連載
ビデオゲームの語り部たち 第17部:小山順一朗氏が数々の成功と失敗から得た“戦場の絆”
筆者はいくつかのゲームや映像コンテンツにプロデューサーとして関わり,企画や制作,資金集めなどに奔走した経験があるが,その中で例えば「制作側の都合」といった理不尽な理由で,当初の構想を変更せざるを得ない事態に何度も遭遇してきた。
一方,ハリウッド映画や北米デベロッパのAAAゲームといったプロジェクトでは,プロデューサーの役割が確立されているからなのか,最初から最後まで制作のコンセプトがぶれることはない。少なくとも傍目にはそう感じる。
もちろん日本でも,確固たるコンセプトで作品をプロデュースし続けている人たちはいる。今回の「ビデオゲームの語り部たち」では,30年にわたってゲーム制作に関わり,企画から開発,そしてプロデュースと,幅広い仕事を手がけてきたバンダイナムコアミューズメントの小山順一朗氏に話を聞いた。
変身ヒーローと超合金ロボに憧れた少年時代
小山氏は1966年に静岡県の沼津で生まれた。家業は母親が営む美容室だったという。小学生のとき,小山氏はその年代の男子の例に漏れず,「仮面ライダー」の洗礼を受けた。
「まだテレビゲームがなかった時代で,子供たちの関心ごともすべてアナログでした。ポピー(※)の光って回る変身ベルトも持っていましたし,仮面ライダースナックというお菓子についていたカードも集めていました」
※バンダイグループのキャラクター玩具専業メーカー。仮面ライダーの変身ベルト以外にも,キャラクター商品を多く製造・販売していた。1983年,バンダイに吸収合併
当時はキャラクターグッズにおける“最初の全盛期”とでも呼ぶべき時代だった。
「仮面ライダーのほかにはミクロマン,その後に超合金のマジンガーZにもハマりました。幼少期はブルマァク(※)の怪獣ソフビも持っていた記憶があります。あと,夏休みに『東映まんがまつり』の『人造人間キカイダー』を赤青の3Dメガネで見たのを覚えています。今思えばあれは,(小山氏が現在注力している)VRにつながっていますね。とにかく、そういうキャラクターものが大好きでした」
※ウルトラシリーズなどのソフトビニール人形を製造・販売していた玩具会社。1977年に倒産した
一般的な男子だと,中学に入る頃までにはそういったキャラクター玩具から離れ,部活動や恋愛などに関心が向かうようになると聞いたことがあるが,小山氏はブレることなく,自らの信じた道を突き進んだ。
「周りがそういったジャンルのホビーに興味がなくなっても,自分だけは買い続けていました。まったく卒業しませんでしたね。もう大好きで大好きで」
小山氏は,スーパーカーブーム,ラジコンカーブーム,キンケシ(キン肉マン消しゴム)ブームなど,時代時代の流行を押さえつつ,特に気に入った『宇宙刑事シャリバン』に感化されて弟さんと一緒に特撮ヒーローのムービーを作るなど,物作りの面白さにも目覚めていく。そのムービーはボール紙でスーツを作り,自分たちで演出やカメラワーク,演技を練って,叔父さんが持っていたカメラを借りて撮影したそうだ。
そして小山氏は中学生のとき,自身の人生に大きく関わるコンテンツと出会った。1979年にテレビ放送が始まったアニメ「機動戦士ガンダム」と,その放映後に大ブームとなったガンプラだ。
「当時のガンプラブームはハンパじゃなかったですね。『HOW TO BUILD GUNDAM』というホビージャパンの別冊を夢中になって読んでいましたし,近所の模型店にもしょっちゅう通って,自作のガンプラジオラマを店に飾ってもらおうとしたこともありました。
もちろんアニメの方にもハマっていて,中学3年生のときは劇場版を観るために徹夜で映画館の前に並びました。先着順で,特別にカットしたフィルムをもらえたんです。世話係みたいなお兄さんたち,オタクの先輩たちが『ここに並んでください』とか教えてくれて,ガンダムの音楽を聴きながら,みんなで一晩過ごしたんです。今だと中学生がそんなことしてたら補導されるでしょう。のんびりとした時代でした」
気に入ったものに対する小山氏の情熱の注ぎ方は,並々ならぬものがあった。このときの小山少年は,後に自分がガンダムのゲームを開発する側になるとは夢にも思っていなかったはずだが,この情熱が自然と道を切り開いたのだろう。
小山氏がコンピュータに興味を持ったのも,中学生のときだった。その頃は図書館で見つけた面白そうな本を週に6冊ほど借りて読んでいたそうだが,その中にコンピュータやマイコンを扱っているものがあったという。
それを読んだ小山氏は「自分でも何か作れるのではないか」と思い立って,沼津に1軒しかない電子部品取扱店でトランジスタやその他の部品を購入し,風呂の水位ブザーなどを作ったという。書籍から得た知識をもとに自身で考え,研究し,基礎を身に付けていったわけだ。すさまじい熱意だが,一方で学校の勉強は疎かになりがちだったという。
「ゲームセンター小山」の青春
仮面ライダーやガンダム,そしてコンピュータの洗礼を受けた小山氏が,ビデオゲームと出会うのはもはや必然だった。氏が初めてゲームを触ったのは,やはり中学生のときで,その頃爆発的なブームを巻き起こした,タイトーの「スペースインベーダー」(1978年リリース)である。
