連載
クィアゲーマー魂の1本:第2回はまきちゃんさんと「VIDEOVERSE」。2003年のSNSから考える,オンラインコミュニティの意義
本企画「クィアゲーマー魂の1本」は,さまざまなクィアゲーマーに毎回1本のゲームを取り上げてもらい,その表現がどのように自身を支えてきたかを綴ってもらう,不定期のエッセイ連載だ。ひとりのクィアの視点を通じて,既存のゲームに対する新しい見方や関心を育ててもらえたら,望外の喜びである。
第2回は,海外クィアゲームに詳しいライターのまきちゃんさんだ。2003年ごろのインターネットを舞台にしたビジュアルノベル「VIDEOVERSE」から,クィアとインターネットコミュニティについて語っていただいた。
ゲームコミュニティにいると,多くのビデオゲームファンが「魂の一本」を持っているように見える。幼少のころに出会い,プレイしてから以後人生の支えになり,行動や創作のインスピレーション元になったりする一本だ。しかし自分には,幼少の時分から一貫した,ひとつの作品による影響や,あるいはひとつの作品への執着,とハッキリ言える作品は存在しない。
自分がゲームに対してそんなふうに思えるようになったのは,近年の開発者の個人的な経験が反映された小規模ゲームのムーブメントのなかでのことだ。はっきりとマイノリティへの寄り添いの姿勢が見える,クィアでフェミニスト的でかわいい作品たちは,ゲームプレイや物語を通して自分の心に様々なものを遺してくれ,それらは実際に自分の現在の行動のインスピレーション元になっている。
そしてその中でも特に強く心に残った,強く共感した作品がある。「VIDEOVERSE」だ。
面白いことに,ちょうど本作のオープニングもこんな感じのナレーションで始まる。
「ビデオゲームが後の人生に影響を与えることがある……」。
2023年に個人デベロッパのKinmoku Gamesによってリリースされた「VIDEOVERSE」は,ジャンルで言えばビジュアルノベルである。プレイヤーは15歳の少年エメットとして,インターネット機能付きのゲームコンソール「シャーク」でゲームをプレイしたり,コミュニティサービス「ビデオバース」にログインしてコミュニティと交流したりするのだ。
画面のデザインや設定から「Hypnospace Outlaw」(2019年のゲーム。1990年代風の奇妙なインターネット空間を探検し,規約違反のユーザーをBANしていく異色作)なんかを思い出させるかもしれないが,本作は基本的にほとんどオーソドックスなビジュアルノベルである。
本作の舞台は2003年。ドイツに住んでいるエメットは,ビデオバースで出会った友人に勧められた新作RPG「フューダルファンタジー」(FF)にハマっている。そこでさらに,友人にゲームのファンが集まるコミュニティを紹介してもらう(ビデオバースには話題や作品ごとにコミュニティが存在する)。そこでは,これまで他のコミュニティで知り合ってきたユーザーや,あるいは初めて出会うユーザーたちが,「FF」の攻略情報やファンアートを共有して交流していた。ゲームにハマったエメットも,同じように積極的に交流し始める。
そんな中,エメットはひとつの投稿を見かける。あるユーザーによる,「FF」のキャラクター「ハンゾウ」のファンアートだ。他のコミュニティでも,このゲームのコミュニティでも見たことがないユーザーで,絵柄もちょっとほかとは違う感じである。ビデオバースに参加してから日が浅いようで,アバターもちゃんと設定されていない。エメットは,その「Vivi」という名前の,他と違う雰囲気を感じさせる謎のユーザーのことが気になり始める。そこからエメットと「Vivi」との交流が始まっていく……というのが本作の導入である。
ここまでならノスタルジーを感じさせる青春ロマンスストーリーという感じだが,本作にはここに面白いヒネリがある。エメットたちが楽しく交流する「FF」コミュニティだが,もうすぐ終わってしまうことが告知されているのだ。正確には,コミュニティ機能を提供するビデオバース自体のサービスが終了するのである。ビデオバースはゲームハードのシャークに紐づけられたサービスなのだが,このハードは次のハードに取って代わられる存在になってしまったのだ。
なんせシャークは1998年発売(おそらく)の5年選手。既に後継機「ドルフィン」は発売されていて,業界もその話題でもちきり。ゲーム雑誌も「ドルフィンに買い替える50の理由!」なんて記事で盛り上がっている。これからの新しいソフトたちも,みなドルフィンでリリースされるようだ。エメットも,ビデオバースの終了を寂しく感じつつも,新ハードへの興味を抑えきれない様子を見せる。サービス終了までは残り数か月。エメットはそんな状況のなかでコミュニティに参加し,人々と交流していくのである。
本作の素晴らしいところは,ゼロ年代にティーンエイジャーだった人たちの,今ほどにオンラインでの交流が当たり前だと考えられていない時代の雰囲気や感情をリアルに捉えているところだ。「インターネットで知らない人に個人情報を教えないようにしましょう」なんて警鐘の声が圧倒的だった時代の交流のドキドキ感。シンプルな似顔絵アバターやIDの文字列のなかに人格をがうかがえる感じ。プレイヤーはチャットの返答や投稿へのコメントを選択肢のなかから選べるのだが,それらの選択を真剣に考えてしまい,選択の結果による関係の変化に「やっちまった」とか「やった,仲良くなれた」とか感じられるようになるのも面白い。
