お気に入りタイトル/ワード

タイトル/ワード名

最近記事を読んだタイトル/ワード

タイトル/ワード名

LINEで4Gamerアカウントを登録
「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載
特集記事一覧
注目のレビュー
注目のムービー

メディアパートナー

印刷2025/12/30 11:30

企画記事

「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載

7 「火吹山の魔法使い」,すぐさまベストセラーに!


1985年7月頃の新聞に出た社会思想社ゲームブックの新聞広告(提供:石黒正隆氏)。今日ではちょっと考えられない
画像ギャラリー No.012のサムネイル画像 / 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載
 「火吹山の魔法使い」はどれくらい爆発的なブームを呼んだのか? 大手新聞にゲームブックの広告が踊り,学校ではクラスの多くが――ゲームとは縁遠そうな野球部や柔道部といった体育会系の学生らも――こぞってゲームブックをプレイし,すでに国民的漫画であった藤子・F・不二雄「ドラえもん」で,それこそ「火竜の秘宝」と題したゲームブックがひみつ道具として登場する回が描かれたほどである※1

 日本人作家のドイツゲーム大賞受賞がNHKニュースになるような時代が,ようやくやってきたが,新作のアナログゲームがここまで大々的に注目されるのが当時,空前の事態であったのは論をまたない。
 しかも,配本1週間で最初に売れたのは,東京大学本郷キャンパスの生協の書店だったという。一般書店でも大学生から高校生,中学生へと口コミで広がり,その熱狂が小学生へ届くまでは,さほど時間を要さなかった※2

 発売1か月で6刷,帯には「大ベストセラー」の文言が踊り※3,発売部数も「火吹山の魔法使い」は1985年5月時点で15万部,2冊目の「バルサスの要塞」(1985年4月25日発行)は,発売1か月足らずで10万部を突破※4。4か月後の9月には,前者が29刷25万部,後者が21刷20万部に達している※5
 「火吹山の魔法使い」は1985年いっぱいで36万部に達し,国産でも西東社の「ウォー・ゲーム」(柴田竜男)が20万部以上のヒットとなった※6

 文庫1冊が1万5000〜2万部は出ていた時代だが,現代教養文庫では5000部や9000部が珍しくなく,「火吹山の魔法使い」と同時期には1万部刷るのも冒険であった※7。一方,イアン・リビングストン氏は,日本においてFFシリーズは,初版の1冊につき5000〜1万部ほどが出ており,シリーズ累計では300万部を越えるヒットだと語っている※8。これらの証言から類推すれば,「火吹山の魔法使い」の初版は1万部以下のスタートだったことがうかがえる。

「ドラえもん」に登場した「火吹山の魔法使い」がモデルと思しきゲームブック。引用はてんとう虫コミックス版(小学館)第38巻より
画像ギャラリー No.013のサムネイル画像 / 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載

 「ウォーロック」4号(1987年4月号)では,ジャクソン&リビングストン両氏の来日決定が大きく報じられているが,これは「火吹山の魔法使い」がミリオンセラーを達成したことで招致が決定したのだという※9
 両者が実際に来日したのが1987年4月24日であることに鑑みれば,企画や各種調整の時間を考慮すると,1986年末には100万部に到達していた公算が高い。イアン・リビングストン氏は「ダイスメン」で,「日本で200万部以上売れたら,我々を大々的な宣伝ツアーに招待すると社会思想社は言っていた」と述べているが,これは累計部数だろう。
 具体的な数字はともあれ,訳者の浅羽莢子氏は訳者印税でマンションを購入できたというから,そのクラスの大ベストセラーなのは間違いない※10
 ――関係者の誰も,ここまで売れるとは思っていなかっただろう。

  • そもそも,どういった経緯でこの本が出ることになったのかを知るなら,8へ
  • 同時期のファミコン攻略本ブームを確認するのなら,9へ
  • ブームによる負の側面を押さえておく慎重派の君は,10へ進むこと。

※1:「ゲームブック」,「小学五年生」1985年7月号(小学館)。単行本化にあたっては「冒険ゲームブック」と改題された。
※2:「ゲームブック“パソコン世代”に人気読者も“参加”が魅力」,「朝日新聞」1985年9月22日)。
※3:ニフ氏の調査による。
※4:「“ゲームブック”大うけ」,「讀賣新聞」1985年5月6日号。
※5:前掲「朝日新聞」。
※6:「出版指標年報 1986年版」。
※7:社会思想社関係者の証言による。
※8:イアン・リビングストン「ダイスメン:ゲームズ・ワークショップのオリジン・ストーリー」(白石瑞穂訳,岡和田晃・矢田部健史翻訳協力),ニューゲームズオーダー,日本語版2025年。
※9:安田 均氏のX(Twitter),2022年7月23日。
※10:浅羽莢子「ゲームブック翻訳顛末記」,「Bug News」1986年4月号,ビー・エヌ・エヌ。


