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ゲームビジネスを切り拓き,今も時代の先を目指して走るノーラン・ブッシュネル氏の情熱 ビデオゲームの語り部たち:第25部
そして,この世界に生きる人々も,他者と関わる中で,何らかの影響を受けている。逆に言えば,誰もが他者の人生に影響を与えているはずだ。それは自身が想像していないところまで及んでいるかもしれない。
そんな視点で見てみると,今回の「ビデオゲームの語り部たち」で登場いただくノーラン・ブッシュネル氏が他者に与えた影響の大きさは計り知れない。氏は世界初のアーケード向けビデオゲーム「Computer Space」を1971年にリリースしたのち,翌1972年にアタリを創業。同年11月にリリースした「PONG」は,世界で初めて商業的に成功したゲームとされている。
では当のブッシュネル氏は,何に影響を受け,どんな人生を歩んできたのか。そして,未来のゲーム業界をどう見ているのか。今回は,6年前に行ったインタビューと,2020年にオンラインでうかがったブッシュネル氏の話をまとめてみたい。
ゲームの大衆化を世の中に示す
ビデオゲームの歴史に詳しい方ならばご存じかもしれないが,ブッシュネル氏はユタ州立大学在学中にラグーン・アミューズメント・パークという遊園地でアルバイトとして働いたことがあり,それがゲームビジネスへ歩み出すきっかけになったというエピソードある。
だが氏によれば,ゲームビジネスを志すきっかけは,ほかにもあったようだ。
「ラグーン・アミューズメント・パークでのアルバイトを始める前から,自分でいろいろと仕事を探していて,大学の空き時間には広告代理店で働いていました。
また,エンジアニアリングを専攻していた関係で,ゲーム関連のビデオグラフィックスの仕事をしている人たちと知り合うことができたんです。それがゲームとの関わりを持つきっかけになりました」
ラグーン・アミューズメント・パークではアトラクションの呼び込み,現代風に言えばキャストの仕事に加えて,エレメカ系ゲーム機などの修理を進んで請け負っていたという。だが,その頃のブッシュネル氏は,ゲームを“儲かる仕事”とは思っていなかったそうだ。
「25セントを投入するエレメカ系ゲーム機のビジネスには,あまりうまみを感じていませんでしたし,その頃のコンピュータや,それを構成するチップが非常に高価でしたから。
ただ,コンピュータの構成部品が安価になれば可能性はあると思っていました」
つまり,興味はあったが時期尚早と見送ったわけだ。
大学を卒業後,ブッシュネル氏はディズニーで働くことになったが,正社員待遇ではなかったこともあり,ほどなくしてアンペックスへと転職した。同社はオーディオテープレコーダーやビデオテープレコーダーで知られるメーカーである。
ブッシュネル氏はアンペックスで,後にアタリのメンバーとなるテッド・ダブニー氏やアラン・アルコーン氏と出会った。その意味でも,アンペックス入りは正解だったと言えるだろう。
「ビデオゲームの父」と呼ばれることもあるブッシュネル氏だが,氏が考えるビデオゲームの父は別にいるようだ。
「私はスティーブ・ラッセル氏こそが,クールで,カッコよくて,楽しいゲームを最初に開発した人物だと思っています」
ラッセル氏は,マサチューセッツ工科大学の学生だった1962年に,DEC社のコンピュータ「PDP-1」を用いて「Spacewar!」を開発した人物だ。同作は,専用のコントローラを備えた最初のビデオゲームとされている。
「ただ,ラッセル氏が行っていたのはビジネスではなく,研究でした。『Spacewar!』は,アーケードや家庭用のゲームではありませんでしたから。
私がやったのは,ラッセル氏が研究開発したものをビジネスに転換することでした。そのためにアタリを創業したんです。それは言い換えれば,ゲームの大衆化を世の中に示すことでした」
スティーブ・ジョブズ氏との不思議な関係
ブッシュネル氏の話によると,アタリは,アメリカ史上もっとも急激なスピードで成長した企業の1つだという。それは1990年代後半以降に生まれ,10年足らずで世界的規模となったIT企業のそれよりも速かったと,氏は胸を張った。
アタリの急成長の背景には,それまで誰も観たことや体験したことがなかったビデオゲームというエンターテイメントの具現化があったことは言うまでもない。しかしその実現に,それまでの企業にはなかった自由な社風や,変革を恐れない社員たちの貢献があったことを忘れてはならないだろう。
