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[TGS 2012]「ゲーミフィケーションの盛り上がりにみるゲームの力」。回転寿司から大統領選挙まで,ゲーミフィケーションの核心に迫る
近年,にわかに盛り上がりつつある「ゲーミフィケーション」だが,現在それはどのように運用されており,また,ゲーム開発者はそこにどう関わっていけるのだろうか。
なお「ゲーミフィケーションって何?」という読者も少なくないと思われるので簡単に解説しておくと,「ゲームの仕組みの一部を,社会における問題の解決や,個人のモチベーション向上などに役立てること」になるだろうか。「空き皿を5枚入れるとガチャを回せる回転寿司」などはゲーム感覚で消費を促す分かりやすい例といえる。とりあえず,本来取り立てて楽しくないものを,ゲームみたいに楽しく進めやすいものにすることだと思っておけばよいだろう。
なぜいまゲーミフィケーションか?
井上氏は,「ゲーミフィケーションという潮流は昨日今日出てきたものではない」と指摘する。スタンプラリーやラジオ体操のハンコ(コンプリートが動機づけになる)のような事例は昔からあり,これらはいわば「ゲーム性のある力を使って人々を駆り立てる」仕組みである。
この動きはここ数年,主にアメリカで急激に進展している。オバマ大統領の選挙支援をするサイトはゲーミフィケーションの技術を採り入れており,150万人のプレイヤー(あるいはオバマ支援者)の支援活動を組織化している。またタンパク質の構造解析をパズルゲーム仕立てにすることで,目覚ましい成果を挙げているというケースもある。
このように,ゲーミフィケーションが実際に大きな成果を達成し始めたことで,この概念は急速に注目を集めるようになったと井上氏は語った。
コレクション要素とバッジの関係
澤田氏はゲーミフィケーションの要件として,まず「過去からの変動の可視化」を挙げた。言葉は難しげだが,「レベルが1から2になった,スコアが100上がった」といったものが表示されることがこれに相当する。この可視化の対象として,ゲーム制作の現場では実際にどのようなものが選ばれているのだろうか。
岡本氏は,「スコアをつけるといったことが挙げられるが,ポケモン以降,一番強いのはコレクション要素」だと指摘。國光氏は,「コレクション以外では,特定の武器を三つ集めろ,街に特定の設備を整えろといったクエストがこれに含まれるのでは」と述べた。
こういった「ゲームにとっては当たり前」(澤田氏)なギミックは,実際のビジネスの場ではどのように利用されているのか。
井上氏は,コレクション要素の代表例としてBadgevilleを挙げた。これはWebサイトへのアクセスログをもとに,サイトへの来客やコメント投稿などを個々のプレイヤーに対しスコア化,いわゆる「実績」あるいは「連続ログインボーナス」のような形でバッジを提供することで,Webサイトの“ヘビープレイヤー”に「バッジをコンプリートする」モチベーションを与えるものだ。
また,クエストは教育用ゲームなどでよく見られるという。
とはいえ,本当に問題となるのは「そういった仕組みによって儲かった事例はあるのか」(國光)ということだ。
これに対し,井上氏は,サイトのリピート率とPV向上が見られるほか,社内プロジェクト管理(todoなど)にバッジ要素を加味することで生産性の向上が見られたケースがある(若いベンチャーで顕著)といった実例を提示した。
「◯◯をしろ」と言われなくとも
つまり,ひと言も「助けに行け」と言っていないにも関わらず,「助けに行く」という選択肢が想起されるのは,我々の中に「悪者に誰かがさらわれた,助けに行かねばならない」という文脈(コンテクスト)が存在するからだと澤田氏は語る。このように,「ゲームは世界観を示したり,簡単なストーリーを提示することで,一見まるで関係のないミニゲームをまとめた状態にしてプレイさせている」(澤田氏)のだが,こういった文脈の持つ力は他分野ではあまり使われていない。そのため,今後ゲーミフィケーションにおいてはこの文脈が持つ力が利用されるのではないか,と澤田氏は予測する。
ゲームにおいて,プレイヤーに世界観を伝えたり,物語に入っていけるようにする仕掛けとしては,どのようなものがあるだろうか。
岡本氏は,ゲームの世界観を伝えるには「語って聞かせる」か「デザインで伝える」か,二つの方法があるという。
