連載
徳岡正肇の これをやるしかない!:独ソ戦からガルパン、そしてその先へ。伝説のウォーゲームデザイナー,中黒 靖氏ロングインタビュー
「徳岡正肇の これをやるしかない!」は,「徳岡正肇氏のやりたいこと」ベースで掲載している不定期連載だが,今回取り上げるのは「こと」ではなく「人」だ。ゲームマーケットを中心に,アナログゲーム,そしてウォーゲームが復権しつつある中で,「日本におけるウォーゲーム冬の時代」を生き抜いた伝説的ゲームデザイナーに登場していただいた。
どんなゲームジャンルであろうとも,ブームがあれば,低迷期だってある。そして低迷期に差し掛かるや,少なからぬ人々が「もうこのジャンルはおしまいだ」と言い始める。
米国では1970年頃,日本では1980年代初頭を中心として巨大なブームを巻き起こしたウォーゲーム。紙の駒とマップを使って歴史上のさまざまな戦争を再現し,指揮官として采配を振るうこれらのゲームは,洋の東西を問わず「オトコノコ」のハートを捕らえ,多くの愛好者を生み出した。「今度は君が指揮官だ!(Now YOU are in Command!)」という売り文句に心をときめかせた4Gamer読者は決して少なくないと,筆者は勝手に信じている。
そんな個人的確信はともかく,ウォーゲームのブームはやがて(しかも急激に)終息を迎える。その理由はさまざまに指摘されているが,1980年代終盤から1990年代の冒頭にかけて,数多くのウォーゲーム専門誌が休刊していったのは歴史的事実だ。
そして低迷期を迎えたジャンルの常として,少なからぬ人が「もうウォーゲームはおしまいだ」「ウォーゲームにもはや発展性はない」と口にするようになった。ときには「アナログのウォーゲームは,コンピュータのストラテジーゲームと比べたら劣化版に過ぎない」といった意見も飛び出したほどである。
そんななか,ブームが危うくなりはじめた1980年代中盤にデビューして若手デザイナーとして名を馳せ,さらには1990年代における「冬の時代」のど真ん中で新たにウォーゲーム専門誌を立ち上げ,今なお,多くのマニアを唸らせるハイレベルな作品から,初心者でも楽しめるカジュアルなゲームまで,幅広く作り続けている人物がいる。国際通信社グループ(以下,国際通信社)の中黒 靖(なかぐろやすし)氏だ。
果たして,中黒氏のモチベーションと発想の根源は,どこにあるのだろうか? また中黒氏が考える「ウォーゲームでしか味わえない楽しさ」は,どんなものなのだろうか。気になるところをとことん聞いてみたので,少々長いインタビューとなったが,最後までお付き合いいただければ幸いだ。
中黒 靖,ウォーゲームデザイナーになる
4Gamer:
本日はよろしくお願いします。
いきなりで恐縮なのですが,まずは中黒さんが最も印象に残っているウォーゲームを教えてください。
中黒 靖氏:
私が人生で最初にプレイしたアバロンヒル※1の『ミッドウェイ』(Midway)ですね。半世紀以上前のゲームですが,索敵と航空攻撃,水上戦のすべてが網羅されていました。戦闘機と雷撃機,爆撃機の区別があったのもすごいことです。
※1 The Avalon Hill Game Company。現代的な商業ウォーゲームの始祖と言われるゲームパブリッシャで,1954年にCharles S. Roberts(チャールズ・ロバーツ)が設立した。最初の商品は彼がデザインした『Tactics』というウォーゲームで,ミッドウェイは1964年の作品。ウォーゲーム全盛期を形作ったパブリッシャだが,現在はブランド名のみが残る。
4Gamer:
日本のウォーゲーム黎明期に流行った傑作ですね。
中黒 靖氏:
得点設定が絶妙で,日本軍はミッドウェイ島攻略を優先するのか,それとも米艦隊を探すのかの決断を迫られる内容でした。
4Gamer:
中黒さんが,ミッドウェイをはじめとするウォーゲームの存在を知ったのは何がきっかけでしたか。
小学校6年生の頃ですから,1980年前後だったと思うのですが,当時の少年マガジンに「ウォーゲームを紹介する漫画」があったそうなんです。私らの界隈では「伝説の漫画」となっている作品ですね。
実のところ,自分もその漫画自体は見たことがないので,もしかしたら現実には存在せず,少年マガジン,というところからしてただの噂だったのかもしれないんですが。
ともあれ,少年マガジンの巻末に見開きでウォーゲームのカタログがついていたという事実はありました。ホビージャパン※2が輸入して,和訳したルールをつけて売っていたもののカタログですね。
それを見て「こういうものがあるのか!」と思い,地元でおもちゃを扱っているショップを探していたら,そこにミッドウェイが置いてあったんです。確か5800円だったかな。いまの感覚で言えば1万円くらいですかね? 決して安い買い物ではなかったのを覚えています。
※2 模型や玩具,ゲームの開発および輸入,販売を行っている会社。1969年設立。現代においてはボードゲームの開発と輸入,また模型関係で有名だ。「ミリタリー模型を使って遊ぶ」という路線でウォーゲームを紹介したことが,日本におけるウォーゲームの黎明期を形成した。専門誌『タクテクス』の発行など,ウォーゲームブームにおける重要な存在であり続けている。
4Gamer:
ミッドウェイはソロプレイに向かないゲームですが,当時,対戦相手はどのように確保していたのでしょうか。
中黒 靖氏:
ウォーゲームのブームが始まる前の段階で,すでにボードゲーム自体が子供の遊びとしてあったんですよ。『人生ゲーム』とか『億万長者ゲーム』とかですね。
そういったボードゲームのブームがすでにあったので,(周囲の人間も)ウォーゲームに抵抗感は持っていませんでした。なので友人達ともすぐ「遊ぼう」という話になりました。
本格的に遊ぶようになったのは中学生になってからですが,中学校でも対戦相手には困った記憶がありません。
4Gamer:
中学校の頃は,どんなタイトルを遊んでいましたか。
とくに印象深いゲームとしては,エポック社※3の『日露戦争』と『独ソ電撃戦』がありますね。
実際,自分が最も影響を受けたゲームデザイナーを挙げろと言われたら,鈴木銀一郎先生※4と黒田幸弘先生※5の名前を出します。それくらい,黒田先生の日露戦争はよく遊びました。
ともあれ当時は自分だけでなく,友達もウォーゲームを買っては,互いに遊んでいました。
ただそんな日露戦争も,最初は半信半疑でしたよ。
※3 1958年創業の玩具メーカー。玩具としてはおそらく「シルバニアファミリー」か「野球盤」が最も有名だが,ボードゲームからコンシューマーゲームのハード・ソフトまで,ゲームも手広く扱う。1981年からは「ワールドウォーゲームシリーズ」としてウォーゲームを発行し,日本オリジナルの優れたゲームを世に多数送り出した。
※4 1934年生まれのゲームデザイナー。日本で初めて「ゲームデザイナー」という肩書で名刺を作ってビジネスを展開した人物であると言われている。商業ゲームのデザインは40歳になってからで,海外から輸入されたウォーゲームに衝撃を受けて自分でも作ってみたのがきっかけだそうだ。現代日本のアナログゲーム史におけるキープレイヤーの一人である。
※5 1955年生まれのゲームデザイナーで現在はミューズソフト代表取締役。ホビーショップで鈴木銀一郎氏と出会って意気投合したのがきっかけとなって,1979年にゲームデザイン専門の組織であるレックカンパニーを共同で立ち上げる。1981年からはエポック社のワールドウォーゲームシリーズに作品を提供したほか,同社のシミュレーションゲームシリーズには『超人ロック』という伝説的な傑作マルチプレイゲームも提供している。またPCゲームにおいても,信長の野望シリーズと双璧をなす戦国ストラテジーである天下統一シリーズにおいて,初代から3作めまでのゲームデザインを行っている。
4Gamer:
と言いますと?
中黒 靖氏:
当時の感覚で,「国産のウォーゲームはダサい」というのがあって(笑)。
4Gamer:
ああ,そういう感覚ってありましたね!
