連載
ビデオゲームの語り部たち 第5部:「バーチャストライカー」を作り上げた三船 敏氏と中込博之氏の旅路
ビデオゲームの歴史には,いくつものターニングポイントがある。その中でも大きな影響と成果をもたらしたものの1つが,3次元コンピュータグラフィックス(3DCG)の登場だろう。
3DCGによる表現とゲーム性は今では当たり前のものとなり,さまざまなゲームジャンルのタイトルが世に送り出されているが,それぞれのジャンルで3DCGをいち早く採用したタイトルというのは,やはり人々の記憶に残るものになっているように思う。
筆者がかつて所属していたセガ・エンタープライゼス(当時)のタイトルなら,レースゲームの「バーチャレーシング」,対戦格闘ゲーム「バーチャファイター」,そしてサッカーゲームの「バーチャストライカー」が挙がるだろう。
今回の「ビデオゲームの語り部たち」では,その「バーチャストライカー」の開発秘話やそこから後の人生を,三船 敏氏と中込博之氏に語ってもらった。
「ハングオン」から始まった“敏(びん)さん”の開発者人生
「1985年に高校を卒業して,セガに入社しました。学校の勉強が好きじゃなかったから,高校を出たらすぐに働こうと思っていたんです。ゲームが好きで,将来はゲーム開発をしたいと思っていたので,高校はプログラムの学科があるところに通いました」
そう語る三船氏は,セガでAM2研などに所属し,数多くのゲーム開発に携わった。周囲の人たちは,親しみを込めて彼のことを「びんさん」と呼ぶ。私もプライベートで彼と話すときは「びんさん」だ。
三船氏が高校卒業後の進路を具体的に考え始めたのは,ファミリーコンピュータが大ブレイクする少し前のことだった。そのため,プログラミングを学んでいたものの,ゲーム作りを“職業にできる”とは思ってなかったという。だが就職活動のシーズンになると,学校にセガのプログラマー求人募集が掲出された。三船氏は迷うことなく応募し,無事採用された。
入社してまず担当したのは,ちょうど開発終盤を迎えていた体感バイクレースゲーム「ハングオン」のサポートだったという。同作の開発を指揮していたのは,鈴木 裕氏(※)だった。
※セガでアーケード向け体感ゲームシリーズや「バーチャファイター」「シェンムー」など手がけたクリエイター
「辞令ではテーブルゲームを作る部署に配属となっていて,裕さんのところではありませんでした。ハングオンの開発が追い込みの時期で,『誰か手伝ってくれる人が欲しい』という話になり,新卒社員の中で唯一,プログラムの知識があって,キーボードを打った経験があった自分が急遽呼ばれたようです。それが裕さんとの出会いですね。
朝から晩まで開発作業をして,新しいコースが入ったら,筐体を左右にギッコンバッタン倒しながらデバッグをしていました」
ハングオンは,体感ゲームを主軸にしたセガのアーケードタイトル黄金時代の始まりを告げる作品だった。三船氏はハングオン開発での活躍が認められ,後に第2AM研究開発部(AM2研)となる鈴木氏の部署へ正式に異動となる。
「F1スーパーラップ」での挫折
「ハングオンに続いて『スペースハリアー』の開発に携わりました。裕さんが若い人を中心にしたチームを作りたかったみたいで,自分もいろいろとやらせてもらった記憶があります。
その後も『アウトラン』『アフターバーナー』『ターボアウトラン』『GPライダー』などのプロジェクトに参加したんですが,GPライダーの開発中,コースのレイアウトなどで,裕さんと意見の相違が出てきたんです。
もちろん上司である裕さんの指示には従うべきなのですが,その一方で,やっぱり自分がいいと感じるものを作って,実績を作らないと駄目なんじゃないか……という思いも生まれていました」
三船氏はその思いを素直に鈴木氏へぶつけた。
「話し合った結果,裕さんも分かってくれて『そこまで言うなら,好きにやってみろ』と。なので,GPライダーは死ぬ気でやったんです。これで失敗したらもうしょうがない,と思えるくらい」
結果的にGPライダーは好調な販売を記録し,三船氏はレースゲームの開発手腕を評価されて,F1をテーマにした「エキゾーストノート」の開発を任される。その後,日本でのF1の放送権やマーチャンダイズ権を持っていたフジテレビと組み,実在のF1マシンが登場する「F1スーパーラップ」を開発した。
しかし,F1スーパーラップのプロジェクトは惨敗に終わる。三船氏は,当時の主流である2Dグラフィックスでは,モータースポーツの最高峰であるF1をリアルに表現するにはパワー不足だったと振り返る。
カラフルな車体にさまざまなスポンサーのロゴをまとったF1マシンが,1000分の1秒を争っていた本物のF1と比較すると,リアルさを志向した分,逆に粗が目立ってしまったということのようだ。
背水の陣でサッカーゲーム開発に挑む
三船氏が2Dグラフィックスのレースゲームに限界を感じていたちょうどその頃,3DCGを採用したゲームが登場する。
レースゲームでは「バーチャレーシング」が時代を変えるきっかけとなったのは,当時からのゲーマーならご存じのとおりだ。
ちなみに,三船氏の記憶によれば,開発初期のバーチャレーシングは,フォーミュラマシンではなく,ヒストリックカーをドライブするものだったという。いつの間にか変貌を遂げていたということだ。
