったら構わないよ』という感じでした」

「AKIRA」
(C)1988マッシュルーム / アキラ製作委員会
画像集#004のサムネイル/バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部
 バンダイの映像事業は,自社でのキャラクター作りを目指して立ち上がったものだが,他社が手がける映画への出資も積極的に行った。

 「1988年公開の『AKIRA』には,大きな金額を出資したんですよ。当時のアニメーションとしてはエポックメイキングな作品でした」

 この「AKIRA」に代表されるように,バンダイの映像事業(バンダイビジュアル)にアニメのイメージを持つ人は多いと思うが,出資のメインとなったのはカジュアルな実写映画だったという。

 「バンダイが出資したのは,テレビ番組のスピンオフ的な作品がメインで,中でもフジテレビさんと組むことが多かったんです。薬師丸ひろ子さん主演の『ナースコール』(※1)とか,吉田栄作さん主演の『国会へ行こう!』(※2)とか。
 フジテレビさんとは思惑が一致したんですよ。映画制作に参加すれば,あちらは最終的に地上波で放送できますし,こちらもビデオが販売できる」

※1 病院を舞台に看護婦たちの奮闘を描いた1993年公開の日本映画で,主演は薬師丸ひろ子。
※2 議員秘書となった政治素人の青年を主人公とした1993年公開のコメディ映画。主演は吉田栄作。

「王立宇宙軍 オネアミスの翼」
(C)BANDAI VISUAL / GAINAX
画像集#002のサムネイル/バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部

 バンダイにとって最初のオリジナル映画作品と呼べるのは「王立宇宙軍 オネアミスの翼」(1987年公開)になるだろう。山科氏は同作のエグゼクティブ・プロデューサーを務めている。

 「岡田斗司夫君らが3分くらいのパイロットフィルムをバンダイに持ち込んできたのがきっかけですね。なかなか良くできていたので,やってみようとなったのですが,岡田君から当時のアニメ映画の数倍にあたる制作費を求められたんです。びっくりしましたが,権利関係はバンダイで全部取得できるということで,GOサインを出しました」

 「オネアミスの翼 王立宇宙軍」には,庵野秀明氏,貞本義行氏,樋口真嗣氏ら錚々たるクリエイターが参加。劇場公開時こそ大ヒットとはならなかったが,その内容は高く評価されている。今なおファンは多く,映像配信サービスでも楽しめる名作だが,そこにはバンダイビジュアルの権利表記がある。

 そして,ここに名を連ねているのがガイナックスだ。
 「オネアミスの翼 王立宇宙軍」の製作スタジオとして設立されたガイナックスは,後に「新世紀エヴァンゲリオン」で社会現象とまで呼ばれたブームを巻き起こすことになる。バンダイの映像事業は,未来の名作の土台にもなったわけだ。


映画人たちとの交友


角川春樹氏
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 映像事業に乗り出した山科氏は,映画界との交流も深めていった。その1人が角川春樹氏だ。角川氏は出版社である角川書店の社長就任から間もなく角川映画を立ち上げ,当時珍しかったメディアミックス戦略でヒット作を量産した。

 「角川さんが製作した『天と地と』(1990年公開)は,総製作費50億円を謳っていましたが,バンダイもかなりの額を出資しました」

 山科氏と角川氏はともに父から会社を受け継いだ二代目社長であり,畑違いの映像製作に挑戦した点も共通している。お互いに刺激を受けあった関係だったようだ。

 「角川さんと知り合ったのはいわゆる文壇バーみたいなところだったと記憶しています。当時は角川映画の全盛期でしたし,いかにも映画プロデューサー,監督という雰囲気でカッコよかったですね」

 バンダイはジブリ作品にも参加する可能性があったという。

 「徳間書店のオーナーだった徳間康快さんが製作した『敦煌』(1988年公開)にも出資しました。同じく徳間さんが手がけた『風の谷のナウシカ』(1984年公開)にも参加したいと思っていたんです。最終的に実現はしませんでしたが」

 バンダイビジュアルのラインナップを語るうえで,北野 武監督作品を外すことはできない。なぜバンダイがリリースすることになったのか,その経緯を山科氏に語ってもらった。

