インタビュー
発掘,史上初の純国産ビデオゲーム! HITAC 10で開発され,1973年にお披露目されたゲームと,それが後年に与えた影響とは
では“日本人が自ら考案・設計した最初のビデオゲーム”とは,いったい何なのだろうか? その答えが,意外なところで見つかった。調査によって,1973年の11月に,岩手大学の大学祭で「電子パチンコ」および「電子ボーリング」なるビデオゲームが,学術用ミニコンピュータ・HITAC 10をプラットフォームとして公開されていたことが明らかになったのだ。現在探しうるうちでは,これが恐らく初の“国産オリジナルのビデオゲーム”だろう。
その開発に携わった佐藤清忠氏と平畠 茂氏に,これらのビデオゲームが誕生した経緯と,後世に与えた意外な影響を聞いた。
●HITAC 10とは
現存する希少なHITAC 10実機(写真協力:東京農工大学 大学院工学府 情報工学専攻)
日立製作所(以下,日立)が「日本初のパーソナル・コンピュータ」と謳い1969年2月に発表した,国産初のミニコンピュータ(ひと部屋を占有するほどは大きくないので“ミニ”)。中小のオフィスや研究機関などで活躍し,国産ミニコンピュータのベストセラー機として知られる。価格はデータタイプライター(今で言えばキーボード兼プリンタ)とセットで495万円。標準的な映像出力を持たないが,映像出力は「できなかった」と言うよりも,そもそも「誰もやろうとさえ思わなかった」時代であることは,ご留意いただきたい。
HITAC 10が岩手大学にやってきた
4Gamer:
HITAC 10でビデオゲームをお作りになられた当時,岩手大学にはどういった形で所属しておられたのでしょうか。
佐藤清忠氏(以下,佐藤氏):
私は1968年,18歳から工学部電子工学科で岩田純蔵教授(※1)の「電子管及び電子回路学講座」に技術職員として勤務していました。本務は研究装置製作支援,学生による実験の手伝い,雑務を行うことなのですが,実態として1970年ごろは研究用機器の請負開発が主業務になっていました。
※1 日立製作所中央研究所を経て京都大学工学博士。作家・宮沢賢治の甥であり,佐藤氏いわく「親族の中でも賢治が最も可愛がっておられた甥」。1968年4月より岩手大学工学部に所属。偏微分方程式の分野において有名だった。2004年11月23日逝去。
平畠 茂氏(以下,平畠氏):
私は1970年に工学部電子工学科に入学し,大学4年生のとき,同講座に所属となりました。
4Gamer:
HITAC 10が校内に置かれたのは,いつごろでしょうか?
佐藤氏:
1969年の10月ごろでしょうか。振り返ってみると,私の上司である岩田助教授の着任に伴って予算措置があったのだろうと思います。私にとってはこれが初めて触れたコンピュータで,何やら得体のしれない大きな箱がやってきて驚いた記憶がありますね。ちなみに同時期,隣の研究室にはOKITAC-4300(HITAC 10の約半年後,1969年7月に沖電気工業が発売したミニコン)が配備されていました。
4Gamer:
それ以後は佐藤さんが,学生たちにHITAC 10の扱い方をレクチャーしていくことになるわけですね。佐藤さんはプログラミングをどのようにしてご習得なさったのでしょうか。
佐藤氏:
HITAC 10の購入時,岩手大学で日立製作所による使用方法の研修会があり,それに参加してアセンブラなどの使い方を覚えました。
平畠氏:
私が研究室に配属されたときには,すでにHITAC 10用のアセンブラとBASIC言語があったように記憶しています。
独力で“コンピュータを作る”
4Gamer:
ミニコンピュータをブラウン管モニターに接続して使った例は,当時日本では極めて珍しかった……と言うか,探しうる限り前例は見つかりませんでした(※2)。それをHITAC 10でやってみようと考えたのは,何がきっかけだったのでしょうか。
※2 大型コンピュータまで含めるのであれば,1968年に京都大学に納入されたFACOM230-60用のCRTディスプレイが,日本における最初期のブラウン管モニター使用例(おそらく文字表示専用)として確認できる。
佐藤氏:
きっかけのひとつになったのは,1971年に農林省から請け負った事業でした。約100万円の開発費で「256点空間温度計測装置」というものを作ったんです。作物育成室の中に256個の温度センサーを3次元的に配置し,それらがどのように温度変化していくかを刻々と記録するというものです。9ビットのコンピュータを手作りして,これに用いました。
4Gamer:
そのコンピュータというのは,完全に独自のものですか?
