連載
ビデオゲームの語り部たち 第9部:「ファイティングバイパーズ」に魅せられた武井幹夫氏のゲームセンター人生と「ゲームインみとや鶯谷店」の閉店
この連載でも何度か書いているように,筆者はかつてセガ・エンタープライゼス(当時)で,ゲームの宣伝業務に関わっていた。
その中で出会ったタイトルは,「バーチャファイター」を筆頭にいくつもあるが,セガを辞める直前まで関わっていた格闘ゲーム「ファイティングバイパーズ」への想いはいまだに強い。
開発の過程を近くで見ていたことに加え,当時まだ珍しかったゲーム内でのタイアップ広告で日本ペプシコーラ(当時)と折衝し,隠しキャラクターとして「ペプシマン」を登場させたことによって,広告効果のステージを変えたという自負があるからだ。
「ファイティングバイパーズ」
画像は2012年にリリースされたPS3・Xbox 360向けの「ファイティングバイパーズ」
1995年に稼働を開始したセガ・エンタープライゼスのアーケード(MODEL2基板)向け格闘ゲームで,開発は第2AM研究開発部(AM2研)が担当。登場キャラクターが身に着けているボディアーマーの破壊を巡っての駆け引きが大きな特徴となっていたほか,奇抜な世界観や凝ったカメラワークなどが話題を呼び,ヒットタイトルとなった。
そんなファイティングバイパーズも稼働から20年以上が経ち,その名前を見かけることがほとんどなくなったが,2018年8月28日,あるニュースサイトの記事で久しぶりにその名を目にした。
その記事は,8月末で閉店を迎えるゲームセンター「ゲームインみとや鶯谷店」(以下,みとや鶯谷店)で,今なお定期的にファイティングバイパーズの対戦会が開かれていることを伝えていた。
すぐにみとや鶯谷店へ連絡を取り,当日の夜に訪問する約束を取り付けた筆者は,その後の閉店と退去までを見届けることになった。
今回の「ビデオゲームの語り部たち」では,みとや鶯谷店の店長である武井幹夫氏に,みとや,そしてファイティングバイパーズのエピソードを語ってもらった。
名前も知らない人たちを,誰よりも信用していた
ラブホテル街や古い居酒屋,ダンスホールなどが昭和の香りを色濃く残し,夜には妖しい輝きを放つ鶯谷。みとや鶯谷店は鶯谷駅から入谷方向に下る坂から横道を少し入ったところに建つビルの2階にある。
階段の手前には閉店を告げる案内がイーゼルに立てかけてあり,これとは別に「鉄拳7」「麻雀格闘倶楽部」のイラストがあしらわれた案内ボードにも,最終日となる8月31日の営業時間を伝える紙が貼られている。
ゴム製の滑り止めが付いた古めかしい階段を上がり,重いガラスの扉を開けると,ゲームセンター独特の電子音が洪水のように流れてきた。どこであっても変わらないこの感覚に包まれながら,目の前に広がる空間があと3日でなくなるとは,信じられない気持だった。
スタッフルームのドアをノックすると,武井氏が出迎えてくれた。大人2人が入るといっぱいという感じの室内には,店内監視用のディスプレイ,PC,プリンタ,電話兼ファックスなどがラックに積まれ,足元には筐体のキャッシュボックス用のカギが大量に入ったヒープボックス(パチンコ店に置かれている,出玉を入れるあの箱)が置かれている。ここはどうやら1人で管理業務を行うための部屋のようだ。筆者は挨拶もそこそこに,さっそく武井氏への取材に入った。
武井氏は1973年(昭和48年)生まれの45歳で,山梨県山梨市の出身だ。
「小学校に通っていた10歳から12歳頃は,ブームが到来したファミコンも好きでやっていましたが,週末になると甲府まで出て,ゲームセンターめぐりをしていました。
当時の甲府駅前にあった『上高地』というゲームセンターで『ゲーメスト』のフリーペーパーが配布されていたので,それをもらいに行くついでに,ゲームをやっていたんです。上高地のほかにも,プレイシティキャロットとかに行っていましたね。そういうことを毎週やっていました」
武井少年は「ワードナの森」「ドルアーガの塔」「魔界村」「メタルホーク」「ペーパーボーイ」といったタイトルをプレイしていたという。