というか,日本のウォーゲーム界隈は,その感覚をかなり長く引きずったようにも思います。
中黒 靖氏:
ただ,エポック社の日露戦争や独ソ電撃戦の(製品)ボックスには「入門用」と書いてあったんですね。当時の自分達はまだまだウォーゲームを遊び始めたばかりでしたから,難度的にちょうどいいかもなと。
あと,エポック社のシリーズは入手が簡単だったというものあります。だいたい3800円くらいで,輸入ゲームに比べて2000円近く安いんですよ(笑)。
で,実際に遊んでみると,これがとても面白いんですよね。しかも,ルールも分かりやすかった。こと当時の輸入ゲームに付属していた“翻訳ルール”は,極めて理解しづらいということがしばしばありましたから。
4Gamer:
ありました。実際,ウォーゲームのルールブックを翻訳するためには助動詞の「may」と「must」を厳密に,かつ統一的に訳さないといけないわけですが,当時はそのあたりを文芸翻訳のノリで訳したルールブックとかありましたからねえ……。
中黒 靖氏:
戦闘を「してもよい(may)」のか,「しなくてはならない(must)」のかで,ゲームの方向性がまるで変わりますからね。
あと,印刷物は写植で作る時代でしたから,不思議な誤字も多かったですね。ZOC(Zone Of Control,支配地域)が「20C」って書いてあったり(笑)。
(笑)。
エポック社のウォーゲームというと,鈴木銀一郎先生の『日本機動部隊』が有名ですが,こちらはどうでした?
中黒 靖氏:
もちろん,どハマりしましたよ。ただ日本機動部隊は,ゲームを実際に遊ぶ前からハマってたんですよね。
4Gamer:
どういうことですか。
中黒 靖氏:
日本機動部隊が発売されるちょっと前に,ホビージャパンからウォーゲームの専門誌である『タクテクス』※6が創刊されたんです。創刊号はちょっと総花的な雑誌でしたが,2号以降は特集が増えていって,読み物としてもどんどん面白くなっていったんですね。
※6 1981年創刊のウォーゲーム専門誌。当時,主に海外のウォーゲームの輸入販売を行っていたホビージャパンが発行した。原則として毎号,付録にゲームが付属。最初は隔月刊だったが1985年11月号から月刊化している。しかし1987年9月号(第46号)からはTRPGを扱う号とウォーゲームを扱う号が1か月交代で発行されるようになり,1990年3月には月刊誌としては休刊した。通巻77号。1990年8月からは季刊タクテクスとして再スタートしたが,1992年2月に再度休刊となった。
4Gamer:
はい。
で,そんなタクテクスの第4号が海戦特集で,そこに鈴木先生の手による記事「日本機動部隊のデザインノート」が掲載されたんです。いや,実に痺(しび)れる記事でした。他の空母戦ゲームがどのような問題点を抱えていたのか,実戦で起きたことをどのようにゲームに落とし込もうとしているのか,そのためにどのようなテクニックを用いたのかなどといったところが,詳しく書かれていたんですよ。それを読んでハマったというわけです。
当然,日本機動部隊のゲームは,発売と同時に購入しました。「ウォーゲームの入門用」として作られたこともあって,2800円と手頃な値段だったのも嬉しかったです。
4Gamer:
そういう意味でしたか。
中黒 靖氏:
これについてはもう1つ話がありまして,タクテクス第4号に掲載されたデザインノートは,後に一緒に仕事することになる藤浪智之先生※7にも強い印象を与えることになったそうです。
藤浪先生もあの記事で日本機動部隊にハマったんですよね。
※7 1967年生まれのゲームデザイナー。中学生時代にタクテクス第4号の記事を読んで「ゲームデザイナー」という仕事の存在を知る。高校時代に作成したウォーゲームの同人誌『アウトバーン』が鈴木銀一郎氏に注目され,高校卒業と同時に,鈴木氏の主導していたウォーゲーム専門誌『シミュレイター』の編集者となる。シミュレイターについては後述するが,1985年,同誌に掲載された日本初のTRPGリプレイ記事「七つの祭壇」は,それ以降の日本のTRPGクリエイターにも巨大な影響を与えた。また「リプレイ」でTRPGを紹介するという形式が広まる最初の一歩として,日本のTRPGシーンの基礎を作る記事でもあった。現在ではさまざまなウォーゲームやTRPG,ゲームブックをデザインするほか,コンピューターRPGのゲームデザインやシナリオ提供も行う。
4Gamer:
当時から,自分でゲームを作ってみたりはしましたか。
中黒 靖氏:
ええ。
中学,高校と,毎週のように自宅に集まってウォーゲームをしていたんです。それぞれが買ったゲームを持ち寄って,みんなで遊ぶという感じですね。メンバーとしては10人くらいいたと思います。
で,この仲間たちと,ウォーゲームの同人誌を作ったんですよ。『嵐を呼べ』っていうタイトルでした。いや,実に厨二スピリッツ満載ですね。
4Gamer:
無駄に高い理想と熱い意気込みを感じるタイトルですね(笑)。
当時はちょうど『シミュレイター』※8が創刊された頃だったんですが,初期のシミュレイターって,歯に衣着せぬ物言いの記事がたくさん載っていまして。でもあんまりにも直截すぎて物議を醸し,少しずつ丸くなっていったんですね。
それに対し我々有志一同は「同人誌なら初期のシミュレイターみたいに何を書いてもOKじゃないか!」と思い立ちまして,自分達で作るに至ったわけです。いろいろやり過ぎて方々から非難を浴びましたが。
ともあれ,この同人誌に,せっかくだから付録ゲームも付けようということで,自分が「タラワの戦い」※9のゲームを作りました。たぶんこれが,自分が作った最初のウォーゲームだと思います。
※8 ウォーゲーム専門誌。厳密には『SIMULATOR』時代と『Simulator』時代がある。前者は1982年創刊で,初代編集長は女神転生シリーズのデザイナーとして有名な鈴木一也氏。ゲームクラブ「ファーストディヴィジョン」の機関紙として創刊され,第2号からはレックカンパニーがこれを引き継いで商業誌化したが,1984年に休刊。1985年創刊の後者は,鈴木銀一郎氏が1984年に設立した編集プロダクション,翔企画が発行母体だった。漫画から大型ゲームの作戦研究まで硬軟取り合わせた誌面構成で,タクテクスと双璧を成す存在だったが,1991年に休刊。
※9 1943年11月に行われた,タラワ環礁ベティオ島の日本軍基地に対する,アメリカ軍による強襲上陸作戦。近代戦史上初の,正面からの水陸両用強襲作戦とされる。日本軍は事実上全滅したが,米軍にも多大なる損害が発生した。
4Gamer:
タラワの戦いですか! いきなり強烈なマイナーテーマですね(笑)。
中黒 靖氏:
同人誌ならではですね。
でもそうやってゲームを作れた背景には,タクテクス第4号の,銀一郎先生の記事があったと思っています。あの記事を読んで,ゲームの楽しみ方や作り方を閃いたんですよ。
4Gamer:
ときに,古くからのウォーゲームファンは,「最初の中黒ゲーム」として『遣唐使の戦い』※10を覚えている人も多いかと思います。「遣唐使を送りたい日本 vs. それを阻止したい新羅」という構図は,今から見ても非常に斬新なものでした。
※10 シミュレイター第3号の付録ゲーム。作者は広島がんぼう氏(=中黒 靖氏)。後に『ウォーゲーム日本史』誌(国際通信社)の第19号付録として再販されたが,そちらも含めて現在では絶版となっている。
中黒 靖氏:
懐かしいですね。
あれってもともと,シミュレイターでやっていたゲームデザインコンテスト「STRコンテスト」に応募したゲームだったんです。当時はまだまだウォーゲームの活気があったんですが,開発者の間では「そろそろ新しい血が必要だ」という危機感があったみたいで。
4Gamer:
ほう。
中黒 靖氏:
まあ,そこに向かって自分は遣唐使の戦いを送りつけたわけですが(笑)。
ちなみにそのコンテストでの大賞が『失われた勝利』※11でした。
※11 第二次世界大戦における独ソ戦全体を扱ったウォーゲーム。戦争全体における主導権の変化を大胆なルールで再現しているほか,当時としてはなるべく平易なルールでゲームを構成しようとする努力が随所に見られるも,決して簡単なゲームではなかった。後にサンセットゲームズから再販されたが,現在では絶版。
4Gamer:
独ソ戦のゲームですね。当時は非常に高い評価を受けていましたが,「新しい血が必要」という当時の目標に照らして考えると,ちょっとアッパーすぎる着地点のような気もします。決して簡単なルールではなかったですし,プレイ時間も短くはないですし……。
とはいえ,当時のウォーゲーマーからすると,ちょうどいいゲームだったのかもしれませんね。
遣唐使の戦いの次は,「Sサイズのシミュレーションゲーム」こと「SSシリーズ」※12のデザインということになるんでしょうか?