「友達からスペースインベーダーのことを聞いて,『何だそれは』と,当時は危ない雰囲気があったゲームセンターに行きました。とにかく衝撃的だったのは,『画面の中のものを自分で動かせる』というところでした。テレビに映るものは見るだけだったのに,自分が動かすものになったんですから。当時の中学生の間では,補導を恐れながらスペースインベーダーで1万点を超えることが自慢でしたが,そこまでは行きませんでしたね(苦笑)。
『スペースアタック』や『スペースフィーバー』など,インベーダーの亜流みたいなものを遊んだこともあります。そちらのほうが易しかったですし。100円で少しでも長く遊びたかったんですよ」
この頃,小山氏は友人たちから「ゲームセンター小山」と呼ばれていたという。当時コロコロコミックに連載されていた,すがやみつる氏による人気漫画「ゲームセンターあらし」にちなんだものかと思いきや,違ったようだ。
当時の小山氏は,はやりのゲームをほとんど遊びつくしていただけでなく,蛍光表示管(FL管)を使ったゲームや,任天堂の「ゲーム&ウオッチ」なども多数所有していた。そのため友人たちが放課後に小山氏の自宅を駄菓子屋感覚で訪れ,一緒になってワイワイとプレイするのが日課になり,“屋号”がついたようだ。
高校3年になった小山氏は,卒業後の進路をメカトロニクス分野と決め,本人曰く「10校受けた中でここしか受からなかった」という日本大学理工学部に入学。沼津を離れて東京での生活が始まると,ゲーム熱はさらに加速していった。
「ちょうどファミコンブームが来て,アルバイト料や奨学金はファミコンソフトとゲームセンターにつぎ込んでいました。ほぼすべてのゲームソフトとハードは体験していて,コレクターに近い状態でしたね。アルバイト先も西葛西にあったハイテクセガでしたから,毎日がゲーム漬けです」
ただこの頃になると,小山氏の嗜好にある変化が起こった。それまでは流行しているもの,人気のものを追いかけていたのが,マニアックなものに目を向けるようになったというのだ。ゲームソフトを買いに行っても,当時爆発的人気となっていた「ドラゴンクエストIII」(1988年)が目の前にあるにも関わらず,セガ・マークIIIのソフト「赤い光弾ジリオン」(1987年)を選んだりした。
また,理工学部に通っていたこともあって,「ファミコン改造マニュアル」などを片手にゲーム機の改造も始めた。
「研究室にいろいろな機材が揃っていたので,好き勝手にいじれたんです。例えば,ファミコンでRGB出力ができるようにするとか。今ならきっとデータを吸い出すとか,エミュレータ的なことをやっていたかもしれません(笑)」
そんな生活を謳歌した結果,4年時の成績は150人中148位になるも,小山氏は無事に大学を卒業。就職先の第1希望はバンダイ,第2希望はセガ,第3希望はナムコだったというが,見事ナムコに内定した。
小山氏本人は「バブル期だったので,誰でも入れた」と謙遜するが,その頃のナムコはアーケードやコンシューマゲームでヒットを連発し,東証2部上場も控えるなど,まさに急成長の真っ只中であり,そう簡単に入れる会社ではなかっただろう。
しかし,ナムコの内定を知った親戚や友人,教授からは「ゲーム会社なんて明日をも知れない,いつなくなるかも分からない」と,入社を思いとどまるよう説得されたという。当時はまだゲームやゲーム業界の社会的地位が低く,こういった反応もそう珍しいものではなかったのだ。
小山氏は悩んだ末に,「これからは社会人として,自分の力で生きていかなければならない。ならば好きなことをやろう」と決心。ナムコへ入社した。
新人小山氏を鍛えた恩師と「ギャラクシアン3」
小山氏がナムコ入社後に配属されたのは,28人プレイ仕様のものが国際花と緑の博覧会(通称「花博」「花の万博」。1990年開催)へ出展された「ギャラクシアン3」や,マツダとの共同開発によって生まれた「ユーノス・ロードスター・ドライビング・シミュレータ」といった,大型の筐体を手がけていたチームだった。理工学部精密機械工学科卒の小山氏には,メカエンジニアとしての役割が期待されていたようなのだが……。
「『理工学部卒なのに図面も引けないのか』って,ほぼ毎日叱られていました。大学ではあまり勉強していなくて……。課題を出されたときに,ほかの人の図面をコピーして提出するようなこともありましたから」
当時はまだCADが普及しておらず,筐体の設計も製図台を使って行われた。慣れない作業に苦しむ中で,小山氏は恩師と呼べる人物と出会う。
「メカエンジニアの大杉さん(大杉 章氏)に手取り足取り教えてもらううち,仕事が楽しくなってきたんですよ。ホント,あれがターニングポイントでしたね」
大杉氏は1972年にナムコの前身である中村製作所へ入社し,「シュータウェイ」「F-1」「ファイナルラップ」など,大型のアーケード向けゲームを多数手がけた開発者である。周囲の手を借りながら,なんとか社会人として歩き出した小山氏が最初に手がけたタイトルは,ガンシューティングゲーム「スティールガンナー」(1991年)だった。
「筐体に入っているゲーム基板システム2の『シールドケース』や,ボタン配置の設計を担当しましたが,それよりもメカエンジニア1年生でありながら,企画会議に参加できたのが良かったと思っています。