「ファミコンよりもグラフィックスがきれいだったこともあって,アーケードゲームにハマったんです。中学生や高校生になってもゲームセンター通いは続いていましたし,行く先々でまずゲームセンターを探すという感じでした」
そんなゲームセンター漬けの少年時代を送った武井氏は,1991年の高校卒業とともに,山梨を後にした。理由は単純,「もっとビデオゲームがやりたい」。
故郷を去る悲しさや辛さはなく,新しい環境への期待感に溢れた旅立ちだっただろう。そもそも甲府から東京までは特急あずさで100分程度だし,ちょっと遠めのゲームセンターに行くような気持ちだったのかもしれない。
「軽い気持ちで東京に出てきました。友人が江戸川区の小岩にある料理専門学校に入学するということだったので,その寮に転がり込んで,しばらく暮らしたんです。
翌年の4月頃には,親に頼み込んでアパートの敷金と家賃を出してもらって,西武池袋線の大泉学園で一人暮らしを始めて,同じ時期に池袋のゲームファンタジア サンシャイン通り店のアルバイトとして働き始めました」
その頃は「ストリートファイターII」やNEOGEOの格闘ゲームが盛り上がっていたのだが,武井氏はなぜか,店頭にあった馬の置物(当時ヒットしていた競馬ゲームにちなんだもの)のことをよく覚えているという。
「半年くらい働いて,このままの生活を続けるのは無理だと思いました。アルバイト代が少ないというか,管理することもなく入ってきたそばから使ってしまっていましたから」
社会の洗礼を受け,現実の厳しさを知った武井氏。このあたりの計画の甘さは,若さゆえということだろうか。実家に帰るという選択もあったが,武井氏はなんとか東京に居続けようとした。
「実家は和菓子屋を経営しているんです。幼いころから父親の仕事を見ていましたし,興味があったので,『和菓子の勉強をするから,東京にいさせてほしい』と父親を説得しました。そうすれば父親からの援助は受けられるのではないか,という気持ちもあったと思います。
20歳になる頃,目黒区の和菓子製造会社に見習いで入社して,住まいも,大泉学園から池尻大橋に引っ越しました」
そして武井氏は,池尻大橋からほど近い渋谷のクラブセガに通い始める。
「その頃は『バーチャファイター2』の人気がピ−クを迎えていました。格闘ゲームには自信があったのですが,見ず知らずの相手がプレイしているところに乱入したら,ボコボコにやられたんですよ。最初から最後まで,何も手を出せないままでした。
でも,やっていくうちに少しずつ勝てるようになって。そうすると知らない人から話しかけられるようになるんです」
これで武井氏の交友関係が一気に広がったという。
「毎日,渋谷のクラブセガに行くと,仲間が集まっているんです。本名や年齢は知らないし,会話もほとんどがゲームの話なんですけど……何でしょうね,すごく一体感がありました。名前も知らない人たちを,誰よりも信用していましたね。そうして,さらにゲームの世界に引き込まれていきました」
これは武井氏だけではなく,多くの人が体験したことではないだろうか。あのゲームセンター熱狂の時代を過ごした人達の情熱には,特別なものがあったと私も感じている。
“ゲームセンター人脈”のおかげで転機をうまく乗り切る
武井氏が渋谷で活動するようになってしばらく経った1995年11月,「ファイティングバイパーズ」の稼働が開始となった。
同作は「バーチャファイター2」と同じ「MODEL2」基板向けのタイトル。さらにハイスペックな3DCG基板「MODEL3」への移行が始まろうかというタイミングでの登場であった。
ディレクターを務めたのは片岡 洋氏。当時セガ・エンタープライゼスに勤めていた筆者の記憶が確かならば,本作のプロジェクトは,片岡氏が鈴木 裕氏から「対戦しているうちに防具がダメージで壊れる演出の対戦格闘ゲームを作ってほしい」と言われて始まったものだ。
