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幼少期から大人の世界で過ごし,「サクラ大戦」などの名作を生んだ広井王子氏の“暇つぶし” ビデオゲームの語り部たち:第36部
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印刷2023/07/28 08:30

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幼少期から大人の世界で過ごし,「サクラ大戦」などの名作を生んだ広井王子氏の“暇つぶし” ビデオゲームの語り部たち:第36部

画像集 No.012のサムネイル画像 / 幼少期から大人の世界で過ごし,「サクラ大戦」などの名作を生んだ広井王子氏の“暇つぶし” ビデオゲームの語り部たち:第36部

 今回の「ビデオゲームの語り部たち」では,「天外魔境」「サクラ大戦」などの人気シリーズを手がけた広井王子氏に話を聞く。

 広井氏を初めて見たのは,筆者がセガ・エンタープライゼス(当時)に在職していた時期にまで遡るのだが,そのときの記憶は今も鮮明に残っている。

 当時,社内にはアーケードゲームを開発するAM研究開発部と,コンシューマゲームを開発するCS研究開発部があった。言ってみればライバル部署だが,当時はセガのアーケードゲーム黄金期であり,それが両部署の関係をさらにぎくしゃくさせていた。表だって険悪な事態にはならないものの,それぞれの部署の人間は,もう一方に思うところがある,といった感じだ。

 筆者はアーケードゲームの宣伝を担当していたので,AM研究開発部からの「売れないCSに予算かけやがって」「CSはAM作品の移植をやっていればいいんだ」という文句は聞こえてきたし,CSからも 「AMばかりに大きな開発予算がつく」「会社がAM寄りだから,こちらがその割を食っている」という雰囲気は伝わってきた。

 今となっては,「そんな時代だったね」という笑い話だが,当時はそうした緊張感が社内に漂っていたのだ。

 新世代機「セガサターン」は,そんな中で発売を迎えた。1994年11月22日のことだ。近い将来,AMだCSだと言っていること自体が無意味になるのでは……と思わせるような可能性を秘めたゲーム機だった。

 そしてCS研究開発部では,あるクリエイターを招聘しての大きなゲームプロジェクトが立ち上がる。それが後の「サクラ大戦」であり,そのクリエイターこそ,広井氏だった。何でもただの「クリエイター」ではなく「マルチクリエイター」だという。当時の私は「なんだそれ……」と戸惑った。当時から常にサングラスをかけた広井氏は,時代が大きく動こうとしていた中で突如現れた謎の人物として映ったのだ。

 あれから約30年が経ったが,筆者にとっての広井氏は今もミステリアスで,どこか遠い存在だ。そんな氏に,話を聞いてみたいと思った。

広井王子氏
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「坊ちゃん」として,遊びに勤しんだ子供時代


 「天外魔境」「サクラ大戦」をはじめとして,広井氏が生み出した作品には,和の雰囲気や,「粋」と表現したくなるセンスを感じさせるものが多い。そこにはやはり,氏が生まれ育った環境が大きく影響しているようだ。

 広井氏は1954年生まれで,生家は東京・東向島にあった。小説家である幸田露伴ゆかりの「蝸牛庵」(かぎゅうあん)の近くで,大きな娼家を営んでいたという。

 娼家と言っても現在では伝わりにくいだろうが,遊女を抱えて,客を取らせる商売である。第二次大戦後,GHQの命令によって,江戸の頃から続いた公娼制度が廃止されてから,1957年に売春防止法が施行されるまで,いくつかの区域では半ば公認で売春が行われていた。

 「女の子が14人いて,1階がダンスフロアでミラーボールが回っていて,ジャズが流れてダンスが踊れて。それで2階では……って言うね。かなり盛況だったらしいです。当時は,そのすごさを分かってなかったですけど」

チャンバラ遊びに夢中だった5歳ごろ
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 また当時の広井氏は,浅草国際劇場にも“顔パス”で出入りしていたという。