8 キーパーソンとなった編集者・田中矗人氏の決断


 社会思想社というおカタい名前の版元がゲームブックを出していると知ったとき,誰しもが頭にハテナ・マークを思い浮かべただろう。学術系の老舗出版社。戦前,ファシズム批判を行ったがために軍部や右翼に弾圧され,著書を発禁にされた河合栄治郎の弟子たちが立ち上げた出版社である。
 海外から見た日本論の古典であるルース・ベネディクト「菊と刀」(日本語版1948年)のほか,夢野久作・小栗虫太郎・久生十蘭・香山 滋・日影丈吉らの「変格ミステリ」も,同社の現代教養文庫から出ており,読書家ならば知る人ぞ知る版元,そして当然,紀田順一郎氏との縁も深かった。

 1977年にはアレックス・ヘイリーの小説「ルーツ」がベストセラーになる。これは奴隷としてアメリカに連れてこられた黒人の末裔が,祖先クンタ・キンテとその一族の歴史を辿っていく物語であった。しかし,続けて何を出すべきかという“次の一手”を欠いていて,また取次(本の問屋に相当する会社)からの注文に応じて過剰な増刷を重ねた結果,「返本地獄」に陥ってしまった※1

社会思想社編集部長だった田中矗人氏。「朝日新聞」1986年4月7日夕刊より。当時46歳
画像ギャラリー No.014のサムネイル画像 / 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載
 そうした折,起死回生の一手になったのがゲームブックだったのだ。
 「業界の酸いも甘いも噛み分けた,文化人型の編集者,という趣でした。ちょっと苦労人の雰囲気もただよわせていました」と関係者が語る――当時は四十代半ばであった,編集部長の田中矗人氏(故人)が,イギリスのペンギン・ブックスから「面白い本がある」との打診を受けた※2

 当時の田中氏は,ゲームブックはおろかRPGなど知る由もなく,「えたいが知れなく三,四か月放置していた」ほどだったが※3,えいやっと紀田順一郎氏に相談し(パラグラフ4を参照)出版を決意したという。

 浅羽莢子氏に白羽の矢が立ったのも,おそらくは紀田順一郎氏の紹介だろう。紀田氏は慶應義塾大学推理小説同好会の出身だったが,浅羽莢子氏は手近なミステリ・サークルがないからと,東京大学出身者ながらも,そこに出入りしていたのである。
 そんな浅羽氏と田中氏は,「めちゃくちゃ当たるか,まるっきり売れないかのどちらかですね」と,笑いながら話していた※4。「火吹山の魔法使い」の見本が刷り上がってからも本当に面白いか確信が持てず,中学生だった長男にプレイさせて感想を聞いたほどである※5

 一方,リビングストン氏は,日本での出版の経緯につき「日本の編集者が『火吹山の魔法使い』のサンプルを,英語を勉強していた十代の息子に与えたのだ。彼の息子は夢中になったので,社会思想社はすぐに日本の出版に関する契約にサインした」と証言している※6。彼我の認識に微妙な温度差はあれども,大人の視点だけではなく,新しい世代の手応えが大きな後押しになったことは間違いないだろう。

 ベストセラーになったのち,たちまち続刊が求められるわけだが……第3巻の「運命の森」以降,どうしても浅羽氏のスケジュールの都合がつかない。そこで新たな翻訳者を探す必要が出てきた。さらには読者のサポートも考えねばならない。君は……。

  • 日本語版「火吹山の魔法使い」の特徴を,さらに掘り下げるのなら,11へ
  • 第3巻「運命の森」の訳者・松坂 健氏について知るのなら,12へ
  • スティーブ・ジャクソンの「ソーサリー」4部作を出した東京創元社の話は,14へ

※1:社会思想社関係者の証言による。
※2:「ゲームブック“パソコン世代”に人気 読者も“参加”が魅力」,「朝日新聞」1985年9月22日。
※3:同前。
※4:浅羽莢子「ゲームブック翻訳顛末記」,「Bug News」1986年4月号,ビー・エヌ・エヌ。
※5:「現代の小さな冒険1 ゲームブックで“疑似体験” 若者とらえた新感覚の遊び」,「朝日新聞」1986年4月7日夕刊。
※6:イアン・リビングストン「ダイスメン:ゲームズ・ワークショップのオリジン・ストーリー」(白石瑞穂訳,岡和田晃・矢田部健史翻訳協力),ニューゲームズオーダー,日本語版2025年。