※12:シミュレイターの翔企画が制作,販売した,コンポーネントとルール,プレイ時間のすべてがコンパクトな,初心者向けウォーゲームシリーズ。詳細は後述する。
中黒 靖氏:
いえ,実はその前にもう1作あります。
自分が大学に入学した1986年,すでに藤浪先生は翔企画でシミュレイターの編集に携わってらっしゃったんですが,その藤浪先生から「またSTRコンテストやるから,何か作らない?」という依頼をいただいたんです。そこで作ったのが『北緯73度』というゲームでした。
第二次大戦中の虹作戦において,英国からソ連に向かう輸送船団と,それに対するドイツ海軍の攻撃を扱ったゲームで,ソロプレイ専用になっています。
4Gamer:
おお,ソリティア※13を作られていたんですね。
でもなぜソリティアだったんでしょうか? 当時すでにウォーゲームのプレイヤーが減り始めていて,対戦が難しくなってきていた,とか?
※13 Solitaire,一人用のゲーム。ウォーゲームに限らず,トランプでも一人で遊ぶルールのことをこう呼ぶ。PCゲームの世界ではWindowsに付属していたゲームが想起されがちだが,一人でプレイするゲームはすべてソリティアである。ウォーゲームの世界では「ソリテア」と書くことも。
いえ,どちらかと言えばテストプレイの都合ですね。
当時の自分には,一緒にウォーゲームを遊んでくれる相手がおらず,対戦型のゲームをテストプレイできなかったんです。大学も名古屋だったため,「(東京の)翔企画にお邪魔してテスト」というわけにも簡単にはいきませんでしたし。
4Gamer:
品質を担保するため,ソリティアにしたわけですね。
中黒 靖氏:
そういうことです。
ただ,その後,大学がどうにも面白くなくなってしまったこと,そしてご縁があったことも重なり,アルバイトとしてシミュレイターの編集に携わることになりました。第9号からです。
4Gamer:
いつくらいのお話ですか。
中黒 靖氏:
アルバイトから正社員になったタイミングは覚えています。1987年ですね。
余談ですけれど,銀一郎先生は私を入社させることに反対だったそうだという話を,後で聞きました。同人誌があまりにひどい内容だったからとか(笑)。
かつてはウォーゲームだけが持っていた「楽しさ」
4Gamer:
大学に入って1年後にはもう翔企画で正社員としてウォーゲーム誌の編集に携わっていたということですが,1987年だと,もうウォーゲームの市場はだいぶ危機的な状況に陥っていたように思います。「ファミリーコンピュータ」(以下,ファミコン)と,初代「信長の野望」が1983年,「大戦略」が1985年ですから,時代的にはいろいろと厳しかったのではないですか。
そうですね。実際,シミュレイターもかなり厳しい状況にありました。リニューアルしたシミュレイターの創刊号と第2号はそれぞれ1万5000部を印刷したそうですが,私が入社した時点でも(売れ残りの在庫が)倉庫の結構な面積を占めていましたね。
第3号以降も部数は右肩下がりで,最終的には3000部程度にまで部数は減っていました。
当時のシミュレイターは定価800円くらいですから,3000を掛けると総売上が計算できるわけです。そこから印刷,流通,原稿料,編集費などなどを引いていくと,「まあこれはヤバいですね」っていう数字になりますよね(笑)。
4Gamer:
……ヤバいですね。
中黒 靖氏:
もちろん,翔企画はシミュレイターだけを作って“食って”いる会社ではありませんでした。銀一郎先生は別の事業も回していて,そっちはちゃんと黒字だったわけです。
4Gamer:
ということは,逆に言うと……。
中黒 靖氏:
会社として見れば,シミュレイターという雑誌が経営の足を引っ張っている状態だった,と。
4Gamer:
ですよね。
中黒 靖氏:
当時の翔企画には,“会議室”と呼ばれている場所がありました。といっても社内ではなく,会社の隣の喫茶店のことだったんですが。
この“会議室”は,銀一郎先生が基本的に真剣な話――つまり契約更改――をする場所でして,「会議室に呼ばれる」というのは,あまり嬉しい話ではありませんでした。
4Gamer:
シミュレイターがそういう状況で,“会議室”に呼ばれたということですか。
中黒 靖氏:
そういうことです。ある日ついに自分も呼ばれまして。「ああ,これはもうクビだろうな」と覚悟しました。
ところが銀一郎先生に,シミュレイターを閉じるつもりは全然なかったんですよ。「うまく続けていく方法はないか」「もっとウォーゲーマーの底辺を広げることはできないか」と,逆に相談を受けたんですね。
そこで自分は,もっと多くの人が手に取りやすく,かつ遊びやすい,言い換えると,ルールが簡単で,プレイ時間も短いゲームが必要だと主張しました。そしてその条件を満たすにあたっては,雑誌にそういう付録ゲームをつけるのが一番いいはずだ,と。
要は「書店でウォーゲームが買える」状況を作ったらいいんじゃないかと思ったんです。
4Gamer:
おお,『コマンドマガジン日本版』※14にも通底する企画ですね。
※14 1994年に中黒氏が創刊したウォーゲーム専門誌。今も継続して発行されており,2017年12月現在で通巻138号となる。詳しくは後述する。
中黒 靖氏:
でも実はその頃,「雑誌にゲームを付ける」という路線で,朝日出版社があまりうまくいかなかったんです※15。
「君はそれ,やったのかね?」と聞かれて「やってません。駒や地図を切り出すのが面倒そうで買いませんでした」と(笑)。
※15 朝日出版社が1983年に全6タイトルを出版した,『シミュレーションゲームブックス』のことを指す。ゲームデザインはアドテクノスが担当した。やや重めのゲームだった前半の3作に続く,後半の3作はプレイアブルかつ斬新なゲームシステムでマニアを唸らせたものの,商業的には難しい状況だった。6タイトル中,『アルデンヌの霧』『異聞関ヶ原 家康最大の敗北』を除く4タイトルは,後にゲームジャーナルから再版されている。
4Gamer:
(笑)。
でも「書店でゲームを売る」という方向性については評価してくれまして,試しにということで銀一郎先生が流通に相談してみたら,「できますよ」という話になったんですね。
それでSSシリーズが始まることになりました。1988年のことです。
4Gamer:
ここでSSシリーズ! 自分も当時はかなり遊びました。1500円という値段は手頃で,マップは小さめで場所をとらず,1時間くらいで終わるというのもありがたかったです。ソロプレイもしやすい作品が多かったですし。
中黒 靖氏:
ありがとうございます。実際,初期のSSシリーズは結構よく売れているんですよ。
最初の4作品は初刷3000部で勝負しましたが,増刷を重ねて,確か3刷まで行ったはずです。市場としてのウォーゲームはすでに完全に末期戦と言うべき状況でしたが,ゲーマーは新しい試みに興味を持ってくれたんですね。
4Gamer:
しかしながら,SSシリーズが始まってから3年後の1991年,シミュレイターは休刊となります。それだけでなく,1990年に季刊化したタクテクスも,1992年には休刊となってしまいました。
かつてはエポック社のような大手玩具メーカーが大規模に商品展開するくらいに注目を集めたウォーゲームが,ここまで市場を失ったのは,なぜだとお考えですか。
中黒 靖氏:
理由として真っ先に挙げられるのは,ユーザーの趣味が多様化したことです。アナログゲームに限ってもTRPGが登場しましたし,もちろんファミコンのような新しいゲームも広がりました。
そのうえで,「当時一般にウォーゲームならではの楽しみ」と考えられていたものを,より上手く満たせる趣味の登場を,「趣味の多様化」がもたらしたというのも重要だと思います。
4Gamer:
今の感覚ですと,ウォーゲームには他の趣味にない楽しみがあると思ってしまうのですが,1990年代の当時における「ウォーゲームならではの楽しみ」は,今とは違っていたんでしょうか。
これはちょっとややこしい話なのですが,今も昔も「ウォーゲームでしか味わえない楽しみ」というものは存在します。
ですが,ウォーゲームが大ブームとなっていた頃,多くのライトなユーザーさんが楽しんでいた「ウォーゲームならではの楽しみ」は,今の我々が考える「ウォーゲームならではの楽しみ」と,ご指摘のとおり,かなりズレていたんですよ。
前者,ライト層にとっての「ウォーゲームならではの楽しみ」は,いわゆる「ブンドド」なんじゃないかと。
4Gamer:
すいません。ブンドドって何でしょう?
