インタビュー
ATARIの栄枯盛衰を内側から見ていた日本人がいた。日本版「ATARI GAME OVER」プロデューサー黒川氏による,木村ひろ氏へのインタビューを掲載
■黒川文雄氏が日本版「ATARI GAME OVER」を製作するに至ったキッカケとは。アタリショックと「E.T.」の都市伝説にも迫ったインタビューを掲載
そのイラストレーターというのは,現在ニューヨークでフリーのイラストレーターとして活躍する木村ひろ氏だ。氏は,1981年にATARIに入社。ATARIが北米ゲーム市場で80%のシェアを獲得し,まさにピークの状態だった時から,いわゆる「アタリショック」が起こり北米ゲーム市場が崩壊へと進むまでの3年間,同社でパッケージや説明書などに使われるイラストを描いていたという人物である。これまでに,そのような人物がいたということは知られておらず,その事実に驚いたのだが,いったいどのような人なのだろうか。
今回,Skypeを通してニューヨークの木村氏に直接インタビューをした黒川氏が,その内容を4Gamerに寄稿してくれた。ATARIの栄華から衰退までを内側から見ていた木村ひろ氏のインタビューを掲載しよう。
1980年代のATARIに日本人イラストレーターがいた
黒川氏:
本日はお時間をいただきまして,ありがとうございます。
「E.T.」のイラストを描いてから30年が経ちます。まさか,こういう形で再浮上してくるとは思ってもみませんでした。世の中は本当に分からないものですね(笑)。
黒川氏:
私がFacebookに「ATARI GAME OVER」における「E.T.」発見の件を書き込んだところ,「実はあのイラストを描いたのは,私の叔父さんです」と言うメッセージをいただきまして。当時のアメリカで,しかもATARIで,日本人がそういうお仕事をされていたということ自体に驚いたんですよ。そこで,お話をうかがいたいと思いました。
木村氏:
分かりました。
黒川氏:
最初に,木村さんの経歴を教えていただきたいのですが,そもそもどのような経緯で,ATARIで仕事をすることになったのでしょうか。
木村氏:
僕は,カルフォルニア州ロサンゼルスのArt Center College of Design(アート・センター・カレッジ・オブ・デザイン)という美大で,イラストレーションを学びました。卒業する少し前の1981年にATARIのアートディレクターが大学に来て,イラストレーション課の学生の作品を見て,僕を社員にと選んでくれたのがきっかけです。
黒川氏:
なるほど,スカウトされたわけですか。
木村氏:
はい。そして,その年の3月に入社しました。
黒川氏:
それは,ATARI本社にですか?
そうです。カルフォルニア州,サニーベール市のATARI本社です。そして,1983 年12月の終わりまで,ほぼ3年間勤務しました。その間に「E.T.」のパッケージデザインを手がけましたが,入社して最初に任されたパッケージデザインは,映画「ATARI GAME OVER」にも出てくる「Yar's Revenge(ヤーズリベンジ)」でした。
黒川氏:
ハエが復讐するという,あのパッケージですか。開発者のハワード(ハワード・スコット・ウォーショウ)さん自身が,一番ヒットしたと話すタイトルですよね。
木村氏:
ATARIのオリジナルゲームとして,ですね。取扱い説明書用に一枚描いていますが,あの映画「ATARI GAME OVER」を観て驚いたのは,「Yar's Revenge」が,そんなにビッグセール(100万本超え)だったのか,と言うことです(笑)。
黒川氏:
ご存じなかったんですか。
木村氏:
ええ。僕らデザインチームには,一切そういう情報が入ってきませんでした。だから,「ATARI GAME OVER」を観て当時の反響に驚きましたよ。
黒川氏:
それ以外で,何かデザインを手掛けたソフトはありますか?