9 「攻略本」という新しいスタイル


 実際,狭義のゲームブックだけがベストセラーだったわけではない。「ゲーム本」そのものが,ウケにウケていたのだ。

 1985年はファミコン・ブームの年。10月31日に発売された「スーパーマリオブラザーズ完全攻略本」は,発売2か月足らずで,1985年度の全書籍のベストセラー1位となったばかりか,翌1986年の1位にも輝いているモンスター・ブックで,ミリオンセラーを達成したとも言われている。
 「スーパーマリオブラザーズ完全攻略本」の2か月前には,田尻 智氏らゲームフリークの同人誌をベースにしつつ,塩崎剛三(東府屋ファミ坊)氏ら「ログイン」編集部の面々で制作した「ドルアーガの塔のすべてがわかる本」(アスキー)が出ている。
 メーカーからの情報提供がまったくないなか,全60面だけではなく,いわゆる「裏ドルアーガ」の一部のヒントや各種コラムを隅々まで書き込んだ労作で,攻略本というスタイルを形作った一冊であった。

 営業面では難色を示されたというが,蓋を開けたら発売2週間で8万部が売れ,発売から2か月は週間ベストセラーの1位と2位を独走。1985年のベストセラー本の19位に位置し,最終的には30万部を売り上げた※1。読者はRPGという未知の世界をもっと知るための手がかりを求めていたのだ。

「ファミコン通信」創刊号(1986年6月20日,アスキー)。当時は攻略情報が中心だったが,ごくごく自然にゲームブックが紹介されている
画像ギャラリー No.015のサムネイル画像 / 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載

 ただし,ファミコンは本体が1万4800円で,遊ぶにはソフトも買わねばならない。それが4900円。バブル経済の狂騒真っ只中とはいえ,誰もが買えるというわけではなかった。ファミコン版「ドルアーガの塔」が50万本の時代だったから※3,「火吹山の魔法使い」はそれ以上に普及していたことになる。

 しかも,「ドルアーガの塔のすべてがわかる本」はあえて300円と価格を押さえたため,売れてもほとんど利益が出なかったというが,「火吹山の魔法使い」は480円と,ほかの文庫に比べるとやや高価ながら,ワンコインに収まるという絶妙な価格設定で,そこも功を奏したようだ。
 D&Dの赤箱も4800円と高価ながら,1991年までに20万セットを売上げた※2。これも購入すればハードウェアなしで,すぐに遊べたというのが大きかったのだろう。とにかく,人はRPGに飢えていたのだ。

  • キーパーソンの名編集者について知りたければ,8へ
  • 日本語版「火吹山の魔法使い」の特徴について,さらに掘り下げるのなら,11へ
  • ブームがもたらした問題点については,10へ進むこと。

※1:塩崎剛三「198Xのファミコン狂騒曲」,SBクリエイティブ,2024年。
※2:当時D&Dを発売していた新和関係者の証言による。
※3:前掲「198xのファミコン狂騒曲」。


10 週刊誌で取り上げられたゲームブックブーム


 もっとも,ブームは粗製乱造をもたらした。
 「週刊現代」1985年11月23日号に当時の熱気を伝える記事が掲載されているが,そこには「ゲームブックはいまや総点数が百種類を超え、平均で五万部の超人気」と書かれている。
 英語参考書で著名な桐原書店が出したゲームブック「エキサイティング・ゲームブック」シリーズを書いていた「スーパー頭脳集団アイデアファクトリー」への取材記事もあり,これによると同シリーズは,パソコン好きのサラリーマンがアルバイトとして10人ほどのチームを組み,1冊2か月程度のペースで作っていたという(実際の刊行ペースは,もっと早かったが)。

 一方,成人男子向けと思われるゲームブック,オフケン編「勝率93%の女の攻め方」(ごま書房,1985年)も紹介されている。こちらの代表はエリート証券マン出身のようで,コンピュータ・ブームを見越しながら「世の中で一番ポータブルなのは紙」だから,「パソコンのプログラムをペーパーブック化すれば必ず消耗品としてヒットするに違いない」と,その持論を語っている。
 つまり,コンピュータを使って短期間でフローチャートを作成し,すぐに読み飛ばせる「消耗品」としてゲームブックの体裁を活用したのだ。

 「週刊現代」の記事には安田 均氏のコメントもあるが,その文言からは「消耗品」のようなビジネス書と,「火吹山」のようなゲーム性を重視した作品を区別して捉えようという姿勢が垣間見える。“柳の下の泥鰌”に釘を刺した格好だろうか。