ゲームの作り方が大きく変化しようとする中で,三船氏は新たな一歩を踏み出すことになる。サッカーゲームで初となる3DCGタイトルの開発だ。
「実は裕さんから,『サッカーゲーム作ってみないか?』と折に触れて言われていたんですよ。裕さんは僕が昔サッカーをやっていたことを知っていて,ヨーロッパで売れる傾向があったサッカーゲームを作らせようと思っていたみたいです」
三船氏自身は,F1スーパーラップでの失敗を挽回すべく,次の作品に意欲を燃やしていたが,サッカーをテーマにしたゲーム開発はやりたくなかったという。趣味はあくまでも趣味,ということだったようだ。
ただ,アーケード市場では“乗り物系”のゲームが飽和状態になりつつあったため,三船氏は悩んだ末,サッカーゲームの開発を決断する。
サッカーの知識と経験を活かしたゲームを作る。言葉にすれば簡単だが,実現するのは至難の業だ。世界中で楽しまれているスポーツだけに,多くのタイトルがリリースされている中でヒットを飛ばさなくてはいけない。鈴木氏の期待がどれくらいのものだったかは不明だが,三船氏は「後がない」という気持ちで臨んだ。
「セガには2Dグラフィックスの『Jリーグ1994』がありましたし,テクモ(現在のコーエーテクモゲームス)さんの『ワールドカップ』シリーズや,コナミさんの『プレミアサッカー』もリリースされていましたが,いずれも大ヒットというわけではなかったと思います。そんな状況で,新しい技術である3DCGを駆使したタイトルを開発することになるわけです」
三船氏にとっての不安は,やはり3DCGだった。
「それも『バーチャファイター』で採用されたMODEL1基板向けという前提ですからね。バーチャファイターは1対1の格闘ゲームですけれど,サッカーは最低でも22人のキャラクターを出さなきゃいけない。MODEL1の性能で,どんな絵を出せるんだろうかと悩みました」
[コラム]90年代に急激な盛り上がりを見せたサッカー人気
バーチャストライカーがヒットした要因の1つに,Jリーグの発足によって一気に高まったサッカー人気も挙げられるだろう。
かなりの余談になるのだが,筆者とJリーグには少々変わったつながりがあるので,ここで少し触れておきたい。
筆者はセガの前にギャガ・コミュニケーションズ(現在のギャガ)で働いていたのだが,一時期,レンタルビデオの「TSUTAYA」を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブの関連会社,レントラックジャパンに出向していた。そこで担当していたのが,1993年に開幕したJリーグのコンテンツだ。具体的には,Jリーグの試合をレンタルビデオとして1週間後にリリースするというものだった。
対象は全試合,しかも複数をまとめるのではなく,試合ごとにタイトル化するという,今ではちょっと考えられないようなものだった。開幕直後のJリーグには,それくらいの熱があったのだ。
Jリーグ創設とその後の運営に関しては,エンタテインメント事業やスポーツ事業に長けた広告代理店が大きく貢献した。
当初は最大手の電通が取り仕切る予定だったが,準備を進める中で,過去に同社が手がけた世界的なスポーツイベントとの規模の違いから,手を引くことになったという。最終的には博報堂がJリーグのマーケティング事業を手がけることになった。
その後,電通は国際サッカー界との結びつきを独自に強めていった。このあたりの詳細は田崎健太著「電通とFIFA〜サッカーに群がる男たち〜」に詳しいので,興味のあるかたは読んでいただきたい。
エンターテイメントやスポーツ分野の大事業の陰に,広告代理店あり。そして,その代理店への入社を希望していた若者が,三船氏の夢をアシストすることになる。
セガに対するイメージは「イマイチ」だった中込氏
三船氏と一緒にバーチャストライカーを開発した中込氏は,ゲーム業界を志望していたわけではなかったという。
「名古屋芸術大学に通っていた頃は,広告の仕事をやりたいと思っていました。当時はバブル時代で,“チャラチャラした”業界がもてはやされていて,そんなところに入りたいと。
第一志望は電通でしたが,会社訪問の頃になると,さすがに電通は難しいだろう,制作会社かな……と思い始めました。ただ,制作会社だと,クリエイティブじゃないこまごまとした仕事もやらなくちゃいけないから,どうしようかなあと思っていたんです」
そう語る中込氏がセガではなく,広告代理店へ入社していたら,氏の人生は違ったものになっていたし,バーチャストライカーも今の形にはならなかったかもしれない。いつの時代も「もしも」はあるものだが,人と人の出会いという化学変化は,どれを取っても興味深い。
「代理店でも,制作会社でもないとしたら……と考えて,ゲームが好きだから,ゲーム会社も受けてみようと思いました。
最初はコナミを受けたんです。コナミのゲームが好きだったので。『ツインビー』とか『がんばれゴエモン』とか。
最終面接まで行ったんですが,落ちてしまって,やばい,就職できないかもと思ったところで,他社より少し遅めだったセガの新卒募集を見つけ,受けに行きました」
中込氏はセガのゲームをほとんど知らず,大ヒットした「アフターバーナー」でさえも,あまり響かなかったという。