 「叔母が国際劇場の事務をやってたし,チッタ姉ちゃん(同じく広井氏の叔母で,松竹歌劇団の戦後1期生である水品美加さん)もいたから,行けば楽屋に入れたしチヤホヤされてた。おしろいの匂いが好きで,踊り子さんに抱っこされるのが嬉しかったな。たぶん子どもながらに,特別なことだと分かってたんですよね」

 広井氏が手がけるコンテンツの中には,歌劇団が登場するものもあるが,その原点というわけだ。

 「大階段をはじめとして,あらゆるものがキラキラしていて,僕にとっては夢の世界でした。それがすごく印象的でしたね」

 そういった「大人の世界」で育ったことが,広井氏に大きく影響を与えていることは想像に難くない。

 「普通の家に生まれてないですからね。だから普通の生活をしてない。親がそういう商売をやっていたので,5歳までは近所にあった祖母の家に預けられていて,自宅にはご飯を食べに帰るだけ。だから子どもの頃は,母親のぬくもりみたいなものを感じていないんです。
 一方で父親は僕を手懐けたいから,欲しがるものは何でも買ってくれる。街の人たちも,うちが金持ってるの知ってるから,『坊ちゃん,坊ちゃん』って。寿司屋でもどこでも,食べたいときに1人で入って食べて,全部ツケにしてましたから。本当に手に入らないものはなかった」

 広井氏が小学校に上がる頃,赤線が廃止となり,両親は南千住で100人以上の労働者を抱える商売を始めたため,広井氏の日常は少し変わったそうだ。

 「日本が土建国家としていろんなものを作り出した頃で,景気はよかったんです。でも女の子ばっかりのところから,男ばっかりのところになって,ちょっとへこんでた。お風呂も銭湯みたいにでっかいのがあるんですけど,ちょっと時間を間違うとおじさん達と一緒に入ることになるし」

 ただ,周りから「坊ちゃん」と呼ばれるのは変わらず,浅草にもよく遊びに行っていたという。この頃から,広井氏には遊び場所の“ポリシー”があった。

小学校の運動会で。このころは転校したばかりで不安だったという
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 「遊びに行くっていったら浅草ですから。錦糸町は,場末になるから行かない。川を越えて浅草で遊んで,たまには銀座にも行く。銀座は,子どもでもネクタイ締めて行くところでしたね。だいたい月1回くらい銀座に行って,いいとこでご飯を食べるっていうイベントがありました」

 一般人にはなかなか理解しがたい生活だが,広井氏は「坊ちゃんの生活っていうのは遊び歩くってこと」だという。

 「子どものうちから遊び歩くのが教育。歌舞伎や小唄,浪曲,落語といった一連の芸能文化的なものは全部しつけられました。両親からもばあさんからも,『これがこうだよ,着物の着方はこうだよ』と。
 三味線や小唄を聞いて『粋だね』って言えなかったら,カッコ悪いんだよ。それが日常の中に溢れてんだから。うちのばあさんの妹は三味線の師匠で,遊びに行けばペンペン弾いてるし。『ちょっと行こうか』って誘われて,どこに行くのかなと思ったら,浪曲だったりね。浪曲はまだいいけど,講談なんか子どもにとっては面白いもんじゃないから,『つまんなかったら寝てろ』って言われてました。だから劇場では結構寝てました」

 広井氏いわく,「東京で暮らす中流家庭とは,そういうものだった」とのこと。

 「1年くらい遊んで暮らせるお金を持ってるのが中流。一度,母に『上流ってどういうの?』って聞いたら,『お金を見たことない人達じゃない?』って返ってきましたね」

 小学校を卒業した広井氏は,立教中学校,高校と進学した。それは実家が裕福だったこともあるが,広井氏自身の資質も理由にあったとのこと。

 「変な子だったんで,親が普通の中学校や高校では合わないと思ったみたいです。好き嫌いが激しくて,気に入らないことはやらないし,嫌いな奴とは口を聞かなくて,何かあると学校から帰ってきちゃうんですよね。
 今でもそうです。仕事を頼まれても,『こいつは嫌い』『こいつは嘘をついてる』と思ったら絶対やらない。ずっとそこは変わらないです。もう大人だから,面と向かって『お前,嫌いだ』とは言わずに,『忙しいので』とか返しますけど(笑)」