中黒 靖氏:
戦闘機のプラモデルを手にして,「ブーン,ドドド」と戦闘が起こっている様子を空想する感じですね。それを当時,大真面目に取り組み,分かりやすい形で提示してくれていたのがウォーゲームでした。
もちろんミニチュアゲームのブンドド感もすごいですが,ボードゲームやウォーゲームのほうが手軽ですからね。
そういう楽しさは,ゲームというジャンルに限って言えば,かつてはウォーゲームの中にしか存在しませんでした。
4Gamer:
ミリタリーをベースにした,ルールのある「ごっこ遊び」感覚ですね。
中黒 靖氏:
まさにそれです。大なり小なり,このブンドド感に惹かれるところはあるんですよね。
実際,ミリタリーをテーマにした近年のコンピュータゲームは,FPSであれRTSであれ,非常に緻密で豪華なブンドド感を味わわせてくれますよね。
4Gamer:
確かに。
中黒 靖氏:
「ルールのあるごっこ遊び」という側面から見ると,TRPGでは,場合によってはウォーゲームより細やかな表現ができます。
あるいはコンピュータゲームであれば,ファミコン時代には既に,ウォーゲームよりも優れたブンドド感を味わわせてくれました。
4Gamer:
『チョップリフター』や『ゼビウス』,もしかしたらより古い『スペースインベーダー』の段階でも,すでにウォーゲームよりブンドド感は高かったかもしれないですね。
中黒 靖氏:
ええ。そんな感じで,かつてのウォーゲームにとっては最も分かりやすい「ウォーゲームならではの楽しさ」だったブンドド感は,新しいゲームが登場するたびに,「こっちのほうがもっと良い」という形で失われていくしかなかったわけです。
4Gamer:
なるほど……。
中黒 靖氏:
あともう1つ,経済的な事情もあったとは思います。
まずそもそも,ウォーゲームの大ブームそれ自体が,一種のバブルでしたよね。
4Gamer:
そこはおっしゃるとおりだと思います。
全盛期に海外からウォーゲームを仕入れていた人に話を聞いたことがありますが,コンテナいっぱいに積まれてきたゲームが,あっというまに売り切れたそうです。
中黒 靖氏:
初期は売り方もすごかったですよ。リストの中から欲しいゲームを第3希望まで書いて注文すると,そこからどれか1つが届く,みたいな。冷静に考えると「とんでもない」としか言いようがない売り方ですが,それでもみんな喜んで買ってたんですよね。
でもやっぱりあれは,バブルだったと評するしかないと思います。
4Gamer:
そうですね。
中黒 靖氏:
あともう1つ,時期的に,ホンモノのバブルが押し寄せたのも,わりと影響があったのではないか,と。
ウォーゲームを遊んでいたメインの層が,ちょうど社会人になった頃に,バブルの時代がやってきたんです。結果,「ウォーゲームなんかを買って遊ぶより,もっとマシな金の使いかたがあるだろう」的な空気が強まっていったというのは,肌でそれなりに感じていました。
初心者向けを狙ったSSシリーズの興亡
4Gamer:
少し話が前後してしまうのですが,SSシリーズについて,もう少し詳しく伺いたく思います。
というのも,自分が学生時代に一番遊んだのが,中黒さんのデザインされた『モスクワ電撃戦』と『ヒトラー帝国の興亡』だったんですね。
中黒さんはSSシリーズではモスクワ電撃戦とヒトラー帝国の興亡以外に,『ミッドウェイ空母戦』『バルジ』と,合計4作品を作られていますが,一番印象に残っている作品はどれでしょうか?
中黒 靖氏:
やはり最初に作ったモスクワ電撃戦ですね。この作品は,自分が初めてデザインした東部戦線のゲームなんです。
それまでは雑誌付録のゲームばかり作っていたんですが,モスクワ電撃戦は独立したゲームで,しかも超定番かつ人気テーマの東部戦線ということもあって,とくに思い入れが強いです。
4Gamer:
モスクワ電撃戦はSSシリーズが立ち上がるときにリリースされた4作品のうちの1つですが,これはどのような経緯で決まったんでしょうか。
中黒 靖氏:
SSシリーズを始めるにあたって,銀一郎先生は当時のウォーゲーム業界における名だたるゲームデザイナーに声をかけました。
SSシリーズは,コンポーネントの各種条件以外にも,8ページのルールに,8ページのヒストリカルノートを付けるという取り決めがありました。また,「ゲームのテーマにはメジャーなものしか認めない」という制限もありました。
4Gamer:
タラワの戦いでは駄目だ,と(笑)。
中黒 靖氏:
そうです(笑)。
ただメジャーなテーマだけに絞るとなると,どうしてもテーマが被ってしまう可能性が発生します。そこで銀一郎先生は,各デザイナーがテーマを1つ「キープ」できるようにして,「キープしているテーマのゲームは,原則としてそのデザイナーが作る」というルールを設定したんです。
で,実を言いますと自分は当初,北アフリカ戦線をテーマとしてキープしてたんですよね。
4Gamer:
ロンメルとかが活躍した砂漠戦ですね。
それがどうして独ソ戦になったんですか?
