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「たけしの挑戦状」を作った男,福津 浩氏が追い続けた新世界(前編)光栄「三國志」と襟川夫妻への思い 「ビデオゲームの語り部たち」:第29部
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印刷2022/07/06 12:00

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「たけしの挑戦状」を作った男,福津 浩氏が追い続けた新世界(前編)光栄「三國志」と襟川夫妻への思い 「ビデオゲームの語り部たち」:第29部

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 この連載「ビデオゲームの語り部たち」の第26部では,タイトーで「たけしの挑戦状」に関わり,その後アテナを立ち上げて「デザエモン」などを世に送り出した中村 栄氏に話を聞いた。
 だが,「たけしの挑戦状」については,それ以前から,ある人物の話を聞いてみたいと思っていた。それが同作の開発スタッフである福津 浩氏だ。

 福津氏はすでにゲーム開発から離れているのか,業界に古くからいる知人に聞いても,消息はようとして掴めなかったのだが,演劇集団「ヨーロッパ企画」が2020年に上演を予定していた舞台「たけしの挑戦状 ビヨンド」(関連記事)の関係者を通じて,コンタクトを取ることができた。

 そんな事情もあって,筆者は福津氏に“世捨て人”のようなイメージを持っていたのだが,取材場所に現れた氏は,物腰柔らかで穏やかな語り口調の紳士だった。筆者と同年生まれということもあって話も弾み,“人に歴史あり”を実感する取材となったので,ぜひ読み進めてほしい。

福津 浩氏
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 メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏による連載「ビデオゲームの語り部たち」。今回は,タイトーで「たけしの挑戦状」に携わった後,アテナを立ち上げて「デザエモン」「プロ麻雀 極」シリーズを世に送り出した中村 栄氏に登場いただいた。

[2022/01/29 00:00]


ボードゲームとジャズに親しみ,ドイツに憧れた十代


 福津氏は1960年に岩手で生まれた。冬には積雪が7メートルにもおよぶ奥羽山脈の真ん中にあり,製鉄所が中心産業となっていた“製鉄城下町”だったという。福津氏の父親は,その製鉄所を運営する会社の社員だった。

 「住人のほとんどが,同じ製鉄工場に勤務している転勤族かその家族ばかりなので,面白いことに誰も方言を使わないんですよ。だから東北出身なのに,私は東北弁が分からない。
 会社が従業員の面倒をしっかり見ていた時代でしたから,出世するごとに社宅が立派になってくんです。岩手で最後に住んでいた家は,10部屋くらいある,かなりいいところでしたね」

小学生の頃の福津氏
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 福津氏は小学2年のときに親の転勤で福島に引っ越した。東北の自然に囲まれた少年時代を送った福津氏だが,どちらかといえばインドア派だったという。とくにボードゲームが好きで,親からもらった小遣いをつぎ込んだ。今も定番の「モノポリー」「人生ゲーム」などに加え,マニアックなところでは任天堂から発売されていた「木枯し紋次郎ゲーム」を持っていたそうだ。

※笹沢左保氏による時代小説シリーズ。1972年から放送されたテレビドラマ版は,中村敦夫さん演じる紋次郎の「あっしには関わりのないことでござんす」というセリフとともに大ヒットした

 「丁半博打のように,サイコロを壺に入れて振るんです(笑)。それも含めてギミックがなかなか面白くて,ハマっていた記憶がありますね」

 だが福津氏は,自分で遊ぶよりも友達が遊んで喜んでいる姿を見るほうが好きだった。

 「その頃からゲームを提供する側の人間だったわけです。小学生のときには自分でボードゲームを作り始めました」

 福津氏が中学生になった頃,福津家は横浜に移った。決して裕福だったわけではないそうだが,両親は情操教育に力を入れていて,福津氏はピアノを習い,自宅にはオルガンがあった。その成果か,福津氏は中学生にして,サックス奏者のジョン・コルトレーンによるジャズの名盤「至上の愛」を聴いて感銘を受けたという。

 「もともとは歌謡曲が好きで,最初に買ったレコードもフィンガー5の『個人授業』だったんです。ですが『至上の愛』を聴いて『これはすごいぞ』と,魂がやられてしまって」

 高校生になった福津氏は,卒業後の進路として早稲田大学第一文学部(当時)を志望する。

 「『ドイツに行って,クラリネットを吹く吟遊詩人になりたい』という夢が生まれて,大学ではドイツ文学,とくにドイツのファンタジー文学を学ぼうと早稲田を選んだのですが,なぜ吟遊詩人になりたいと思ったのか……おそらく中二病だったんでしょうね(笑)」