ちなみに,その前に片岡氏が手がけたのは,1993年リリースの心理ゲーム「それいけ!!ココロジー」という,まったく違うジャンルのタイトルであった。
武井氏は,渋谷のクラブセガにファイティングバイパーズが導入された頃をこう振り返る。
「プレイヤーがそれほど多くなくて,1人でゆっくり遊べたのが嬉しかったです。あまり勝負にはこだわらず『こういう3D格闘ゲームもあるんだ』っていうくらいの軽い気持ちで遊んでいました」
武井氏が思うファイティングバイパーズの魅力は,爽快感だという。
「殴ったり蹴ったりしたときの派手なヒットエフェクトや,ノックアウトすると壁が壊れてキャラクターが吹っ飛んでいく演出,アーマーを破壊した瞬間のカメラワークとかですね。引き込まれました。
そうやってプレイを続けているうちに,対戦相手が増えていったんです。その人たちとは今でも友人ですが,やっぱり本名や,どんな仕事をしているのかといったことは知りません」
若き日の武井氏が夢中になったものは,ゲーム以外にもあった。
「スロットにハマって大変だったんですよ。当時の給与が手取りで16万円くらいで,家賃が8万円くらいだったのに,ゲームセンターに行っても,2000円から3000円くらい使っちゃって,その後は渋谷や青山のクラブで散財していました。渋谷であった『ポリゴンジャンキー』(バーチャファイターのクラブイベント)にも参加しましたよ。
あの頃はそんな生活がカッコいいと思っていたんです。まわりもカッコいい人ばかりでしたし」
仕事である和菓子作りのほうはどうだったのかというと……。
「創作和菓子の新作コンクールのようなものに出展していました。毎月提出して,年間の得点で評価されるのですが,全国で7位になったこともあります。それには父親も,勤務していた会社の社長もすごく喜んでくれました。
でも,アーケードゲームと,ゲームセンターで生まれた友人との関係が,自分の中で一番大事にものになってしまったんです。
その頃は21,2歳くらいで,何も考えていなかったですね。もうどうにでもなれ,という感じでした」
結局武井氏は,和菓子の仕事を始めて3年経った頃の1996年に,会社を辞めてしまう。
「社長に『実家に帰って父親の仕事を手伝う』と嘘をついて辞めました。
私は3人兄弟の末っ子なんですが,一番上の兄は和菓子でなく洋菓子店で成功していて,真ん中はお菓子と関係ない仕事をしています。父は私の心変わりをずっと待っていたのかもしれません。
怒られるだろうと思っていたんですが,何も言われませんでした。裏切る形になって,申し訳ない気持ちです。今思うと,本当にわがままでした。家賃も出してもらっていましたし。父親は一番上の兄には本当に厳しかったんですが,一番下の僕は甘やかされていたんじゃないでしょうか」
武井氏は実家に帰らず,1年ほど日雇い労働をしたり,原宿のイタリアンレストランでウェイターの仕事をしたりして過ごした。
「ウェイターは夜の仕事なので友人と遊べず,半年くらいで辞めたんですが,ゲームセンターの友だちから『みとやってゲーセンでバイトを募集しているから,行ってみないか?』と誘われたので,バイトとして入りました。それが確か24歳のときです」
ここに出てくる「みとや」は,この鶯谷店ではなく,渋谷店のことである。詳細は後述するが,当時は都内に「ゲームインみとや」の店舗がいくつかあった。
ご存じの方も多いと思うが,ゲームインみとやを運営していた株式会社みとやの本業は,パチンコ,パチスロ店事業だ。
「渋谷駅前側からセンター街に入って1本目の十字路を右に曲がったところのビル,地下1階と地上1・2階が『ゲームインみとや渋谷店』,3・4階がレンタルビデオ『ファミリービデオみとや』だったと思います。30歳くらいまでの約6年間,バイトとして働きました」
苦労もあったと思うが,当時を振り返る武井氏の表情に暗さは感じられない。
「当時の渋谷にはカッコいいお客さんや,憧れる店員さんが多かったんです。それと,渋谷店の頃にはお店を盛り上げるために,勤務中,お客さんの対戦相手になることが許されていました(苦笑)。個人的には『バーチャファイター4』にハマってましたね」