中黒 靖氏:
その頃の自分は,北アフリカ戦線全体を扱ったゲームを,チットプル方式※16で実現しようと考えていました。でも,どうもイマイチうまくいかなかったんです。
それで困っていたら,チットプルで北アフリカをやるというアイデアを知った銀一郎先生が,「それはやり方が悪いんだよ。チットプルなら戦線を絞れば面白くなるから,私に貸してみな」とおっしゃられて。「代わりに君は東部戦線作りなよ」と(笑)。
そこでテーマを交換することになり,銀一郎先生はクルセイダー作戦を扱った『ロンメルアフリカ軍団』を作り,自分は独ソ戦を扱ったモスクワ電撃戦を作ったという次第です。
※16 「敵味方の」「どの部隊が」「いつ」移動できるようになるか分からない方式のこと。ウォーゲームにおいては一般的に,陣営Aに属する駒が全部移動してから戦闘し,次に陣営Bに属する駒が全部移動してから戦闘する,という形で進行する。これに対し最も原始的なチットプル方式においては,「陣営A」「陣営B」と表示されたチットを2枚用意し,これをランダムに引くことで,「どちらの陣営が先に行動できるか分からない」という,混沌とした戦場の様子を再現することになる。
4Gamer:
そんな裏話があったんですね。
ところで,モスクワ電撃戦は,ウォーゲームのスタンダードから見ると,かなり変わったルールのゲームでした。
一般的にウォーゲームでは「隣のマスにいる敵に攻撃」が原則なのに,モスクワ電撃戦では,敵のいるマスに踏み込んだうえで,敵味方が同じマスで戦闘します。
また,戦闘の解決法もユニークです。普通はこのスケールだとCRT※17を使いますが,モスクワ電撃戦では「ユニットに示された戦力値の数だけサイコロを振る」という,いわゆる「ファイアパワー方式」を採用していました。
これらのルールを採用しようと考えたのはなぜでしょうか。
※17 「Combat Results Table」(戦闘結果表)。サイコロを振って,出た目を照らし合わせるための表のことで,「Combat Resolution Table」(戦闘解決表)とも言う。原則としては「戦場において攻撃を成功させるには,防御側比で3倍の火力が必要」という「攻撃者3倍の原則」に立脚しており,敵味方の戦力を比率で計算し,それを戦闘結果の基準とするシステムになっている。
中黒 靖氏:
また,一般的なCRTにおいては,戦力比を計算しなくてはなりませんよね。味方の戦力が12で敵が5なら,12:5で,これを端数切り捨てで丸めて2:1だ,といった計算です。でもファイアパワー方式を使えば,このような計算は不要です。それにドイツ装甲軍が戦闘に参加すると7つもサイコロが振れるので,爽快感もあります。
あとゲームのテイストとしては,当時シミュレイターの編集長だった鹿内 靖さん※18と対戦した『ロシアンフロント』※19の影響も強く受けています。鹿内さんとの対戦がとても印象深かったんですよね。
※18 編集者。シミュレイターの元編集長。鈴木銀一郎氏は「ウォーゲームに対する優れた美学を持つ男」として「軍神鹿内」と評している。その巧みなプレイテクニックと,その底に流れる一貫したゲーム哲学の一部は,筆者の連載バックナンバーで見ることができる。
※19 1985年にアバロンヒルが発売した,独ソ戦全体を扱うウォーゲーム。プレイ時間は15〜20時間程度と,それだけ見れば“重たい”ゲームだが,ルールは全体的に見て簡易に作られおり,当時は12歳以上,現代においても14歳以上ならプレイ可能と考えられている。現代に至るまで「独ソ戦ゲームの最高峰の1つ」と見なされている大傑作。とくに補給が重視されているが,補給の枝葉末節にこだわるのではなく,「補給切れになった部隊は次のターンには全滅する」という大胆な仕様なのが特徴で,包囲殲滅の爽快感は他に類を見ない。この「補給切れ=次のターンには全滅」というルールは,中黒氏もモスクワ電撃戦で採用している。
4Gamer:
なるほど,「初心者向けのウォーゲーム」ということを,かなり深いレベルで考えた結果だったわけですね。
中黒 靖氏:
SSシリーズで自分が作った4作品は,いずれも初心者向けということを強く意識しました。またそれぞれのゲームにおいて,それぞれ異なる努力もしたつもりです。SSシリーズを始めるにあたっては,「中学生のゲーマーが必要なのだ」というのが,1つの大号令でしたからね。
4Gamer:
とはいえSSシリーズも,徐々にマニア化していきました。
中黒 靖氏:
そうですね,こればかりはウォーゲームデザイナーの業と言いますか,何と言いますか……。
4Gamer:
(笑)。
中黒 靖氏:
先ほどお話ししたように,最初は,16ページある冊子のうち,8ページがルールで,8ページが歴史解説という約束だったんです。中学生のウォーゲーマーを育成していくためには,ゲームのルールだけでなく,その背景となる歴史の解説も必要だ,という判断ですね。
でも,ですね。そういう条件でゲームデザイナーに発注すると,だんだんとルールが歴史解説を圧迫していくんです(笑)。結局最後は16ページのほとんど全部がルールになってしまうという,わりと残念なことになっていました。
この「コンセプトのブレ」は,今でも残念に思っています。
4Gamer:
SSシリーズはコンパクトなゲームとして成立させるために,各作品ごとにまるで違った,個性の強いルールを持ったゲームとなる傾向がありました。
結果としてプレイヤーは,それぞれのゲームに対して,それぞれ異なるルールを覚えなくてはならなかった。
これが初心者向けゲームとしてのSSシリーズが抱える大きな問題だったのだとする説は,今もよく耳にします。
この指摘については,どうお考えですか。
中黒 靖氏:
難しい問題ですね。
確かに,オーソドックスな基本ルールを用意して,それぞれのゲームはそのバリエーションとして作ったほうが良かったのではないか,というのは昔からよく指摘されます。
でもこの方式は,一歩間違えると「新しいゲームを買ったけど,前のゲームと同じじゃないか」という状況を生み出しかねません。これはこれでマズいというのは,似たような展開をした海外のシリーズが示していますよね※20。
※20 米国では「同一システムで異なるテーマのゲームがたくさん遊べる」という試みが盛んになされ,一部は大いにヒットした。一方で,統一的な基本システムを無理に使ったせいでテーマとシステムの間に齟齬が発生し,まともなゲームとして成立しなかったり,ゲームとしては成り立っていても歴史性に大いに問題があったりという作品も生まれることになった。とくに後者はプレイヤーが「戦車が騎兵に変わっただけで,結局は同じゲームじゃないか」といった類の悪感情を抱く原因ともなっている。
今になって振り返ってみると,どっちの路線を選んでも結果は一緒だったのでは,みたいな気持ちになる部分も否定できません。それくらい,当時のウォーゲーム市場は逼迫(ひっぱく)していたんです。
新天地となる大阪で『コマンドマガジン日本版』を創刊
4Gamer:
話を戻しますが,1991年にシミュレイターは休刊となり,その3年後,中黒さんが編集長となって,国際通信社※21から『コマンドマガジン日本版』というウォーゲームの専門誌が出ました。
発刊までの経緯を教えてください。
※21 1984年に大阪で設立された出版社。主な業務は情報および通信関係で,設立時に『国際ジャーナル』という雑誌を創刊している。
自分が翔企画を辞めたのが1990年のことです。とくに誰かと喧嘩したとかいうことはなく(笑),円満退社でした。
その後,1991年からは大阪の国際通信社で仕事を始めました。自分が翔企画で行っていたメインの業務は編集ですが,その経験を買われて,今までとは完全に違う分野ではありますが,「大阪で編集者をやってくれ」と請われた形ですね。
4Gamer:
ある意味で,完全に新しい世界に飛び込んだわけですね。
中黒 靖氏:
いや,実のところ,それを期待していたんです。「まったく新しい仕事を始めるなかで新しいことを勉強して,新しいチャレンジもするぞ」と。
ところが実際に大阪で仕事を始めてみると,編集部で働いている“編集者”が,この手の仕事をまったくやったことがなかったりしたんですね。しかも扱っている原稿が手書きだったり,版下も手焼きだったりと,(東京で編集者として働いていた自分からすれば)いろいろとショッキングな状況で。
これはこのままではアカンぞと思いまして,ワープロを導入したり,DTP環境を導入したりといった形で,効率化と近代化を進めることにしました。
4Gamer:
1991年といえばWindowsが3.0,MacがSystem 7の時代。さすがに原稿はテキストデータで欲しいところですね。
中黒 靖氏:
ただ,自分としてはあくまでも,「新しいことの勉強」や「新しいチャレンジ」ができると期待して大阪に行ったんですよね。
でも蓋を開けてみたら,自分が教える側になってしまった。しかもある程度まで教えたところで,だいたいのことは皆できるようになってきて。なので正直,「もういいや」って思っちゃったんですよ。