『スティールガンナー』はナムコのガンシューティングゲーム初参入作品でした。遠山茂樹さんたちベテラン企画マンが,他社さんのガンシューティングを研究して,どんな内容にしようと侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をやっている中で,私の発言も許されたのです。自分が思いついた案を率直に伝えられる風土があって,素晴らしい経験ができました」
遠山氏はナムコのダ・ヴィンチと呼ばれる人物で,詳細は後述するが,小山氏に大きな影響を与えた。
「そのとき遠山さんはデザイナーで,『スティールガンナー』の筐体デザインも手がけていました。『絵がうまい人だなぁ』と感服したのを覚えています。
遠山さんはゲーム内容についてもアイデアを出していました。銃座が2つある赤い複葉機で空を飛びながら,ガーゴイルのようなモンスターを倒していくというものでしたが,岩崎吾朗さんや菊地秀行さんたちの案が通って,『スティールガンナー』になりました」
小山氏は「スティールガンナー」の後しばらくして,大がかりなプロジェクトに関わることとなった。
「花博が終わったあと,『ギャラクシアン3』は当時二子玉川にあったナムコワンダーエッグに移送されたんですが,それとは別にもう一基作って,横浜市鶴見区の国道1号線沿いにオープンを予定していた『プラボ鶴見』の目玉にしようということになったんです。いわば2号機の開発です」
建物の図面を確認しつつ設計を始めた小山氏は,このゲームならではの問題に直面する。
「花博会場やワンダーエッグと違ってロードサイドの店舗ですから,搬入もかなり難しいことが分かったんです。そこで発想を逆転させて,ギャラクシアン3を入れてから,建物を作っていくような進め方をしました。
これがすごく勉強になったんです。先輩方の作った大型体感ゲームの心臓部に,新人だった自分が触れられたのは貴重な体験でした」
“筐体が走る”レースゲーム「エースドライバー」
これがきっかけになって,小山氏はアーケード向け体感ゲームの企画開発に誘われ,3Dグラフィックスのレースゲーム「エースドライバー」(1994年)を開発することになった。
「3DCGのレースゲームとしては,すでに『リッジレーサー』(1993年)の開発が進行していましたが,そちらはスポーツカータイプの車を運転するもので,筐体も動かない仕様でした。自分が関わるエースドライバーは,『リッジレーサー』と同じ「システム22」基板向けではありますが,F1を題材として,筐体も動くものとして作ることになったんです。私はその可動部分,心臓部を担当することになりました」
開発チームのメンバーが最初に行ったのは,“取材”だった。
「まずはフォーミュラカーに近いレーシングカートを体験してみようということで,チームのメンバーで乗りに行ったんです。そうしたら本当に驚きまして……。普段乗っている車のようなステアリングの遊びがなくてクイックに反応しますし,ヘタすればスピンもするわけです。本物のF1はもっと敏感なんでしょうが」
この感覚を筐体の動きで表現することが小山氏の命題となったのだが,既存の手法で実現するのは非常に困難だった。
「一般的な体感型レースゲームだと,ステアリングを切った信号を検出してモーターを回し,シートを動かします。ですが,それだとフォーミュラカーの挙動を再現するにはタイムラグが大きすぎるんです。そこで,実際に走らせることにしました」
“走らせる”とはどういう意味だろうか。私も今まで多くのゲームをプレイし,開発現場にいたこともあるが,実際に車を走らせるゲームなど聞いたことがない。
「簡単に説明すると,エースドライバーの筐体はシートの下にタイヤが付いた本物の車のような構造になっていて,それが道路に見立てたローラーの上を走るんです」
自転車競技の選手がトレーニングで使うローラーを知っている人なら,あれをイメージすると分かりやすいかもしれない。ローラーの上とはいえ実際に走っているわけだから,ステアリング操作に対する反応や,シートに伝わる振動はリアルになるというわけだ。
読者の方も想像がつくと思うが,ここにたどり着くまでに小山氏はさまざまな試行錯誤を重ねたそうだ。
「フォーミュラカーの乗り味を再現するために,とにかくいろいろなものを試したのはよく覚えています。モーター屋さんを回って,『ボールねじ』というものを使ってみたりしましたが,うまくいきませんでした。当時求めていたものに,技術が追いついていなかったんです」
だが,ヒントは身近なところに隠れていた。
「いろいろと試している中で,遠山茂樹さんが手がけた,実寸大の車を操作するエレメカの構造を応用できないかと思いついたんです」
それはコースが描かれたベルトが回転する上で車を左右に操作するもので,ステアリングを切ったぶんだけタイヤの方向が変わり,移動する仕組みだった。
もちろん,そのまま持ってきただけでは,画面に表示されている車と筐体の動きが合わなかったりして,ゲームとして成立しなくなるシーンが出てくる。小山氏は遠山氏のアドバイスも受けながら,さらに工夫を重ねた。