 ゲームブックブームの終焉は思いのほか早く訪れることになったが,その渦中にいた関係者や読者が,口を揃えて言うのが「粗製乱造」という言葉である。高価な機材もいらないし,プログラミングの技術がなくてもゲームが作れてしまう。相対的に低コストで出版できてしまうということから,玉石混交の状態に陥ってしまったのだ。

  • キーパースンの名編集者について知りたければ,8へ
  • 日本語版「火吹山の魔法使い」の特徴について,さらに掘り下げるのなら,11へ
  • ライバル会社の東京創元社がどうだったかが気になるなら,14へ


11 「火吹山の魔法使い」の付属品


 「火吹山の魔法使い」をプレイするには,サイコロやキャラクター用紙が必要だったが,今のように100円ショップでダイスなどが売られている時代ではなかった。そのあたりは社会思想社側も意識していたようで,本文には「冒険記録用紙」の欄が設けられていたし,その隣には,モンスターとの戦闘経過を記録できる「怪物対戦表」もあった。

「火吹山の魔法使い」日本語版初版の冒険記録紙・怪物対戦表(提供:ニフ氏)
画像ギャラリー No.016のサムネイル画像 / 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載

 それだけではなく,組み立てるとサイコロの形になるシート(裏面にルールサマリー付き)や,「冒険記録用紙」や「怪物対戦表」そのものもまた,投げ込みという形で添えられていた。古本でこれらが付いているものを見つけて,前の持ち主の冒険の経過が書き込まれているのを見ると,なんだか“ほっこり”したものだ。

「火吹山の魔法使い」日本語版初版に投げ込まれたサイコロシート(提供:ニフ氏)
画像ギャラリー No.017のサムネイル画像 / 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載

 しかしながら,こうした付属品はいつからあったのだろうか? そもそも「火吹山の魔法使い」初版の裏表紙は,真っ白であらすじも何も書かれておらず,当時の現代教養文庫としては標準的な仕様だったものの,無愛想な印象は否めない。
 表紙や背表紙に“FF印”のロゴが入ったのも,ずいぶんあとになってからである。また,本文に登場する「ディ マジオ」で終わる呪文も,縦書きのものもあれば横書きのものも存在する。

 実直な調査により,これらを解き明かしたのがゲームブックファンのニフ氏である。氏は初版から第50刷(1989年5月15日)までの差異を丹念に調査し,その結果を表にまとめている。
 それによると,投げ込みのシートはまちまちだったようだが,裏表紙にあらすじが記載されたのは,第30刷(1985年8月15日)から。背表紙にロゴが入ったのが39刷(1985年11月30日)であった。ちなみに消費税の導入にもすぐさま対応し,49刷(1985年1月10日)では価格表記が消費税込みのものになっている。

 また,ささやかながらグッズ展開もあった。カバーに付属していた応募券を集めて送ると,オリジナルの缶バッジがもらえたのだ。海外版のレイアウトを日本独自にアレンジしたデザインになっており,今や貴重品である。持っている人は大事にしてほしい。

日本オリジナルの「ファイティング・ファンタジー」缶バッジ(提供:吉里川べお氏)
画像ギャラリー No.018のサムネイル画像 / 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載 画像ギャラリー No.019のサムネイル画像 / 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載

 なお,「火吹山の魔法使い」は1986年にボードゲームにもなっている。本邦では英語版に日本語のルールブックが付属する形だったが,これはD&Dだけではなく,ゲームズ・ワークショップのRPG風ボードゲーム「タリスマン」(1983年)の輸入・販売も手掛けていた新和がリリースしたものであった。

  • そろそろ「火吹山の魔法使い」の話は飽きた,続刊の背景を知りたいなら,12へ
  • スティーブ・ジャクソンの「ソーサリー」4部作を出した東京創元社を調べるなら,14へ
  • ゲームブックブームの問題点について再考するなら,10へ


12 “ミステリ・コンシェルジュ”松坂 健氏


 「ファイティング・ファンタジー」の第3巻「運命の森」の奥付には,1985年7月25日と記されている。
 その前の月には,D&Dの赤箱・通称「ベーシックルールセット」が発売され,2週間前の7月12日には,創元推理文庫から「ソーサリー」の第1巻「魔法使いの丘」が出ている。そんなタイミングでの発売であった。