アタリは,後にITやゲーム分野で輝かしい功績を残す人物を数多く輩出した。中でも有名なのはアップルの創業者,スティーブ・ジョブズ氏だ。
大学を中退したジョブズ氏は,アタリの求人広告にあった「楽しく金を儲けよう」というキャッチコピーに惹かれ,その日のうちにアタリ本社を訪れたという。そして「雇ってくれるまで帰らない」と宣言し,時給5ドルの社員になった。このあたりのエピソードは,ブッシュネル氏の著作「僕がジョブズに教えたこと」や,ジョブズ氏の公式伝記に詳しい。
当時のジョブズ氏はシャワーを浴びる習慣がなく,体臭がひどかったうえに,ほかの社員を誰彼構わずに罵倒する“問題社員”だった。だが,ブッシュネル氏はジョブズ氏に光るものを感じていたようだ。
「当時のスティーブは,とてもスマートな感性と賢さを備えていました。しかし,一方で協調性が乏しく,ほかの社員と一緒に働くことは難しかったんです。
そのため私は,彼に夜勤の設計業務を命じました。どんな人にでも居場所を与えることに価値があると思っていましたから」
居場所を見つけたジョブズ氏だったが,間もなく「尊師を探しにインドへ行く」と言い出し,上司だったアルコーン氏に退職と旅費の援助を願い出た。アルコーン氏はあきれつつも,当時ドイツへの出張が必要だった仕事を餞別代わりにジョブズ氏に任せ「ドイツまでの旅費は出す」と送り出したという。
ジョブズ氏はドイツでの仕事を数日で終わらせてインドへと向かい,数か月放浪した。そこで触れた東洋の文化・思想は,西洋の合理的な物事の捉え方とは正反対で,氏に大きな影響を与えたという。
帰国したジョブズ氏はアタリを訪れて「また働かせてください」と頼み込み,ブッシュネル氏も受け入れた。
普通の人なら,数か月前退職した会社に再就職を願い出たり,それを受け入れたりするのには二の足を踏むだろう。ジョブズ氏やブッシュネル氏の大物ぶり,アタリの自由な社風がうかがえるエピソードだ。
再び夜間勤務を始めたジョブズ氏が携わった仕事の1つに,「Breakout」(ブロック崩し。1976年リリース)の開発がある。
“一人で遊べるPONG”のアイデアを思いついたブッシュネル氏は,ジョブズ氏を呼んで開発を指示した。ジョブズ氏の公式伝記によると,エンジニアとしては飛び抜けて優秀なわけではなかったジョブズ氏が抜擢された理由は,ジョブズ氏が友人のスティーブ・ウォズニアック氏に助けを求めると,ブッシュネル氏が見越していたからだという。
ジョブズ氏とウォズニアック氏が後に創業するアップルが,現在世界有数のIT企業になっていることは言うまでもない。
ウォズニアック氏の回路設計により,「Breakout」の基板は当初の見積もりより少ないチップ数で完成し,アタリのヒット作となった。
現在のゲーム開発であれば,外部の人間が関わることを容認するなどもってのほかだろうが,ブッシュネル氏の意図はどこにあったのだろうか。
「ビジネスを始めたときから,フラットでオープンな組織を作りたいと思っていました。オープンな組織が新しい発想や柔軟な考え方を生み,自分たちの目指すゴールにいち早く近づけると思ったからです。アタリの技術者や重要なスタッフが各方面に散らばったことも,結果的にコンピュータ業界全体の底上げにつながったと思っています」
だが,オープンな組織にはリスクもある。ジョブズ氏が,アタリで知り得た技術をアップル製品に活用したこともあったという。はっきりとした年代は分からないが,アタリとアップルがシリコンバレーの二大巨頭と言うべき存在になっていたと頃だそうだ。ならば訟沙汰になってもおかしくないが,ブッシュネル氏とジョブズ氏,アタリとアップルの関係は良好だった。
「アップルにパーツを販売したり,技術的な支援を行ったりしました。スティーブと私は,お互いに成功することを望んでいたんです。不思議な関係でした。
彼が『5万ドルの出資でアップルの経営に参画しないか』というオファーをしてきたこともあります。私は即座にノーと言いましたが,後になってその判断を後悔しましたね」
明日をもしれぬビデオゲーム業界
ジョブズ氏はアタリ社内でも有数の異端児だったようだが,創業から間もない頃のアタリには,ほかにもショートパンツにタンクトップという西海岸スタイルで開発に勤しむ者や,社内を素足で闊歩する者などが揃っていたという。また,社内会議にはビールが付きもので,ときにはマリファナを吸いながらの会議が行われたといったエピソードもある。
だが,ブッシュネル氏はこれを否定した。