さらに小山氏は,プレイヤーの錯覚も利用していた。かつて「エースドライバー」をプレイした人の中には,「アクセルを踏み込むとシートの振動が激しくなる」「コースの縁石に乗り上げるとシートが浮く」といった記憶を持つ人がいるのではないかと思うが,実際のところ,そのような「仕組み」は入っていなかったという。
「ローラーは同じ速度で回っているだけなんですが,それでもリアルな疾走感が出たんです。縁石に乗り上げたときには,ステアリングをコツンと振動させているだけなのに,シートまで動いているように感じられたんですよ」
そういった工夫の末,小山氏たちはエースドライバーの筐体を完成させた。最大の目標としたクイックな反応に加えて,BOSE社と共同開発したサウンドシステムなどにより,全身でレースの醍醐味を味わえるものに仕上がったのだ。ただ,ローラーや転倒防止用の重りなどを搭載した結果,総重量は約1トンにもなり,左右のライドユニットと29インチブラウン管2台を搭載したユニットの計3ユニット構成になった。
「遠山さんをはじめとした諸先輩からのアドバイス,そして社内にあった技術を使った成果です。10人くらいの開発メンバーで作り上げました」
まさに自信作であったが,そうなると小山氏はソフトの出来が気になり始めたという。ソフトも筐体と同じように,フォーミュラカーの再現を目指していたのだが,その再現度合いがアーケードゲームとしては度が過ぎていたようだ。物理シミュレーションに凝りすぎて,まっすぐ走らせるのにも気を使うような操作性だったという」
「突き詰めてはいるんですけど,お客さんのことを考えているのか? と感じました。ゲームがストイックすぎると,プレイヤーがついて来られないんですよ。
『ウイニングラン』(1988年)がセガさんの『バーチャレーシング』(1992年)に勝てなかったのは,その部分だったと思っていたので,なおさらでした」
「ウイニングラン」は,ナムコが日本初のアーケード向け3DCGレースゲームとしてリリースしたタイトルだ。F1マシンのドライビングを再現した操作性はそれ以前のレースゲームと一線を画していたが,大ヒットには至らなかった。初期の3DCGレースゲームとしては,「バーチャレーシング」を思い浮かべる人のほうが多いように思う。
ゲームセンターを訪れるお客には,時間つぶしが目的のサラリーマン,デート中のカップル,わずかなお小遣いしか持っていない子供といった,じっくりと腰を据えてプレイするわけではない(できない)層がけっこうな割合でいる。
そういった人たちに満足感を与え,次の来店を促進するのがアーケードゲームの目指すところなのだが,あまりにシビアでストイックなゲームにすると,プレイヤーは満足感を得る前にゲームをやめてしまうのだ。
このあたりは,最初にまとまったお金を払ってじっくり遊ぶ家庭用ゲーム機向けとの大きな違いでもある。実際,この数年後には“リアルドライビングシミュレータ”を謳うPlayStation用ソフト「グランツーリスモ」(1997年)がソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)からリリースされ,大ヒットした。同じゲームでも,遊び方や遊ばれる場所が変われば,その評価も大きく変わるのだ。
話が少しそれてしまったので,エースドライバーの開発に戻そう。ソフトの出来に不満があった小山氏は,驚きの行動に出る。
「自分が作った筐体,しかも特によくできた筐体でしたから,それに見合うソフト,レースゲームが必要だと思っていました。それで『こんなソフトをこの筐体に入れてほしくない!』って,ソフト開発チームに主張しちゃったんですよ。
それだけじゃないんです。ナムコ社内に『このソフトは面白いのか? 筐体を活かしているのか? インストールしていいのか?』と意見を問うアンケートを撒いたり,ほかのチームに開発を持ちかけたりしました」
このとき小山氏は入社4年目のまだまだ若手。さらに上司への根回しなどもない,単独での行動だったという。本人も「今考えると命知らず」と振り返ったが,結果的にはソフト開発に小山氏の意見が取り入れられ,エースドライバーは完成にこぎ着ける。
当時のナムコが自由でざっくばらん,風通しのいい社風だったことが窺えるエピソードだ。
「そんな“開発殺し”みたいなことをやったので,みんなに覚えられて,後々までことあるごとに『地獄のアンケート』とか言われることになりましたけどね(笑)。
でも,ナムコにはいいソフトを作れる力があると思ったから,そういう行動に出たんです。すでに『リッジレーサー』とか,すごく面白いものがありましたから」
小山氏を含む「エースドライバー」開発チームの苦労が最初に報われたのは,アメリカで開催された業務用ゲームの展示会,Amusement and Music Operators Association Show(AMOAショウ)だった。そこに出展された「エースドライバー」が大きな反響を呼び,賞を受賞したのだ。
「プレイしたバイヤーたちが,『おお,これは今までのレースゲームと違うぞ』などと驚いていたのを覚えています。極め付きは『まるでGフォースを与えられてるような気がする!』っていう感想でしたね。僕も『そうです! Gフォースです!』と一緒に喜んでいました(笑)。あまり英語が得意じゃなくて細かい説明ができなかったから,相手の言ってることに合わせたんですけどね(笑)」