佐藤氏:
そうです。HITAC 10の研修会を通じて,コンピュータの内部構造がどうなっているのかある程度想像できたので,こういったものを作りました。他のコンピュータがどういう構造になっているのかは,あまり知りませんでした。
4Gamer:
それは驚きです。この時代の日本に,コンピュータをゼロから個人開発した方がいらっしゃったとは,思いもしませんでした。汎用ロジックICを組み合わせて作った,いわゆるTTLコンピュータでしょうか?
佐藤氏:
はい。当時はEPROMなんてまだ発売されたばかり(※3)で,とても買えるようなものではない金額でしたから。オープンコレクタ・インバータというICをつなぎ合わせてROM相当のものを構成し,そこに簡単なアセンブラを載せたりして作ったんですよ。
※3 世界初のEPROMであるIntel 1702が発売されたのは1972年。当初の市場価格は100ドルだった(当時の円ドル市場は1ドル=308円±2.25%の固定相場制,同じく大卒初任給の標準は5万円前後)。
禁断(保守管理的に)の改造
佐藤氏:
私はもともとオペアンプとかアナログ回路の設計が大好きで,高校時代にアマチュア無線に没頭したとき,ブロック図から詳細図に至るまで,こうした装置作りに必要な設計管理を独学で習得していました。ただ,この農林省のプロジェクトを作る途中で疲れてしまい,ちょっと息抜きで遊びたくなったんですね。
4Gamer:
そこでHITAC 10を使って,何かやってみようと。
実は農林省のプロジェクトの前に,HITAC 10の底蓋を開けて,どんなICを使っているのかを見ていたんです。その次に,メンテナンス会社から資料を取り寄せて,基板に電線を直接ハンダ付けし,勝手にインタフェース信号を外部に引き出しました。これによって独自の入出力装置を取り付けられるようにしたんです。HITAC 10購入の翌年(1970年)のことです。
4Gamer:
ブラウン管モニターなどを接続できるようになる仕組みは,そのときに整ったのですね。
佐藤氏:
HITAC 10の基板を見た瞬間に,「できそうだな」と思いました。それ以前に岩田先生の依頼で音楽用のシンセサイザー(※4)を作ったりして,デジタル回路開発の経験を積んでいたおかげですね。ただ実のところ,このインタフェース信号の取り出しは,上司の岩田先生には内緒でやったことでした。しかも購入したHITAC 10は保守管理上,こういう使い方をしてはいけないことになっていたんです。
※4 1969年に純正調音源回路を設計。岩田助教授の研究に基づき,佐藤氏が回路図に落とし込んだ。試作を行った後,特許を取得したとのこと。
平畠氏:
今でいえば,家電を勝手に分解したら保証が効かなくなる,みたいなイメージですね。
佐藤氏:
ありがたいことに,日立の保守サービスの人は,見て見ぬふりをして帰ってくださいました(笑)。ただ学内では,もしそれが原因で壊れたりしたらどうするんだということで,厳しい意見も出ました。400万円もする機械に,こともなげにハンダ付けをしてしまったわけですからね。「そこをなにとぞ」と上司や保守会社にお願いして,そのインタフェース信号線を使うことになったんです。
XYレコーダーからオシロスコープへ
4Gamer:
そもそも,そのインタフェース信号線は,何に使おうと考ておられたのでしょうか。
佐藤氏:
日立中央研究所から半導体素材の熱拡散方程式に関する研究依頼が来ていて,その計算結果を出力するためです。私が計算を担当したんですが,この時にもいろいろと工夫をしました。まず簡略化したアセンブラを自ら開発しています。16×16=256元連立の偏微分方程式を組む必要があったのですが,実はHITAC 10の内蔵メモリでは,このサイズの計算はできなかったんですよ。仕方がないので,記号番地だけが使えるアセンブラ(MASM,mini Assembler)を自作し,それで熱拡散シミュレーションを行いました。
4Gamer:
機能を絞って省メモリなアセンブラを作ることで,普通ならできない計算を可能にしたわけですね。
佐藤氏:
それともうひとつ,計算結果をタイプライターから数値として打ち出すだけでは面白くないので,指数関数的に変化していくさまを目に見える形で描き出せればいいなと思ったんです。それでXYレコーダー(※5)に出力しようと考えて,先ほどお話したインタフェース信号線に,ラッチICとDA変換器を手作りで取り付けて,計算結果を三次元グラフィック化して,日立中央研究所に報告したのです。当時,岩田先生にそのXYレコーダーのデモを見せたところ,「こんなことができるんだ!」と驚いておられました。