「当時のシリコンバレーのエンジニアは,自分たちの業務や役割を真摯に受け止めていました。ですから,働く環境の中では,そういったことはなかったと思います。
ビデオゲーム業界全体を見渡しても,エンジニアは白いワイシャツにネクタイ,スーツというスタイルを貫いていたと思いますし,自分自身もそうしていました」
ブッシュネル氏が社内の隅々まで把握していたとは考えにくいし,前述のエピソードも何の根拠もなく作られているとは思いにくいが,ジョブズ氏が夜間勤務に回されたことを考えても,“無法地帯”ではなかったのだろう。
「ビデオゲームの会社なんて,世間一般からは『明日にはなくなる』と思われていましたし,実際,それを否定できないような状況でした。ですから,ゲーム産業として残っていくために,自らを律していたように思います」
筆者は日本のビデオゲーム黎明期を支えた開発者の方々にもインタビューしてきたが,やはり「ゲーム産業は長く続きそうにないと思っていた」といった話を何度か聞いた。ゲームの産業に関わる者が「明日をも知れない境遇」というのは,国を問わない共通認識だったようだ。
ナムコとの協業とアタリショック
ブッシュネル氏と日本の縁は深い。最初の接点は大学時代に始めた囲碁で,1973年からはビジネスで幾度となく日本の地を踏んだ。アタリの社名も,囲碁用語の「あたり」(相手の石を完全に囲んで取る一歩手前の状態)が由来である。
日本での大きなビジネスとして,1973年に設立したアタリジャパンがあった。だが,当時の日本には「ゲームセンター」というものが存在していなかったこともあり,販売には苦戦したようだ。ゲームセンター誕生の契機となる「スペースインベーダー」のリリースは1978年のことである。
そこでブッシュネル氏は中村製作所(後のナムコ,現バンダイナムコエンターテインメント)に協力を仰いだ。だがそれでも業績は上向かず,最終的にアタリジャパンは中村製作所に売却され,同社がアタリ製品の日本向け販売を手がけることとなった。
「ナムコは販売力がある会社で,日本のゲーム業界のリーダーでしたし,社長の中村さん(中村雅哉氏)はゲームに対して魂を持っている人で,とても理解のある方でしたから」
日本での展開こそうまく行かなかったが,アタリが世界的なビデオゲーム企業であることには変わりがなかった。だが,やがてそれにも暗雲が漂い出す。
きっかけの1つは,ゲーム市場での覇権をさらに盤石にすべく送り出した家庭用ゲーム機「Atari 2600」(1977年)だ。開発の資金繰りに苦慮したブッシュネル氏は,ワーナーコミュニケーションズ(現ワーナーメディア。映画会社のワーナーブラザースなどを傘下に持つ)へアタリを売却することになる。
「ワーナーへの売却後,アタリの社風は変化していきました。その要因は,売却と同時に私が経営から退いて,ワーナーから新しい経営陣がやってきたことですね」
ワーナーからやってきた幹部はゲームを遊ばなかったという。
「ゲームへの信念や愛情を持っていない人達でした。そういった人達が,ゲーム化のライセンス契約にものすごい大金を支払っていたのです」
このライセンス契約とは,Atari 2600向けにリリースされた「E.T.」のことだ。1982年に公開にされて大ヒットした同名映画のゲーム化権を手にするため,アタリは2000万ドル以上を支払ったという。
「『E.T.』はクリスマス商戦用のソフトとして開発されましたが,その時期は映画の公開から半年後にあたり,世間の関心が薄れ始めることは十分に予想できました。にもかかわらず,彼らは強行したんです。
また,その時期のリリースは,通常6か月から9か月かけるところを2か月で完成させることを意味していましたが,彼らは“予定通り”にリリースしました」
4Gamer読者なら,「E.T.」がゲーム史上に残る失敗作となったことをご存じの方も多いだろう。500万本が製造されたが,販売は150万本にとどまり,アタリとワーナーコミュニケーションズの経営状況は一気に悪化。しかもそれだけでは終わらず,低品質タイトルによるゲーム市場の崩壊,いわゆる「アタリショック」の一因とされることにもなった。
販売されなかった「E.T.」のカートリッジの一部はニューメキシコ州のゴミ処理場に埋められたが,そのエピソードは時間が経つうちに真偽不明の都市伝説として語られるようになった。その発掘の様子を収めた映像作品「ATARI GAME OVER」もリリースされている。手前味噌だが,その日本語版DVDをプロデュースしたのは筆者だ。