暴走と迷走の末に行き着いた先
小山氏のエンジニアとしてのキャリアは「エースドライバー」から始まったと言っても差し支えない。この勢いに乗って,小山氏は数々の体感型アーケードゲームを手がけていくことになる。
「故中村雅哉社長の『スキーゲームをやりたい』という一声から始まった『アルペンレーサー』(1995年)や,マリンスポーツがテーマの『アクアジェット』(1996年)など,体感ゲームをずいぶんと作りました。すごく楽しかったですね」
「アルペンレーサー」は,プレイヤーが筐体に取り付けてある2本のストックを握りつつ,足下に用意されたステップ状のデバイスを左右にスライドさせて操作するもの。「アクアジェット」は,リアルサイズの水上バイクのような筐体で,いずれもプレイの様子が“絵になる”こともあり,人気を博した。
これらに代表されるユニークなゲームがナムコから生まれた理由の1つに,やはり前述した「自由で風通しのいい社風」があったことは間違いないだろう。
しかし,自由な環境にいる者たちは,モラルを失いやすくもある。個人の“暴走”で,完成度の低いゲームがリリースされることもあったようだ。
本来ならそのようなゲームは販売が伸び悩み,問題になるはずなのだが,幸か不幸か,アーケードゲーム全盛期という時代がそれを覆い隠していた。
「当時はアーケードゲームの新作を出せば売れる時代でした。買い付ける側も『とりあえずいくつか買ってみよう。外れだったら別に捨ててもいいんだし』といった感覚があったのではないでしょうか。実際,そのやり方で外れを引いてしまっても,ほかのタイトルで売り上げをカバーできていたんです」
しかし,そんないい時代が長く続かなかったのは,多くの読者がご存じの通りだ。
「2000年にPlayStation 2が発売される頃には,アーケードゲーム市場の冷え込みが始まっていました。ただ,僕はPlayStation 2の影響ではなくて,売れないもの,お客さんが求めていないアーケードゲームを出しすぎた結果だったと思っていますが。
会社の方針もコンシューマゲームにシフトしようということになって,先進的な開発部隊は新しいビルに移ることになりました。プログラマー,デザイナー,サウンドエンジニアといった人の多くが,そちらに移ってしまったんです」
残されたのは,小山氏らメカエンジニア,電気系技術者,筐体デザイナー,ハード系のプログラマーといった面々だった。
「まぁ,島に置き去りの状態です(苦笑)。いる人たちだけで,なんとかゲームを開発して,食べていかなくちゃいけない。企画の人間がいないなら,自分たちでゲームを企画するしかなくなるわけです」
こうして小山氏は企画やプロデュースといった未知の仕事に足を踏み出す。だが,経験もなければ予算もなく,技術を持った社員もいない状況で,“正攻法”は使えなかった。
「『あの家庭用ゲームが面白いから,うちでアーケード向けの体感型ゲームにアレンジしよう!』といった感じでした。開発のパートナー企業を探す必要もあったので,会社四季報の“あ”から順に調べて『体感ゲーム開発のナムコですが,一緒にゲームを作りませんか?』と電話していました。
そうしてつながった会社の1つが,大阪にあるメトロさんで,後に『アイドルマスター』(2005年)を一緒に作ることになるんです」
そのメトロと開発したのは,奇抜な設定のゲームだった。
「PlayStationの『バスト ア ムーブ』(1998年)を手がけたスタッフさんたちと『トラック狂走曲』(2000年)というデコトラのレースゲームを作りました。BGMを冠 二郎さんの曲にして,AOUショーではご本人に歌ってもらったんです。司会は大木凡人さんでした(笑)」
かつて小山氏が手がけた「エースドライバー」とはまったく異なるアプローチで生まれたレースゲームである本作は,当時のプレイヤーに強烈なインパクトを与えた。
「まあ,企画職としてはやりたい放題でした。アイデア勝負というか……。『ゴルゴ13』(1999年)もそんな作品でしたね」
「ゴルゴ13」は,さいとう・たかを氏による同名の劇画を題材としたガンシューティングだ。
「あれは,KONAMIさんの『サイレントスコープ』(1999年)を見た中村社長が『うちでもガンもの作れ!(スナイパーゲームを作れ!)』って檄を飛ばしたことから始まったんです。そんなこと急に言われても……と思ったんですが,ゴルゴが大好きだからゴルゴのゲームにしようと。
最初は,自社の『タイムクライシス』(1996年)や,セガさんの『バーチャコップ』(1994年)みたいに,リッチなビジュアルで,モーションがいっぱいあって,場面もどんどん展開していくものをイメージしていたんです。ただ,そんなものを作れる予算も技術もないわけで……」
悩む中で,小山氏はあるアイデアを思いつく。
「ゴルゴ13のコミックをスキャンして画面に映して,ガンスコープで覗いてみたら,『なんか,面白いかも』と感じたんです。漫画の世界に人間が入っていくような。それで,ストーリー部分は漫画の一枚絵にしちゃおうと」