※5 コンピュータからXY軸(縦横位置)の信号を受け取り,その位置情報にあわせてペンで紙に描画するデバイス。主としてグラフを描くのに用いられる。当時,通常はアナログコンピュータで用いるものであり,汎用のデジタルコンピュータで動かすというのは画期的だったはずである。
4Gamer:
当時はデジタルコンピュータがリアルタイムに動作するというだけでも,きわめて斬新だったということですね。
佐藤氏:
おかげで,もう誰も保守契約違反などとは言わなくなり,免職を免れました(笑)。それどころか,このデモを見せたことで,すぐ次の研究依頼が来たんです。今度は高電圧現象研究グループから「絶縁油内のキャリア移動(※6)シミュレーションができるか」という話が来ました。これも微分方程式で計算を行うものですが,このときは境界条件の数値を調整したいとの注文があって,スイッチを付けて入力を変化させられるようにしたと思います。
※6 絶縁油は,変圧器(トランス)内部機構の絶縁,および発生した熱を外部へ逃がすための熱伝導を目的として充填される油のこと。「キャリア移動」は,変圧器内の高電圧下における電荷の移動という意味。
4Gamer:
いちいち数値を打ち込むのではなく,もっと直感的に,スイッチを押して値を変えられるようにしたわけですね。
佐藤氏:
さらに計算結果の変化もリアルタイムに見せようと思い,オシロスコープ(ブラウン管)をHITAC 10に接続して,そこでキャリア移動を動画として描出するようにしました。これがブラウン管の使い始めです。この動画表示が,もうすでにゲームのような感じでしたね。今で言えばJetson(※7)を使って流体シミュレーションしているような感じですが,ご覧になった先生方は「おおっ!」と叫び声を出すほど面白かったようです。
※7 NVIDIAが販売している,GPUを備えた組み込み用のシングルボードコンピュータ。しばしば学習用にも用いられる。
オシロスコープの難しさ
4Gamer:
計算結果をより分かりやすく見せたいという工夫から,XYレコーダーを経てオシロスコープに行き着いたということが理解できました。オシロスコープは,原理的にはXYレコーダーと同様にXY軸の入力信号に応じて画面に点や線を描画する装置ですから,「XYレコーダーがつながるなら,オシロスコープも」と思われたのですね。
佐藤氏:
はい。ただ難しかったのは,オシロでは1つのポイントにずっと描画を静止させておけないことです。オシロは一定の位置に描画すると,その位置にずっと電子ビームが当たり続けるため,そこだけ強く光るようになってしまいます。画面全体を均一な明るさに保とうと思ったら,計算時間と表示時間の調整をし,自然に動画表示するテクニックが必須になります。フィードフォワード制御と言うのですが,これを行うには機械語の実行時間を細かく管理しないといけないんです。
4Gamer:
マシンサイクル(コンピュータが1命令を処理するのにかかる時間)を考えながら,描画が一点に集中しないようプログラムのあちこちで時間調整をしなければいけないわけですね。
佐藤氏:
ただ,それでオシロ制御のうまいやり方を確立できたので,研究室の学生にも「オシロを使ってみて」と呼びかけました。私はこのころから,計算結果は数値の羅列で見せるのじゃなくて,見てすぐ分かるような……今で言うインタラクティブな形で見せたほうが良いという考え方で指導しています。
ゲーム開発ことはじめ
4Gamer:
そのすぐ後,佐藤さんはXYレコーダーやオシロを使ったゲーム開発に取り組んでおられます。最初は1972年の「電子福わらい」ですね。これはビデオゲームでこそありませんが,コンピュータで動作するインタラクティブかつリアルタイムなゲームの先駆と言えそうです。
佐藤氏:
これは大学祭の「電気展」のために作ったもので,当時は「ロボットアーム」という名称で展示していましたね。「電子福わらい」というのは,後から付けた名前です。
4Gamer:
このころにはすでに,コンピュータによるインタラクティブな遊びの面白さに気付いておられたわけですね。
佐藤氏:
絶縁油の境界条件のときにコンピュータを使ったゲーム的なものを実体験していましたし,前年に熱拡散方程式の結果をXYレコーダーで描画したので,XYレコーダーでどのくらいのことができるのかについても予想が付きました。それでこうしたものを作ったわけです。
4Gamer:
学生指導の一環として作ったのでしょうか?