 だが,高校3年時の担任教師からは「ほかの科目は大丈夫だが,この英語の成績ではどの大学も受からない」と宣告されてしまう。

 「勉強はできたほうだと思います。しかも,あまりやらなくてもできるタイプでした。ただ,小学生の頃の蓄えでその後も行けた感じだったので,英語がまったくできなかったんです。英語に興味がなかったんですよ。おそらく,小学校で英語を教えてもらっていたら興味を持てていたんじゃないですかね」

 そこで福津氏は英語を猛勉強した……のではなく,外国語科目にドイツ語を選択するという策に出る。そして,いちから学んだドイツ語で,見事早稲田大学の入試を突破した。 当時の大学入試では,英語に比べてそのほかの外国語は難度が低いことが多かったため,そこを狙ったというわけだ。

 「そこから必死に英語を勉強して追いつくよりは,ドイツ語を勉強したほうが早いだろうと。ドイツ語は英語と比べて例外が少ない言語なので,一とおり覚えてしまったらそれでいいことも知っていました。もちろん,ドイツに行きたいということも理由の1つでしたが」


プログラミング技術を武器に,引く手あまただった就職活動


大学生時代,演奏会の看板前で
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 早稲田大学に入学した福津氏は,ファンタジー文学を学びつつ,ビッグバンドサークルであるハイソサエティ・オーケストラでジャズに親しんでいたが,ここで人生を変える出会いが訪れる。日本電気(NEC)が発売したPC-8001を手に入れたのだ。

 もともとゲーム作りが好きだったこと,そしてファンタジー文学を学んでいることが噛み合い,福津氏はファンタジーRPGを作ろうと思い立ち,プログラミングを独学で身につけていった。

 「海外では『Ultima』などがリリースされていましたが,日本にはまだファンタジーRPGと呼べるものがなかった時代でした。音楽活動の傍ら,ずっとゲームを作っていましたね」

 そして,光栄マイコンシステム(現コーエーテクモゲームス。以下,光栄)が1982年に開催したプログラミングコンテストにて,大学4年生の福津氏が応募したファンタジーRPG「剣と魔法」が2位に入賞した。1位にあたる大賞は該当作品がなかったため,応募者の実質トップが福津氏だったことになる。3位となったウォーシミュレーション「銀河戦略」も福津氏の作品だった。

 「剣と魔法」では,王を殺し,王女をさらっていった魔法使いを倒すため,主人公が剣を手に立ち向かう……という王道の物語が描かれる。時代が時代だけにグラフィックスやゲームシステムは簡素だが,体力や攻撃力,防御力といった基本のパラメータに加え,食料や水の概念,メンタルコンディション要素も取り入れるという意欲作だった。

 「銀河戦略」は,多くの星々をめぐって戦う領地獲得型のシミュレーションゲームで,雰囲気的には「スタートレック」の世界観に近いものだったという。星々にいる守備隊は能力や特徴が違うため,それに応じて武器や戦略を変えることが必要になるといったシステムを採用していた。

 福津氏は,大学4年生の多忙な生活を送りながら,この2本をたった1人で作り上げた。

 「卒論を書きつつ,プログラミングをしながらバイトもやって,最後のリサイタルに向けたビッグバンドの練習をして……今思うと,いつ寝てたんでしょうね(笑)。
 合宿練習の最中に,親から『光栄って会社から電話があったんだけど』と入選の連絡が来たことをよく覚えています」

 話が少し前後するが,福津氏はほかの学生と同じように就職活動を行っていた。福津氏が志望していたのはゲームを作れる会社で,タカラやトミー,バンダイ(社名はいずれも当時)といった玩具メーカーの入社試験はひととおり受けたそうだが,入社にあたっては譲れない条件があった。

 「『すぐにゲーム開発に取りかかりたい』と考えていたので,新入社員が地方支社に回されるような会社は嫌だったんです。今になれば,それにも意味があると思えますが,当時は無駄だと感じていました。なので,例えばバンダイは,新入社員は企画職でも必ず地方に回されることが分かったので,なしだなと」

 福津氏は面接に自作ゲームのプロトタイプを持参したそうで,その効果は抜群だったという。とある会社からは,一次面接の翌日に「今日,時間を取れないか」と連絡があって,行ってみたら重役面接が始まったこともあったそうだ。