訳者が浅羽莢子氏から替わった最初の本である「運命の森」。社会思想社関係者によれば,浅羽氏は2巻の翻訳もそこまで乗り気ではなかったという。“色”がつくのを避けたかったのかもしれない
画像ギャラリー No.020のサムネイル画像 / 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載
 しかも月末の7月30日には,「14へ行け」で知られる「ドラゴン・ファンタジー」の第1巻「暗黒城の魔術師」も登場。アイルランド作家J・H・ブレナン氏ならではのトール・テール(ホラ話)というか,“モンティ・パイソン”にも通じるブラックユーモアというか,ゲームブックに“語り=騙り”の面白さを本格導入した傑作である。
 つまり海外の骨太な作品群が精力的に紹介され始め,早くも“RPG戦国時代”の幕開けと相成っていたのである。

 そんな中,今後の帰趨を占うであろう第3巻の訳者に抜擢されたのが,松坂 健氏だった。「運命の森」の解説で,「火吹山の魔法使い」を子どもたちが遊ぶ様子を生き生きと描いており,そんな氏の優しい筆致が印象に残っている方も少なくないだろう。

 それまで何冊か訳書を出していた浅羽莢子氏とは異なり,松坂 健氏はこれが初の訳書だった。そこに白羽の矢を立てたのは,やはり紀田順一郎氏。松坂氏は慶應義塾大学推理小説同好会で,紀田氏の後輩であった。おまけに当時,松坂氏が勤務していた柴田書店が,社会思想社と同じ東京都文京区本郷三丁目に位置しており,いわば“お隣さん”同士である。

「で,編集者が相談したら,すぐ近くに便利な男がいて,英語もそこそこできるし,ゲームものにもある程度造詣があるはずだから,ということで,僕に話が振られた次第です」というのが松坂氏の証言だが※1,そこにはだいぶ謙遜があったようだ。

松坂 健氏による社会思想社版「運命の森」訳者あとがき。氏の最初の訳書だった
画像ギャラリー No.021のサムネイル画像 / 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載
 当時,すでに松坂氏は別名義で「ペーパーバック読書学」(1981年)を上梓していた。
 ミステリ評論家・瀬戸川猛資氏が設立したトパーズブレスから出版された同書の参考文献欄には,紀田順一郎氏の「現代人の読書」(三一書房,1964年)が挙げられており,リスペクトのほどが窺い知れる。
 氏は,軽佻浮薄な“面白主義”に反するコンセプトを持つ,同版元の書評誌「BOOKMAN」のメインライターでもあった。

 何より松坂 健氏は自他ともに認める“ミステリ・コンシェルジュ”として,最新のエンターテイメントを若い読者へ魅力的に伝える術に長けていた。
 自身もゲームブック「13人目の名探偵」(宝島社,1987年)を著しているミステリ作家の山口雅也氏は,高校1年生のときに「ミステリマガジン」に掲載されてた松坂氏の連載「死体をどうぞ」を読み,魅了された人物の一人だ。
 その魅力は,曰く「未訳の原書が読めること,英文献に当たれること」「ジャンル越境・メディア越境で幅広くミステリを語れること」「エゴ剥き出しで,作家・作品をあげつらったり,ジャンルの“番犬”タイプの物書きでないこと」「先行者の受け売りでない独自の見識・ミステリ史観があること」「実際の作品より面白そうに語れること」だったといい,多面的に称賛しているほどである※2

 松坂 健氏にとってのミステリは,“お洒落で最新のエンターテイメント”とほぼ同義であった。それゆえに,ほとんど誰も挑んだことのない新しい分野たるゲームブックの翻訳に適任と見込まれたのだろう。実際,松坂氏は「きみならどうする?」をよく知っていたし,そのミステリ版たる「インタラクティブ・ミステリ」を紹介したいという野望を持っていた(実現できなかったが)。

 柴田書店に務め,同社の雑誌「月刊ホテル旅館」の編集長を勤めながら翻訳を進めるのは時間的に厳しかったというが,それでも「運命の森」だけではなく,シリーズ第7巻「トカゲ王の島」(イアン・リビングストン,1985年12月10日),11巻「死神の首飾り」(ジェイミー・トムソン&マーク・スミス,1986年8月25日)の翻訳も手掛けている。
 とりわけ思い入れが深いのは,「サムライの剣」(ジェイミー・トムソン&マーク・スミス,1987年7月25日)であった。あまりの忙しさにゲームブックを訳す時間が取れなくなってからも,「サムライの剣」だけは,僕にやらせてください,と頼み込んだほどだとか。

 なんといっても、あの日本ともオリエンタルともつかない怪しい世界が、僕のお気に入りなんですね。腹切りが出てきたり、名誉点なんてのがあったり、面白いじゃないですか。文中に出てくる妖しい日本語まがいをどうやって漢字を当てるか、それも楽しい苦心でした。口調なんかも出来る限り、紋切り型のテレビ時代劇風にしようとか、僕なりに考えて楽しい翻訳作業」でした※3
――松坂 健氏