彼の言葉を借りれば,セガの印象は「イマイチ」で,ゲーム業界に入るための最終手段として入社した後も,その印象はしばらく変わらなかったようだ。
「入社試験を受けるために京急空港線を使ってセガまで行ったんですが,『こんなところなのか』という気持がまずありましたね。“都会での社会人生活”を夢見ていたのに,当てが外れました。当時の京急空港線は,京急蒲田駅を出るとすぐ単線になっていたんです。高架化もされていませんでしたし」
「東京なのに東京じゃない」といったところだろうか。
「また,これは個人的にですが,当時のゲーム関係のデザインは,ほかの広告のデザインと比べて少し劣るという印象もありました。それでも,好きなゲームに携れる仕事だし,頑張ってみようと」
このように,当時の中込氏にはいろいろと不満があったが,今振り返ると,このときセガへ入社できたのは幸運だったという。
「ちょうどゲームが3DCGの時代へ移り変わるときにAM2研に配属されて,最先端の技術でゲームを作れたんです。当時は3DCGマシンに触ることさえ難しい時代でした。大学ですら,Photoshopを動かせるMacintoshが1台あるとかないとかいう状況だったと思います」
1993年に入社した中込氏と筆者は「同期入社」ということになる。もちろん中込氏は新卒,筆者は31歳での中途入社なので,キャリアも人生経験も違っていたが,その後の開発現場で見てきた風景は“共有”しているつもりだ。
筆者が宣伝を担当した「バーチャファイター」がリリースされる頃,宣伝に使えそうな素材をAM2研で探したことがあった。開発途中の資料なども入手したのだが,その中に中込氏が描いたウルフ・ホークフィールドの原案イラストがあったのだ。
このイラストは,本連載の第2部で石井精一氏が語っているように,中込氏が一晩で描いたものだ。
「デザイン・グラフィックス系の新卒社員全員が裕さんに呼ばれて,『明日の朝までに,格闘ゲーム(バーチャファイター)に使うキャラクターを3体から5体くらい描いてこい』と言われました。
えぇ,明日の朝かぁ……。もう夕方なのになぁ……。などと思いながら描いて提出したら,そのうち1体がウルフとして使われたんです。もちろん当時の上司だった石井さんたちによる手直しはありましたが。それがセガで最初にやった仕事だったと思います」
入社直後から非凡なセンスを発揮した中込氏は,名越稔洋氏が指揮する「デイトナUSA」のチームに本配属となった。
「デイトナUSAは3DCGタイトルなのですが,自分が主に担当したのは2Dの仕事でした。ユーザーインタフェースとか背景が2Dだったので,それらを作ったり,テクスチャを描いて貼ったり。
リリースが何度も延期される不確かなスケジュールには不満がありましたが,今振り返れば当時としては普通のことだったと思います。
裕さん,石井さん,名越さんの下で働けたのは貴重な体験で,今でもとても感謝していますし,その後のゲーム制作人生の基礎になったのは確かです」
当時の開発チームは,現在のような数百人規模ではなく,多いときで20人程度だった。そして,大きな仕事が一段落したときや,ちょっとした仕事の隙間には,各自がやりたい企画やデザインなどを進めるという,ある意味自由な環境でもあった。
会社側にも,そんな“ハンドルの遊び”のような時間が,新しいビジネスチャンスにつながると考えられるくらいの余裕があったのだ。
バーチャストライカーも,鈴木氏にちょっと背中を押された三船氏が,個人の時間を使って始めた,スモールスタートの見本のようなプロジェクトだった。そしてそこに中込氏が加わることになる。
運命のロケテスト
三船氏は,中込氏がバーチャストライカーに参加することになった当時を,こう振り返った。
「裕さんからサッカーゲームを作ってみないかと言われてから,しばらく企画内容を考えて,その後小規模なチームを立ち上げました。すると,中込君から『僕も開発チーム入れてくれませんか』と言われたんです。とてもありがたかったですね。彼はまだデイトナUSAのチームメンバーだったので,裕さんと名越さんに確認を取って,メンバーに入ってもらいました」
バーチャストライカーは,中込氏が加わった段階で,まだ4人程度のプロジェクトだった。筆者の記憶では,セガ本社横に建つ別館の5階,デイトナUSA開発チームの後方に,パーティションで仕切られたバーチャストライカー開発チームのスペースがあった。
その小さなスペースで,三船氏はサッカーゲームに3DCGの技術をどのように活かすかで悩んでいた。
一時期は5対5のフットサルにしないと駄目じゃないかって思っていましたが,それじゃあ,商品として売れないだろうと」
そして,3DCGのサッカーゲームがビジネスとして成立するのかという問題もあった。
「MODEL1基板は単体でも50万円近く,筐体込みになると100万円近い売値でした。それをサッカーゲームで回収できるのかが問題になったので,サッカーを含むスポーツゲームがどれくらいのインカム(売上)を稼いでいるのかを調べたんです。
当時は販売やマーケティングのデータが手に入りづらくて,ネットもないし,他社は当然教えてくれないしという状況だったので,セガ系列の店舗に直接行って聞きました」
集めたデータをまとめてみると,一般的に人気があると言われているサッカーゲームでも,1日あたりのインカムは6000円程度だったという。これでは基板単体の50万円でもビジネスとしては成立しない。