 「自作のゲームを持ち込む就活生なんて,ほかにいなかったんでしょうね。各社ともゲーム開発に手を出そうとしていた時期でしたし,“鴨がネギを背負ってくる”じゃないですけれど,どこに行っても『ぜひ入社してほしい』と,ほぼ即決で内定が出ました」

 まさに引く手あまたといった状況だったが,結局,福津氏は学習研究社(現学研ホールディングス。以下,学研)に入社した。当時の学研にはゲーム開発部署があり,ボードゲームの「バックギャモン」や,映画「南極物語」などを題材としたLSIゲームをリリースしていた。

 「学研を選んだのは,給料がよかったからです(笑)。当時,玩具メーカーの初任給は11万円から12万円くらい。でも出版社は羽振りがよくて,学研の初任給は確か14万8000円でした。これが集英社や講談社になると,18万円ぐらいだったと思います」

 ところが福津氏は,学研をたった半年で辞めてしまう。次々に企画を出しても,まったく採用されなかったことが理由だった。

 「今思えば,新入社員が出した企画なんて,そう簡単に通るわけがないんですよね。でも私としては『間違いなく売れる』と思って企画を出しているので……。
 例えば,当時の学研は知育トイに取り組んでいたので,時限爆弾を解体・停止させるパズルに,映画『007/ゴールドフィンガー』のクライマックスのような演出を施したものを企画にまとめて提出したんです。そうしたら『学研は爆弾を作らない』と却下されて。確かに,学習雑誌の出版社が爆弾を作ったらイメージを損なうかもしれませんが」

 日の目を見なかった商品には,さらに“惜しい”ものがあった。

 「松田聖子さんの曲『SWEET MEMORIES』と,ペンギンのキャラクターを起用した『サントリーCANビール』のテレビCMが人気だったので,内蔵カセットテープの音楽を再生すると,それに合わせて踊り出すペンギンの玩具を考えたんです。ですが,その企画も通らなくて,その後類似商品の『フラワーロック』が出たんです」

 フラワーロックは,鉢植えのひまわりのような花が周囲の音に合わせて踊るように動く玩具で,タカラ(当時)が1988年に発売した。世界で850万個を売り上げたとされる。

 福津氏にはその大ヒットが“見えて”いたのかもしれない。それだけに,企画が通らないもどかしさに耐えられなかったのだろう。
 
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1か月で作り上げた「三國志」の企画。そして襟川夫妻への思い


 出せども出せども企画が通らず,悶々とする福津氏にタイミングよく声をかけたのが光栄だった。「剣と魔法」についての打ち合わせで福津氏が同社に出向くと,社長の襟川陽一氏から「社員にならないか」と持ちかけられたという。

 「おそらく私が『学研にいてもつまらないので,辞めようと考えている』と漏らして,『それだったら,ウチに来ないか』という話になったんだと思います。それで渡りに船とばかりに『行きます』と」

 当時の光栄は,スタッフが20名にも満たない小さな会社だった。同社がもともと栃木県足利市にあり,染料などを扱う問屋だったことはよく知られているが,福津氏も足利へ足を運んだことがあったという。
 福津氏が入社した頃の光栄は,さすがに染料の仕事は手がけていなかったが,かといってゲーム専業というわけでもなく,レコードレンタル業も営んでいた。いろいろな可能性を探っていた時期だったことがうかがえる。

 光栄に入社した福津氏は,まず「剣と魔法」,次に「銀河戦略」の製品化を担当した。
 福津氏によると,スクウェア創業メンバーのひとりである鈴木 尚氏も,この頃光栄でバイトをしていたという。

 「『剣と魔法』はPC-8001用でしたが,これをFM-7用に移植したのが鈴木さんでした。彼は慶応大学の学生で,のちのスクウェアの基盤となる会社でもバイトをしていたんです。どちらの会社も日吉にありましたから,鈴木さんみたいに両方で働いている学生はほかにもいて,交流もありました」

 正確に記しておくと,スクウェアの基盤となったのは,徳島県に本社がある電友社が日吉に作った事業所だ。1986年,この事業所が独立する形でスクウェアが設立された。
 コンピュータゲームという新しいエンターテイメントに刺激された若者たちが集った当時の日吉は,“小さなシリコンバレー”と呼べるような雰囲気だったのかもしれない。

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光栄から1983年に発売されたPC-8001向け「剣と魔法」。メディアはカセットテープだった
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 光栄に入社した福津氏は,プランナー的な仕事を担当した。
 同社から発売されるゲームには,社長の襟川氏が作ったもの,福津氏の「剣と魔法」のようにコンテストから上がってきたもの,そして外部から持ち込まれたもの,という3タイプがあり,それらを襟川氏や社員,そして学生バイトがプログラミングしていたという。
 