Pac-Man |
Crazy Climber |
ナムコの「Pac-Man」シリーズです。これはアダプテーション(版権移植作品)として,ATARIのゲームで一番売れたものだと最近知りました。繰り返しになりますが,デザインチームには全然そういう販売情報が入ってきませんでしたから。
黒川氏:
ほかに,その3年間で印象に残るお仕事はありますか?
木村氏:
日本の開発メーカーから買った(移植した)ソフトも含めて,「Krull」だとか,「JAUST」「Pengo」「Crazy Climber」「Centipede」「Millipede」「Berserk」などですね。ほかに,発売されてないゲームもあります。
黒川氏:
「Yar's Revenge」以降,ATARIがリリースしたそれらのパッケージやカートリッジに貼られたイラストは,すべて木村さんの手によるものなんですか。
木村氏:
いえ,全部ではありません。あの当時,ATARIのイラストレーション課には,僕が入社したときには3人,最も多いときで6人がいましたから。そのメンバーでいろいろ分担していたんですよ。
黒川氏:
なるほど。ちなみに,ATARIが経営不振で分割されたあとはどのように?
木村氏:
僕はその前に退社しています。
黒川氏:
なぜ,お辞めになられたのでしょう。結果はともかく,当時,急成長した会社でしたし,先々も可能性があったのでは,と思うのですが。
木村氏:
「ATARI GAME OVER」の中にもありましたが,当時,ATARIの収益計画が投資家の予想を大幅に下回ってしまったんです。そのため,アメリカではビデオゲームは,もう浸透し尽くしたということが言われていました。あとになって,それは任天堂の「ドンキーコング」の登場で覆されましたが。
黒川氏:
そうでしたね。
ともかく,そんな経営的に悪い情報が入ってきて,売上げも大きく下方修正されたんです。当時,僕達の部署や取扱い説明書のライター,デザイナー,プロダクション,イラストレーションをすべて含めると,一番多い時で60数名いました。それが,いきなり僕ひとりになってしまったんです。
黒川氏:
それは,みんなが見切りをつけて転職してしまったと?
木村氏:
いやいやいや(笑)。解雇されたんですよ。
黒川氏:
ああ,レイオフですか。
木村氏:
しかも,オーバーナイト・レイオフなんです。
黒川氏:
一夜にしてひとりに……。
木村氏:
ええ。本当に「一時間で机のものをまとめて出て行ってくれ」と。
黒川氏:
いやはや,すごいですね。
木村氏:
その後,僕ひとりで一年ほど働いたと思うのですが,毎回のように同じようなモノを求められることに疲れて。それで,自分が本当にやりたいのは,フリーランスのイラストレーションであると思い,ATARIを退職しました。それから数か月でニューヨークに渡りまして,フリーランスとして今日に至っています。
黒川氏:
当時のアメリカという地で,日本人がフリーランスとしてイラストの仕事で活躍されていたというのも素晴らしいですね。
木村氏:
ありがとうございます。あと,アメリカの切手のイラストも描いたんですよ。おそらく通常の切手としては,日本人で初めてだったのではと思います。手紙が来たときに,自分が描いた切手が貼ってあるというのは楽しかったです(笑)。
黒川氏:
それは楽しいですし,嬉しくもなりますよね(笑)。
ところで,ATARIのお話に戻るのですが,働き始めたころの(ATARI社内の)雰囲気は,どのような感じだったのですか?
木村氏:
一言で言えば,「イケイケ」ですね(笑)。売上げや収益か,どちらかは分からないのですが,入社して最初の1年目が10億ドル(※1981年当時の価値で約2200億円)でしたから。
黒川氏:
10億ドル……。
木村氏:
2年目が20億ドルで。3年目,僕がいた最後の年に,5億ドルの赤字が出たんですよ。
黒川氏:
最後は赤字としても,それまではソフトを出せば出すだけ売れるみたいな状況だったでしょうし,木村さんの給料もすごく良かったのではないですか?