だから社長に「これこれこういうことなので,辞めますわ」と言ったわけですが,そこで慰留されまして。「宮崎の都城に行ってほしい。都城にはタウン誌がないから,新しく創刊してほしい。そこで新しいことをすればいい」と。
4Gamer:
「新しくやることがないから辞めます」って言うのも大胆なら,「じゃあここで新しいことを好きにやればいい」って返す側も大胆ですね。
中黒 靖氏:
良くも悪くもおおらかというか(笑)。
でも都城でも3年くらいやると,仕事を引き継げる後継者が出てきて,またしてもやることがなくなってしまったんです。なのでまた「辞めますわ」と言ったんですが,そのときもまた慰留されまして。
「水臭いこと言うなや,お前がやりたい新しいことって何や?」と聞かれたので,「実は昔,ウォーゲームの専門誌を出してまして」と言ったら,「じゃあそれ,やれや」と。
4Gamer:
おおらかだ(笑)。
ただ会社として考えた場合,ただ「新しいことがやりたい」から「ウォーゲームの専門誌を作る」というのは,いろいろと話が通らないこともあるように思います。このあたり,どのようにして企画を通していったんでしょうか。
シミュレイター時代に,編集者としていろいろなコストまわりも見ていましたから,「だいたいこれくらいの予算が必要」というのを具体的に示せたのは大きかったです。
それからあくまで肌感ですが,1990年初頭の段階における日本のウォーゲーマーの数も,だいたいの推測はできていました。1994年となると,そこからさらに大きく目減りはしているでしょうが,それも踏まえて「これくらい」という数字を提示することもできたんです。
そのうえで,会社が儲かっていたというのは大きかったですね。経営側としても,「ここで経験の長い編集者を手放してしまうよりは,そんなに利益は出なくても,トントンなら新しいことをさせておこう」という判断が可能だったのだと思います。
4Gamer:
「根拠のある数字に則った企画書と,売上という確固たる実績を踏まえて,社内ベンチャーを立ち上げる」。実にカッコイイですが,まさにそんな感じだったわけですか。
個人的には勝手に「シミュレイターは休刊になったが,捲土重来を果たすため,中黒 靖は大阪で地盤を作ったのだ」みたいなドラマチックなストーリーを想像していたのですが,わりと成り行き成分が強めですね。
中黒 靖氏:
ですね(笑)。実際,翔企画を辞めた段階で,ビジネスとしてのウォーゲームからは足を洗ったという気持ちもあったくらいです。
ただ,こうやってまたウォーゲームの専門誌を出せることになったいま,これまで誰もやったことがないことをやらないと,同じ結果に終わってしまいます。というか,下手すると創刊号からして誰も買わないかもしれない,ということは真剣に考えました。
そこで思いついたのが,「英語で展開されているウォーゲーム専門誌の,日本版を出す」という企画です。今まで一部の記事を翻訳して掲載するということはあっても,海外の専門誌を基本まるごと持ってくるということは,誰もしていなかったので。
確かに。
ただ,当時の状況だと,「海外の専門誌」にも,いくつかの選択肢はあったかと思います。それこそ『Strategy & Tactics』※22(以下,S&T)を選ぶこともできたかと思うのですが,なぜ『Command Magazine』だったのでしょうか。
※22 米国で発行されている,世界で最も歴史の長いウォーゲーム専門誌。1967年に在日米空軍のChris Wagner(クリス・ワグナー)氏が同人誌としてスタートした後,幾度かの買収劇を経て,2017年12月現在の発行元はDecision Games,第308号が最新となる。
中黒 靖氏:
当時のS&Tは内容的にちょっと微妙だった,というのがあります。
ただ,それより大きな理由としては,Command MagazineはDTPで誌面を作っていた,というのがありますね。ウォーゲームの専門誌は,さまざまな理由から写真や図版が重要となるわけですが,他誌に比べてCommand Magazineだけ図版が突出して綺麗でしたし,レイアウトも凝っていました。
そのため,Command Magazineの日本版を作ることで,DTPの勉強もできるだろう,という目論見はありましたね。当時,日本にはまだまだDTPが普及していなかったんですが,幸運にも姫路にDTPに対応した出力センターがありまして,そこでいろいろな仕様について直接教えてもらえたのも大きかったです。
4Gamer:
米国にあるCommand Magazine編集部との交渉は,どのように行ったんでしょうか? 1994年のネット事情を振り返ると,テレホーダイがまだ存在しないような時代です。
中黒 靖氏:
米国の編集部に,ファクスで提案書を送りました。あっさりとOKがもらえましたよ。
最終的には1994年初頭に自分が渡米して契約しました。そのとき現地で編集部の様子を見せてもらって,DTPのワークフローも見て,「これならいける」と確信したのを覚えています。
4Gamer:
もう1つ昔から気になっていたのですが,創刊号の段階でコマンドマガジン「日本版」であって,「日本語版」ではなかったですよね。
日本版にしよう,つまり日本のオリジナルコンテンツも入れていこうと考えた理由を教えてください。
中黒 靖氏:
コマンドマガジン日本版を始めるにあたって,鹿内さんにも相談したのですが,鹿内さんからは「歴史記事だけではなく,ゲームの記事も必要だ」という指摘をいただいたんですね。「シミュレーションゲーム」の雑誌を作るにあたって,「シミュレーション」と「ゲーム」を切り離してしまったらマズいだろう,と。
4Gamer:
それはごもっともな指摘ですね。
なので英語版Command Magazineの完全日本語訳ではなく,「翻訳と,日本オリジナルコンテンツと,ゲーム」という構成でいくことにしました。「そういう形で行きたいのだが」と米国の編集部に打診したら快諾してもらえたので,契約書もそれに基いて作っています。
もっとも,今でも「海外記事の翻訳がもっと欲しい」という要望は根強くあります。また自分としても,日本とはまったく違った視点や切り口を持った記事や,あるいは日本ではとても出版できないようなマイナーテーマやゲームの記事など,日本語で紹介したいと思うコンテンツはたくさんあります。
このあたりは今後の課題,というところですね。
4Gamer:
コマンドマガジン日本版創刊号の反響として,何か印象深いものはありますか。
中黒 靖氏:
そうですね……。最も印象に残っているのは,佐藤大輔先生※23に怒られたことでしょうか。
※23 1964年生まれの作家兼ゲームデザイナーで,2017年3月に52歳で没。昨今では『征途』『レッドサン・ブラッククロス』『皇国の守護者』の作者,あるいは『学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD』の原作者として知られているが,そのキャリアはウォーゲームデザイナーとして始まった経緯がある。レッドサン・ブラッククロスも,最初はウォーゲームであった。
4Gamer:
なんですって!? それは佐藤大輔史の一部として,ぜひとも詳しく伺いたく思います。
創刊号のウリは何にしようかは,かなりいろいろと考えたんですね。鹿内さんのコラムと,銀一郎先生のコラムまでは,目玉として確定していましたが,もうちょっとほしいな,と。
そこで佐藤先生にも歴史記事を書いてもらうことにしました。創刊号のテーマは「アジアの戦争1944」,つまり日本が大陸で行った最後の攻勢についてでしたから,大陸打通作戦とインパール作戦のコラムを書いてもらうことにしたんです。
佐藤先生とはシミュレイター時代にいろいろ仕事をしていましたから,連絡はすぐに取れたのですが,佐藤先生はコラムを寄稿するにあたって「創刊号のカバーストーリーを先に読ませて」と言われました。
で,問題はこのカバーストーリーでして。付録ゲーム『When Tigers Fight』の作者であるDean Webb(ディーン・ウェッブ)※24氏の書いた記事なのですが,それを読んだ佐藤先生からは「この記事と一緒に僕の原稿が載るのはどうかと思うんだよね」と。
※24 ゲームデザイナー。When Tigers Fightのほか,『Cortes』『Sea Lion』などで知られる。当時のCommand Magazineは付録ゲームのカバーストーリーを実際に開発したゲームデザイナーが執筆することが多く,そのゲームがどのような歴史観で制作されているかがよく分かるようになっていた。
4Gamer:
そんなに問題のある記事だったんですか?
中黒 靖氏:
微妙か微妙でないかと言えば,微妙な記事でしたね。
Webb氏は「大陸打通作戦とインパール作戦は戦略的に呼応している」という拡大解釈をしていたんですよ。
4Gamer:
それは微妙なんてレベルではないのでは……?