そんな環境が楽しく思えたのだろうが,武井氏に新たな転機が訪れ,みとやを離れることになる。
「付き合っていた女性と結婚することになって,フリーターのままでいるのはどうなの,みたいな話になったんです。
義父は北海道の鉱山でゼオライトの採掘を行う会社を経営していたので,妻と2人で移住し,そこで働くことにしました。それがちょうど15年前のことですね」
ゼオライトは窒素やリン,カリウムを吸着する性質があり,土壌改良に使われる。武井氏が入った会社は採掘してきたゼオライトを乾燥させて袋に詰め,農家に納品していたという。
安住の地を見つけたかに思えた武井氏だったが……。
「会社の経営が苦しくなって,2年で東京に戻ることになったんです。社長と自分以外に3人の社員さんがいたんですが,給料を払えなくなって辞めてもらうことになり,自分も東京に戻ってきました」
北海道から帰ってきた武井氏は,再びみとやで働く道を選んだ。
「またバイトからでしたが,ほかに働ける場所もなかったですし。その当時の店長がすごくよくしてくれて,スムーズに雇ってもらえました。それが今から13年前,2005年のことになります」
波瀾万丈な人生を送っているように思える武井氏だが,人との出会いには恵まれていたと言えるだろう。
「しばらくすると,みとやが渋谷のビルを売ることが決まって,ゲームセンターは鶯谷に移転しました。それから1年くらい経った頃だと思いますが,結婚していたこともあり,店長にお願いして正社員にしてもらいました」
ここで,みとやのビデオゲーム事業(ゲームセンター経営事業)を簡単に振り返っておきたい。
みとやのルーツは,駄菓子屋の店頭にパチンコ台を置いて遊んでもらっていたことにあるようで,そこから鉄板焼き屋,喫茶店,カラオケ店,レンタルビデオ店と,業種を拡大していった。
ゲームセンター事業の始まりは1980年頃に上野不忍池近くにオープンした「ゲームセンターみとや」だ。その後に訪れたビデオゲームブームに乗って,墨田区錦糸町や台東区浅草千束など,都内に店舗を拡大した。そのひとつがゲームインみとや渋谷店である。
みとやはパチンコ・パチスロブームのときに経営的なつまずきがあり,資金繰りのため渋谷のビルを売却。そこに入っていたゲームインみとや渋谷店は,2006年に鶯谷店と統合する形で移転した。当時の鶯谷店は現在(閉店時)の場所ではなく,その裏手にあったようだ(2012年に移転している)。
2018年8月31日にゲームインみとや鶯谷店が閉店。ほかの店舗もすでに閉店しており,これでみとやのビデオゲーム事業は終了となる。
ゲームセンターを支えたタイトルたち
「渋谷店があった頃は,錦糸町,千束,水道橋,鶯谷と合わせて5店あったんですが…・・・。自分がもう少し頑張って会社側に売り込むというか,収益計画をしっかり説明できていれば,店舗は維持できたかもしれない,という思いはあります。
ただ,ここ数年を振り返ると,店舗を支えてくれるようなタイトルがなくなっていたのも事実なんです。大型ゲームのバージョンアップを,資金繰りなどの問題で見送らざるを得なかったこともありました」
みとや鶯谷店の売上げはどの程度だったのだろうか。
「家賃が40万円くらい,電気代はエアコンが15万円,筐体が12万くらい月次でかかります。あとは社員の人件費ですね。最低でも月間100万円以上の売り上げがないとキツいので,朝10時から夜0時までやって5万円が最低ラインという感じでした。
売れ線のゲームが故障したらもう赤字ですし,ディスプレイの交換には10万円くらいかかりますからね……」
みとや以外にも,経営に苦しむゲームセンターは多く,閉店も後を絶たない。
「全国的にゲームセンターがなくなっている理由の1つには,ゲームやSNSで時間をつぶせるスマホというオールマイティなツールがあるような気がします。僕はまだガラケーしか持っていないんですけどね。
それと,やはりヒットタイトルがなくなったことがあるような気がします」