木村氏:
新卒の学生でしたから,それはなかったです。
黒川氏:
なるほど。先ほど周りの雰囲気がイケイケとおっしゃっていましたが,まさに社内は沸き立っていたと思います。その当時,ATARIで働いていることは,周りから見てステータスになっていたのでしょうか。
木村氏:
こういう事を言うとバカにされそうですけど,僕は自分の仕事にしか興味がなかったんですよ。ですからパーティーなどに行ったとき,「どこで仕事をしているの?」と聞かれて,「ATARIだ」と言ったら,みんなが「ええー!」と驚くんで,「そうか,ATARIって悪くないんだ」と(笑)。
黒川氏:
言われて初めて気が付いたわけですか。
木村氏:
ええ。世間知らずで,これも今日に至るんですけども。
黒川氏:
本当にイラストレーションのことに集中されていた,ということですね(笑)。
伝説となった「E.T.」のパッケージイラスト誕生秘話
では,ATARI版「E.T.」のパッケージを手がけることになった,キッカケというのは何だったのでしょうか。
木村氏:
とても厚かましい言い方なんですが,僕のスタイルが向いていたからだと思います。
黒川氏:
“あの”「E.T.」という映画のイラストを任されたわけですから,それはもっともだと思えます。ちなみに,あのイラストはすべて木村さんが構図から何から,描き起こされたのですか?
木村氏:
はい。ただ「E.T.」は,ご存じのように開発が急で(※),6月に北米で映画が公開され,ATARI版は8月の初めごろにスピルバーグ氏との契約が結ばれました。それから仕事の発注が来ましたが,普通,一枚イラストを描くのに2週間から3週間くらいは時間をいただくのですが,あれに限っては,2週間を切っていた覚えがあります。
※開発期間は約5週間と言われている
黒川氏:
通常の半分に近い期間でイラストを描いたわけですか。
木村氏:
ええ。そのとき面白かったのは,ATARIは当時,ワーナー・コミュニケーションズ傘下で,サンノゼの映画館を二日くらい借り切って,ATARIの従業員や家族を全員招待して,無料で「E.T.」を鑑賞させていたんですよ。それから数日後に,「お前がイラストレーションを描け」と言われて。
黒川氏:
それは開発者のハワードさんからの指示だったんですか?
木村氏:
いえ,僕のボスだったジム・ケリーという人です。この人は,「ATARI GAME OVER」に出てくる「インディ・ジョーンズ(Raiders of the Lost Ark)」のゲームパッケージのイラストを描いています。
黒川氏:
インディの絵ですか。ケリーさんもすごい方ですね。ちなみに「E.T.」のイラストは,リテイク(描きなおし)もあったと聞いています。やはりユニバーサルやスピルバーグ氏側のチェックが厳しかったのでしょうか?
木村氏:
その前に少し説明しておきたいのですが。
黒川氏:
はい。
木村氏:
このイラストをつくる上で一番苦労したのは,ユニバーサルの映画会社が,この時はまだE.T.の姿を映画以外で公開していなかったことなんですよ。当時の映画ポスターをご覧になれば,お分かりになると思うのですけれど……。
黒川氏:
E.T.とエリオット(主人公の少年)の指だけでしたね。
木村氏:
そうです。つまり「観たかったら,映画館に来い」ということだったんです。
黒川氏:
なるほど。
木村氏:
ですから,このイラストの仕事が決まったとき,ユニバーサルから送られてきた資料も,ほとんど使い物になりませんでした。エリオットはそっくりに描かなくても良かったのですが,E.T.は当然そっくりに描く必要があります。なのに,E.T.の画像イメージがなかったんですね。
黒川氏:
参考になるものが,何もなかったんですね……。
木村氏:
イラストを描くには,やはり細部まで知りたかったですからね。それで,仕方がないので,妻と一緒にお客さんの少ない昼間の映画館に行って,使えそうなシーンを自分でたしかめていたんです。
黒川氏:
では,そのイラストを実際にスピルバーグ氏および,ユニバーサルがチェックするわけですが,どんな内容が戻ってきたのでしょうか。
木村氏:
エリオットを心配顔にしてほしいと言われましたね。イラストを徹夜で描き上げて,たしか月曜日だったと思うのですけど,ATARIへ行ったら「スピルバーグが,いま来ているから見せてくれ」と言うので見ていただいて。「心配顔」「宇宙船」「E.T.の指先」の修正を指摘されました。
黒川氏:
そのリテイクだけで,最終的にその許可が取れたわけですか。
木村氏:
ええ。ですから,あまり厳しくはなかったですね。
改善されなかったATARIの業務形態
黒川氏:
当時,ATARI版「E.T.」制作者ハワードさんは,社内でもトッププログラマーであり,かなり上層レイヤーの人だったと思います。彼とは,お話をされたりする機会はあったのでしょうか?