 こうして,浅羽訳とは違った“名訳”として知られる「八幡国」「鍔鳴りの太刀」「闇将軍イキル」などの訳語が生まれたのである。

晩年の松坂 健氏。亡くなるまで,SNSではこのプロフィール画像を使用し続けていた
画像ギャラリー No.022のサムネイル画像 / 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載
 ゲームブックから離れても,松坂氏はミステリ評論の仕事を続けた。
 かく言う筆者も,共著を「ミステリマガジン」誌上で書評をしてもらったことがある。各誌や書評家たちに200冊ほど献本しても,書評が2点しか出なかった本だが,一つは的外れな酷評。もう一つが松坂氏の書評だったのだ。嬉しく思ったが,まさか署名欄の「松坂健」が,ゲームブック翻訳家と同一人物だとは思わなかった。

 筆者がアナログゲーム関係の仕事をし,ゲームブックの翻訳や創作をしていると知ると,2021年に癌で亡くなる少し前に,先方からの申し出で「ウォーロック」誌やSF関係の資料を大量にお譲りいただいた。松坂氏のもう一つの専門は観光学やホスピタリティ論だったが,まさしく“ミステリ・コンシェルジュ”にふさわしい心配りであった。

  • 松坂氏と同じく,シリーズ初期を支えた喜多元子氏について確認するなら,13へ
  • ライバルの東京創元社が気になって仕方がないなら,14へ

※1:「松坂さんよりメールを頂いてしまった話」,小玉晃氏のウェブサイト「冒険記録紙」,2025年12月閲覧。
※2:山口雅也「五十年間の不思議――松坂健との五十年の縁起」,『二人がかりで死体をどうぞ 瀬戸川・松坂ミステリ時評集』,書肆盛林堂,2021年。
※3:前掲「松坂さんよりメールを頂いてしまった話」より,原文ママ。


13 縁の下の力持ち,喜多元子氏


 浅羽莢子氏や松坂 健氏に限らず,初期FFを手掛けたファンタジーやミステリ関係の翻訳者としては,「サソリ沼の迷路」(スティーブ・ジャクソン,1986年2月21日)の訳者・大村美根子氏がいる。なお,こちらの著者は,イギリスのジャクソン氏とは同姓同名のアメリカのデザイナーである。
 大村美根子氏は,シオドア・スタージョン「時間のかかる彫刻」(サンリオSF文庫,1983年)や,ジョン・ディクスン・カー,レックス・スタウト,バーバラ・ヴァイン(ミステリ作家ルース・レンデルの筆名)らの訳者として知られるが,2005年に没している。

喜多元子氏の訳文は,盗賊都市ポート・ブラックサンドの人々の暮らしぶりを活き活きと伝えた
画像ギャラリー No.023のサムネイル画像 / 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載
 忘れてはならないのが,シリーズ第5巻の「盗賊都市」(1985年10月20日),第6巻「死のワナの地下迷宮」(1985年11月20日)や,その続編「迷宮探検競技」(1987年8月25日)を担当した喜多元子氏の訳業である(すべてイアン・リビングストン作品)。
 もともとミステリ短編や,画家の喜多迅鷹氏との共訳で文化史関係の翻訳をしていた喜多氏は,「火吹山の魔法使い」以前に,現代教養文庫でバーナード・エヴスリン「フィン・マックールの冒険」のような,ケルト神話を再話した小説風の解説書や,SF作家アイザック・アジモフの科学解説書「アジモフ博士の聖書を科学する 〈創世記〉」(ともに日本語版は1983年)を出している。

 その後も,ファンタジーもSFも分かり,仕事が早くて安定感のある翻訳家として重宝されたのか,神々の気まぐれに翻弄される運命劇,悲劇としてのギリシア神話を真正面からゲームブックに落とし込んだJ・バターフィールド&P・パーカー&D・ホニグマンの大作「ギリシア神話ゲームブック」3部作(すべて日本語版1986年)の翻訳も任されている。
 さらにはゲームブックファンをメイン・ターゲットとした新たなジュヴナイル・レーベル「アドベンチャー&ファンタジー(A&F)」の第1回配本作「凍結都市」(D・アースコット&D・J・マール,日本語版1988年)も担当するなど,重要な仕事をこなしている。
 2000年代以降は,再録を除いて新たに翻訳を発表していないが,再評価が俟たれる翻訳家なのは間違いない。

