連載
「たけしの挑戦状」「デザエモン」を世に送り出した中村 栄氏の既成概念なき冒険 ビデオゲームの語り部たち:第26部
日本のゲーム史において,1985年9月に発売されたファミリーコンピュータ用ソフト「スーパーマリオブラザーズ」が1つのキーポイントであることは言うまでもない。同作の大ヒットによって,家庭用ゲームというものが市民権を得た,と言ってもいいだろう。
そして翌1986年には「ドラゴンクエスト」「ゼルダの伝説」「メトロイド」「プロ野球 ファミリースタジアム」など,今なお続くIPが誕生し,ファミコンの人気は不動のものとなったのだが,そういったメインストリームからは少し離れたところで,興味深い動きもあった。それまでファミコン向けでは見かけなかった“タレントゲーム”とでも呼ぶべきタイトルが登場したのだ。
具体的には,ラジオ番組「オールナイトニッポン」のパーソナリティがキャラクターとして登場する「オールナイトニッポン スーパーマリオブラザーズ」,バンド「聖飢魔II」を起用した「聖飢魔II 悪魔の逆襲」,そしてビートたけしさんが企画から関わった「たけしの挑戦状」などだ。
このようなタレントゲームが生まれた要因の1つには,タレント側がファミコンソフトにメディアとしての価値を見い出したことが挙げられるだろう。新聞や雑誌,ラジオ,テレビ,レコードといったものに加えて,新たにゲームが“活動場所”として選ばれたわけだ。
この流れに乗って数多くのタレントゲームがリリースされたが,タレントの知名度頼りのものが多かったせいか,現在まで語り継がれるようなものは少ない。
そんな中で異彩を放っているのが「たけしの挑戦状」だ。80万本という売り上げを記録しただけでなく,ゲームの随所に散りばめられたビートたけしさんの奇抜なアイデアは,当時遊んだ人々に強烈な印象を残した。
前衛的かつ理不尽,不条理な内容のため,攻略本なしでのクリアは不可能に近く,長年にわたって“クソゲー”の代名詞となっている。だがその一方で近年はバーチャルコンソールやスマホ向けに配信されたほか,舞台化も発表になり(新型コロナウイルス感染症の影響で公演中止),ゲーム実況者が取り上げるなど,ファミコンを写真でしか見たことがないような世代にもその名を知られている。
「グランド・セフト・オート」や「龍が如く」を先取りしていたと評価する向きもあり,“迷作にして名作”とでも呼べるようなタイトルなのだ。
リリースから35年が経つ「たけしの挑戦状」がどのように企画・開発されたのかについては,書籍「超クソゲー」や,当時ビートたけしさんの付き人を務めていたキドカラー大道さんのブログなどが詳しいが,当然ながらすべてが明らかになったわけではない。
今回の「ビデオゲームの語り部たち」では,かつてタイトーで「たけしの挑戦状」を含むファミコンソフトに携わった後,自身の会社アテナを立ち上げて「デザエモン」「プロ麻雀 極」などの人気シリーズを生んだ中村 栄氏に登場いただき,パブリッシャの視点から見た「たけしの挑戦状」や当時のタイトー,その後の自身の活動や今後の展望などを語ってもらう。
なお,今回から記事の署名に4Gamerでおなじみのライターである大陸新秩序氏の名前が加わっているが,これは同氏に取材や構成で協力してもらうことになったためだ。記事内容に大きな変化はないが,お知らせしておきたい。
既成概念がないものを作りたい
中村氏は1956年10月12日に,東京の渋谷区にある都立広尾病院で生まれた。この取材の直前に65歳を迎えた氏は「誕生日に合わせて介護保険証が届きました」と笑いながら話し始めた。
中村氏は小学生のとき,実姉が通っていた中高一貫の私立校,自由学園男子部への進学を親にせがんだという。同校は生徒による自治を尊重した教育理念を掲げており,新入生全員が大人のいない自治寮に入って生活する。また,全員参加のイベントには登山や美術工芸展といったものもあるなど,公立校とはかなり異なる校風だ。