木村氏:
「Yar's Revenge」の件で話を聞きに行っていたので,面識はありました。でも,僕はプログラマーと別のビルで仕事をしていたので,それほどの交流はなかったですね。あと1980年代初頭のプログラマーというのは,僕達,一般人にとって異人種だったというか,なんと言えばいいかNERDS(オタク)な感じですね。付き合い方が良く分からなかった。(笑)。
黒川氏:
当時はコンピュータそのものが珍しいものですし,いわゆるオタクは,いま以上に濃い人達だったのかもしれませんね。
木村氏:
ええ。向こうもこちらとどうやって付き合えば良いのか分からないようで。まあ,そういう人達だからこそ,あれほどプログラミングに没頭できたのだと思いますけど。
黒川氏:
ああ,そういったことはあるかもしれません。
木村氏:
いまでこそNERDSというと,カッコいい場合もありますけどね(苦笑)。当時は,あまり付き合いたくない人々というイメージでした。
黒川氏:
では,ハワードさんも,あまり社交的ではなかった?
木村氏:
いや,彼はその中で一番カッコ良くて,陽気に接してくれました。
黒川氏:
「ATARI GAME OVER」の中に出てくる当時の感じですね。
木村氏:
そう,あの感じです。
黒川氏:
「ATARI GAME OVER」の中で,そのハワードさんが「E.T.」が失敗したということで,社内でいろいろな人に「ハワード,(失敗を)気にするな」と声を掛けられたという話がありました。そのあたりは,ATARIにいて何か感じられましたか?
木村氏:
先ほど話したように,ハワードさんとは仕事以外で個人的な付き合いもありませんでしたし,僕が売れていないというのを知ったのは,クリスマス商戦のあとでしたから。ただ,あれからときどき,「彼はいま,どこで何をしているのだろう?」とは思っていましたね……。「ATARI GAME OVER」で彼(ハワードさん)の姿を観て,安心しました。
黒川氏:
その「ATARI GAME OVER」では,「E.T.」発掘を含めて,ハワードさんの人生そのものが見直されたように思うのですが,木村さんがあらためて感じたことはありますか?