 広井氏は,人に対してのアンテナが敏感なのだという。それにも,育った環境が影響しているようだ。

 「大人の社会の中で生きてきましたからね。周囲に子どもがいなかったんですよ。赤線の中は,どこに行っても大人しかいないから」


伝統文化への反発で,前衛芸術に傾倒


高校3年のときの旅先で
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 「坊ちゃん」として,歌舞伎や小唄,浪曲といったものをしつけられてきた広井氏だったが,成長すれば当然ながら新しい物にも興味が出てくる。
 中学生のときに初めてジーンズ(リーバイス501)を買ったが,父親に「こんなものは進駐軍や労働者のものだ」と捨てられてしまったという。

 「それでカチンときたので,今でも501をはいています」

 これには,東京っ子としての粋を教えられて育った広井氏に,父親の姿があまり格好よく映っていなかったことも影響しているようだ。

 「母の一族はずっと江戸で髪結いをやっていたんで,じいちゃんも曾ばあちゃんもカッコよかったんですよ。親父はちょっと田舎者で,だからこそ余計頑張って,服は全部三越で作るとか……そういうのが子供心にすごく嫌だった。『ブランド品でそろえるのダッセー……』って(笑)」

 そして,高校に進学した頃から,幼少の頃好きだった歌劇団や,教え込まれた伝統文化からも距離を置き始めた。

 「そういうのがすごく嫌になって,家族も含めて反発して……。当時の僕らは,ビートルズの洗礼を受けたんです。ロックにものすごく傾倒して,レッド・ツェッペリンとかのレコードも全部買って。
 社会もヒッピーやアングラの時代に入っていって,高校時代に唐 十郎さんの演劇を観て,どっぷりハマりました。それが未だに自分から離れない。これが僕の青春で,はっきりと自分の意思で見つけて,好きになったものでした。それまで触れてきたものは,誰かに“連れて行かれた”ものだったと気付いたんです」

 広井氏は高校卒業後,そのまま立教大学へ進学した。あまり乗り気ではなかったが,「どうしても行ってほしい」という母親に根負けしたとのこと。それもあって,3年生のときに中退してしまうのだが,それまでは映画制作に打ち込んだ。

 「高校では8ミリ映画を撮っていたので,大学では映画サークルの立教S.P.P.(セント・ポールズ・プロダクション)で16ミリ映画をやってみようと。だから『立教に入る』じゃなくて,『S.P.P.に入る』って言ってた」

 立教S.P.P.とその周辺からは多数の著名人が巣立っている。映画監督の黒沢 清氏や周防正行氏もメンバーだった。

 「僕が3年のとき,新入生でS.P.P.に入ってきたのが黒沢 清。彼の面接は僕がやったんです。周防さんの名前はすでに広まっていましたね」

 加えて,大学1年のとき,自主映画団体のコルボ・シネマテイクにも入り,上映会のチラシ製作や受付,フィルムの貸し出し手配,電話番などもやっていた。

 「映画が倉庫にいっぱいあったから,1日10本くらい観ることができて。チャップリンは全部観ましたね」

 こういった活動の原動力となっていたのは,映画監督になりたいという思いだったという。だが,残念ながらそれは叶わなかった。

 「今思えば,そこまで気持ちが強くなかったんですよ。もっと強ければ,映画監督になってたと思うんです」

 また,自身の性格も映画監督向きではなかったと思っているようだ。

 「今でもそうですけど,人見知りが激しかったし。だから今もサングラスをかけているんです。人と目を合わせるのが好きじゃない。前はもっと黒いレンズで目を隠していました。人前に出るのも,あまり好きじゃないし」