三船氏はこのデータを見たときのことを「絶望感が激しかった」と振り返ったが,一方で,実際に行った店舗で目にした光景に希望を見出してもいた。
「メーカーが『対戦できるサッカーゲーム』としてリリースしているタイトルでも,ほんとんどのお客さんが1人でプレイしていました。一緒に来ている友達がプレイせずに横に座って見てるだけというケースが多かったんです。
もしこの2人がともに遊ぶようになれば,対戦格闘ゲームと同じように顧客回転率が上がって,インカムも増えるんじゃないかと思いました」
当時のサッカーゲームは「1人でできるだけ長く遊ぶ」ことを目指すものが多かったのだが,そこを「2人で遊んで勝ったり負けたり」にすれば,勝機が出てくるというわけだ。
「一番苦労したのは,カメラからの距離によって,オブジェクトのレンダリング・クオリティを変えるLevel Of Detailという手法です。近くのものは精細に,遠くのものは粗が目立たない程度に描くことで,基板の性能を効率よく使うわけです。MODEL2になったとはいえ,使えるポリゴン数は潤沢とまでは言い難かったので,クオリティを何段階にも分けて,細かく調整しました」
中込氏も,自分な好きなサッカーのゲーム開発に,精力的に取り組んでいたようだ。
「バーチャストライカーの開発は本当に面白くて,苦労しつつも,楽しんでやっていました。スタジアムやキャラクターのテクスチャーを描くところから,ユーザーインタフェース,モーションと,いろいろやりましたね。開発メンバーは8人くらいだったと思います。でも,サッカー好きは三船さんと僕くらいでした(苦笑)。
後になって,コンシューマ向けの「プロサッカークラブをつくろう」や「ビクトリーゴール」がリリースされて,サッカーゲームがセガを代表するジャンルの1つになったときは嬉しかったですし,実際に遊んでいました」
当時はセガだけでなく,業界全体を見回しても,スポーツ好きの開発者は珍しかったという。なので,「ゲームとしてのスポーツゲーム」は作れても,「スポーツを忠実に再現するゲーム」を作ることは,思う以上に難しい時代だったのかもしれない。
ともあれ,こうしてバーチャストライカーは完成に近づいていったが,開発がうまくいったからといって,その後がスムーズに進むわけではない。開発と営業のバランスが取れないと,商品として日の目を見ることはないのだ。
セガに限らず,成功を収めたタイトルの陰には,リリースされることなくひっそりと消えていった,数多くのプロトタイプがある。
バーチャストライカーにも,営業側からの判断を受けるときが来た。三船氏はそのときのことをこう振り返る。
「営業部署の人たちが,プロトタイプの見学と称してAM2研の開発スペースに来ました。若い人たちが触ってワイワイやっていたので,僕らからすれば,お客さんと同世代の人が盛り上がっている,いい感触だと思っていたんです。
ですが翌日,裕さんに呼び出されて,『販売部が売れないと言っている。どうする,やめるか?』みたいなことを言うんです。ビックリですよ。あと2か月ぐらいしたらロケテストできるぐらいのつもりでいたのに」
三船氏は当然ながら必死で食い下がった。
「さすがに納得がいきませんと。少なくとも若い人達は楽しそうにやっていたので,これで会社が駄目だと言うなら,誰がやったって駄目だ,二度とサッカーゲームは作らない方がいい,とまで思っていました。なので,ロケテストまではやらせてくれないかと裕さんに頼み込んだんです」
すると翌日,開発チーム全員が鈴木氏に呼び出された。
「『営業部は売れないと言っているが,三船はロケテストまでやりたいそうだ。みんなはどう思う』ってチームの前で言われたんですよ。
ここで誰かが自信がないとか,確かに売れなさそうですね,なんて言ったら,そこで終わっていたかもしれませんが,みんなも『ロケテストまでやらせてくれ』と言ってくれました。そう言われたら,チーム全員を呼んだ手前,裕さんも受け入れるしかないですよね。『分かった。ロケテストまでやれ』と認めてくれました」
このとき,三船氏とチームの熱量が低かったら,バーチャストライカーは頓挫していたかもしれない。モチベーションが人や物事を動かす好例と言ってもいいだろう。
そうして迎えた運命のロケテストは,見事に成功を収めた。
「AM研究開発本部の常務取締役だった鈴木久司さんは『敏,よかったじゃないか。開発を続けよう』と言ってくれたんですが,裕さんからは『バーチャファイターは1日のインカムが10万円なのに,なんでこれだけなんだ』と言われました。
インカムの数字だけ見ればそうかもしれませんが,稼働率は90%以上で,言ってみればマックスに近いインカムだったんです。実力差があると短時間で1プレイが終わる対戦格闘と,何点差つこうが規定の試合時間はプレイが続くサッカーゲームは,単純に比較できません」
ロケテストから帰社した三船氏は,その盛況ぶりを仲間に報告した。「誰か遊んでくれないかなと思って,お客さんのフリをしてプレイしていたら,鼻にピアスを開けた人が座ってくれたんだ。その鼻ピアス君がなかなかうまくて。それからどんどんお客さんがプレイしてくれるようになった」と,興奮した様子で話す氏の姿を,筆者もよく覚えている。
こうしてバーチャストライカーは,プロジェクト中止の危機をギリギリで脱したのだ。