佐藤氏:
そうですね。ただ,先ほども触れた農林省のプロジェクトからの息抜きで取り組んだので,開発したのは私1人,学生は参加していません。次の年から学生指導の一環としてこういったものを製作できるよう,この経験をもとに学生向けのマニュアルを書き,指導しました。1972年,私が22歳のときだったと思います。その指導で強調したのは,「一般市民が面白いと感じるシステムを作る」「さまざまな制約条件がある中でシステムを完成させる」という2点でした。
4Gamer:
日立から提供されたマニュアルだけでは,指導しにくいところがあったということでしょうか。
佐藤氏:
日立の研修会はボトムアップ的な指導方針――つまり「命令を全部覚えてからプログラムするように」というやり方だったんです。学生にそれでは時間がかかりすぎると思ったので,日立のHITAC 10指導書を参考にしつつ,より実践的なものを書くことにしました。岩田先生の指導もあり,簡単に実施できる例題をまず体験させるような形で。今で言えば,プログラミングの第一歩としてHello worldやLチカ(LED制御)をやるようなものです。
4Gamer:
先に面白さを体験してもらう,ということですね。
佐藤氏:
当時,こういった初心者向けマニュアルは皆無だったんですよ。そうした初歩の体験としてXYレコーダーやオシロにも触れてもらい,そこからこれまでの研究でやったような微分方程式の作り方を学んでもらいました。その演習成果として「電気展」に合わせて何か開発するよう勧めていったんです。
「電子福わらい」の詳細
4Gamer:
「電子福わらい」のお話に戻って,図中で「操作ボタン」となっているのがコントローラですよね?
佐藤氏:
はい。イメージとしては,後の任天堂のゲーム機などに似た入力装置です。[W][E][N][S]のボタンによって,XYレコーダーを上下左右に動かします。斜め方向への移動もできます。中央に[キャッチ]というボタンがありますが,これで顔のパーツを拾います。顔の各パーツには鉄片が付いていて,アームの先に付けられた電磁石をオン/オフすることで,くっつけたり離したりできるんです。
4Gamer:
まず左の「スタート点」でパーツを拾い,中央の障害物ゾーン(斜線)をくぐり抜けて,右にある顔の輪郭の中にパーツを置く。これを何度か繰り返すと。
佐藤氏:
障害物というのは,紙に書いた仮想的な通路なんですが,壁にぶつかったかどうかの判定をコンピュータが行っています。ぶつかるとタイプライターのベルの音が鳴ります。
4Gamer:
何回かミスしたら終了,みたいな感じだったのでしょうか?