コンシューマゲームにおいては直感性が重要で,例えば敵キャラが「見ただけで倒し方がなんとなく分かる」ようにデザインされていれば,海外にそのゲームを持っていっても遊んでもらえるのだという。
ソーシャルゲームの場合は表現力に問題があるため,現状ではテキスト(カードのフレーバーテキストなど)が主体となるとのこと。
國光氏はやや異なる視点として,エンターテイメント産業において「会社のファン」を作るのが重要でありながらも難しいということをまず指摘する。固定ファンを掴めば収益は安定するはずだが,「フジテレビのファン」「ワーナー・ブラザースのファン」という話は,なかなか聞かない。
ファンをうまく作れている例として,國光氏はプラダのようなブランド,あるいは宝塚歌劇団,吉本新喜劇,ピクサー,ディズニー,ジブリなどを挙げる。これらは「このブランドはこういうものだ」という概念を,「壮大なワンパターン」(=ブランドならではのお約束)を繰り返して文脈を刷り込んでいくことで構築している。一般的なエンターテイメント産業は,とにかく新しいコンテンツを大量に出し続けなければならないため,この「壮大なワンパターン」が作りにくいというのが氏の指摘だ。
gumiでは「任侠道」「騎士道」のようにパッケージ感を付与するほか,ゲーム内容として「大人が持つ厨二心に訴える」ことを徹底することで,文脈の刷り込みを行うことを意識しているという。
井上氏は,ゲームにおける「このゲームはこんな感じでプレイするんだなという気分にさせる」力は,イベント参加者のモチベーションを高めることに利用できると述べた。
例えば,このゲーミフィケーションのパネルディスカッションであれば,最前列に座っている参加者と最後列で見ている参加者ではモチベーションが違うし,なにより「この場にいる文脈」がかなり大きく異なっている。
だが,ここで参加者を小グループに分けてゲーミフィケーションの事例について短時間の議論をさせると,参加者の持つ文脈は「このセミナーをどう聞こう」から「自分はどうしよう」という文脈に変化するという。
このように「自分の文脈として再設定する」ことで参加者のテンションを上げるという手法はセミナーでよく見られるほか,英会話スクールなどでも頻繁に行われる手法となっている。また,澤田氏は,この「対話によって文脈を作り,共有させる」というのはソーシャルゲームがまさに行っていることだと指摘した。
段階的な目標達成と「褒める」こと
これは「ゲームがチュートリアルから始まって,徐々にステップ・アップしていくような」(澤田氏)状況を意味するものだが,世の中は往々にして,そのようにできてはいない。
ともあれ,まずはゲームにおいて,チュートリアル以外に「ゲームに取りつきやすくするための施策」には何があるのだろうか。
岡本氏は「Xboxで有名になった『実績』がコンシューマでもソーシャルでも非常に普及した」という点を挙げる。
この「実績」には二つの論点があると氏は語る。
一つは,Xboxでは1ゲームあたりの「実績」の数といったルールをプラットフォーム側が決めているという点だ。これによって,プレイヤーはゲームをまたいで話題を共有できる。ソーシャルゲームの実績にはそういった規定がないが,将来的にはそこまでプラットフォーム側が踏み込んだほうがよいかもしれないと氏は語る。
もう一つは「ちょっとずつのことに対して褒めてあげる」ということだそうだ。ちなみに,この「褒める」ということに関し,コンシューマゲームでは一定の判定を行って,良ければ褒め,悪ければダメという文化だが,ソーシャルゲームでは「すごく褒めるか,褒めるしかない」という状況になっていることは,岡本氏としてはいろいろ思うことがあるようだ。
まず,岡本氏は,なぜコンシューマゲームでは「良ければ褒め,悪ければダメ」で大丈夫なのに,ソーシャルゲームでは「ダメ」だった途端にゲームを辞めてしまうのかという点について触れ,そこにはプレイヤーの世代の差があるのではないかと分析する。
ゲームはもともと子供の文化だったため,負けて悔しいと練習したくてゲームがほしくなる,という構図があった。一方,大人はお金はあるが時間がないので,ダメだった途端に別の娯楽に切り替えることができるというわけだ。
これに対して國光氏は,「小さい子供の生活にはストレスが少ないが,大人はストレスしかない生活をしているから,『ゲームでまでストレスを感じたくない』という動きになるのかも」と推測,もっと低年齢層にまでソーシャルゲームが広まれば「悪ければダメ」というスタイルのソーシャルゲームが出てくるかもしれないと述べた。