「これ出ちゃったらもうダメじゃん」
三船氏は,バーチャストライカーを出展したAMショーのことをよく覚えているという。
「コナミさんも新作サッカーゲームを出展していました。ただ,それは僕らがMODEL1で開発したら,こんな感じになるだろうというものだったんです。
セガブースには,おそらくコナミの開発メンバーと思われる人たちが,バーチャストライカーを見に来ていたんですが,しばらくすると『やべぇ,これ出ちゃったらもうダメじゃん……』みたいな声が聞こえたんですよ。まぁ,逆の立場だったら僕もそう言ってしまったでしょう」
つまり,それくらい完成度に差があったということだ。
「ただ,バーチャストライカーはアーケードでは成功しましたけど,コンシューマへの移植でいい結果を残せなかったのは事実です,その後,コナミさんは『ウイニングイレブン』をリリースして,結果的にウイイレは今でも続いている素晴らしいシリーズになったわけです」
卓越したアイデアやプロダクツが世に出ると,それがスタンダードになり,次はそれを改良,発展させたアイデアやプロダクツがその価値を世に問うことになる。
この時代はそういったサイクルに,3DCGをはじめとする表現技術の革新が加わって,優れたコンテンツが次々と生まれたのだ。
ゲーム内広告の実現
筆者と三船氏がバーチャストライカーで行った施策には,ゲーム内広告もある。
1995年4月17日,日本経済新聞に「業務用ゲーム機 広告媒体に活用 セガ,画面に社名やロゴ」という見出しが踊った。
それは筆者がセガ在職中になんとしてもやり遂げたかった,ゲーム画面の中を広告媒体として使う手法を伝える記事だった。
その名も「バーチャ広告」,ベタな名称だが,3DCGによるリアルな表現を可能にしたバーチャシリーズのイメージを借り,アーケードゲームの画面をテレビと同等のイメージ訴求手段にしようという狙いだった。
この展開について,AM2研を含むセガ社内で理解を得るのはなかなか難しかったのだが,バーチャストライカーの開発責任者である三船氏は二つ返事で了解してくれた。サッカースタジアムでの広告露出という,自然な形で実現できると判断されたのだろう。
この露出は一定の評価を得て,表現力がさらに上がった「バーチャストライカー2」への広告出稿は,アディダス ジャパン(デサント),ビームス,アルバ・スプーン(服部セイコー),日本コカ・コーラ,アクシア(富士フイルム),オペルジャパン,住友銀行,三和銀行と,一気に増加した。
余談になるが,アメリカのューオーリンズで開催されたアーケードゲームの展示会に,三船氏と一緒に出張したことは,筆者のいい思い出だ。いかにも“日本人がイメージするアメリカ南部”といった,のんびりとした雰囲気の会場でも,バーチャストライカーは好評を博した。ハリケーン・カトリーナがニューオリンズを襲う数年前のことである。
転職のきっかけもサッカーだった
バーチャストライカーは1995年に正式稼働を開始し,大ヒットとなった。だがその後,1990年代後半のセガは,サターン対PlayStationのゲーム機戦争に敗れ,起死回生を狙った次世代機のドリームキャストもつまづき,苦しい時代を迎える。
三船氏と中込氏は1999年にリリースされたドリームキャスト用ソフト「シェンムー」の開発にも参加している。オープンワールドゲームの先駆けになったと言われるシステムや,50億円とも60億円とも言われる開発費などで,語り草となっているタイトルだが,開発に当時としては異例の長期となる3年もの時間を要した。
三船氏と中込氏も,コンシューマ版を含むバーチャストライカーシリーズの開発から,急遽駆り出される形での参加だったようだ。
ちょうどその頃,中込氏に転機が訪れようとしていた。
「転職のきっかけはサッカーです。僕はCSKのサッカー部に所属していたんですが,そこのメンバーの友人にEAの社員がいて,EAの本社が日本人の開発スタッフを探しているということは聞いていました。その時は海外勤務なんてまったく考えていませんでしたけど」
仕事はいつも人の顔をしてやってくる。何気ない会話から仕事が生まれることはよくあることだし,企画書や稟議書も,それを起案した人の想いではないかと思う。中込氏の転機も,人とのつながりから生まれた。
EAとしては,PlayStation用ソフトが好調だった日本市場向けにソフトを開発したいが,日本人に刺さるゲームをどう作ればいいのか分からない,ということだったようだ。
「それで,東京ゲームショウ'99春(※)のタイミングで,EAの人と会わないかという話があったので,通訳を交えて面談しました。場所は幕張メッセのレストランです。
EAの話を聞いて,自分からも『こんなことをしたい』という話はしましたが,そのときでさえも,転職しようという強い気持ちがあったわけじゃなかったんです」
※1999年3月19日〜21日に開催。当時の東京ゲームショウは,春と秋の2回開催されていた
だが,当時セガ社内で進められていた分社化計画が具体化するにつれて,中込氏の気持ちは転職に傾いていく。
「それまでAM2研という大きな組織にいて,予算も潤沢にあったけど,分社化されたたいろいろと制限されるんだろうなと。12月頃に,EAから『(転職した場合に勤務することになる)カナダのオフィスに来てみないか』と誘われたので,町の雰囲気なども確かめに現地まで行って,決めたんです。自分もちょうど30歳になる時だったので,これは転機だろうと。