奥山和由氏
画像集#012のサムネイル/バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部
 「松竹の奥山さん(奥山和由氏)と組んで映画を製作することになって,その1作めが『その男、凶暴につき』でした。当初は深作欣二監督の作品となるはずでしたが,降板することになったんです。代わりの監督を探さなければならなくなった奥山さんが『困ったなぁ……』と相談してきたので,僕が『主演は北野 武だろ? 彼は映画好きだと聞いているし,監督もできるだろうから,やらせてみたら?』と提案したんですよ。奥山さんも同意してくれて,北野さんに打診したら引き受けてくれたんです」

「その男、凶暴につき」
画像集#013のサムネイル/バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部
 主演俳優を急遽“代打”に起用したわけだが,山科氏には北野氏に監督としての才能を感じていたようだ。

 「北野さんは大島 渚監督の『戦場のメリークリスマス』に軍人役で出演していたでしょう。彼はああいう役……ヤクザくずれというか,はぐれものみたいな役がうまくて,監督としてもそういう世界を描けると思ったんです。
 『その男,凶暴につき』はヒットしましたし,内容もすごくよかったですね。その後もいろいろと映画を製作されましたが,個人的には『その男,凶暴につき』が,北野さんの才能が一番よく出た,秀作だと思っています」

 俳優からプロデューサーに転身し,その後長らく東映の社長を務め2020年11月に急逝した岡田裕介氏とも親しかったという。

画像集#015のサムネイル/バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部
 「東映の社長になる前に実績を作ろうとなって,映画をいくつか作ったんです。彼のオヤジさん(岡田 茂氏)は任侠やヤクザものをやってきた名プロデューサーでしたから」

 そのひとつが,戦後50年記念作品として1995年に公開された「きけ、わだつみの声 Last Friends」(1995年公開)だ。バンダイも製作に参加し,山科氏もスタッフクレジットに名を連ねている。
 この作品は,1950年に公開された「日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声」のリメイク作品だが,東映にとっては単なる「名作のリメイク」以上の意味を持つものだった。

 「1950年版は,茂さんが24歳のときに製作して大成功した出世作です。その作品を息子の裕介さんがもう一度作るのは,東映にとって一大事だったんです。
 裕介さん自身は,父親の作品だし,時代も変わったから難しいと思っていたようですが,私は戦後50年の集大成として製作してもいいタイミングじゃないかと提案しました。
 裕介さんが話したところ,茂さんは快諾されたそうで,すぐに準備に入りました。配給収入もよかったんですよ」


デジタルエンジン構想の船出と迷走


 山科氏の父でバンダイ創業者の山科直治氏は,1997年10月28日午前6時37分に逝去した。競走馬が好きだった直治氏は,晩年を北海道の牧場で過ごしていたという。

 「いつの世も人の心を満たす物を作り,絶えない企業の発展を願う」という社是を掲げて邁進した直治氏が生涯を終えた同日の午後,山科氏は赤坂プリンスホテル(現グランドプリンスホテル)で,バンダイの映像事業プロジェクト「デジタルエンジン構想」の発表を行っていた。

 デジタルエンジン構想は,バンダイグループが世界市場を睨んで立ち上げたもので,その目玉は最先端のデジタル技術の導入にあった。当時はアナログ的な手法が使われていたアニメーションや特撮といった分野にデジタル技術を融合させ,ハリウッドに対抗できる映像作品を目指すプロジェクトだったのだ。

 この2年前の1995年には,劇場用長編映画としては世界初のフルCGアニメ作品「トイ・ストーリー」がアメリカで公開されている。映像業界にとってデジタル化への対応は急務でもあった。
 そして,“ハリウッドに対抗できる映像作品”というところに,山科氏の日本アニメに対する思いが透けて見える。

 「日本のアニメの大多数はフルアニメーションでなく“コマ落とし”なんです。本来1秒間に24コマで作るところを,お金がかかるからと作画数を減らしていくので,紙芝居に近くなっていきます。そして日本の子供たちは最初からそういうアニメを見て慣れているから,おかしいと思わない。
 キャラクターの口の動かし方でも同じようなことが言えます。ハリウッドのアニメはリップシンクをきちんとやるから,耳が聞こえない人でも分かる。日本でもそうするべきなのに,コストがかかるからとやっていないんです」

 こういった日本ならではのアニメ制作手法は,さまざまな制約が課される中で生み出された技術であり,いい悪いと論じられる問題ではないと思う。ただ,山科氏がデジタルエンジン構想で目指したのは,ハリウッドのルールでハリウッドに勝つことだった。