澤田氏は,「ゲームはもともと褒めることが多い」と指摘。ソーシャルゲームのようにアクションに対して「大成功」といった文字が踊ることこそなかったが,スコアが跳ね上がったり,効果音が鳴ったりと,「ゲームはひたすら褒めてきた」というのである。「一般的な社会のビジネスではあまり褒められないが,格闘ゲームの世界では1/60秒の速度で褒められる」のはゲームの美点であり,大人・子供に関係なく,ゲームは褒め率が高いのではないか,とした。
従来のエンターテイメントは,映画にしてもテレビにしてもゲームにしても,そのために特別な時間(=休日)を必要とした。これらのエンターテイメントが一般の人の生活に影響を与えることはなく,だからこそ「余暇」と呼ばれてきた。
だがソーシャルゲームは日常の小さな時間と共存できるため,憂鬱な朝であってもフレンドから挨拶が届き,窮屈な満員電車の中でもゲームを楽しめ,ランチタイムに「みんなで魔王を倒しに行く」ことができて,1日の終わりにはフレンドと今日の成果を共有できる――ソーシャルゲームは,さして面白くない日常に,彩りを添える効果があるというわけだ。
井上氏は,この國光氏の見解は「ゲーミフィケーションにとって非常に重要」だと語る。なぜなら,ゲーミフィケーションなら,人々の日常にゲームを持ち込むことが可能になるということだからだ。
この背景には,「SNSとiPhoneがある」と氏は言う。「電源をつけて,テレビの前で『さあやるぞ』というゲーム」は,電源オンからオフまでの間でしか成立せず,電源がオフになっている間のプレイヤーの行動を計測することはできなかった。だが,iPhoneの登場以降,この垣根は崩れている。
つまり,ゲーミフィケーションとは「日常そのものをゲームハードにできる」ということであり,ソーシャルゲームとゲーミフィケーションはその点で同じ「日常」というプラットフォームを利用しているのだという。むしろ「日常」というプラットフォームを最初に使ったゲームがソーシャルゲームであり,ゲーミフィケーションはそれを追いかけてきたとも言える。
達成すべき大きな目標のレイヤー化という点においては,日常での目標設定が難しいと井上氏は指摘する。大きな目標を掲げたのはいいが,目標が大きすぎて日常の業務ではその目標のことを忘れてしまうということは,決して珍しくない。歴史をひもとけば,大きな目標を掲げた結果,一時的には盛り上がるが,やがて尻すぼみになっていくという事例は枚挙にいとまがない。
オバマ陣営が用いたゲーミフィケーションを利用した支援サイトでは,まず「5回電話をかけよう」といった,達成できそうな小さな目標をSNS上で与え,段階的に難しい目標へとシフトさせていくというシステムを採用した。こうやって具体的かつ小さな目標を達成していくことで,大きな目標の達成に近づけるという仕掛けである。
ゲームデザイナー未踏の領域
いまゲーミフィケーションで盛り上がっているのは,主にマーケティングサイドである。そこにゲームデザイナーは,ほぼ存在していない。ゲームは娯楽だが,同時に娯楽以外の側面も持っており,そこに関わっていけるということをゲーム開発者に示すのが,このセッションの一つの目的であったという。
また,澤田氏は「知識の共有による,より面白いゲーム作り」ということの重要性も訴えた。日本のゲーム業界では情報交流や交換があまり活発ではないため,こういった機会を利用して交流を促進していきたいというのが,氏の意気込みである。
岡本氏は,コンシューマでもソーシャルでも,意外とノウハウは共通していると指摘。ゲーミフィケーションにしても「実際にちょっとやってみる」というのはゲーム開発者にとって重要ではないかとか訴えた。実際にやってみると楽しく,また本来のゲーム制作に戻ってきたときに活かせる教訓も多く得られると氏は語っていた。
國光氏は,ゲームには生産性も意味もないが,それでも人はゲームを続けてしまう,と語る。一方で我々の人生は,本来意味があるハズなのに,なぜか面白くない。この状況に対し,「どうせ人生過ごすなら,なにかしら面白いことをして,毎日楽しく暮らそう」というのがゲーミフィケーションの基本ではないか,というのが氏の見解である。
「なんでか知らないけれど,僕らの人生はそんなに面白くない。つらい仕事ばかりやっても仕方ないから,みんなで頭を使って,どうせなら楽しく仕事しよう」という言葉は,ゲーミフィケーションの,一つの重要な要素を捉えているように思える。
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