ドリームキャスト向けの「バーチャストライカー2 Ver.2000.1」(1999年12月発売)をリリースした後,2000年にセガを退職しました。結果的には分社化前のタイミングでした」
海を渡ったサッカーサムライ,カナダで奮闘する
セガを退職した中込氏は,単身カナダに移住し,EAに入社した。
「サッカーゲーム『FIFA』シリーズの開発チームに入りました。日本人は僕1人です。これはあくまでも個人的な印象ですが,当時のFIFAはゲームシステムの完成度が低くて,バーチャストライカーとは比べものにならなかったですね」
だが,中込氏が指示されたのは,ゲームシステムではなく,キャラクターをはじめとするグラフィックス面のデザインだった。
「個人的にいろいろと思うところはありつつも,しばらくはオーダー通りに頑張ろうとしたんです。なのに,どうしてもゲームデザインが気になってしまって……(苦笑)。
バーチャストライカーと単純に比較して気になったのが,3DCGで作っているのに,キャラクターの挙動が3DCGを無視していたことでした」
具体的には,キャラクターがフィールドを滑るように動いていたという。
「バーチャストライカーでこだわったのが,キャラクターがしっかりと地面を蹴って動いているように見せることだったんです。足と地面の位置をずらさず,ボールの地点まで歩数を合わせて移動させることが必要になるのですが,技術的にはかなり高度なものになります。
例えば,センタリングをあげた時点では,ゴール前に走り込む選手がシュートするのか,パスするのか,シュートするにしても頭なのか足なのかはまったく分かりません。どのケースでも対応できて,しかも自然に見える歩数の合わせ方をしなくちゃいけないんです」
どうすればいいのか分かっているのに,手を出せない。中込氏は歯がゆい思いをしたようだ。
「ただ,そんな出来でもFIFA公式ライセンスソフトですから,出せば売れるみたいな状態でした。EAは販売のルートも強かったので,欧米のサッカーゲームでは一人勝ちみたいなものでした」
当時のいわゆる“洋ゲー”のクオリティを示すエピソードだと言えるだろう。
ちょうどその頃,筆者もセガを退職し,当時のスクウェア(現在のスクウェア・エニックス)が設立したデジキューブで宣伝担当役員の任に就いていたのだが,デジキューブでも洋ゲーの扱いには苦慮していた。操作性やゲーム内容などで,商品選択からこぼれるソフトも多かったと記憶している。
中込氏はAM2研で鍛え抜かれたプロフェッショナルとしての感性を抑えきれず,FIFAのゲームシステムを変えようと行動を開始した。
「けれども当時,FIFAの開発メンバーは100人弱くらいいたので,1人の意見というのはなかなか通らなかったんです。そこで,キャラクターの足が滑らないビジュアル表現にすると,どれだけリアルに見えるかということをSoftimage(3DCGの制作ソフト)を使ってプレゼンしました。
今はどうなっているのか不明ですが,当時EAにいた開発者には,チームの仕事のほかに,自分の好きなことをやっていい時間が与えられいたので,それを使って作ったんです」
そのプレゼンは,当然ながら高い評価を得た。
「ただ,今すぐFIFAには取り込めないから,この手法を使って日本向けにアレンジしたタイトルを作ってみてはどうか,という話になったんです」
そこで,中込氏がかつてセガで一緒にバーチャストライカーシリーズを開発したメンバーに声をかけると,彼らもカナダへ移住してきた。このとき海を渡ったサッカーサムライ達は,今でもEAで活躍しているという。
「そうして作ったのが,2004年に3月リリースしたPS2タイトル『FIFAトータルフットボール』です。ディレクションは僕が担当して,開発期間があまり十分に取れなかったのですが,目標だった,キャラクターの足が滑らない表現はここで実現できました。
続けて同じ年の12月に『2』をリリースすると,ヨーロッパのスタッフから『FIFA本編よりこっちのほうがよく出来ているんじゃないか』という声が上がってきたんです。それで日本人チームが,オリジナルのチームと入れ替わることになりました」
そうして中込氏のチームは,2006年4月に「2006 FIFA ワールドカップ ドイツ大会」,9月に「FIFA07」をリリースする。ただ,過去のシリーズ作品を土台にしていたため,完全に満足する表現には至らなかったようだ。
「2007年リリースの『FIFA 08 ワールドクラス サッカー』でゲームエンジンが新しくなって,完全に足が滑らないサッカーゲームが完成したんです。
すごく評価されて,FIFAは良くなった,すごいじゃないかと言われるようになったのを記憶しています」
スケールの違いを感じたEAの開発環境
それから約10年が経ち,FIFAシリーズは「世界で最も売れるサッカーゲーム」としての地位を不動のものとした。中込氏は成功の理由をどう見ているのだろうか。
「僕達日本人が頑張っただけではなくて,EAの強固な開発基盤の上で,優れた開発者達と力を合わせた結果です。EAが素晴らしいのは,基礎研究を継続的にやっていることなんです。