中黒 靖氏:
結局,Webb氏のカバーストーリーは全部カットして,別の記事で置き換えることになりました。
とはいえ,後に創刊号を一種の記念号として再販することになって,そのときは幻のカバーストーリーも掲載しています。というのも,Webb氏はあくまでゲームデザイナーとして,「自分のゲームにおいては歴史をこのように解釈した」ということなんですよね。
When Tigers Fightは大陸打通作戦とインパール作戦の両方を含むゲームですから,確かにWebb氏の解釈のほうが「ゲームとしては」面白くなります。インパール方面の作戦で圧力をかけられれば,国府軍の支援に回せるリソースを減らすことができる,という具合です。
4Gamer:
「自分はある戦争Xについて,とある要素Aは大きな影響を与えていないと考えるので,ゲームの要素として取り込まない」ないし「とある要素Bは決定的な影響を与えていると考えるので,ゲームの重要な要素とする」という判断はウォーゲームをデザインするうえでは欠かせません。ですからそのあたりはデリケートな問題になり得るわけですね。
さて,雑誌は創刊から3号ほどで消えることもままありますが,「これならコマンドマガジン日本版を続けていける」という確信を得たのは,いつごろですか?
中黒 靖氏:
第4号ですね。完全DTP化で印刷コストを下げられたことが大きかったです。地味な話ですみません。
新しいことができないなら意味がない
4Gamer:
2017年12月時点で,コマンドマガジン日本版(以下,コマンド日本版)は最新の第138号が販売中です。日本のウォーゲーム専門誌では類を見ない長寿誌となったわけですが,これまでの間に「これはもう続けられないかもしれない」と感じたことはありますか?
中黒 靖氏:
あります。30号くらいの段階で,「これはもう無理かもしれない」と。
4Gamer:
意外と早い……。理由はやはり,部数の問題ですか?
中黒 靖氏:
いえ,実のところ,売り上げは創刊から変わっていませんでした。ただ,そのことが自分には大きな問題の1つだったんです。
ただ,それだけではないので,順番に問題点を整理させてください。
4Gamer:
ええ,ぜひ。
中黒 靖氏:
最初の問題は後継者問題でした。いつまでも自分がやっているわけにはいきませんから,編集部の後を継いでくれる人物が必要です。
宮崎でタウン誌を作ったときには,後継者の育成まで一通り終えることができたと先ほどお話ししましたが,コマンド日本版の場合はここがなかなか上手く育たなかった。
次の問題は,本拠地である米国におけるCommand Magazineの状況が,あまり芳しくなくなったということです。
Command MagazineはXTR※25が発行していましたが,2001年にはXTRが活動を休止し,雑誌も止まってしまいます。実際,コマンド日本版が30号前後に到達した頃には,だいぶ先行きが怪しい感じになっていました。
※25 1989年ごろに米国で設立されたウォーゲームの出版社。ウォーゲームの開発と出版,および専門誌Command Magazine発行で知られる。創設者の1人は後述するTy Bomba氏。
4Gamer:
そうだったんですか。
中黒 靖氏:
付録ゲームも,大きな問題でしたね。
コマンド日本版の付録ゲームは,基本的にメジャーテーマを採用してきました。日本での定番と言えば,戦国時代と東部戦線,太平洋戦争です。最近は日中戦争も意外とイケるテーマになりましたが,当時は厳しい状況でした。一方,米国では南北戦争と独立戦争が定番で,それらは日本市場でウケが悪い。
結果として,付録ゲームにできる弾を撃ち尽くす状態になってしまっていたんです。絶版になっていたエポック社のウォーゲームを復刻したり,ややマイナーテーマに入る第一次世界大戦を扱ったりもしましたが,「次のゲーム」の弾切れ状態を本質的に改善できる目処は立ちませんでした。
このように山ほど問題を抱えているにも関わらず,雑誌の売り上げは変わらなかったんです。
4Gamer:
伸びもしなければ,減りもしない,と。
中黒 靖氏:
後退はしていないけれど,進歩もしていないというのでは,続けていくことはできないですよ。何か新しいことをやって,変えていかなくてはいけません。
それで思い切って第38号で誌面をリニューアルして,全体にボリュームを増やしました。ゲームもGDW※26や3W※27といったデベロッパと交渉し,積極的にライセンスを取りに行くようにしたのです。
その甲斐あって,リニューアル後は売り上げも上向き始めました。
※26 Game Designers' Workshopの略。1973年設立で,1996年に解散した。ウォーゲームやTRPG・ミニチュアゲームといった,当時から分断されがちだったホビーの橋渡しをするという理念を有しており,多くの優れたウォーゲームを開発しただけでなく,SF系TRPGの金字塔である『トラベラー』など,TRPGも数多く発行している。
※27 World Wide Wargamesの略。Keith Poulter(キース・ポールター)氏が1977年に英国で設立した会社で,『Wargamer』誌を発行していた。TSRからSPI社の権利を買い取った後,カリフォルニアに移転してS&T誌を一時期発行したこともある。コマンド日本版ではWargamer付録ゲーム『Okinawa』などをライセンスした。
4Gamer:
中黒さんとしては,現状維持ではダメだ,というわけですね。
中黒 靖氏:
ですね。その後,第51号くらいで宮永※28にバトンタッチしました。いまではウォーゲーミングジャパンで「ミリタリーアドバイザー」に就任している宮永ですね。
それに合わせて自分はまた完全に違う仕事を(所属する国際通信社において)始めたので,2003年から2008年の間はコマンドマガジンの編集にタッチしていません。この時期は本当に忙しかったので,ウォーゲームを遊ぶことすら満足にできませんでした。
※28 宮永忠将氏のこと。現在ではWargaming.netの日本法人で活躍しているが,かつてはコマンド日本版の編集者で,自らウォーゲームのデザインを行うこともあった。
4Gamer:
その後,2010年前後から,中黒さんはゲームマーケットを主な舞台として,独自の活動を始めています。
ゲームマーケットという場に個人として出展してみて,どうでしたか?
最初に感じたのは,「ここは素晴らしい場所だな」ということですね。お客さんとデザイナーがサシで話ができる空間というのは,とても素晴らしいです。
ただ,個人出展だと,いろいろと難しいことも多いです。なかでも大きな問題になるのは,試遊卓ですね。とてもではないですが,きちんとしたケアはできません。
でも,自分の責任でブースを出して,自分が直接お客さんと接し,まったく知らない人と話をして,新しい考え方やものの見方を知る。そして,そうやって得た知見を,次のゲームにフィードバックしていく。この経験を積めるというのは,自分でブースを出すことの大きな意義だと感じています。
4Gamer:
中黒さんが個人としてゲームマーケットで展開した作品というと,いわゆるSF版権ものが1ライン,同人誌『このシミュレーションゲームがすごい!』(リンクは第1号pdfファイル,以下 このシミュ)が1ライン,低価格のジップロック・ウォーゲーム※29が1ライン,ハガキサイズないしフライヤーサイズの無料配布ゲームが1ライン,ということになるかと思います。
版権ものは趣味,ハガキゲームはプロモーションが目的というのは分かりますが,同人誌と低価格ウォーゲームについて,その制作意図を聞かせてください。
※29 一般的にウォーゲームは,ボードゲームと同様,固い紙製のボックスに入って売られている。一方で製造コストを削減するため,ゲームのコンポーネントをジップロック式の透明な袋に詰めて販売するという方式も,近年では一般的になった。海外ではユニットを厚紙にカラープリントして,それをレーザーカッターでカッティングし,同じくカラー印刷したマップとセットにして,ジップロックの袋に詰めて販売するという,「オンデマンド生産のウォーゲーム」すら存在する。
中黒 靖氏:
自分がゲームマーケットに向けた同人ゲームを初めて作ったのは,2012年のことです。
2012年春のゲームマーケットに向けて,同人誌としてのこのシミュを作りました。これはいわば雑誌スタイルの同人誌なので,付録ゲームも付けようということで作ったのが,『フィリピン攻略戦』※30ですね。
このシミュを作ろうと思い立ったのは,かなり個人的な理由です。実はその頃,古くからの友人が亡くなったんです。彼はかねてより「ウォーゲームの同人誌が出したい」と言っていまして,その遺志を継いだ格好になります。