佐藤氏:
いえ。あくまで注意を喚起するだけで,誰でも最後まで遊べました。全部運び終わったら「エンド」ボタンを押します。するとエラーの回数に応じてタイプライターから成績が打ち出されます。顔パーツを落とした位置はコンピュータに記憶させていて,ゲーム終了後に「スタート」ボタンを押すと,自動的に最初の位置に戻してくれるという機能も付けていました。
4Gamer:
ゲームの初期化までやってくれるんですね。出来上がった顔の良し悪しも,成績に加味されたりしたのでしょうか。
佐藤氏:
いえ,それはありませんでした。
4Gamer:
今見るとシンプルなゲームですが,前例のない中では,かなりの労作だったに違いないと思います。その甲斐あってか,大学祭では子供たちに大人気だったそうですね。
佐藤氏:
はい。「電気展」を通じて市民に楽しんでもらい,工学部志望者を増やす,という目的で,学校の体育館で公開したのですが,子供たちが行列をつくって遊んでいたという報告を聞きました。1回プレイするのに最低でも2〜3分はかかりますから,根気よく待っていてくれたんだと思います。ただ残念ながら私はちょうど怪我をして入院中で,その様子を見ていないんですよ。説明や操作指導は,研究室の学生がしてくれたようです。
4Gamer:
ちなみに平畠さんは,この「電子福わらい」を見ておられたのでしょうか。
平畠氏:
いえ,僕は見ていないですね。このときはまだ3年生で,コンピュータに触れていなかったんですよ。ただ同学年で盛岡出身の連中にはこれを見た人もいて,飲み会で話題に上ったとき「あったなあ」って盛り上がっていましたよ。
ビデオゲームのアイデアメモ
4Gamer:
翌1973年の「電気展」には,オシロスコープを使ったビデオゲーム――今回の主題でもある「電子パチンコ」と「電子ボーリング」が登場します。
この年のマニュアルには若干加筆し,専門実験の課題としてオシロ表示体験をすることを採り入れています。それがあったので,学生達は動きのあるゲームを自ら作ることができたのではないでしょうか。
4Gamer:
平畠さんも,佐藤さんが書いたマニュアルを読んでHITAC 10の扱いを覚えた1人だったのですね。
平畠氏:
4年生になると専門講座に入ることになるんですが,僕を含めた5人が電子回路の講座に入っています。そこで初めてHITAC 10に触れて,これが僕にとって初めてのコンピュータ経験となりました。すごく分かりやすいコンピュータでしたね。
佐藤氏:
平畠さんの3年後くらいまで,うちの講座に来た学生達は皆,4月から「専門実験」として,私の書いたマニュアルで学んでいます。オシロの扱い方も,最初はドットをひとつ描くところから始めて,そこから直線,バッテン,二次曲線……と,少しずつ複雑にしていって。
平畠氏:
放物線も書きましたね。弾道に見立てて,「的当て」とか言って遊んでいたのを覚えています。
4Gamer:
その段階で,すでにゲームのような遊び方が芽生えていたんですね。
平畠氏:
どこかに印を付けて,そこに当たれば勝ち,みたいな遊び方をしていたんだったかな? そのへんは記憶が定かじゃないですが。
そういえばマニュアル内で,早くもビデオゲームのアイデアがいくつか記されていて,大変興味深いです。その中に「高射砲ゲーム」というのがありますが。
平畠氏:
まさに「的当て」の応用ですね。
佐藤氏:
似たようなものとして,昔から物理の実験で「モンキーハンティング」というのがあるというのは,聞いたことがありました。マニュアルに書いた時点では,実際にゲームを作ったわけではなく,あくまでアイデアを書き留めただけです。
平畠氏:
この「応用」のページって,記憶に残っていないのですが,当時我々に提供されたものですかね?
佐藤氏:
これは1973年と記載してあるマニュアルなので,平畠さん達は見ていたと思います。少なくとも「応用」の前のページにある「オシロ表示実験」はやっているはずです。その実験の続きとして,平畠さんが「電子ボーリング」を作り,もうひとつ並行して,豊巻一也さん(のち日本ビクターに入社)という学生が「電子パチンコ」を作ったと思います。「電子パチンコ」は先程の「的当て」をさらに発展させたものですね。的の数を増やし,ピンに当たったら跳ね返るようにしたもので,あれは傑作でした。
平畠氏:
ゲームを作った記憶があるのは「電子パチンコ」と「電子ボーリング」の二つだけですね。多分それ以外のものは作っていないですよね?
佐藤氏:
ええ,他はやっていないです。
「電子ボーリング」はどんなゲームだったのか
「電子ボーリング」ゲームは,見下ろし視点でプレイするものだったのでしょうか?
平畠氏:
そうですね。画面の上に10個のピンにあたる輝点が並び,下にボールにあたる少し大きな輝点と,投げる角度を設定するための小さな輝点を置きました。小さな輝点は,上下ボタンで一定範囲を上下させられたはずです。輝点の位置でボールを投げるベクトルを決めたら,左右ボタンでボールを横移動させて,どの位置から投げるかを決めます。そして最後に発射ボタンを押して投げる。
佐藤氏:
ボールが当たった角度に応じてピンが飛び散るんですが,あれは非常に見事でした。見た人はみな驚いていましたよ。
平畠氏:
当たったピンは,そうやって画面外に飛んでいって無くなるんです。
4Gamer:
スコア計算とか,ゲームエンドとかの処理などは?