黒川文雄氏が日本版「ATARI GAME OVER」を製作するに至ったキッカケとは。アタリショックと「E.T.」の都市伝説にも迫ったインタビューを掲載
「アタリショックを引き起こした,伝説のクソゲー」とされるゲーム「E.T.」をめぐり,ATARIの辿った運命を検証するというドキュメンタリーが,2015年9月16日に発売予定のDVD「ATARI GAME OVER」だ。今回4Gamerは,このドキュメンタリー映像を日本にもたらした黒川文雄氏に,そのキッカケや取材時の裏話など,気になるところを聞いてみた。
また,4Gamerには,当時Atariに在職し,「E.T.」のイラストを描いた木村ひろ氏のインタビューも掲載されている。そちらも読んでいただければ幸いだ。
ATARIの栄枯盛衰を内側から見ていた日本人がいた。日本版「ATARI GAME OVER」プロデューサー黒川氏による,木村ひろ氏へのインタビューを掲載
「ATARIの墓場」から掘り出されたのは,「E.T.」だけではなかった。当時,ATARI社内に日本人のイラストレーターが在籍し,しかもあのATARI版「E.T.」のイラストを描いていたということが明らかになったのだ。ATARIの栄華から没落までを内側から見ていた,イラストレーター木村ひろ氏のインタビューを掲載しよう。
話を元に戻そう。ブッシュネル氏は,アタリの失敗を日本風の例えで表現した。
「アタリは“切腹”,つまり自滅したんだと思います」
そして,その切腹がほかのゲーム会社に大きな影響を与えたと認識しているようだ。
「アタリの失敗を見て,任天堂はクオリティコントロールの重要性を学んだのではないでしょうか。任天堂の躍進は,それを徹底したことの結果だと思います」
ブッシュネル氏の言葉通り,任天堂はソフトのクオリティを厳しく管理し,アタリショックで冷え込んだ市場に再び活気をもたらした。そしてセガやソニー,マイクロソフトなどが続き,今日に至っている。意図した形ではなかっただろうが,ブッシュネル氏が立ち上げたアタリは,そんな面でもゲーム業界に大きな影響を与えたと言えるだろう。
eスポーツと囲碁
あまり知られていないことだが,ブッシュネル氏は古くからeスポーツに関わっている。
1997年に設立された「Professional Gamers League」(PGL)のコミッショナーを務めていたのだ。その動機はどこにあったのだろうか。
「eスポーツ,つまり人と人がビデオゲームの対戦を通してコミュニケーションする時代が来るだろう昔から感じていました。
そのころは回線などの環境が整っていませんでしたが,技術が発展すればオンライン対戦も楽しめるようになり,ネット上で大きな現象となることも分かっていたんです。
ネットワークゲームが当たり前になり,映像配信が手軽にできる環境が整ったことで,eスポーツの魅力が伝わるようになったと思います」
ブッシュネル氏は,eスポーツの人気が高まっている理由をこう分析している。
「人間は何かに熱中すると,そのファンベースの一部になりたいという気持ちが出てくるのだと思います。
バスケットボールやアメフト,野球といったスポーツを楽しむ人は,同時にファンとして,うまい人のプレイを見たくなります。おそらくeスポーツでも同じことが起きているのでしょう。
ビデオゲームのプレイヤーは,どんな技術が必要か知っていて,それをマスターした人のすごさが分かる。背景はそういうことだと思います。スキルのあるプレイヤーを尊敬したり,そのプレイから学んだりするうちに,ファンの1人であることが嬉しくなっていくわけです」
ブッシュネル氏が好きなeスポーツタイトルは,「コール オブ デューティ」シリーズだそうだが,氏が一番好きな“対戦型ゲーム”は,今でも囲碁だという。その魅力を語るブッシュネル氏は,ビデオゲームの時より饒舌だった。
「囲碁の魅力は,果てしなく繊細なところにあります。うまくプレイするためには,落ち着いていなければならない。メンタルをよく保つことが重要なんです。
落ち着いているときはすべてがうまくいきますが,何か不安なことがあると,いい手が打てません。うまくプレイできているか否かで,自分の精神状態が分かることもあるんです」
VRの未来
今回の記事を執筆するにあたり,筆者は(画面越しではあったが)5年ぶりにブッシュネル氏と再会して,近況を聞いた。
「フミオと最後に会ったのは2年くらい前だと思っていましたが,もう5年も経つんですね。歳を取ると,何がいつあったことなのか,分からなくなってきます(笑)。
