連載
ビデオゲームの語り部たち 第1部:焼け跡に生まれ,スペースインベーダーとともに戦後のエンターテイメントを支えた「池袋ロサ会館」
最初に,この連載を始めることになったきっかけを紹介したい。
2015年に遡るが,私の会社(ジェミニエンタテインメント)は,老舗の映画会社である日活と共同で「ATARI GAME OVER」(アタリ ゲームオーバー)という映像ソフトの販売権利を獲得し,日本語字幕版発売への準備に入った。
ATARI GAME OVERは,ATARIの創業から没落(いわゆるアタリショック)までを追った良質なドキュメントムービーである。しかし,同じものが海外の動画サイトで視聴できるということもあって,日本語版には独自の特典を用意したいと思い,ATARI創業者の1人で,現在もエンターテイメントやITの分野でアグレッシブに活躍するノーラン・ブッシュネル氏の独占インタビューを考えた。
こちらの記事で紹介しているように,苦労を重ねた末に話を聞くことができたのだが,私がそのとき72歳のブッシュネル氏を前にふと思ったのは,「ブッシュネル氏はあと何年現役でいるのだろうか? もしくはかつての記憶をこのように語ることができるだろうか?」ということだった。氏は74歳の今も元気に活躍されているのだが,伝説的な人物に直接インタビューするというめったにない機会に恵まれて,そういったことが気になってしまったのだ。
人間は生まれ,そして死を迎える。その繰り返しのなかで,知るべきもの,聞くべきもの,残すべきものがある。ブッシュネル氏のような著名な存在でなくとも,ビデオゲームの歴史のなかで,話を聞いておくべき人々や記録しておくべき場所があるだろうと思い至ったのだ。それがこの企画の原点になっている。
その後,私は2016年の春に「スペースインベーダー」の開発を巡る物語を個人的に取材し始めた。その成果はこちらの記事にまとめているのだが,同作については,開発現場だけでなく,プレイされた場所,つまりゲームセンターや喫茶店からもアプローチし,ビデオゲームの歴史の一端として残しておくべきだと感じていた。
しかし,スペースインベーダーがゲームセンターに導入され始めたとされている1978年から40年が過ぎようとしている今,あちらこちらにあった通称「インベーダーハウス」(スペースインベーダーを置いた喫茶店)は跡形もない。そもそも昭和の香りを漂わせる喫茶店すら少なく,ほとんどは外資系のカフェである。
そんな中で,古くから都内でゲームセンターを営み,当時から変わらぬ業態と,昭和を感じさせる佇まいを持った池袋のロサ会館が取材対象に浮かんだ。そして幸運にも,当時のことを良く知るロサ会館のオーナー経営者,伊部季顕(いべすえあき)氏に話を聞くことができたので,スペースインベーダーとロサ会館の歴史を本稿で紹介したい。
終戦後,焦土の中に娯楽を生んだシネマ・ロサ
多くの死者を出した第二次世界大戦は1945年8月15日に終戦を迎えた。
焦土に残された日本の国民が,苦しく厳しい環境の中でも希望を失うことなく,明日を夢見ていたときに,季顕氏の父である伊部禧作(きさく)氏は,ロサ土地株式会社(現ロサラーンド株式会社)を設立し,ロサ会館の前身となる映画館,シネマ・ロサを開業した。季顕氏は家族から当時の話をよく聞いたようだ。
「父は山之内製薬(現アステラス製薬)の重役でした。母方の実家は池袋東口のほうで鋳物工場を経営していたと聞いています。当時の記録はほとんど残っていないのですが,鋳物工場は,当時の社会情勢から察するに戦争(第二次世界大戦)の特需で景気がよかったのではないかと思います」
「しかし終戦後,工場は接収されてしまいました。戦後の日本はすべてがなくなったような状態で,区画整理や用地買収なども進められていましたから,残っていた土地なども売却したと聞いています」
当時は,多くの人が「これからどのようにして生きていくか」ということに悩んでいた時代だった。
「そんなときに父は,映画関係に詳しい友人から『敗戦でみんなが下を向いて落ち込んでいる中,社会復興として映画娯楽の商売を始めるのがいいのではないか』というアドバイスをもらったようです。そこで土地を売って得た資金で,現在のロサ会館がある場所に映画館を開業したと聞いています」