これには人物や背景の3Dモデル作成や,モーション付けといった作業が省けるメリットもあった。そもそもゴルゴ13は漫画なのだから,漫画でストーリーが展開したところで違和感はない。
さらに小山氏は,ゴルゴ13の主人公が凄腕のスナイパーであるという設定を活かし,ゲーム内容もシンプルにした。各ステージでシーンの展開はほとんどなく,撃てる銃弾も基本的に1発だけにして“独房のわずかな隙間から囚人を狙撃する”“階段を上る女性のヒールを撃ち抜く”といったミッションに挑むシステムにしたのだ。
「ゴルゴ13は8ing(エイティング)さんと一緒に開発しました。100円入れたらずーっとマンガを読ませて,結局一発しか撃たないシューティングゲームなので,開発中は『お客さんが怒るかもしれない』という不安もありましたが,『ハイヒールに一発か!』と笑っていただけました」
小山氏の“アイデア勝負”から生まれたタイトルはほかにもある。
「漫才をテーマにした『ナイス★ツッコミ』(つっこみ養成ギプス ナイス★ツッコミ。2002年)って知りませんか? 画面に流れる漫才のボケに合わせて,筐体の前に置かれた人形に『なんでやねん!』ってツッコむゲームです。
モサド(イスラエル諜報特務庁)が開発したという触れ込みのチップを使って,声で心理状態を分析する『ホンネ発見キ』(2001年)も大変な作品でした。開発メンバーにデバッグしてもらったんですが,奥さんとの仲が悪くなってしまった人が多くて……」
「つっこみ養成ギプス ナイス★ツッコミ」 |
「ホンネ発見キ」 |
※画像提供者からの要請により,「ホンネ発見キ」の画像を2023年3月2日にいったん削除し,3月8日に新たな画像を追加しました
このように,小山氏が企画したのはなんとも楽しそうなゲームばかりなのだが,「商品」としては必ずしもうまくいったわけではなかった。
ヒット作品が生まれないことで,予算の総額だけでなく,製品化の最終判断を行う時点までに使える額まで指定されたという。その結果,開発は“数撃ちゃ当たる”の方向性になり,5人ほどのチームが1年で20ものタイトルをリリースすることになった。そして,製品化の承認を得るための“悪知恵”も生まれる。
「ゲームのロケテストで自分たちが遊びまくって『売り上げがいいから出しましょう!』とやったこともありました。そうするとセールス部署も『こんなのが?』とか首を傾げながら了解してくれるんですが,やっぱり売れないんですよ。そんなことをやっているうちに,アーケードゲームの業績はさらに落ち込んでいきました」
そして,小山氏が忘れられない出来事が訪れる。「おい小山,筐体燃やしてるぞ。これがお前の作った筐体が燃える音だ」という営業社員からの電話だ。不良在庫になったアーケードマシンが処分されている現場からだった。
メキメキと音を立てて押しつぶされ,バチバチと燃え盛る炎の中に消えていくゲーム筐体たち。生みの親である小山氏らにとっては,我が身を燃やされるような感覚だったに違いない。
すべてを失った小山氏が掴んだもの
筐体を燃やされるという衝撃的な出来事と同じ時期に,社内では構造改革プロジェクトなるものが始まり,小山氏とともに働いていた人の多くが退社。それと並行して“役職がないフラットな組織”が導入されるなどした。
それまで築き上げたものが一気に崩れ去るような経験をした小山氏は途方に暮れたが,これを機に自身の作品や,その開発を振り返ったという。そしてある決断に至った。
「商品を作るにあたっては,消費者の心を知って,それに応えるものを作らないとダメなんだと反省しました。そして,マーケティングのことをイチから勉強し直すことにしたんです。
ゲーム開発に限った話ではないですが,物事がうまく進んでいるときは,『自分たちだけでできる』と,新しい考え方の導入には否定的になりがちです。
でも,そのときの僕たちには何もなくなっていましたから,藁にもすがる思いでした。『その力を取り入れたら,うまくできるんじゃないのか?』と」
その必死な思いは少しずつ実を結び始めた。ただ,それは小山氏が直接手がけていた作品ではなかったという。
「同期の長田が,日立ソフトさんと組んで全身シールプリント機の開発を始めました。その時に初めてキチンとマーケティング手法を持ち込んだのです。そうして生まれた『美肌惑星』(2002年)がヒットしまして,“美肌プロジェクト”というシリーズになって『花鳥風月』(2003年)などにつながるんです」
プリントシール機のヒットを間近で見て,マーケティングの導入は正しかったと確信した小山氏は,新作ゲームの開発に着手する。これが大ヒット作品「機動戦士ガンダム 戦場の絆」(2006年)になるのだが,これも開発のきっかけは,小山氏とは別のチームが手がけた作品にあった。
「“プラネタリウムに実写映像を投影したらすごい世界が見えた”という話から,そのアイデアを使って何か作ろうということになったと聞きました。
それで『スターブレード』(1991年)を半球型ドームスクリーン搭載の密閉型筐体を使ったものにアレンジした『スターブレード オペレーションブループラネット』が2001年のAMショーに出展されて,コアなファンから高い評価を得ました。