こちらは毎日充実しています。最近の仕事では,Amazon Echoを使うボードゲームを作りました。『St. Noir』(セント・ノワール)というタイトルで,CES 2020のイノベーション・オブ・ジ・イヤーを受賞したんですよ」
世界初のアーケードゲームを開発したブッシュネル氏だけに,やはり新しいデバイスであるスマートスピーカーに目を付けたようだ。
「スマートスピーカーは,ボードゲームを進化させるツールになると思ったんです。ビデオゲームには,1人で画面を見ている時間が長すぎるという批判がありますよね。スマートスピーカーを使ったボードゲームなら,ほかのプレイヤーの顔を見てプレイできますし,タイマー機能やサウンドエフェクトも利用できる。AIを使ったNPCを相手に楽しむこともできます」
「St. Noir」は,探偵と容疑者に分かれたプレイヤーが駆け引きを繰り広げ,真犯人をつきとめるゲームだ。人狼ゲームに近いシステムといえば分かりやすいだろう。
「ほかにも,同じくAmazon Echoを使った脱出ゲームも企画しています。企業のトップでいるよりも,ゲームデザインに関わっているほうが楽しいですね」
ブッシュネル氏は自宅の書斎と思われる場所にいたが,その部屋には電気系のパーツや工具なども置かれていた。
「ここにいればロケットも作れそうですよ」
そう言ってブッシュネル氏は笑った。
スマートスピーカー以外にも,VRやAR,MRといった技術の進化によって,ゲームは変化し続けている。この状況をブッシュネル氏はどう見ているのだろうか。
「時代の変化はとてもエキサイティングなことだと思います。かつての2D表現が3Dになり,それがVRになるといったように,よりグラフィカル,フォトリアルな世界に変化しています。
『スタートレック』に登場した,現実とほとんど変わりがない仮想空間を作り出す装置『ホロデッキ』が実現しないかな……と思っていましたが,触覚以外は再現できるデバイスが現実に揃ったと感じています」
「スタートレック」の話題が出たが,若い世代の読者の中には,VRと聞いて,映画「レディ・プレイヤー1」を思い浮かべる人が多いだろう。もちろんブッシュネル氏はそちらもチェック済みだ。
「『レディ・プレイヤー1』は素晴らしかったですし,原作の『ゲームウォーズ』も読みました。ただ,『レディ・プレイヤー1』が描いた世界はややダークだったように思います。
VRは,これからますます進化していくことでしょう。いつの時代もゲームは改革や進化を続けていくものですから。VRや3D技術が大きく発展し,新しい体験が生まれることは重要だと思っています」
もちろんブッシュネル氏自身も,VRやARの開発に関わっている。
「SamsungやHasbro, Atariといった企業で経験を積み,ゲームスタジオを立ち上げたこともあるJason CrawfordとModal Systemsという会社(外部リンク)を設立しました。主に公共施設や家族用のエンターテイメントスペース向けのVRコンテンツを作っています」
とにかく,Just do it!
70歳を超えた今もなお,新しいものを追い求めるブッシュネル氏のエネルギーには敬服するばかりだ。
「私が目指すゴールは,他人とは違うことをすることなので……。ゲームだけでなく,教育に関する事業もたくさんやってきました。
同じ事を何度もやるのは面白くない。だからいつも,一風変わった,自分が楽しいと思うことを探しているんです。何度でも観たいと思う映画はとても少ない。ゲームも同じで,どんなに面白くても,ほかのゲームをプレイしたい時がくるんです。
だから,常に動き続けなくてはならない。止まったらビジネスが成り立たないと思います」
ブッシュネル氏のように,常に積極的に,前向きに生きるための秘訣はなんだろうか。
「いつも言っていることですが,まずやってみること(Just do it)です。ゲームで生計を立てたかったら,今は10歳の子供でもゲームを作ってApp Storeで販売できる時代ですから。とにかく友人を作り,それから評論家のような冷静な視点を持ち,漫然とではなく,何がいいのか,何がよくないのかを考えながら遊んでみることです。それと,プログラム言語を何かひとつ学んだほうがいいでしょうね。
とにかく,Just Do It!」
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
通訳:YOKO HONDA,KEIKO ICHIKAWA
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