「ギリシア神話ゲームブック」は「名誉点」や「恥辱点」という,ギリシア神話ならではの能力値があり,ストーリーも凝っている。「このシリーズは,ゲームブックのなかで,悲劇をしっかり描いて成立させた記念碑的作品」とは,思緒雄二氏の談
画像ギャラリー No.024のサムネイル画像 / 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載

  • いよいよサポート誌「ゲームブック・マガジン」創刊の話に進むなら,16へ(第2回)
  • 東京創元社の動向に,やっぱり後ろ髪を引かれるのならば,14へ


14 東京創元社での「ソーサリー」刊行


 背表紙から「白の教養」と「赤の創元」。1980年代から1990年代初頭にかけ,ゲームブック出版の二大トップブランドであった現代教養文庫と創元推理文庫を対比的に表した文言である。
 その皮切りとなったのが,1985年の7月から10月にかけて創元推理文庫から連続刊行されたスティーブ・ジャクソンの「ソーサリー」4部作だ。総パラグラフ数2000を超えるキャンペーン・ゲームが間髪入れずプレイできたことにより,否が応でも熱狂は高まるばかりであった。

 しかし,どうして同じ「ファイティング・ファンタジー」シリーズの版元が,社会思想社と東京創元社に分かれているのだろうか。
 さらに「ソーサリー」の1巻目「魔法使いの丘」は安藤由紀子訳(1985年7月12日),2巻目「城塞都市カーレ」中川法江訳(1985年8月10日),3巻目「七匹の大蛇」(1985年9月10日)は成川裕子訳,4巻「王たちの冠」(1985年10月10日)は高田恵子訳となっている。シリーズものなのに,4冊それぞれ別の訳者が担当しているのだ。これはどういうことだろうか。

 その理由は,東京創元社内でのゲームブック事情にあった。
 当時,東京創元社でゲームブックを担当していたのは,新藤克己氏だった。氏こそが「ソーサリー」を編集し,また同社からの国産ゲームブック部門を率いた立役者だったのだ。新藤氏は,もともと創元SF文庫での人気スペースオペラ「デュマレスト・サーガ」(E・C・タブ著)などを担当するSF系の編集者だったという。
 新藤氏について,交流のあった安田 均氏に聞いてみた。

 新藤さんは関西のSFファンダム出身。関大SF研に所属していました。ぼくとは大学SF研つながりでよく顔を合わせ,1981年のワールドコン(デンバー)には,一緒に渡米したほどの仲です。

 最新のSF事情について広い関心のある方で,ゲームについてもいろいろと聞かれましたし,こちらもSF小説の原書なんかをたくさん貸しました。新藤さんが東京創元社に入社したのは,SF翻訳家・評論家の柴野拓美さんの推薦によるところが大きかったんじゃないかな。青心社で1986年に出したぼくの「SFファンタジィゲームの世界」の編集を,別名義で担当してくれた本田成二さんとも,新藤さんは親友でした。
――安田 均氏

 同じく新藤氏と交流があった鎌田三平氏も,新藤氏が何かにつれて安田氏の元へ遊びに行き,「こういうゲームをしてきた、こんなゲームの話を聞いてきた、と顔を合わせるたびに(鎌田氏に)面白おかしく話して聞かせるのが発端だった」※2と自著に記している。
 つまり,すでにD&Dなどのゲームを体験していたのである。実際,「城塞都市カーレ」の解説は安田 均氏が手掛けており,「火吹山の魔法使い」の紀田順一郎氏の名解説の向こうを張るかのように,広くゲーム事情を伝えている。

これまで2回復刻,TRPGシナリオも2種類出た「ソーサリー」。それでも最初のバージョンには得も言われぬオーラがある
画像ギャラリー No.025のサムネイル画像 / 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載
 新藤氏は2015年に亡くなっていて,直接話を聞くことはかなわない。幸い,東京創元社で1986年から新藤氏のもとでゲームブック関連の編集補助を担当し,のちに国産・海外SFの名作の編集を手がけた,SFファンダム研究家の小浜徹也氏が取材に応じてくれたので,資料で可能な限り裏を取りながら,判明したポイントを整理してみたい。

 経緯はこうである。社会思想社がペンギン・ブックスからFFシリーズを「託された」ように,東京創元社でも「ソーサリー」を出す話が持ち上がっていた。
 ところが,いまだ前例のない“ゲーム本”に,社内の重役たちがなかなか刊行の決断を下すことができないまま,数か月にわたって放置され続けた。社会思想社の田中矗人氏も,現代教養文庫を出していた手前,「これが“教養”か?」という批判を受けたというが※3,東京創元社側にも「これを我が社の刊行物にしてよいのか?」という戸惑いがあったのだ。