武井氏はそう言って,自身が扱ってきたタイトルを振り返った。
「本格的にアーケードゲームと関わりだしたときは3DCGの格闘ゲームがあって,その後プリクラなどのプライズ系がブームになりました。プリクラだけでお店の売り上げが立つくらいでしたね」
プリクラの元祖である「プリント倶楽部」がリリースされたのは,1995年のこと。女子高生を中心に爆発的なヒットとなった。
「続いていわゆる音ゲーがブームになりました。KONAMIの『beatmania』(1997年)『Dance Dance Revolution』(1998年),セガの『CRACKIN'DJ』(2000年)などす。
そのブームのあとは,今度はセガの『三国志大戦』(2005年)が,自分でカードを動かすという画期的なシステムでヒットしました。カードを使うものでは『Quest of D』(2004年)もあって,それぞれで売り上げがきちんと立っていたと思います。
ただ,そのあたりから徐々にヒットタイトルが減っていったんです。バンダイナムコゲームスの『機動戦士ガンダム 戦場の絆』(2006年)が盛り上がって,かなり持ち直したこともありましたけどね」
長い空白の後で行われた第2回の全国大会
筆者が今回の取材を行うきっかけとなったファイティングバイパーズは,昔から稼働し続けていたわけではなく,5年ほど前に導入されたものだという。
「五反田にある基板屋さんで購入しました。価格は2万9000円で,店舗にあったブラストシティ(筐体)にセットしました。そのブラストシティは2つのシングル台を対戦台に改造したものでした」
数あるタイトルの中から,なぜファイティングバイパーズを選んだのだろうか。
「自分が好きなゲームでしたし,お店独自の特徴を出したいと思っていたので。もともと,鶯谷店はレトロゲームをそれほど置いていなかったんですが,一時期働いていたレトロゲーム好きのスタッフが辞めてしまったら,はやりのゲームがあるだけの,本当に何の特色もない店舗になってしまったんです。
そこで,『ファイティングバイパーズ』や『ラストブロンクス』など,あまり置いている店もなくて,自分がお客さんの対戦相手になれるものを入れようと思いました。
ミカドさんやナツゲーミュージアムさんなどが,誰も目を付けないようなレトロ系ゲームを入れて,盛り上がっていたということもあります」
ファイティングバイパーズもラストブロンクスも,当時のヒットタイトルであったが,稼働開始から時間が経過する中で“アーケードゲームの歴史に埋もれた名作”になってしまっていた。レトロタイトルで有名な店舗でも,置いているところはあまりなかったようだ。
そういった状況もあってか,実際に導入してTwitterなどで告知をすると,武井氏が予想していた以上の反響があった。
「当時を懐かしむプレイヤーや,みとや渋谷店の常連さんだった人たちが,鶯谷店に来店してくれるようになりました」
ファイティングバイパーズの対戦相手を求めて,頻繁に関東近郊から鶯谷までにやって来る客もいたという。
武井氏が渋谷で味わった熱狂が,時と場所を変えて蘇ったわけだ。さらに,導入の前年である2012年,ファイティングバイパーズがダウンロードソフトとしてPlayStation 3とXbox 360向けに配信されており,ネット対戦を楽しんでいたプレイヤーが,「アーケードでも遊んでみたい」と,みとや鶯谷店を訪れるようになった。
「徐々にプレイヤーが増え始めて,その中にはダウンロード版から入った人もいましたから,新しいコミュニティが生まれたんです。連絡先やアカウント名を交換して導入当時の懐かしい話をしたり,ネットでも対戦したりしていましたね。対戦会が終わった後,有志で飲みに行くこともありました」
その盛り上がりを見た武井氏は,ファイティングバイパーズのリリースから20周年となる2015年12月19日に,「ファイティングバイパーズ20周年記念全国大会」をみとや鶯谷店で開催した。リリースから間もない時期にペプシの協賛で開催されたセガ公認の全国大会に続く“第2回”とも呼ばれていたようだ。