ですが,一本道のガンシューティングゲームですし,『これでオペレーターがいくら儲かるの?』とか『そんなでっかい筐体を店に置けないよ』という意見が出て,お蔵入りしていたんです。でもあのスクリーンと筐体を見たら,『機動戦士Zガンダム』の球体コックピットを連想しますよね。それで『ガンダム』ができないかと思い始めました」
※画像提供者からの要請により,「スターブレード オペレーションブループラネット」の画像を2023年3月2日にいったん削除し,3月8日に新たな画像を追加しました
さっそくバンダイや創通,サンライズなどからライセンス許諾を取り付けて,開発に入ろうとした小山氏だったが,会社のコンシューマゲーム重視の姿勢は変わっておらず,チーム作りは難航した。そこで小山氏は一計を案じる。
「アーケードゲームの技術デモを見せる社内向けの展示会を実施したんです。本当の目的は人集めだったんですが(笑)。それを見に来た人に『アーケードの仕事に興味ありますか?』みたいなアンケートを配って,そこから声を掛けていきました。来てくれたのは,コンシューマ向けタイトルで細々とした仕事を担当していた若手の人が主でしたが,とても優秀で驚いたのを覚えています」
こうして確保した社員に,他社を辞めたばかり,あるいはフリーランスの人たちが加わって,8人ほどのチームで開発がスタートした。
その中には,天才プログラマーとしてその名を知られる松島 徹氏もいた。小山氏は松島氏とともに「ゴルゴ13」を開発した縁があったのだ。
松島氏の天才ぶりが窺えるエピソードがある。
「戦場の絆」のグラフィックスは魚眼レンズを使って球面スクリーンに映し出されるため,通常のディスプレイを使うゲームよりも複雑な処理が必要となる。兵庫県姫路市在住の松島氏は,概要を小山氏から電話で聞くと,わずか3日間でサンプルを作り上げたという(それはニンテンドーDSで動くものだった)。
そうして試作が進み,本格的な開発体制が整った時点で,社内向けのキックオフプレゼンテーションが開かれることになった。集まった社員や役員30〜40人を前に,小山氏はチームの誰にも話していなかった「戦場の絆」の“仕様”を明らかにする。
確かにプログラマーからすればたまったものではないが,小山氏にはリアルタイム店舗間通信対戦を実現しなければならない信念のようなものがあった。
「筐体の大きさがネックでした。『戦場の絆』のポッド1台は,当時好調だったレースゲーム『湾岸ミッドナイト』シリーズの1シートタイプ筐体2台半分のスペースを占めるんです。『湾岸』を2台置けば1日2万円の売り上げになりましたから,オペレーターさんたちから『そんな稼げるのか?』と言われるのは想像できました。
最初は店舗内での対戦のみにしようと思いましたが,そうなると8台置く必要があります。そんなに置ける店は限られますよね。だからリアルタイム店舗間通信プレイしかないと思ったんです。
でも,言えばできるものですね。やらなきゃいけなくなると,考え始めるんですよ」
もちろん,リアルタイム店舗間通信対戦の実現までにはさまざまな困難があった。評価される仕事にはもちろん困難がつきものだ。ゆえに実現したとき,成功したときの嬉しさは大きくなる。「戦場の絆」もそんなプロジェクトだった。
「サービス開始間もないBフレッツの回線を使って,やりとりする情報は『各プレイヤーがどんな操作をしたか』だけというシンプルなものにしました。このプレイヤーがレバーを入れた,このプレイヤーはトリガーを引いた……といった情報だけをサーバーに集めて,同期を取って戻すだけなんです」
つまり攻撃の当たり判定などは各筐体で処理しているわけだ。すべてのプレイヤーが同じコンピュータを使用しているわけだから,同期さえ取れていれば「あちらの筐体では当たったが,こちらの筐体では外れた」といった問題は起こらない。
「ただ,それゆえ1台の通信状況が悪くなると,全員のゲームが『ガクガク』したんですよ。特に初期は多かったです。
でも,少しくらいガクガクしても,モビルスーツに乗って全国のプレイヤーと戦える魅力を前に,みなさんからの文句は出なかったですね。ありがたいことです」
そして小山氏は,「戦場の絆」のさらに大きな魅力を説明してくれた。
「このゲームのベネフィットは,仲間と一緒に戦場に出て,勝った嬉しさ,負けた悔しさを共有できることなんです。何ものにも代えがたいことですよね。だから名前も『戦場の絆』としたんです。絆の確かめ合いですね」
確かに,胸を高ぶらせてそれぞれのモビルスーツ(筐体)に乗り込み,戦いが終わった後,ほかのプレイヤーと顔を合わせて感想を話し合えるのは,「戦場の絆」だけの魅力だろう。
「CGモデリングやアニメーション,エフェクト,物量表示といった映像表現技術ではほかのゲームに先を行かれていましたが,それは伸びしろになると思っていました。もっと快適に,もっと綺麗にというバージョンアップができるんです。
ヒットタイトルの続編が“何とかシステム搭載”みたいにドンドン難しくなっていくことがありますよね。でも『戦場の絆』はゲームをコテコテと変化させなくてよかったんです」
これは小山氏の苦い経験から生まれたものと言っていいだろう。
「一番のコアプレイヤーって,実は開発者本人なんです。なので,新しいシステムを導入したら,一部のトッププレイヤーが喜ぶ一方で,多くの声なきプレイヤーは消えていく……ということがよくあるんです。だから中心価値には手を加えないほうがいい。