平畠氏:
たぶん無かったと思います。スコア計算して結果を出力していたら面白かったでしょうね(※8)。何回か投げたら次の人に交代,みたいな感じだったと思います。
※8 佐藤氏の書いたHITAC 10マニュアルの「ボーリング」には「点数はデータタイプライタで印字」と記されており,アイデアとしては存在していたことが分かる。
4Gamer:
ブラウン管でインタラクティブに何かができるという体験だけでも,当時の子供たちにとっては大変な驚きですよね。ピンとボール以外の表示要素は,何もなかったのでしょうか。
平畠氏:
無かったですね。
佐藤氏:
それは「電子パチンコ」も同じです。
4Gamer:
入力インタフェースは,どのようなものだったのですか。
平畠氏:
先ほどの「電子福わらい」と同じものだと思います。音だけはタイプライターから出していましたね。アスキーコードでCHR(7)という命令コードを送るとベル音が鳴る(※9)ので,それを使っていたのは強く覚えています。ボールがピンに当たると「チンチンチンチン!」と何度も鳴って,わあって騒いでいましたね。
※9 いわゆるベル文字。本来の用途は,通信先の端末に何らかの通知を送るためのもの。
佐藤氏:
「電子福わらい」でも,壁にぶつかったときにベルが鳴るようにしていましたけど,あれも同じ方式でした。インタフェースや音は,「電子パチンコ」も同じ形でやっています。
平畠氏:
ベル音とかバックスペースとか,このあたりの命令コードは,何番が何だったか,今でもしっかり覚えてるなあ(笑)。
佐藤氏:
当時の学生は,アセンブラで書くより,16進数で直接打つことのほうが多かったはずですからね。なぜかというと,HITAC 10のデータやプログラムは紙テープに記録するんですけど,その読み取り精度が悪くて,エラーを起こすんですよ。仕方がないのでフロントパネルから直接16進数で打ち込んで,命令を書き換えたりしていたので,みなさん頭の中に16進数のコードが入っていたんです。
平畠氏:
紙テープは2cm幅くらいでしたよね。1行につき8個(8ビット分)の穴を開けるところがあって,そこに機械語の命令を記録して,順次タイプライターに読み込ませていくんです。長いプログラムになると,お茶を飲みに行って帰ってきても,まだ読み込んでいる(笑)。
佐藤氏:
慣れてくると穴を見るだけで何の命令か分かるようになるので,紙テープ上で直接データを修正している学生もいましたね。
平畠氏:
紙を貼って穴を埋めたり,テープを切って詰めたりしてね。HITAC 10は,ブートストラップ(※10)ってどうやっていましたっけ?
※10 今日でいうBIOSに相当するもの。電源投入後,最初に走らせる短いプログラムで,これを動かさないと,コンピュータはソフトを読み込むことができない。IPL (Initial Program Loader)とも呼ばれる。
佐藤氏:
フロントパネルから手入力で。16ワード分入力していました。
平畠氏:
たしか,それを一生懸命短くしようとしていらっしゃいましたよね。
佐藤氏:
それは私の趣味で(笑)。当時「Bit」誌などで,どれくらい短くできるかというのが話題になっていたんですよ。それで16ワードの入力操作を12ワードくらいにできないか,いろいろ試行錯誤していましたね。まあちょっとした頭の体操であって,あまり意味はなかったかなと(笑)。
「電子ボーリング」開発当時を振り返って
佐藤氏:
豊巻さんや平畠さんは,わずか2〜3週間でHITAC 10のアセンブラをマスターしたんですよ。「電子パチンコ」「電子ボーリング」は,たぶん数か月で完成させていたはずです。
平畠氏:
開発期間については,私はもう忘却の彼方ですね。ただ,秋に入ったころに始めて,大学祭が11月なので,2〜3か月くらいだったのは確かだと思います。朝,大学に行ったら,授業がないときはいつも研究室で開発を進めていた記憶がありますね。大学の裏にある寮に下宿していたんですが,夕飯だけ食べに帰って,すぐ研究室に戻るという生活をずっとしていました。下宿のおばさんに「遅くなるから鍵開けておいてね」ってお願いして。午前2時くらいまでやっていたこともありました。
佐藤氏:
あのころ,徹夜は結構普通のことでしたね。研究室は24時間明かりが灯っているような感じでしたよ。みな義務感からじゃなくて,面白いから徹夜してしまうんです。
平畠氏:
私もそうでした。幸いにも授業は4年生になると1つか2つしか残っていなかったから,それくらい没頭していられました。ただ開発に注力しすぎて,彼女をケアする時間が無くなってしまったのはよくなかったですね(笑)。あと卒業研究のテーマをどうするか,ずいぶん悩むことになりました。何をやるかずっと決まらなくて,ようやく決めたのは,たぶん大学祭が終わってからですね。テーマは自分で自由に設定できる環境にあったので,HITAC 10を用いて脳のシナプス回路シミュレーションをやっています。卒論のときも,また同じような深夜生活をしていました。
佐藤氏:
学生達の学業に影響が出たということが,実は後で大問題になるんですよ……。
4Gamer:
批判を招いてしまった……? その話は後ほど詳しく伺いたいと思います。平畠さんは「電子ボーリング」のソフト開発にあたって,具体的にどういった点で苦労されたのでしょうか?