 先んじて,同社では創元推理文庫の編集長・戸川安宣氏の肝いり企画「イエローブックス」シリーズが刊行されていた。
 同シリーズの第1巻であるジャン・マイケルズ「死のリフレイン」(野口玲子訳,日本語版1983年)を見てみると,黄色の目立つ装丁で「あなたは名探偵!? フクロ綴じの中に犯人が……」と書かれており,仕掛け本のような雰囲気のあるミステリにもなっていた。しかし創元推理文庫創刊25周年企画ということで力を入れたにもかかわらず,商業的にはまるで奮わなかったのである。

 それでも「ソーサリー」の刊行が実現したのは,当時まだ30代前半だった編集者・新藤克己氏の尽力ゆえであり,とにかく“新しいことをやりたい”と,この企画に邁進したのである。(※4)。

 「火吹山の魔法使い」が刊行1か月経たずにベストセラーになったのを見て,ペンディングになっていた企画にGOサインが出たはいいが,大部のシリーズをすぐに訳すのは難しい。そこで,ミステリ系の若手翻訳者たちに,4冊別々に発注を行った。例えば「王たちの冠」の高田恵子氏は,前年にイエローブックスの「砂の城の殺人」(エリザベス・セント・クレア)を訳していた。

東京創元社の年譜(同社Webサイトより)。ちょうど,創元推理文庫が創刊25周年を過ぎ,点数が1000点になる前に「ソーサリー」の刊行は開始された。まだ日本人作家による書き下ろしミステリが刊行され始める前であった
画像ギャラリー No.026のサムネイル画像 / 「火吹山」の上陸と,その衝撃。日本におけるゲームブックの受容史を繙く短期連載「『ファイティング・ファンタジー』とその時代」第1回を掲載

 当然,納品される訳文は手書きであるが,それを新藤氏自身が取りまとめ,プレイして矛盾がないよう,世界観やゲーム用語を統一する監修作業を行っていたのである。新藤氏自身も田中克己名義で「七匹の大蛇」や「王たちの冠」のあとがきを担当し,入念なフォローも怠らない。

 こうした作業は,品質向上のために求められたものばかりではなかった。コスト減に必要な作業でもあったのである。
 「ソーサリー」4部作は,東京創元社初のフロッピーディスクによって入稿された作品で,1980年代後半には出版界で加速化することになるデジタル入稿のはしりとして, その先見性から新藤氏は業界誌にインタビューされたこともあったという※5。印刷会社が「新しいもの好き」で,お試しでデジタル入稿を行えば,印刷費をサービスしてくれると言われたのだ。幸いゲームブックは,パラグラフが分割・シャッフルされている都合上,デジタルでの作業と相性がいい。新藤氏はPC-9800を使い,全体をディレクションし直したのである※6

 ただ問題もあった。800もパラグラフがある最終巻の「王たちの冠」が,どうあっても長過ぎたのである。泣く泣く,編集サイドで細部を端折らざるをえなかったが※7,それでも文庫本で540ページ近い分量となってしまった。当時のゲームブックとしては,まさしく異例の刊行である。

 突貫作業のためか訳文に粗さが残ったのも否めないが※8,それでも念には念を入れ,“コケても”元が取れるように,社会思想社を参考にやや強気の価格設定に出た。――蓋を開けると,「魔法使いの丘」単体で30万部超, 2〜4巻目についても,驚くほど読者の“脱落率”は低く,きちんと最終巻まで付いてくる者が大半という結果となった※9。この収益で東京創元社は,戸田に新しい倉庫を建てることができたのである※10

  • 「ソーサリー」刊行後の同社の動向について追い直すのなら,15へ(第2回)
  • 社会思想社編集部の動きが気になってきたのなら,8へ

※1:田中矗人「現代の小さな冒険1 ゲームブックで“疑似体験” 若者とらえた新感覚の遊び」,「朝日新聞」1986年4月7日夕刊。
※2:鎌田三平「ゲームブックの醍醐味」,スティーブ・ジャクソン「王たちの冠」解説,創元推理文庫,1985年。
※3:前掲「現代の小さな冒険1」。
※4〜7:小浜徹也氏の証言による。
※8:安田 均氏の証言によれば,新藤氏自身から「大変な作業だったので、安田さん、訳文のことは勘弁してください」と直接言われたとのことである。
※9〜10:小浜徹也氏の証言による。

  
  • 関連タイトル:

    ファイティング・ファンタジー・コレクション

  • この記事のURL:
4Gamer.net最新情報
プラットフォーム別新着記事
総合新着記事
企画記事
スペシャルコンテンツ
注目記事ランキング
集計:12月29日〜12月30日