開業当時の写真が手元にある。
20世紀フォックス,ワーナー・ブラザース,ユニバーサルといった映画会社のロゴや,「American Movie Theater」という切り文字が飾られた外観は,今でもアメリカの地方都市で見かけそうな雰囲気がある。当時としては最先端を行っていただろう。何もない場所に生まれたシネマ・ロサは驚きを持って迎えられたはずだ。
当時の映画は戦勝国であるアメリカのプロパガンダ的側面もあったようだが,シネマ・ロサの登場によって,周辺の人々が送っていた“娯楽のない日常”は終わった。禧作氏はさらに「シネマ・セレサ」「シネマ・リリオ」「シネマ東宝」と,池袋駅周辺に次々と映画館をオープンさせる。
シネマ・ロサをはじめとする映画館経営は,伊部家とその親戚である尾形家,松田家が3分の1ずつ出資する完全なファミリービジネスだった。現在のロサ会館も,その資本構成は大きく変わっていないという。
代表権を持っていた禧作氏は,季顕氏が語ったように山之内製薬の重役でもあった。しかし,当時の製薬業界で事件や訴訟が相次ぎ,山之内製薬が経営的に厳しくなったこともあって,禧作氏は200人ほどの社員を連れて新たな製薬会社を創業する。その会社は現在,栄養ドリンク「ヘパリーゼ」で有名なゼリア新薬工業となっているのだから,禧作氏の慧眼ぶりを感じざるを得ない。
話が少々横道にそれてしまったが,そういった状況もあり,禧作氏が映画館ビジネスにタッチすることはほとんどなかったようだ。ただし,会社の腹心を金庫番にしていた。今で言うところのCFOだろう。また管理部長には消防,防犯面に配慮し,地元の消防署の副署長をあてがった。
アミューズメントの殿堂,ロサ会館の誕生
「シネマ・ロサが戦後の日本におけるエンターテイメントビジネスの先鞭をつけたことは申し上げましたが,その後都内各地に映画館が雨後のタケノコのようにできました。23区それぞれに,小さいものから大きいものまで2〜3館くらいはあったと思います。板橋区の上板橋にも映画館がありましたね。今は病院になってしまいましたが」
当時のエンターテイメントビジネスではパチンコもブームで「やるなら映画館か,パチンコか?」くらいの勢いで新規参入業者が絶えなかったという。
「しかし,当然ながら映画館がたくさんできれば,お客様が分散します。徐々に映画館ビジネスは斜陽化していきました。そんなときに父は『映画だけでなく,娯楽の殿堂のようなアミューズメントビルを創ろう』と言い出したんです。それがロサ会館への業態転換の始まりですね」
こうして,シネマ・ロサはロサ会館として生まれ変わることになったが,季顕氏には心残りがあるという。
「竣工の前年に祖母が亡くなったんです。祖母はシネマ・ロサの時代からずっと父と一緒にやってきたので,ロサ会館の竣工を見せられなかったのは残念でした」
季顕氏はロサ会館のオープン直後をこう振り返る。
「ロサ会館のフロア面積は約1万5000平方メートルです。当時,この規模のアミューズメント複合施設は都内にありませんでしたし,親族経営でしたから,ロサ会館のような業態のビル経営の経験もなかったんです。開業直後はなかなかテナントが埋まらず,先代社長(禧作氏)が親戚一同に『このままテナントが入らないと経営破たんする』『みんなでアイディアを出せ,出さないと大変なことになるぞ』と話していたのを覚えています」
その頃の季顕氏はロサ会館ではなく,アパレルの卸し関連の仕事に就いていた。
禧作氏からは「早く家業にこい」と言われていたそうだが,ロサ会館がゲームセンタービジネスと出会い,ピンチを脱出するきっかけは,季顕氏の取引先から生まれるのだから,何か運命のようなものを感じさせる。
「当時,私の取引先に東京プリンスホテルのショッピングアーケードのマネージャーである本多さんという方がいました。いつもピシっとした身なりで,大きな蝶ネクタイをして,とてもオシャレでしたね。あるとき,その本多さんにロサ会館の経営不振の話をしたんです。そうしたら『じゃあ,いい人を紹介しよう』という話になって,お目にかかったのが太東貿易のミハエル・コーガンさんでした」
4Gamer読者ならご存じかもしれないが,太東貿易は後のタイトー,ミハエル・コーガン氏は同社の創設者である。