平畠氏:
やはりオシロの明るさのコントロールでしょうか。
佐藤氏:
さきほどお話しした「フィードフォーワード制御」のことですね。
平畠氏:
全ての輝点(ドットで表示されるボールやピン)を同じ明るさで表示しようと思ったら,全部の輝点に対して,「同じ時間止まって,次に移動する」という処理を,均等にしないといけないんです。だから処理ルーチンごとにCPUの命令実行時間を計算してプログラミングする必要がありました。処理時間が余ったところは待機命令(ノーオペレーション,NOP)を加え,逆に足りないところは,頑張って命令を削ったりするんです。
佐藤氏:
NOPを繰り返し実行させるというのは,このころの学生の得意技でしたね。そうやって画面を見ながら明るさを調整していくんですよ。
平畠氏:
NOPひとつで何マイクロ秒保つ,とか考えるんです。これが一番工夫の必要なところでしたね。
4Gamer:
画面上のドットは,一見静止しているように見えても,実は,輝点から輝点へと超高速で画面を書き換え続けているわけですね。
佐藤氏:
なので,よく見ると輝点と輝点の間に薄い線が見えていたはずです。
4Gamer:
静止画ひとつ作るのにも,実はかなり手間がかかっていたんですね。
「電子パチンコ」はどんなゲームだったのか
4Gamer:
続いて「電子パチンコ」についてお聞きしたいのですが,こちらのプログラムは,「電子ボーリング」とある程度共通していたりするのでしょうか?
平畠氏:
いえ,全くの別のプログラムですね。詳細を全然覚えてないから,たぶん豊巻くんが一人でやっていたんじゃないかな。
佐藤氏:
そのはずですね。彼もすごく熱を入れて開発していました。
4Gamer:
画面上には射出口がないようですが,玉はどこから出てくるのでしょう?
佐藤氏:
上から落ちてきたと思います。玉が釘に当たると,タイプライターのベルが鳴り,ちゃんと当たった角度に応じて弾むんですよ。弾みながらコトコトと下に落ちていって,下にあるバーの的に入ると,チンチンチンとにぎやかにベルが鳴るしくみだったと思います。落下の軌道は放物曲線運動で,かなりリアルに表現されていたと思います。
4Gamer:
何個も同時に玉を打てたりは?
佐藤氏:
それは無かったですね。1個だけ。
4Gamer:
スコア計算もやはり無かったのでしょうか。
平畠氏:
これも成績の印字はしなかったと思います。
佐藤氏:
何点取ったとか勝った負けたとかではなく,「こんなことができるんだ」ということ自体を楽しんでもらおうというゲームでしたね。
4Gamer:
「電子パチンコ」「電子ボーリング」の開発には,佐藤さんがいろいろご助言なさったりもしたのでしょうか?
佐藤氏:
いえ,自力開発をするようになってからは,もう何も私からアドバイスすることは無くなっていました。
平畠氏:
ソフト面については,佐藤さんには完成直前か完成後にお見せしたくらいじゃないかな。ただ学生同士では,いろいろと情報交換していましたよ。ここのカーブはこうやって実現しようとか,そういう話をしていたと思います。
4Gamer:
デバッグも学生同士で?