「参加者は12名でした。アクティブなプレイヤーの数を考えれば,世界大会と言ってもていいんじゃないですか(笑)。
大会は3時間くらいで,とても盛り上がったんですが,実は自分が録画のセットを忘れて……もう情けないったらありゃしません。
でも,ある人が録画していて,YouTubeにアップしてくれたんです」
この大会では,ある“サプライズ”もあった。
「セガ公認の初代チャンピオン『明石家サンマン』が,エントリーネーム『ジェロムレバンナ』として,素性を明かさずに参加していたんです。対戦中も周囲で『アイツどっかで見たことある……』と言われていて,大会が終わった後に『明石家サンマンです』って。みんな驚きましたね。ちなみに彼が使っていたのは,サンマンじゃなくてラクセルでした(笑)。いい思い出です」
だが,この“世界大会”が終わると,プレイヤーの数が徐々に少なくなっていったという。
「週に一度開催していた対戦会にも,プレイヤーがあまり集まらなくなりましたね。まぁ,多くの人はもう40代から50代ですし,何かが終わったと感じたのでしょう」
淡々と,しかしすべてをやり切った最終営業日
その活況を目の当たりにして,翌日以降もみとや鶯谷店は普通に営業しているんじゃないか……という思いすら覚えたほどだ。
愛知県から新幹線でやってきたという,ある常連客はこう話してくれた。
「だんだん,こういうゲーセンがなくなりますよね。独特の雰囲気が好きだったので,残念です。閉店後に常連の飲み会があるんですが,それには行かずに帰ります」
ファイティングバイパーズをシングルでプレイしていた「ちゃたろー」(ツイッターネーム)さんからもお話を伺った。ちゃたろーさんは,28日にも来店していたという。
「閉店するということで,群馬県からファイティングバイパーズをプレイしにきました。もともとはファイティングバイパーズのツイートを見て,みとやさんのアカウントをフォローして,バイパーズ関連のツイートをリツイートしていたんです。それまで店に行ったことはありませんでした。
上京した折りに,初めてみとやさんにお邪魔して店長さんに挨拶したら,『いつもバイパーズの情報をリツイートしてくれている方ですか!』と返ってきて驚きました。Twitter上での会話は一度もなくて,かなり多くのフォロワーがいるのに,私を認識してくれていたんです。
それ以外にも,他店舗で開催する大会を応援してくれて,基板の入れ替えにも応じてくれるなど,店長の人柄というかあたたかみ,“ファイティングバイパーズ愛”を感じました」
渋谷みとや時代から武井氏の顔なじみである「サトヤス」さんも顔を見せた。
「渋谷センター街の入口近くにあった『ハイテクランド セガ』でファイティングバイパーズの対戦が盛り上がっていて,武井さんとも遊んでいました。そこが閉店して,武井さんがみとや渋谷店の店員になったことから,ファイティングバイパーズの対戦場所も自然にそちらへ移ったんですけど,その渋谷店も閉店になって,みんなが散っていってしまいました」
仲間を再び集めたのが,武井氏だった。
「10年ほどが経ち,武井さんがみとや鶯谷店の店長となったことで,かつて渋谷で対戦していた人達と再びファイティングバイパーズで対戦できるようになったのは嬉しかったですね。久し振りに会ったみんなはすっかり歳を取っていましたが,当時を思い出しながら楽しみました。
今日も,みなさんが夜遅くまでゲームを楽しんでいるのを見て,愛されていたお店だと改めて感じましたね」
別の常連である「YANO」さんは,川崎から来店。
「みとや鶯谷店で思い出すのは,やはり武井さんの人柄ですね。好きだったゲームが現役で稼働していることよりも,武井さんが本当にファイティングバイパーズが好きだと伝わってきたときが嬉しかったです。
レトロゲームの楽しさは,ゲームそのものに加えて,長い時間が過ぎた後に,同じゲームの愛好家と会えることにもあると思います。対戦はもちろん,一緒に飲みに行って語り合ったりと,幸せな気分で過ごすことができました。