『戦場の絆』のように,ほかのゲームにない,プレイヤーが味わったことのない中心価値を作れば,少しくらい粗削りであっても楽しんでくれますし,粗削りの部分を整えるだけで,どんどん良くなっていくんです」
小山氏が語ったように,「戦場の絆」はゲームシステムを大きく変えることがなくても支持され続け,ロングランタイトルとなった。
そしてリリースから13年以上が経った2020年2月8日,バンダイナムコアミューズメントは新作となる「機動戦士ガンダム 戦場の絆II」をJAEPO 2020で発表した。
小山氏は同作について,どのような思いを抱いているのだろうか。
「長い年月にわたり遊び続けていただいたお客様に感謝しかありません。特に戦場の絆によって仲間が増え,人生が楽しくなったというエピソードを聞けるのは,作り手冥利に尽きます。
アーケード市場で15年もソフトやハードが変わらない現役タイトルはなく,戦場の絆にも随所に老朽化を感じるようになりました。そこで現在のテクノロジーを駆使して,面白さの中心はしっかり担保しつつ,より遊びやすくして,素晴らしい驚きと感動を提供したいと考えました。
また,戦場の絆が稼働していた歳月は,ファンが作り手となって開発チームに参加するのに十分な時間でもありました。『戦場の絆II』は,戦場の絆が大好きな人たちが一丸となって制作しています。出撃するその日を楽しみに,今しばらくお待ちください」
常に「驚いてほしい」と思っている
「アイドルマスター」「戦場の絆」以降も,小山氏はユニークなコンテンツを世に送り出し続けてきた。特にここ数年,「VR ZONE」「MAZARIA」など,VRアミューズメント施設の“コヤ所長”として見せている活躍は,こちらに書くまでもないだろう。
小山氏はその原動力を「お客さんが潜在的に欲しいと思っているものを具現化して,驚かせたい」という思いだと語る。お客が自分でも気づいていない「欲しいもの」を生み出したいというわけだ。
「アーケードだと,お客さんの反応がよく見えるんですよ。ロケテストの間とかにちょっと話したりするだけでも,お客さんとの距離が縮まって盛り上がりますし,『こんなすごいもの作ってくれてありがとう』と言われたときは感動しました。その快感はやっぱり忘れられないんです。はやっているものをアーケードに持ってくるだけとか,ライバル商品をアレンジするとかでは,そんな喜び方をしてもらえませんから」
ゲームセンターという“戦場”で生まれた絆が,小山氏を突き動かしている。
「自分もお客さんの1人ではありますが,みんなが自分と同じではないので,市場を調べて,そこで得た仮説をぶつけると『わぁ,すごい!』と返ってくる。これでモノづくりをしようと,あのときから切り替えました」
ここまで読んだ方ならお分かりだと思うが“あのとき”というのは,業績不振で筐体が処分され,社内の構造改革が行われた時期だ。
それ以前でも,小山氏はお客を無視していたわけではないだろうし,奇抜な設定の作品で人々を驚かせていたはずだ。その頃との違いは何だろうか。
「お客さんの反応は『なんだこりゃ?』ではなくて,『こんなすごいものができたんだ!』とならなくてはいけないんです。
昔,『王様のアイディア』というお店がありましたよね。なんだか面白い物,珍しい物が並んでいて,入った人は『なんだこりゃ?』と驚いてくれるけど,何も買わないで出ていくっていう(笑)。昔の自分はあんな感じだったんですよ。
そういうビックリ箱みたいなものが評価された時代もあったんですが,今はそうじゃないなと。発想の原点は,お客さんの『こんなものが遊べて嬉しい!』じゃないと,ダメだなと学んだんです」
これからのゲームやエンターテイメントのビジョンに関しても,小山氏は前向きに語った。
「ゲームセンターには,まだやれることがたくさんあると思います。そのために変わり続けることが大事です。今のゲームセンターが商売として厳しいのは,あまり変わっていないからかもしれません。
ショッピングセンターの中にあって,プライズ機,メダル落とし,キッズゲーム,カード機,プリントシール機が並んでいる……という,どこもみんな同じようなラインナップだと思うんですよ。それぞれの店舗固有のラインナップ展開があるべきじゃないかと思うんです。それを手助けできるよう,商品やサービスを研究開発していきます」
小山氏の話しぶりは非常にエネルギッシュで,彼の情熱やモチベーションが血流のように体を駆け巡っていることを感じた。多くの成功と,それを上回る失敗を経験し,その失敗すら次なる成功への方程式に変えてしまった小山氏の情熱は,この先も果てることなくアーケードゲーム,エンターテイメントに注がれることだろう。
“斜陽”と呼ばれて久しいゲームセンターだが,そこに再び朝日が昇れば,人々はみな驚き,その美しさに「こんな光景が見られたんだ!」と思うはずだ。その日が訪れることを楽しみにしたい。
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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