 広井氏のサングラスは,人との距離を取るためのものだった。

 「変わった育ち方をしたので,世間が受け入れてくれないだろうと自分で勝手に思っていたんですよね。会話中に,たとえば『都々逸(どどいつ)がどうだ』と言っても,ほとんどの人は分からないんですよ。話が合わない。だから自分の部屋で本を読んでいたほうが楽しいし,同年代と話すよりも,ばあちゃんのほうが話が合うので面白い」

バイトに明け暮れていた19歳の広井氏
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 大学時代の広井氏は,映画とともに,高校時代にハマった唐 十郎氏のアングラ演劇にも引き続き夢中になっていた。アルバイトでの稼ぎをすべてつぎ込むほどだったという。
 また,その流れで,全身白塗りの演者による前衛的な舞踏で知られる大駱駝艦(だいらくだかん)に,照明助手として参加していた。

 「初期メンバーで,1年半在籍していました。伝説の多摩川ライブで,台風の中,照明をやってましたよ。電源車が漏電してビリビリいってて『ヤバいヤバい』って(笑)。主宰の麿 赤兒さんから『白塗りしてみる?』と言われたこともありましたけど,それは断りました。裏方志望でしたから」

 広井氏がアングラや前衛芸術に惹かれたのは,既存のルールが次々に壊されていくのが気持ちよかったからだという。幼い頃から伝統文化を叩き込まれた広井氏にとって,その衝撃はことさらに大きかったことだろう。

 だがそんな中で,あることに気付いたという。

 「唐さんがやっている演劇は,江戸初期の歌舞伎に近いものだなと思ったんです。この時代に出雲阿国が出てきたら,こんなことをやったんだろうって。小屋の中でウワンウワン掛け声を出して,ヤジったら殴り合いが始まるんだもん。そんなところまで含めて,本当に熱気に溢れてて,楽しかった」

※歌舞伎の源流とされる「かぶき踊り」の創始者

 一見正反対に見える伝統文化とアングラも,根っこは同じなのかもしれないと気づいたというわけだ。これは,広井氏の作品作りに大きな影響を与えることになる。


森本レオさんから学んだ「フワフワ生きる術」


 コルボ・シネマテイクでは,ある人との出会いがあった。そしてこれが,広井氏の社会人としての第一歩となる。

 「森本レオさんが上映会に来て,終了後にコルボのボス達が『レオさんと食事に行くから,お前も来い』と。その席でレオさんが『来週,麻雀大会をやるんで,手伝ってほしい』と僕を指名したんです」

 その麻雀大会は,女優・歌手の鰐淵晴子さん,俳優の風間杜夫さん,フォークシンガーの山田パンダさん,劇作家・小説家のつかこうへいさんと,錚々たるメンバーが集うものだったという。

 「みなさんにお茶とかおにぎりを出したりと,レオさんの家でお手伝いをしたんです。後日,喫茶店に行ったらちょうどレオさんがいて,『この間はどうも』みたいな挨拶を交わして。レオさんが僕のことを気に入ってくれたようでした」

 これが縁で,広井氏は,森本さんの付き人のような仕事をするようになった。

 「といっても,『今日から付き人ね』じゃなくて,何となくそうなっていったんです。その店でレオさんに会うと全部おごってくれるから,レオさんがいそうな時間に行って,コーヒー飲んだりスパゲティ食ったりしてると『おお,今日もいたか』『今日,台本が届くから受け取って』『今日NHKだから付いてきて』と。
 正式に『お前,付き人ね』って言われたことないんです。誰かに僕を紹介するときは『俺の付き人』って言うんですけど,僕自身は言われたことがない」

 そんな関係だったからか,定期的な報酬はなかったという。

 「レオさんの気が向いたら。レオさん,ケチんぼだもん(笑)。でもご飯はおごってくれるんです」

 広井氏は,森本さんから「フワフワ生きる術」を学んだそうだ。

 「レオさん,本当にフワフワ生きてるからなー。先週もメールが来たけど,『最近になって,俺はすごく恵まれてる男だって気がついたよ』って。もう『兄さん,今更ですか?』って(笑)。仕事の衣装のまま帰ってくるし,毎日下駄っ履きだし」