「当時,コーガンさんはゲームマシンの開発だけでなく,海外からスロットマシンやジュークボックスなどを輸入して,六本木や赤坂界隈の社交場に納めるような商売をやっていたと思います。社名の太東貿易は『太い』に『東』と書きますが,これは極東のユダヤ人という意味で,ユダヤ人のコーガンさんが迫害を受け,ウクライナ,満州を経由して神戸に来たことに由来していたようです。コーガンさんに,ロサ会館の1階にテナントが入らず,幽霊ビルみたいな状態になっているとを話すと『じゃあ,そこにゲームを入れてみよう』と」
とはいえ,当時は「ゲームセンター」という業態すら存在していない。
「私から先代社長に『ともかく,どんな商売になるかは分からないけど,一度置いてみましょう。ロサ会館側の設備投資は必要ないし,ゲームマシンを並べて,一階のあたりを賑やかにすれば,お客さんは集まって来るでしょう』と説得しました」
ゲームマシンといっても,当時はまだピンボールやエレメカ系が大半だったが,ロサ会館はこうして新しい業態へと転換し,経営危機を脱することになる。
「タイトーさんが,ロサ会館の発展にご尽力くださったんです」
「スペースインベーダー」の熱狂
そんな状況の中で,1978年に「スペースインベーダー」のブームが到来する。
「当時は,あまりテナントも入ってないということで,毎晩閉店とともに一階正面入口のシャッターを下ろしていたのですが,いつ頃からか,開店間近になるとその前に『スペースインベーダー』の待ちのお客さんが並ぶようになったんです。そしてシャッターが上がると,我先にとテーブル筐体の前に座って,100円玉をバーッと積んでからプレイを始める……。そうなってからは,営業時間よりもすこし早めにシャッターを開けていました。ブームの一端を思わせるような風景って,そんな感じじゃないでしょうか」
その後,スペースインベーダーのブームに乗じて,さまざまな会社がゲームマシンをロサ会館に持ち込んできたという。
「おそらく今でいうところのベンチャー企業じゃないですかね。『とにかく置いてください』という感じだったようです。当時は携帯電話もありませんでしたが,ロサ会館の情報があっという間に伝わって,全国から『ぜひ,うちのゲームマシンを置いてほしい』という提案が寄せられたようです」
スペースインベーダーのヒットは,ロサ会館のほかのフロアにも好影響をもたらした。
「1階にそれだけ人が集まって賑やかになると,必然的にどんどんテナントが入ってくるわけです。そういう意味では,まさに好循環と言いますかね。78年頃から,あっという間にテナントが埋まって。そういう意味では『スペースインベーダー』が,うちの会社を作ったと言いますか。あれがなかったら,経営が破たんしかけていたかもしれないですね」
ちょうどその頃,季顕氏は家業を継ぐことを決め,1980年にロサラーンドに入社した。
「私が入社した80年代の初頭は,『スペースインベーダー』のブームが冷めやらぬなかで,セガ,ナムコ,タイトーの三大メーカーが切磋琢磨し,どんどん新しいゲームを開発していくような時代でした」
「私が会社に入ったころの仕事に,ゲームマシンの売り上げを回収し,100円玉の枚数をカウンターで確認してから頭陀(ずだ)袋に入れて,台車に載せて近くのときわ相互銀行に運ぶというものがありました。距離的には100メートルくらいですが,袋はいくつもありましたし,セキュリティなども考えていませんでしたから,今考えたら,襲われてもおかしくないですね」
なんとも景気の良い話だが,この頃にはスペースインベーダーの熱狂は収まりつつあったはずなので,その後に続いたナムコの「ゼビウス」や「パックマン」,セガのレースゲームなどの貢献も大きいだろう。実際,季顕氏もこう語っている。
「1980年代に入ると,『スペースインベーダー』をはじめとしたタイトーさんだけでなく,ほかのメーカーさんの存在感も大きくなってきました。もちろん,タイトーさんとは現在に至るまで,長くお付き合いさせていただいていますが」
季顕氏はロサ会館とタイトーの歴史を「切っても切れないもの」だと言う。