そのおかげで,キャラクターの歩数を合わせる研究を重ね,アクションのスピードを落とさずに,歩数を合わせるシステムを実現できました。
高い技術力があったところに,日本人メンバーの持っていたセンスというか,グラフィックスを含めた『サッカーゲームはこうあるべき論』みたいなものがうまく融合したということだと思います。
こういった,技術や知識,経験の融合は,ゲーム業界に限らず,もっと行うべきことではないかと思います」
当時のセガは,今にも増して開発予算を惜しまず,新しい知識や技術を積極的に取り入れていたメーカーだったと思うが,そこにいた中込氏にとっても,EAの開発環境は驚くべきものだったようだ。
「EAの開発環境は素晴らしかったですね。横浜の赤レンガ倉庫のような大きな倉庫一棟が,まるまるモーションキャプチャのためのスタジオなんですよ。まるで映画の撮影スタジオでした。AM2研でも60平方メートルくらいのスタジオを持っていて,それなりに立派なものだと思っていたんですが,スケールが違うんです。
そこに本物の芝を敷き,その上でアクターたちがアクションを行う様子をキャプチャするから,アクションにリアリティが出るんです」
もちろんバーチャストライカーでもモーションキャプチャを取り入れていたが,EAに比べると見劣りしてしまったという。
「床の上でサッカーのアクションをして撮っていたんですけど,やってる本人からすると,すごく違和感があるんですよ。『これ,やりづらいな』って。下はコンクリートの床だから,スパイクなんて当然履けませんし。
その後,人工芝の上でやるようになったんですが,人工芝と人工芝の隙間に足が入ってしまったりして。そのあたりでもスケールの違いを感じました」
2000年代の前半でこれだけの差があったわけで,現在,その差はさらに広がっているのではないだろうか。地道な基礎研究の重要性を再認識する必要があると感じさせる証言だろう。
三船氏と中込氏のその後
セガに残った三船氏は,会社の事情に翻弄された。
「バーチャストライカーのチームは,名越さんの部署に統合されて,その部署がアミューズメントヴィジョンとして分社化されました。でもすぐに『セガのスポーツゲームを再編する』みたいな話が出てきたんです。分社化でいろいろなスポーツのタイトルが散逸してしまっていたので,それをまとめたほうが効率的だと」
だが,スタッフの“引き抜き”が発生することになったため,スポーツゲームの再編はスムーズにいかなかったようだ。三船氏はこう振りかえっている。
「新しい分社を作るか,もしくはセガ社内に組織を作るか,みたいな議論がされた後で,分社化で生まれたスマイルビットが,スポーツタイトルを扱うことになりました。ヒアリングのうえで,希望する者だけが転籍することになり,僕もそのタイミングでスマイルビットに移ったんです」
三船氏は2009年にスマイルビットを退職したが,そこに至る途中で,開発を中止した幻のタイトルがあるという。
「PS3版の『プロサッカークラブをつくろう!』です。セガがPS3に参入するタイミングで開発していたので,まだノウハウがなく,開発が難航して結局中止になりました」
2013年10月10日に,PS3用ソフト「サカつく プロサッカークラブをつくろう!」がリリースされている。私の想像に過ぎないが,これは三船氏が開発していたリソースを引き継いで完成に至ったものではないだろうか。
三船氏はスマイルビットを退職後,かつてセガにいた開発者が創業した中堅のソフト受託開発社に入社した。そこは主に大手ゲーム会社の開発を請け負っており,三船氏が転職したときには,ちょうどセガの下請けとして開発を行っていたという。
「スポーツゲームの開発エンジンは,アクションゲームなどにも流用できるんです。そういう仕事をしているうちにソーシャルゲームの隆盛が始まったんですが,会社がそちらには参入せず,キャラクター関係の仕事にシフトするようになったので,そこも退職しました」
三船氏は現在,スマートフォン向けのゲームコンテンツ開発に携っている。
「今の会社では,いろいろなことにチャレンジさせてもらっています。それをきちんと結果に結びつけたい,今のプロジェクトを早く形にして出したいという気持がすごく大きいですね」
そして,最新のゲーム開発についていけなくなってまで,現場にしがみつく気はないという覚悟を語ってくれた。
「それって周りにもすごく迷惑な話だと思うんです。優秀な子たちに囲まれて,常に刺激を受けながら,自分に何ができるのかを考え,新しいことを勉強したいと思っています。
古くなったものを捨てつつ,新しいもの入れていかないと,この業界では通用しません。それができるうちは頑張るけれど,できなくなったら,現場にいる人の手助けでもするかっていう気持です」
FIFAをヒットシリーズに押し上げた中込氏は,その成功を見届けるようにして2007年にEAを退職し,日本に帰国する。
「ちょうどその時期,日本で開発されたソフトが海外で売れず,逆に海外のゲームが日本で売れるという,逆転現象が起こり始めました。
もちろん,EAで働く身としては努力が認められたことになるので,嬉しくはあったのですが,海外に移住し,現地の人と接する中で,日本人としての誇りというか,愛国心のようなものを再確認して,このまま日本のゲームソフトがポテンシャルを落としていくのは嫌だと思ったんです。