 「『信長の野望・全国版』や『三國志』のプログラミングは,早稲田の理工学部の学生だった依田育生君の仕事です。
 ほかにも,鈴木さんを筆頭とする慶応の学生や,『ザ・ブラックオニキス』を開発したヘンク・ロジャースさんが出入りしていました。『ザ・ブラックオニキス』は光栄から発売するという話が進んでいたので,ヘンクも光栄のプログラマーとして認識されていたように思います」

※最終的には,ヘンク・ロジャース氏が創業したBPSから発売された

 その後,福津氏は「信長の野望 全国版」「三國志」の企画を手がけた。「信長の野望 全国版」はシリーズ作品だが,「三國志」は福津氏が立ち上げたタイトルだ。

「三國志」のゲーム画面(「画像は『三國志』30周年記念歴代タイトル全集」より)
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 「光栄に入社した直後,1984年の正月に,早稲田のハイソサエティ・オーケストラが中国で演奏旅行をすることになったんです。OBの私もついて行くことにしたんですが,入社したばかりで2週間近く会社を休むのは,さすがに心苦しい。そこで,中国ネタを使ったゲームを企画しようと考えたんです」

 取材旅行を兼ねようというわけだが,ここで「中国と言えば三国志」となったわけではない。福津氏が最初に思いついたのは「北京ダック殺人事件」という企画だった。

 「日本から中国に渡った学生が麻雀の牌を握ったまま死んでいて,その口の中に北京ダックが詰まっている……というシーンで始まるんです。イロモノっぽいですけど,本気で取り組んでいたんですよ」

 演奏旅行の合間に資料用の写真を撮影するなど,準備は着々と進んでいたのだが,ある出来事をきっかけに計画は大きく変わる。

中国滞在中の福津氏が撮影した資料用の写真。「北京ダック殺人事件」の“遺体発見現場”の撮影は,サークルの後輩に手伝ってもらったとのこと
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 「演奏旅行がひととおり終わったあと,中国の名所を観光することになったんですが,万里の長城のスケールの壮大さに圧倒されて,『北京ダック殺人事件』をやっている場合じゃないと思うと同時に,『三國志』に思い至ったんです。
 日本に帰ってすぐ社長に『三國志』を作らせてほしいと伝えて,1か月で企画書と仕様書の初稿を完成させました。これこそ自分のやりたかったことだと,やる気満々で取り組んだのを覚えています」

「三國志」誕生のきっかけとなった万里の長城で
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 福津氏はこの中国旅行の様子を,「メイキング・オブ・三国志」というレポートにまとめ,亜蘭仁(あらじん)のペンネームで,日本ソフトバンク(社名は当時。以下,ソフトバンク)から刊行されていた雑誌「Beep」に寄稿している。

写真は「Beep」1986年9月号より
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 やる気十分の福津氏だったが,入社から1年半ほど経った1985年の春に光栄を辞めてしまう。「三國志」のリリースは1985年12月なので,それすら見届けなかったわけだ。

 理由の1つは,同作の開発が大幅に遅れたことだった。自身が話したように,福津氏は1984年の正月に中国へ行き,帰国後約1か月で企画書と仕様書の初稿を完成させたのだが,プログラミング作業に入れず,宙に浮いた状態が続いた。
 Wikipediaにある「三國志」のページには,「全体のデータ量が膨大なものとなってしまったために開発は一時凍結され」と記されているが,実情は異なるという。

 「『三國志』のプログラムはC言語で書かれているのですが,当時社内でC言語をしっかり扱えるのが依田君だけだったので,開発がなかなか進まなかったんです。1年待っても完成しないので,『また,こういうことになるのか』と」

 ほかにも仕事を進めるうえで思い悩むことがあり,福津氏は退職を決めたという。

 「今振り返ると,学研のときもそうですが,当時の私は見切りを付けるのが早かったんですよね」

 だが退職から半年ほどたったある日,襟川恵子氏から「新しく設立する光栄の子会社で働かないか」という誘いがあった。光栄としても,福津氏を手放してしまうのは惜しいと感じたのだろうか。