※30 1941年12月から翌年1月までのフィリピン戦役を再現した作品。ルールは4ページとシンプルにまとまっているが,ユニットはプレイヤーがカッターで切って自作する必要がある。PDFで同人誌とともに無料配布されているので,そちらを実際に遊んでもらうと話が早いだろう。
4Gamer:
そんな背景があったんですね。
それから,500円のジップロック・ウォーゲームとしては『AFRIKA!』『NORWAY!』『KOMET!』※31を作りましたが,これは当時のゲームマーケットで「500円のゲームを作ろうコンテスト」的な企画があると聞いて,それに乗っかる形で作ったものです。
コンテストに応募はしていませんが,自分も作ってみたいなと(笑)。
※31 AFRIKA!は1941年3月から42年8月までの北アフリカ戦線を扱った作品。パンフレットなどで時折見られる,A4の短辺をつないだ横長の紙面を利用し,北アフリカの「横に長いマップ」を綺麗に収めた。NORWAY!は,1940年4月にあったドイツ軍によるノルウェイ侵攻「ヴェーザー演習」をテーマにした作品。AFRIKA!で横長に使ったマップを,今度は縦長に使った。艦隊編成が重要になるゲームで,勝負のほとんどは艦隊編成の段階で決まると言っても過言ではない。KOMET!は1944年におけるヨーロッパ上空の戦いをテーマとした作品で,難しくなりがちな空戦を,非常にシンプルなルールで再現してあり,空戦ゲームの入門用には最適だ。セルビアのウォーゲームデザイナーが作った空戦ゲームがベースとなっている。
その企画は「500円ゲームズ」と呼ばれているもので,いまや世界的な定番カードゲームとなった『ラブレター』※32が世に出るきっかけとなった企画として知られています。
同じ企画から,歴戦のウォーゲーマーを唸らせたNORWAY!が生まれていたわけですね……。実際に500円ゲームズという枠組みでウォーゲームを作ってみての感想はいかがですか。
※32 カナイセイジ氏が作ったカードゲーム。「たった16枚のカード,各プレイヤー1枚だけの手札」という,極限までミニマムにしたコンポーネントだが,実際にプレイすると奥の深い駆け引きと読みが楽しめる傑作だ。2014年度の「ドイツゲーム賞」で4位に入るなど,国際的な評価も高い。
中黒 靖氏:
自分自身,良い勉強になったと感じています。
ご存じのとおり,ウォーゲームは,その気になればどこまでも巨大化させられるゲームです。
だからこそ,「この枠の中で作れ」という制約が大事なんです。決まったコンポーネントの中で頑張る。そのときの「枠」が小さいと,ゲームはより凝縮できます。
もちろん,商売としては大変ですね。ですが,ゲームデザインのレッスンとしては,非常に良いと思います。次のゲームマーケットでも500円ウォーゲームの新作を作るつもりです。
4Gamer:
ゲームマーケットにおけるウォーゲームという面で見ると,2010年にはコマンドマガジンの企画として,『ウォーゲームハンドブック』をゲームマーケットで初めて販売しています。この企画はどのような経緯で成立したのでしょうか?
中黒 靖氏:
ゲームマーケット合わせの商品が欲しいというのが第一でした。かつてのSSシリーズのように,ウォーゲームをまったく遊んだことがない人でも楽しめるようなゲームが必要だと考えました。
しかもユニットは20個というコンパクトなデザインながら,それでちゃんと「ノルマンディー上陸作戦」というメジャーテーマを描けています。まさに,初心者にうってつけなんです。
このように,「小ぶりだが優れたウォーゲーム」を,個人が自力で作って,売っている。そんな時流の変化の中で生まれた作品を,ゲームマーケットをターゲットしたゲームとしてライセンス生産してみよう。そんな意図がありました。
その後,2014年にはアニメ『ガールズ・アンド・パンツァー』(以下,ガルパン)の公式ウォーゲームが発売になります。しかもルールをアニメのキャラである秋山優花里と五十鈴 華が解説するDVD付きと,非常に手のかかった構成になっています。
この企画はどうやって決まったんでしょうか?
中黒 靖氏:
言葉は悪いですが,ガルパンの人気に便乗する形で,『ワールドタンクバトルズ』※33をリニューアルしたゲームを出そう,というアイデアがありました。でも,そのまま売ったのでは,セールス的に厳しいことになるだろうな,とも思ったんですね。
でもある日,自衛隊のDVDに秋山殿のオビが付いているのを見たんです。それで,「じゃあ,ワールドタンクバトルズに,秋山殿のルール解説DVDを付けたらどうだ!?」というのを思いついたんです。
※33 2002年から2006年にかけてタカラトミー/海洋堂が発売した食玩『ワールドタンクミュージアム』に収録されている,優れた造形のミニチュア戦車を駒として遊ぶ戦車戦ウォーゲームとして,2002年に国際通信社が発売したもの。ワールドタンクミュージアムの模型がなくても遊べるよう,紙製のユニットも付属していた。
4Gamer:
なんと,DVDの構想が先だったんですね。
中黒 靖氏:
でも解説者として「秋山優花里」の名前を出すとなると,当然ですがガルパンの版権料が必要になります。それならいっそ,公式のゲームにするところまで持っていってしまったほうがいいじゃないか,と。
いろいろと大変なこともあった企画でしたが,幸運に恵まれた企画でもありました。最大の幸運は,DVDに収録する映像の制作をお願いした方が,ウォーゲーマーだったということです。おかげでDVDの内容については,ほぼ完全にお任せすることができています。
4Gamer:
さて,現状,中黒さんはコマンド日本版には直接参与はしていないということになっていますが,一方でオンライン通販ショップ「小さなウォーゲーム屋」や,フリーペーパー『Banzai Magazine』のような新しい活動もされています。また,ゲームデザインも活発に行われています。
これらの活動の狙いを教えてください。
中黒 靖氏:
大きく分けると,2つの理由があります。
1つは今のウォーゲームが持つ多様性を拾っていくため。もう1つは自分が作りたいゲームを作るため。
「だったらそれをコマンド日本版でやればいいじゃないか」という考え方もあるでしょうが,この2つはコマンド日本版の読者にとって必ずしも「欲しいもの」ではない可能性を有してもいます。なので,自分で細々とやってみているという状況ですね。
4Gamer:
「今のウォーゲームの多様性」ということですが,具体的にはどのような動きがあり,中黒さんはとくにどういったものに注目しているのでしょうか?
中黒 靖氏:
実は今,世界のあちこちでウォーゲーム専門誌が増えているんです。台湾では数年前から専門誌が刊行されていますし,イタリアでは専門誌が復活していると聞きます。
同時に,パブリッシャやデベロッパも国際色が豊かになってきています。たとえばドイツと言えばユーロゲーム※34の本場なわけですが,ドイツ人がミッドウェイのソリティアを作ったりもしています。フランス軍士官学校の教官が現代における市街戦のウォーゲームを作っていますし,セルビアで第2次世界大戦のウォーゲームを作っている人もいます。中国でもウォーゲームの制作が進んでいますし,ゲームマーケットで台湾製の『台北大空襲』※35を見た人も少なくないでしょう。
※34 ドイツでは昔からファミリー向けのボードゲームが作られていたが,1995年の『カタンの開拓者たち』以降,ドイツ国内でボードゲーム市場が大きく盛り上がった。簡単なルールで奥が深い展開を有するこれらの作品は当初「ドイツゲーム」と呼ばれて世界中に普及したが,やがてヨーロッパ全域で同じコンセプトのゲームが作られるに至り,呼称も「ユーロゲーム」に変わった次第である。
※35 1945年5月に行われた連合軍による台北空襲をテーマとした作品。燃え盛る台北の街を,家族の誰一人として死なせることなく生き延びるのが目的という,協力型ゲームだ。
こういった状況や作品を,雑誌で全部カバーするのは難しいというのが本音です。なのでこぼれたところを,フリーペーパーであるBanzai Magazineで吸収してみています。
ただ,同人フリーペーパーっていうのは,ちょっとやりすぎました。
4Gamer:
と言いますと?
作れば作るだけ自分の財布が痛む(笑)。このままでは続けられません。このあたりのマネタイズについては,今後はちょっと考えていきたいと思っています。
理屈の上では,QRコードを印刷した名刺を配布して,PDFファイルをダウンロードしてもらうとかいう手があり得ますけど,やはり手にとって即座に読めるものでないと,まず間違いなく誰も読まないですからね。
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