それに慣れてしまって,閉店の話を聞くまでは,自分が恵まれた環境にいることをあまり分かっていなかったと思います。残念です」
常連であろうがなかろうが,ゲームセンターという空間で同じ時間を過ごした者同士,気持ちは強く共鳴しているかのように感じた。
こういった熱い人たちが集まっただけに,閉店予定時刻の22時を過ぎても,店内の賑わいは続いていた。武井氏もお客に退店を促したり,「蛍の光」を流したりといったことはせず,お客がプレイしている様子をずっと笑顔で眺めていた。
閉店セレモニーの予定はないのか,と筆者が聞いてみると……。
「ええ,特に何も予定してないです。淡々と,という感じですね。何時くらいになるか分かりませんが,お客様が満足して,それぞれ納得して帰っていただくまで見届けます」
22時40分,最後のお客を送り出した武井氏は「すべてやりきった」と話した。
その言葉に嘘はないだろうが,筆者は一抹の不安を感じていた。ゲームセンター一筋に生きていた男は,これからどうしていくのだろう。
みとや鶯谷店を支えた筐体の行方
武井氏は閉店の感傷に浸る間もなく,退去作業を開始した。筐体で埋め尽くされていた店内が,少しずつ広くなっていく。
「値段が付いて売却できる筐体やゲーム基板は,業者さんに買い取ってもらう予定です。9月8日には廃棄業者さんが来て,処分するものを全部搬出し,その日のうちに原状復帰の予定です」
武井氏が話したように,店内にあったゲームのうち,インカム(売上げ)が期待できるものは,中間取引業者を経由して,ほかのゲームセンターに移されることになっていた。基板や筐体を清掃し,配線やディスプレイなどのチェックで問題がなければ,リクエストがあった店に転売されるという流れだ。
みとや鶯谷店には3台トラックがやってきて筐体を積み込み,それぞれの搬送先に向かっていった。
そして,廃棄されるものが残る。
「大型筐体は,店内で分解するしかないと思います」
みとや鶯谷店はビルの2階ということもあり,廃棄する大型筐体は分解したうえで運び出すとのことだった。
ほかにも貴重な筐体やポスター,みとや規格コインボックスのカギやシリンダーなどが,大量の産業廃棄物として処分された
なお,インカムが期待できる一般的な筐体型のゲームでも,中古業者の買い取り額は数万円。古い筐体は数十円,基板は数百円程度で,ほぼ手間賃と言っていいだろう。買い取り総額は搬出・廃棄費用を相殺するのがせいぜいのようだ。
中間業者に話を聞いてみると,引き取った筐体は,改めて倉庫でチェックを行い,不良部品があれば交換するという。
アストロシティやブラストシティのブラウン管ディスプレイは10万円ほどの値段がつくが,業者はジャンクとして引き取ったパーツ取り用の筐体から該当部品を抜き取って,完全な状態にするそうだ。
そういった整備作業の中で,必要があれば筐体だけでなく,基板も水洗いするという。筆者も驚いたのだが,基板であっても水洗い後に天日干しして,完全に乾かせば通電しても問題がないのだそうだ。
とはいえ,中途半端な乾燥ではショートしてしまうため,素人が手を出すべきではないだろう。
整備が終わった筐体は,千葉県や埼玉県などにある大型の遊戯施設に販売されるケースが多いそうだ。みとや鶯谷店での使命を終えたファイティングバイパーズの筐体は,埼玉県ふじみ野市にある「Bayon(バイヨン)」で,再び稼働する予定とのこと。
ところで最近,筐体の引き取り先として増えているのは,一般のゲームマニアだという。ある程度の年齢になって可処分所得も増え,自宅にスペースがあるコレクターが筐体を購入するケースが増えており,業者側としては,壊れる可能性があるというリスクをしっかり説明したうえで購入してもらっているという。
なかにはライドものなどの大型筐体までコレクションしているヘビーなマニアもいるようで,そのような人は地方に倉庫や保管用の部屋を借りていることもあるそうだ。
ゲームセンターに生きてきた武井氏の明日