 そしてもう1つ,別の狙いもあったという。

 「日本のアニメや映像作品を世界レベルにアップグレードして,その担い手となるクリエイターを発掘,育成する目的もありました。
 当時は今ほどアニメ制作陣にスポットライトが当たっておらず,下請的な職人という位置づけでしたし,デジタル技術に造詣が深い映像クリエイターが少ない時代でしたから」

「スチームボーイ」
(C)2004大友克洋・マッシュルーム / STEAMBOY製作委員会
画像集#003のサムネイル/バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部
 発表会では,大友克洋監督の「スチームボーイ」と,押井 守監督の「G.R.M.」が紹介され,映画「タイタニック」の監督を務めたジェームズ・キャメロン氏にデジタルエンジン構想への賛同と協力を要請したことも明かされた。本人も意欲を見せていたそうだが,最終的には「尊敬する大友氏と押井氏にプロデューサーとして指示することはできない」と固辞したという。

 華々しくスタートしたプロジェクトは,制作が遅れに遅れて迷走状態となる。

 「スチームボーイ」は1999年の公開を目指していたが,製作がSTUDIO 4℃からサンライズへ移管されるなど,体制が二転三転。2002年末になって,いったん2003年秋公開と発表されるも,実際はさらに遅れて2004年7月に公開となった。このとき山科氏はすでに経営の第一線から離れていた。
 押井 守氏の「G.R.M.」も同様に製作が遅延し,企画はいったん凍結。山科氏肝いりのデジタルエンジン構想は,苦い結果に終わった。

 山科氏によれば,制作がスムーズに行かなかった原因の1つには,利益を追求する製作者側と,映像芸術を追求する制作者のスタンスの相違があったという。
 
 デジタルエンジン構想の不調がバンダイの経営に少なからぬ影響を与えたことは想像に難くない。山科氏が経営から退いた一因にもなったと思われる。

 もともと,バンダイの映像事業には社内外からの風当たりが強かった。
 本業である玩具から離れた事業へ多額の資金を投入していたことや,バンダイの企業イメージを憂う声があったようだ。

山科氏が立ち上げたエモーションは,今もバンダイナムコアーツのレーベルとして続いている
画像集#005のサムネイル/バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部
 「社内からは今まで通り玩具をやっていればいい,という声がありました。確かにバンダイという会社の本質はやはり玩具,子供のための会社ですから,悩むこともありました。
 玩具会社が大人向けの映画製作をやるというのはね……。特に『その男、凶暴につき』については,おかしいじゃないかと言われましたし,あれは子供が観る映画ではありませんからね」

 ただ,映像事業をはじめとする山科氏の“脱おもちゃ屋”路線が,総合エンターテイメント企業グループである現在のバンダイナムコにつながっていることは確かだろう。

 「今の社員たちは,エンタテインメント事業がやりやすくなっていると思いますよ。少なくとも私の時代よりハードルは低いはずです」


マイナーに甘んじるな


 山科氏は,日本の映像作品は残念ながらまだ“マイナー”だという。

 「アカデミー賞を受賞するなどしてメジャーだと言われているアジアの作品も,マイナーな市場の中でのメジャーですよ。本物のメジャーはやっぱりハリウッド作品でしょう。そこを目指して,ディズニー,ワーナー・ブラザース,20世紀フォックス,ピクサー,ドリームワークスといったところと張り合えるような作品を作らなければいけないんですが,まだ少ないですね」

 それは“クールジャパン”の代表格とも呼べるアニメも例外ではない。

 「なぜ日本のキャラクターが『COOL』と言われているかというと,異端だからです。変わっていて面白いと評価されている。主流として評価されているんじゃないんです。その意味で,「鬼滅の刃」には真のメジャーになってほしいと期待しています」

 山科氏は,“新参者”として冷遇されながらも映像業界で実績を積み,自身で立ち上げたバンダイビジュアルを日本有数の映像レーベルに育て,デジタルエンジン構想で世界に打って出た。つまり“マイナー”として,常にメジャーを相手に戦い続けてきたわけだ。そんな氏からすると,現在の日本のエンターテイメントは,“クールジャパン”という言葉に乗せられてマイナーに甘んじているように見えるのかもしれない。

※後編は2021年7月18日に掲載します

著者紹介:黒川文雄
画像集#010のサムネイル/バンダイ・山科 誠伝 中編 “世界のキタノ”や数々の名作映画を生んだのは“メジャー”への思い ビデオゲームの語り部たち:第23部
 1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
 現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
 プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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