木村氏:
さっきの話に戻りますけど,自分で描いたイラストを使ったゲームソフトが,そこまで売れていたんだということにビックリしました。
黒川氏:
そこですか(笑)。もっとボーナスをもらっておけば良かったかもしれません。
木村氏:
ほんとですよ(笑)。
黒川氏:
「ATARI GAME OVER」の中でも触れられているのですが,会社経営陣がクリエイティビティをあまり重んじなかったということはあったのでしょうか。
木村氏:
ゲームのプログラミングは未知の世界だったので,経営陣がプログラマーをどのように動かせば良いのか分からなかったのではと思いますね。当時は,ひとつのゲームに1人の開発プログラマーしか担当していませんでした。そのプログラマーが行き詰まったときに,「1人で開発は大丈夫なのかな?」と感じていました。イラストを仕上げたタイトルが,発売中止だとかボツになったことも何度かありましたから。
黒川氏:
そのあたりが,まったく業務改善されないまま進んでいたわけですか。
はい。1983年に発売された「Pac-Man」のアダプテーション(移植)のときも,イラスト,プログラムの担当は一人でした。あとから任天堂の社長がひとつのゲームをチームで組ませて,お互いを競争させながら,さらに優れたモノを作るというのを聞いたときには「やはり任天堂は違う」と思いました。結局,ATARIでもほかの会社のプログラマーに仕事を発注するようになっていきましたけど。
黒川氏:
そうなんですか。
木村氏:
僕が覚えているひとつが「Ms.Pac-Man」なのですが,外注してできあがったものは,厳しいメモリ制約があるにも関わらず,しっかりとしたもので,「やっぱり(やればできるんだ)ね(※)」と思いました。ですから,ちゃんとやっていれば,ATARIは少なくともあのように短命ではなかったはずです。
※「Ms.Pac-Man」の前に発売されたATARI製「Pac-Man」は,移植のクオリティがかなり低かったようだ
ATARIで出し切った「遊び心」
黒川氏:
ATARIで経験されたことを振り返って,良いこと,悪いことといった思い出はありますか?
木村氏:
一番良かったのは,学生結婚をしていましたから,収入が安定していたことですね(笑)。
黒川氏:
なるほど(笑)。逆に,辛かったことはどうでしょう。
木村氏:
辛かったことはありません。そうだ,もう一つ良いことを挙げれば,自分の中の「遊び」が,思いっきり出せたことだと思います。
黒川氏:
それは,木村さんの思うままに,作品が描けたという意味ですか?
木村氏:
ATARI時代の僕の作品は,あまりクリエイティブなものだとは考えていなくて,「遊びたかったものを全部出せた」という感じですね。
黒川氏:
その違いを教えてもらえませんか。
木村氏:
何がクリエイティブで,何がクリエイティブではないか,という線引きが自分にあるのですが……たとえばATARI時代の作品は,構図や色,技法など,子どものころに日本の漫画を読んで培ってきた,いろいろな技術を駆使しているんですよ。それが「遊べた」ということです。
黒川氏:
つまり,木村さんの発想からというよりも,自身の経験を絵にぶつけていたわけですね。
木村氏:
はい。ですから,ATARIを退職したあとは,もっとクリエイティブなイラストレーションという方向に進みました。ほかの人から見たら「あまり変わってない」と言われるかもしれないですけど(笑)。
黒川氏:
最後に,イラストレーターという立場から,ゲームなどのコンテンツを作ったり,イラストレーションを描いたりしている人達に向けて,木村さんがどのような気持ちで,いまイラストレーションに取り組んでいらっしゃるのかということを教えていただければと思います。
木村氏:
そうですね……イラストレーションの場合は,その作品が本来持っている“楽しさを伝えたい”と思って描いています。
黒川氏:
本日は,ありがとうございました。
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●プロフィール(敬称略)
木村ひろ
1950年,京都に生まれる。ハワイ大学で美術を学び,アート・センター・カレッジ・オブ・デザイン(ロサンゼルス)でイラストレーションを学ぶ。卒業後,約3年間,ATARIでイラストレーターとして勤務。その後,ニューヨークに移り,フリーランスを始め今日に至る。
黒川文雄
1960年,東京都生まれ。音楽ビジネスやギャガにて映画・映像ビジネスを経て,セガ,デジキューブ,コナミデジタルエンタテインメントにてゲームソフトビジネスに,デックス,NHNJapanにてオンラインゲームコンテンツに,そしてブシロードにてカードゲームビジネスなどに携わる。エンタテインメントビジネスとコンテンツの表と裏を知りつくすメディアコンテンツ研究家。コラム執筆家。黒川メディアコンテンツ研究所・所長。黒川塾主宰。ジェミニエンタテインメント代表取締役「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像作品),「アルテイル」「円環のパンデミカ」ほか,コンテンツプロデュース作品多数。
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