それで日本に帰り,海外で得た知識や経験を,日本のゲーム会社で生かそうと思いました」
中込氏が選んだ転職先は,カプコンだった。
「当時のカプコンは,『ロスト プラネット』や『デッドライジング』など,海外を意識したタイトルを積極的にリリースしていて,野心を持ってチャレンジしている会社だと感じたんです。
EAには入社して7年経つと3か月の休みをもらえる制度があったので,その期間にカプコンへ応募し,採用されました。おかげさまでたくさんの良い経験をさせてもらったと思います」
中込氏はそのカプコンを2012年7月に退職。同年8月からグリーでスマートフォン系のゲームコンテンツを手がけた後,2014年からは,日本在住の優秀な外国人クリエイターが多く所属するWizcorpで,少数精鋭のゲーム開発に携わっている。
三船氏と中込氏の2人には,セガを辞めてそれぞれの道を歩む途中で,再び一緒に仕事をするチャンスがあったという。中込氏は再び日本で仕事をしようと思ったとき,何人かの友人や知人にコンタクトを取ったのだが,その1人が三船氏であった。
中込氏は三船氏とやり取りを重ね,さまざまな道を模索したが,最終的にカプコンへの就職を選択したという。
一方,筆者と中込氏の再会は,偶然の出来事だった。
ある平日の日中,新宿副都心で仕事があった筆者が京王プラザホテル近くの歩道を歩いていると,大きな長毛種の綺麗な犬を連れた男性が向こうからやってきた。赤いセーターにオフホワイトのデニムのパンツで,カッコいいモデルのような人だな,などと思っていると,その男性がすれ違いざまに,「お久しぶりです,中込です」と声をかけてきたのだ。
最初は自分に対しての言葉だとは思わなかったのだが,立ち止まってよく見ると,十何年ぶりかに会う中込氏であった。かつてセガの新入社員だったときのまま……いや,もっと渋く,新宿副都心の街に映えるオトコになっていた。
ちょうどこの日は有給を取得して散歩していたそうだが,カナダから帰国してカプコンで働いていることを話してもらい,ここから筆者と中込氏の新しい付き合いが始まったのだ。
日本のゲーム市場にあるものとないのもの
日本ではめったにないことだが,海外の会社では,ある日突然解雇を宣告されることが往々にしてある。現職のアメリカ大統領であるドナルド・トランプ氏が,かつてテレビのリアリティショーに出演していたときの決めゼリフは「You're Fired!(お前はクビだ!)」だった。
だが幸いなことに,中込氏だけでなく,彼を追って日本から海外へ移住したスタッフも,今なお活躍している。セガで研鑽を積んだ後,EAの素晴らしい開発環境と優れた同僚と出会ったことにより,日々素晴らしいコンテンツを生み出していることだろう。
筆者は友人であり,尊敬すべきゲーム開発者である三船氏と中込氏に,今の日本のゲーム開発現場に足りないものは何かを尋ねてみた。
三船氏は,ゲーム業界に限らず,日本の会社組織自体に足りないものがあると思っていているという。
「それは基礎研究の時間であったり,新しいものにチャレンジさせてくれる会社のフレキシブルさだったりするのではないでしょうか。
自分はそれを補える環境を実現したいと思っています。ただ,それは会社だけの問題ではなくて,そこに関わる社員が研究や挑戦を実践して,形にしていかないと意味がありません。それができなかったから,環境がなくなったとも言えると思います」
一度海を渡り,再び日本に帰ってきた中込氏は。日本で作ったソフトを海外で売りたいという気持が強いという。
「日本の開発者には,海外に向けて作っていかないと,後々困るよというところを教えていきたいと思っています」
取材後記
三船氏と中込氏への取材を終えて,この原稿をまとめようとしているとき,第90回アカデミー賞で日本人アーチストの辻 一弘氏が「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」でメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞したというニュースが飛び込んできた。
辻氏は,特殊メイクアップの仕事を辞めてアーチスト活動に専念していたそうだが,同作でアカデミー賞主演男優賞を受賞することになるゲイリー・オールドマン氏本人からの強い要請(オールドマン氏が辻の起用を「出演の絶対条件」としていた)で,参加を決意したという。
大作映画のエンドロールを観ると,さまざまな国の人が製作に関わっていることが分かる。最近は日本人スタッフと思われる名前も多く見かける。
日本のゲーム会社にも,多くの外国人スタッフを雇用し,海外へ向けたコンテンツの研究開発に貪欲に取り組んでいるところがあるが,それはまだ一部に過ぎないと感じている。
日本だから,アメリカだから,この会社だから,この組織だから……という「だから」の言い訳をする前に,夢をどう実現するか考えた方が,人生は楽しくなるはずだ。チャーチルは「夢を捨てるとき,この世は存在しなくなる」という名言を残している。
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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