そして,終わろうとしているコミュニティの雰囲気もリアルだ。モデレーターがいなくなり,通報やBAN機能も機能しなくなり,過激・攻撃的な投稿が放置される。常により稼げる仕組みが目指される資本主義社会のなかでは,ビデオバースのような稼げないサービスへのサポートは早期に打ち切られてしまうのである(ビデオバースは無料で,新たなサービスは月額制だ)。もちろんそんな中でよりリスクを負い,攻撃の対象になりがちなのはクィア,女性などの属性のユーザーたちで,ビデオバースも例外ではない。
現代のインターネットのコミュニティ・SNSを利用していて,かつビデオゲームのファンダムに触れてきている人間であれば,本作で描かれるものには思い当たる部分がたくさんあるはずだ。イーロン・マスク氏のTwitter買収,マイノリティへの攻撃の激化,居心地の悪くなっていくコミュニティ。「VIDEOVERSE」で描かれるコミュニティの混乱は,驚くほどに我々の現実と重なっている。
本作の主人公であるエメットは,そういった混乱の影響をあまり受けないユーザーだ。身体・精神ともに健康で,家は比較的裕福。父も社会的に立派な仕事についている。家族旅行にも行けるし,クリスマスプレゼントに新ハードをねだれば買ってもらえるだろう。
別にコミュニティの終了に伴う状況に無関心なわけでは決してない。居心地のよいコミュニティの構築・維持には熱心で,荒らしや差別的な投稿への対応も積極的,誰にでも優しくあろうとする(これらはプレイヤーの選択にもよる)。しかし,差別的なユーザーによって属性で攻撃されることはほとんどないし,新しいハードを買ってもらえれば,新たなサービスに難なく参加・順応できるだろう。
しかし「Vivi」や他の何人かのユーザーは違う。家庭の事情だったり,身体的な不都合だったり,その他の悩みだったり,さまざまな要因が影響して,彼女らはエメットのように楽観的にはなれない。世の中,新しいハードを買って,新しいサービスに参加できる人間ばかりでもないだろう。こういったオフラインの境遇に由来するユーザー同士の感覚のズレは,メインストーリーのなかで度々描かれる。エメットはそのような境遇の差を目の当たりにしながら,少しづつ認識を改めていくのである。
ストーリーのラストの展開は,エメットのそうした経験が反映されたものになっている。ゲームコミュニティには多様な人間がいるということについて,彼らの不便がいつでも十分に問題にされていないことについて,コミュニティの有害さについて,それらと同時に,コミュニティが人々を救い,ポジティブな影響を与えることについて。ディスアビリティやクィアネスをフィーチャーしつつ語られる,コミュニティやアクセシビリティについてのメッセージは「ノスタルジックなインターネット青春ストーリー」のような第一印象からは大きく離れた,ユニークで感動的なものである。
自分は本作をクリアしてから,オンラインコミュニティのポジティブな可能性について考えている。
現代のインターネットや,ゲームコミュニティは本当にひどい場所だ。このゲームのなかの出来事はリアルに感じられるが,実際のオンラインコミュニティを取り巻く問題はもっとひどい。マイノリティにとってはもちろん,誰にとっても居心地の良い空間ではないはずだ。
それでも,このゲームで描かれたような,交流,連帯,エンパワーメント,啓発などのポジティブな可能性があるのも確かだ。それは多くの人たちにとっては本当に大きな可能性であるし,自分自身も,そういう力に何度も助けられてきた。オフラインでは様々な理由で繋がること,コミュニケーションすることが叶わなかっただろうオンラインの友人たちとの交流がなければ,いまのように比較的穏やかに過ごせてはいなかっただろう。もちろん,この記事を書いているのもそういった繋がりの結果である。
オンラインのゲームコミュニティのなかでマイノリティフレンドリーを志向し続け,腐らずにその姿勢を保ってやっていくのは本当に難しい。実際,トキシックな空気の波に押しつぶされ,自分が何をやっても変わらないだろうと思うことはしょっちゅうある。繰り返すが,オンラインのコミュニティは最悪だ。しかしそれでも,そこにオンラインの繋がりが必要な人間がいる可能性を考え続け,よいコミュニティを作り育てることのポジティブな可能性を忘れないことには,個人のちょっとした努力・抵抗以上の意味があるように思う。
その可能性の光を考えさせてくれた「VIDEOVERSE」はまさに,この社会のなかで生きるひとりのクィアとして,戦わねばならぬ自分にとっての「魂の一本」である。自分も,いつか堂々と「オンラインのゲームコミュニティは最高だ!」と叫べる日が来ることを願いながら,こつこつと地道に戦っていくつもりである。
「VIDEOVERSE」公式サイト
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