みとや鶯谷店にあったアーケードゲームは,他店で稼働したり,マニアに引き取られたり,資源として回収され姿を変えたりと,さまざまな道を歩む。では武井氏はどうなるのだろうか。
「今後ですか?」
私の問いかけを聞いて,武井氏の声のトーンが落ちたような気がした。
「みとやのパチンコ部門に配属されて,大森駅前店に勤務する予定です。ゲームセンターでしか働いていないので,やっぱり不安はあります。
渋谷店の店長だった人が独立して商売をやっているので,そこで働かせてもらうことになるかもしれません。いずれにしても,ゲームとの接点は薄くなりますね」
最近はプライベートでも,ゲームに触れることは少なくなっていたという。
「ゲームセンターにあまり行かなくなりました。家庭用ゲームもやりませんし。仕事でも家でもゲーム,というのはないですよ。まだガラケーなのでスマホでも遊ばないし」
そう語る武井氏だが,かつてゲームセンターで築いた交友関係は,今でも続いている。
「みとやの閉店を聞きつけて,1990年代にゲームセンターで親しくなった友人たちも来てくれました。自分が幹事になって,知り合った渋谷で同窓会をやろうという話をしています。生存確認というか,近況報告ですね。彼らもやはり,最近はゲームセンターにあまり行っていないようです。
お互いに本名や仕事を知らないのに,何十年にもわたって何度も会ったり,お酒を飲んだりしているのは,ゲームセンターのコミュニティだけですよ」
そういった特別な関係が生まれたゲームセンターが次々と姿を消していることについて,やはり武井氏には思うところがあるようだ。
「昔のゲームセンターは駅前などの目立つところにあったので,人と知り合える場所だったんです。そういう意味だと自分たちの世代は,コミュニティが作りやすかったのかもしれませんね。今の10代や20代の人たちに,そういうコミュニティが作れているのか,ちょっと気になったりもします」
すべての筐体と備品が運び出され,フロアが6年前の入居時の状態に戻ったのは9月8日の16時ごろだった。
わずか数日前までゲームセンターとしての活気に満ちあふれていたこのフロアは,その面影を失い,しばらくすると大衆居酒屋が入るという。かつてここにゲームセンターがあったことは,人々の記憶から徐々に消えていくことだろう。筆者は,無常観を感じずにいられなかった。
私が知っているだけでも,新宿や渋谷といった場所で,多くのゲームセンターが惜しまれつつそのシャッターを下ろしてきた。
個人的な話になるが,私が好きだったのは渋谷の井ノ頭通りにあった「ゲームファンタジア」だった。ここは矢沢永吉がキャロル解散後にリリースしたソロデビューアルバム「I LOVE YOU,OK」のジャケット撮影をしたことでも有名な店だった。
残っているゲームセンターも,画一的な店構えとタイトルラインナップの店舗がほとんどで,独特の雰囲気を持つ店舗は都内にもう数えるほどしかない。
みとや鶯谷店をそんな個性的な店に育て上げ,閉店までを見届けた武井氏は,取材の最後に,晴れやかな顔で自身の家族について話してくれた。
「休日は,妻と,北海道で拾ってきた猫と一緒にのんびりしています。猫は拾ったときが5歳くらいだったので,今も元気です。何歳になっても可愛いですね。
妻は僕がどんな仕事をしているか,あまり知らなかったようなんですけれど,黒川さんが取材するきっかけになった記事が出たときは,黙ってシャンパンを買ってきてくれました。あれは嬉しかったですね。
それにしても,閉店までじゃなくて,退去するまで取材に来るとは思いませんでした(苦笑)」
自身も話していたように,武井氏は今後をまだしっかりとは決めていないようだが,長年勤めたみとや鶯谷店での責務を全うし,明日に向かって一歩を踏み出した。どんな道を進むにせよ,その幸せを願ってやまない。
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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