 詳しくは後述するが,確かに広井氏の生き方には,あまり思い詰めない,フワフワと楽しい雰囲気が感じられる。

 やがて広井氏は森本さんの紹介で,Tシャツのプリントデザインやアポロキャップの刺繍デザインを手がけることとなる。

 「レオさんが名古屋のデザイン会社を紹介してくれて。大学に絵の描ける友達がいたので,2人で始めました。東京で営業して仕事を取って,2週間に1回社長がお金を取りに来て,残りを報酬として僕達にくれるという感じです。
 そうやっているうちに,1年くらいで営業のやり方を覚えちゃったんですよ。それで『これ,自分達だけでやれば上前はねられる必要なくね?』となって会社を辞めたんですけど,そのときに『うちの看板なしにやれると思うな』といった感じで脅されたんです。『大人って,こうやって脅すんだ』と思いましたね」

 その脅しに屈せず,広井氏は独立する。そのとき設立したのがレッドカンパニー(のちのレッド・エンタテインメント)だ。

 「レッドカンパニーの名前は,たまたまそこにあったレッドマンっていうインディアンの帽子から取りました。
 あとになって『魔神英雄伝ワタル』シリーズの『皇帝龍』(Royal Emperor Dragon)の略みたいな話もしましたけど,最初は『レッドマン,インディアンは嘘つかない』だったんです。

 初期のレッドカンパニーは,引き続きTシャツと刺繍のデザインを手がけた。

 「刺繍屋がたくさんある上野の稲荷町でやっていました。そのうち刺繍の本場である群馬の桐生を紹介されて,そこで営業するようになって。
 2人でデザインの見本を50パターンくらい作って,1枚1枚売りに行くんですよ。高いものは1枚5万円くらい。それを図面に起こしてマシンにかけると,ミシンが動いて刺繍が出来上がるんです。Tシャツのプリントデザインも,高く売れましたね。当時,銀座にあった麻生商事がアメリカのプレス機を日本で初めて導入して,Tシャツの柄が足りないと言うので,よく売りにいっていました。1回行くと5枚10枚買ってくれるので,1枚あたり3万5万だと,結構な売上になったんです」

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ストーリーで商品に命を吹き込む


 そんな生活を送っていた広井氏は,あるとき何の気なしに,拾った石に絵を描いたところ,可愛い仕上がりになり,それを売ろうと思い立った。

 「猫なんかの絵を描いて原宿で並べて売ってみたんですけど,これが売れなかった。何でだろう思っていたところに,広告代理店に務めているという人が来て『面白いから』と名刺をくれたんですよ。
 食事でも奢ってもらえるかもと,さっそくその会社を訪ねたら,炭酸飲料の『リボンシトロン』のキャラクターグッズの仕事があるから,それを手伝わないかと言われて。
 『こんなの面白いんじゃないですか』と後日デザインを提案したら,採用されたんです。それで,レギュラーの仕事をやるようになって」

 その広告代理店の取引先には,菓子メーカーのロッテがあった。

 「『これ,やってみる?』と言われたのが,ロッテの食玩『ジョイントロボ』のデザインだったんです。『スター・ウォーズ』方式で,敵と味方を分けて戦わせるというストーリーのシリーズを作って。
 最近はどこの会社もストーリーを入れていますけれども,何十年も前,お菓子のオマケにストーリーを入れて,すべてストーリーが解決するという形にしたのはこれが最初だろうと思います。そこから僕は,ずっとストーリーを入れていく仕事をしています」