 「私も『それで好きなことができるなら』と誘いを受けて,アークという会社に入ったんです。光栄の歴史にはまったく出てきませんが,それはおそらくアークに実績がないからですね。
 アークは,ソフトバンクがパブリッシングすることになっていたファミコンソフトを開発していました。当時,Apple IIに『Aztec』というゲームがあったんですが,それと似たようなアクションゲームです。ですがその開発が途中で中止されてしまって……。ゲーム自体は大部分が完成していて,あとはステージデータの追加とバランス調整をすれば販売できるような状況だったので,もったいなかったですね。その後もアークが開発したゲームが発売されることはありませんでした」

 役職こそついていなかったようだが,福津氏はアークという社名を考案(映画「インディ・ジョーンズ」などでも知られる「聖櫃」が由来)するなど,同社の中心的なメンバーだった。

 だがそんな福津氏にも,開発中止の理由は,はっきりとは伝えられなかったという。

 「副社長(襟川恵子氏)が孫 正義さん(ソフトバンク社長)ととても仲がよかったことからスタートしたプロジェクトで,中止もそこで決まったのだと思います」

 当時のソフトバンクはPC向けパッケージソフトの流通を手がけていたが,筆者が調べた限りでは,ファミコンソフトを扱った記録は見つからなかった。その後アークに仕事が回ってこなかったことも踏まえると,単なるソフトの開発中止ではなく,ソフトバンクがファミコンソフトのパブリッシング事業を途中で断念した結果と見ることもできる。

 福津氏はアークへの参加を失敗だったと振り返った。それはアークが実績を残せなかったからだけではない。

 福津氏は光栄を退職する際,「三國志」の印税契約を結んでいたのだが,アークの社員となるにあたって契約解消を持ちかけられ,それに同意していたのだ。福津氏は細かい経緯を覚えていないそうだが,光栄における印税契約は,社外にいる者と結ぶものだったのだろう。
 「三國志」は当時の主要な国内PC向けに続々と移植され,ファミコン版やスーパーファミコン版まで発売された大ヒット作だ。印税は数パーセントだったそうだが,確かに惜しいことをした。

 「当時は私も若かったので,お金云々よりは,やりたいことをどんどんやっていきたい気持ちが強かったんです。ただ,あとから考えると『三國志』のロイヤリティをもらっておいたほうがよかったですね(笑)」

 また,「三國志」の発売後,前述した「Beep」に,中国旅行記とともに「三國志」の開発裏話を掲載したところ,襟川恵子氏から「あなたが辞めてからデータなども変えたので,こういうことを書かれると困る」と抗議があった。

 メーカーとして,誤った情報が広まるのを避けたいのは当然ではあるだろうが,福津氏はそれを聞いて,「三國志はあなたのゲームではない」と釘をさされたように感じたそうだ。

 発売まで面倒を見ることができず,最終的には権利を手放してしまった「三國志」。光栄との無用なトラブルは避けたいとの思いもあり,これまで公の場で福津氏が「三國志」を手がけたことを明かすことはあまりなかったという。

 話を聞く限りでは気の毒にも思えるのだが,それを振り返る福津氏はどこか嬉しそうでもある。

 「恵子さんには何度もそんな目に合わされているんですよ(笑)。それでも,たまに会いたくなる魅力的な方なんです。
 恵子さんから電話がかかってきて,足利の専門学校でゲームの作り方を教えられる人材がいないから行ってもらえないかと,いきなり打診されたこともありました。それも受けましたし,ほかにも忘れた頃に何か頼まれるんですが,なぜか全部受けていますね」

 恵子氏の夫である襟川陽一氏も,今なお尊敬している人物だという。

 「陽一さんは,慶応大学のカルアという音楽サークルのOBなんです。光栄にいた頃は,音楽の話ですごく盛り上がりましたし,会社のパーティーで,襟川さんがベース,私がサックス,私の後輩がピアノを演奏して……といったこともありました。そういった音楽のつながりは意外に強くて,数年前にも襟川さんのバンドと私のバンドが同じステージに出演したりしています。
 もちろん陽一さんの人柄も尊敬しています。すごく真面目で,信頼できる方です」

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 知人や友人から頼まれたことは断らないという福津氏。次々と居場所を変えながらも,出会った人たちとの縁を大切にしていることがうかがえる。まだ見ぬ新たな地で何が起こるのか,誰が待っているのかを楽しんでいるように感じるのだ。

 そんな福津氏は,「たけしの挑戦状」でビートたけしさんと関わることになる。その一部始終と,その後の人生の軌跡は,後編でお伝えしよう。

※後編は2022年7月7日に掲載します

著者紹介:黒川文雄
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 1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
 現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
 プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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