平畠氏:
いえ,ほとんど自分一人でやっていましたね。
実はやったことが無かった,本物のボーリング
4Gamer:
どういう経緯で「電子パチンコ」「電子ボーリング」という題材を選ばれたのかについてもお伺いしたいです。特にボーリングは当時ブームの最中だったわけですから,その影響もあったりしたのでしょうか。
平畠氏:
いえ。当時は真面目な学生でしたし,かつ貧乏学生でもあったので,勉強以外のことは何もやっていなかったんですよ。ブームだったのもよく知らなかったくらいで。実はボーリングを初めてやったのは,会社に入ってからです。だからHITAC 10のゲームは,イメージだけで作っていますね。
佐藤氏:
私は当時ボーリングをやっていましたが,実際にすごい人気でしたね。2,3時間待ってもなかなかできないくらいでした。
4Gamer:
パチンコのほうはどうでしょう?
佐藤氏:
それはやってないですね(笑)。パチンコ店は,当時の盛岡でもいたるところにありましたけどね。
4Gamer:
「電子パチンコ」「電子ボーリング」の大学祭での評判は,いかがでしたか?
平畠氏:
それが,あまり覚えていないんですよ。隣の研究室でモナ・リザをプリントアウトしたものを来場者に配っていて,その横で誰かが遊んでいたのを見ていた記憶だけは鮮明に残っているんですが……。
佐藤氏:
あの年は体育館じゃなくて,電子工学科棟の1階で,会議室を借りてやったんですよ。
平畠氏:
上の方から見ていた気がするのは,それでかな。評判については,後から人づてで「好評だったよ」っていう話は聞いたんですが,会場で遊び方を説明した記憶はないので,たぶん僕自身は大学祭に参加していなかったのでしょう。これは僕の悪い癖で,出来上がってしまったものに対しては,興味が薄れてしまうんですね。出来るまでが楽しいのであって。
佐藤氏:
確かに評判はとても良かったですよ。私は当日,展示を少し眺めていましたけど,学生たちが遊び方を一生懸命説明していて,お客さんは皆びっくりしていたのを覚えています。ただ前年のように,行列を作るようなことはなかったと思います。体育館に比べて,電子工学科棟がちょっと来づらいところにあったせいかもしれませんね。
実は知らなかった,「Tennis for Two」と「Spacewar!」
4Gamer:
ディスプレイ装置を用いたコンピュータゲームは,アメリカだとWilliam A. Higinbotham博士の「Tennis for Two」(1958年),マサチューセッツ工科大学の「Spacewar!」(1962年)といった先駆がありました。また「電子福わらい」と同じ1972年には,Atariの「PONG」が登場しています。日本では,1970年の大阪万博で,これはどちらかというとシミュレータ的なものの,古河パビリオンが「電車の運転テスト」を遊ばせていたりもしています。こうしたものについてはご存知でしたか?
佐藤氏:
いえ,どれも知りませんでした。
平畠氏:
私もです。「PONG」や,それに続くGIのゲーム(※11)については,会社に入ってから知りましたが。
※11 「PONG」がブレイクした後,半導体企業の大手だったGI(General Instrument)は,同タイプのゲームをAY-3-8500という1個のICへと集約することに成功する。このICは爆発的に普及し,初期の家庭用ビデオゲーム市場を急速に成長させた。
4Gamer:
そもそも海外のコンピュータ事情については,どの程度ご存知だったのでしょうか?
平畠氏:
そのへんの情報は,学生にはほとんど入ってきていなかったと思いますね。
佐藤氏:
私はそうでもなかったんです。実は私,入江 泰(※12)先生の教授室に出入りできる唯一の人間だったんですよ。入江先生はベル研究所等の論文を数多く集めておられて,教授室に入るたびにそれらに目を通していたんです。英文ですが非常に勉強になりました。そういえばロジックICのマニュアルも,1970年代当時は全部英語で,日本語のものはなかったですね。英語を読まないと仕事にならなかったというか,今以上に英語の文献が身の回りに多くあった気がします。
※12 当時は岩手大学工学部長。定年退官後,八戸工業大学教授。1977年11月24日逝去。
4Gamer:
海外のコンピュータゲーム事情が伝わっていないなか,こう言っては失礼かもしれませんが,「コンピュータを遊び道具にする」という行為は,当時の日本人にとっては常識外れのことだったと思うんです。その点で批判されたり怒られたりといったことはなかったのでしょうか?
佐藤氏:
そこは何も言われませんでしたね。むしろ上司の岩田先生はそういったことが大好きで,「もっとやるべきだ」と高く評価してくださいました。
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