 その仕事ぶりはすぐに広まった。

 「トミー(当時。現在のタカラトミー)の『ゾイド』の初期パンフレットにもストーリーを書きました。なんでもそうですが,『こいつとこいつが因縁の戦いをした』みたいなことを加えていくと,子どもが喜ぶんです。言わばただの商品だったものに,キャラクターとして命を吹き込んでいたんですよね。カバヤ食品の専務からも『うちでストーリーを書け』と言われましたが,『ビッグワンガム』のオマケにストーリーは無理無理って(笑)」

※実在する戦闘機や自動車などのプラモデルがオマケとしてついていた食玩

 「ストーリーで商品に命を吹き込む」ということができたのはなぜだったのか。広井氏は,自身が幼い頃から歌舞伎に親しみ,その知識もあったからだと分析する。

 「人形なんかを持ってきて,『大将,お願いします』『おお,寿司食いねえ』とかね。そうやって,口三味線でずっとストーリーを作ってた。それは全部歌舞伎から学んだもので,そこに唐さんの影響が加わったと思います。唐さんのテイストは大きいですね」

 ストーリーの生み出し方も,歌舞伎にヒントを得ているという。

 「歌舞伎って,興行権を持つ座元,トップ役者の座頭,脚本家の3人が話し合って,新しい出し物を作るにしても,たとえば座頭が『源平をやろう』と言い出すわけです。それから『源平なら,義経が江戸時代に寿司屋になっていたって話はどうだ』となり,『面白いな,それ』とどんどん話を作っていくんです。
 つまり,必ず『実は平氏の生き残り』『実は義経の生まれ変わり』といったように,『実は誰』というタイムトラベルや転生のような要素が入っているんです。例を挙げると,歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』は,鎌倉時代が舞台で,登場人物の名前も全部変えてありますけど,『忠臣蔵』のパロディですよね」

「ネクロスの要塞」はコミック化やゲーム化もされる人気商品となった
写真提供:チラシコレクター 浅野 稔
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 広井氏は,「ジョイントロボ」や,その新シリーズ「スーパージョイントロボ」に続き,1987年4月に第1弾が発売されたロッテの食玩「ネクロスの要塞」のデザインやストーリーを手がけることになった。

 「当時,仲間内でTRPGの『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の輸入版をプレイしていたんですよ。それでキディランドにメタルフィギュアを買いに行ったら,1体が3000円くらいして,『俺達で作ったほうがよくね』と粘土で自作して。それで出来上がったものを見て,『これ,ロッテに持っていこうや』となったんです」

 広井氏が持ち込んだ企画を見たロッテの担当者は,「ダンジョンズ&ドラゴンズ」の輸入元から許可を得るよう指示したという。

 「輸入元に『大丈夫ですよね?』と聞きに行ったら,『全然違うね,どうぞどうぞ』みたいな感じで。それをロッテに伝えたら,『じゃあ,やろう』ってなってネクロスが始まったんです」


「魔神英雄伝ワタル」を巡っての駆け引きが「天外魔境」に


 「ネクロスの要塞」はヒット商品になり,続く「昆虫レスラー」も手がけた広井氏だったが,そのあとアイデアが出なくなってしまったこともあり,ロッテとの仕事はひとます終えることにしたという。

「魔神英雄伝ワタル」のアニメ放送後にリリースされたゲーム化作品のチラシ
写真提供:チラシコレクター 浅野 稔
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 「それで,何のためだったかは覚えていないんですが,カバヤ食品の代理店に行ったら,社長に『君は何がやりたいの?』と聞かれて,『原作やりたいんですよね』と答えたんです。それで勉強のためにアニメ業界に行ってみたらと,サンライズの当時の社長を紹介されました。
 そうしたら,『今ちょうどタカラが企画を募集していて,サンライズもエントリーするから,1本書いてよ』と。そのとき作った企画が『魔神英雄伝ワタル』です。当初は『タケル』でしたけど」

 同作は,一言で言うなら「ロボットもの」になるのかもしれないが,和のテイスト溢れる世界観や,7つの「界層」それぞれに7人の敵キャラがいる「創界山」の設定など,広井氏らしいユニークさに溢れている。