「当時は中西さん(元タイトー代表取締役社長,現ミッドウエスト相談役の中西昭雄氏)にずいぶんと良くしてもらって,『ほかの店にあるのに,うちに納入されていないゲームマシンがあるから入れてくれ』といった無理なお願いを聞いてもらったりもしました。そういったこともあって,タイトーのヒット商品を常に期待していましたが,さきほどお話ししたように,ナムコやセガといったほかのメーカーさんのがんばりも印象に残っています」
そして季顕氏が何より驚いたのは,アパレル業界では考えられないような“横のつながり”だったという。
「ゲーム業界は不思議なもので,ほかのメーカーに対しての敵対心が感じられませんでしたね。他社のマシンであっても自社のゲームセンター(アーケード施設)に置くことに抵抗がなかったことには驚きました」
そうしてゲーム業界全体が盛り上がり,かつての映画と同様に新規参入が相次ぐことになる。
「もともとは空きテナントの活用で始めたゲームビジネスが,いつの間にかロサ会館のメインビジネスになっていました。その頃になると,ゲームの収益性が高いということに気づく人もでてきて,東口のサンシャイン60の地下に大きなゲームセンターができるなど,ゲームセンターというビジネスが賑やかになっていきましたね」
ロサ会館のこれから
ゲームセンタービジネスの草分けとなったロサ会館は,来年で開業から50年を迎えるが,季顕氏はその先も見据えている。
「ゲームセンターは3K“暗い”“恐い”“汚い”のような場所として,不良少年のたまり場のように言われてきました。なので,私は常に店内を明るくし,健全性を大切にしないといけないと思っています」
現在は女性の店長を起用し,「雛まつり」などの装飾を展開するなど,誰にでも親しみやすい店内の雰囲気作りを現場に任せているという。
「ロサ会館に来るということを目的にしてもらいたいと思い,シニアのご夫婦や家族連れにもやさしい雰囲気作りを目指しています。屋上で子供向けのサッカークラスをやっていますが,クラスが終わった後,子供たちがお迎えの家族と一緒にゲームを楽しんでいるのを見ると嬉しいですし,我々の理想を感じます」
そして現在,ロサ会館の経営には季顕氏のご子息である三代目の伊部知顕氏も参加している。昨年アメリカのアミューズメントビジネスを見学してきたという知顕氏は,ロサ会館の将来像をこう語る。
「アミューズメントでは,コミュニケーションの場所がポイントだと思うんです。そのような場所をいかに演出するかということが,家族や友人との絆を認識することにつながります。加えて,非日常体験をどのように演出するかや,ナイトタイムエコノミーの充実といったところも重要になるでしょう」
だが,4Gamerの読者であればご想像がつくとおり,ゲームセンタービジネスを取り巻く現在の状況は穏やかではない。季顕氏はここ数年の状況をこう振り返る。
「今から20年ほど前にガラケー端末が普及し始めた頃,アミューズメント部門の売り上げが大きく減衰しました。その後いったん回復しかけたんですが,5年ほど前でしょうか,スマートフォンが普及し始めると完全にその部分での収益のリカバリーができなくなりましたね」
季顕氏が注目するのは,ゲームセンターでしかできない体験だ。
「ライフスタイルの変化は致し方ありません。弊社の会議でよく話すのですが,スマホなどの小さい画面で満足しないお客様がゲームセンターに来ているはずですから,メーカーさんには大型のマシンやVRなど,家庭で味わえない臨場感が楽しめるものを開発してほしいと思います」
そしてロサ会館自体の再開発プロジェクトも動いているという。
「池袋の街自体に再開発の計画がありまして,その中で検討しています。かつてビデオブームのころにTSUTAYAさんが店子になったように,ロサ会館は時代に合わせて変わっていくところも面白いんです。ロサ会館は私自身の夢,人生の楽しみの場であると思っています」
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,黒川塾を主宰。プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」「円環のパンデミカ」(オンラインゲーム)等多数。オンラインサロン黒川塾も開設。
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