 「プレゼンしたら,当時のタカラのマーケティング部長が『これ,ネクロスっぽいんだよな』って言い出して。
 それで僕がネクロスを作ったって言ったら,『探してたんだよ!』『これ,やろう!』と。ほかにも専務が立教出身だったりしてウマがあって,話がガッチリ固められていったんです」

 それから広井氏は,タカラでコンテンツを作り,それを広告代理店のアサツー ディ・ケイに報告するという日々を送った。「ワタル」はまだスポンサー枠が埋まったわけも放送が決定していたわけでもなかった。そんな中で,広井氏はアサツー ディ・ケイに呼び出される。

 「そこに当時のハドソンの本部長がいて。スポンサードの話をするんです。ワタルのほかにもう1本アニメがあってどっちでもいいんだけど……と。その話に合わせて『うちでゲームを作らないか』と言うんですよ。トレードオフとは絶対に言わないで」

 結局広井氏は,アサツー ディ・ケイの常務から頼み込まれる形で,当時札幌に本社のあったハドソンでゲーム開発に携わることとなる。

 「アサツーのスタッフがマネージャーのように横について,札幌に着いたらベンツが待っていて,それに乗ってハドソンに行って。その後カニやら何やら食ってたら,『ゲームの作り方を覚えてもらいたいので,1週間くらいいてもらえますか』と言われたんです。翌日には東京に帰るつもりだったのに」

 そして,広井氏曰く「ほぼ軟禁状態」で,ゲームの座学が始まったという。だが,その内容は,今振り返ると少々ポイントがずれていたようだ。

 「『CD-ROMにはドラクエIが1000本入ります』とかね。僕は僕で『そうなると,堀井さん(堀井雄二氏)は3年かけてドラクエIを作ったから,ゲーム1本作るのに3000年かかりますね』なんて言ったり。
 そしたらある日,本部長が来て『そんなこと教えなくていい!』と言ってくれて,解放してもらえたんです」

 この本部長は,後にプロデューサーとして「天外魔境 ZIRIA」の開発に参加する大里幸夫氏だ。広井氏は同氏を「よく分かった人」と評する。

 「大里さんは,これからはストーリーだと考えていたんです。CD-ROMを使うことで,キャラクターがしゃべるようになるから,ストーリーはより綿密でなければならないと。それを面白く書けるのが,ネクロスを作った広井だと。大里さんには可愛がってもらいました」

 広井氏は,このエピソードを振り返り,自身の半生が人の縁に恵まれたものだったと語る。

 「その都度その都度,いい方にめぐり会っているんです。レオさんもそうだったし。それは『感覚的に合うかどうか』で勝負しているからなんですよね。『この人!』と思ったら,バッと付いていく」

バリ島で休日を過ごしたときの1枚
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 そうしてリリースされた「天外魔境 ZIRIA」が大ヒットしたことは,4Gamer読者の多くが知るところだろう。加えて,その広告周りのさまざまな制作を引き受けたことにより,当時の広井氏は年間数億円の収入を得ていたという。

 「チラシとかポスターとか,頼まれたことは全部やってました。そしたらアサツーがチヤホヤしてくれて,デザイン費も全部払ってくれて。『こんなにくれるの?』ってなりましたね。それですぐ『天外魔境II』をやろうと。
 そのとき初めて契約書を交わしました。ハドソンも契約書を交わすのは初めてだったんで,僕が書類を作ったんです。そのくらい当時はゆるくて,著作権なんて誰も考えてなかった」

 この契約書は,ハドソンのフォーマットとなったようで,それがゲーム業界にも広がっていったという。まったくの別会社から届いた契約書が「あのとき作ったヤツの転用じゃないか?」と思ってしまうような書面だったことが,数年前まで度々あったそうだ。
 そして,「天外魔境」でのシナリオの作り方も,同じように業界に広まっていったのではないかと感じているという。

 「『天外魔境』でやった,僕の書き方のまんまなんですよ。今も変わらないんです。雛形を作って来ましたね」

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