中村氏は希望通り同校に進学し,毎朝5時半に起床して乾布摩擦をしたり,洗濯板で服を洗ったりといった生活を送った。中学1年生から高校3年生までが一緒に暮らすため,厳しい上下関係はあったが,その中で強い連帯感が生まれたそうだ。
その後,中村氏は成蹊大学経済学部経営学科に進学。卒業が近づくと,決まり切ったことをやるのではなく,創意工夫で何かを切り拓く仕事をしたいと,バンダイやトミー(現在のタカラトミー),タイトーなど,玩具メーカーやゲームメーカーへの就職を目指すようになった。
でも,自分が若いころにヒットした玩具,例えばダッコちゃんやフラフープ,ルービック・キューブにそういったものはほとんどありませんでした」
応募の結果,バンダイとタイトーの書類選考に通ったが,次の試験日が重なっており,どちらかを選ばなければならなくなった。人生の岐路となるかもしれない選択だが,中村氏は意外な理由でタイトーを選ぶ。
「当日の朝起きたら,バンダイの試験開始には間に合わないかもしれない時間になっていたので,タイトーの試験を受けることにしたんです」
何ともあきれてしまうようなエピソードだが,既成概念にとらわれないものを目指していた中村氏らしい決め方ではある。結果としてタイトーに採用されたのだから,ある意味正解だったのだろう。
当時はビデオゲームの黎明期で,業界の認知度もまだまだ低かったが,中村氏のご両親は進路について何も言わなかったそうだ。
「あいつはサラリーマンなんて続かずにすぐ辞めるだろう,ぐらいに思っていたんじゃないですかね。僕自身も常にポケットに退職願を入れていた……というのは冗談ですが,それくらいの気持ちではいて,機会があれば自分で何かやろうとは思っていましたから」
中村氏が入社した頃のタイトーは,ほぼアーケードゲーム専業。若い会社だけに派閥のようなものはなく,自由な雰囲気だったという。ライバル企業であるセガやナムコの新入社員と合同での飲み会も開かれるなど,業界での横のつながりもあったそうだ。
景気がよかった時代だけに,豪快なエピソードにも事欠かない。中村氏自身も,上司が「自分の給料ではとても払えそうにない銀座の店」へ行くのに付いていったことがあるそうだし,少し上の世代の社員には「ゴルフ場へ行くのにヘリコプターを使い,キャディさんにン万円のチップを払った」といった経験をした人もいたそうだ。
その一方で,業界の“黒い噂”も耳にした。本連載の第4部では,ナムコが試験的に設置していた「ギャラクシアン」の筐体が盗まれ,同作の正式稼働前にコピー商品が出回り始めてしまったというエピソードを紹介したが,タイトーには大ヒットタイトルである「スペースインベーダー」があったこともあり,中村氏もその類の話は何度も聞いたという。そんな無茶苦茶な時代でもあった。
中村氏は新人研修を経て,熱海にあるタイトー直営のゲームセンターに配属された。タイトーに限らず,アーケードゲームメーカーの新入社員はまず店舗へ配属,というのがお決まりだった。だが中村氏はわずか数か月後,本社に呼び戻される形で第二営業部に異動となる。
「あとから聞いた話ですが,研修の段階で『変わったヤツがいる』という評判だったらしいです。例えば,何かを見せて『これを使って何ができるか』という問いに対して,僕だけがすぐ十数個のアイデアを出したとか。加えて,当時の熱海の営業部長がたまたま東海地方部長も兼ねていたので,いろいろと私の情報が伝わりやすかったんでしょう」
第二営業部で中村氏は,タイトー本社や工場と,当時100以上あった営業所の窓口的な役割を担当していた。具体的には,各営業所に新商品案内や販促物を送ったり,筐体の修理などの受付をしたりといった業務を行っていたという。
わずか数か月で本社配属という流れを聞くと“出世コース”“幹部候補生”といった言葉が思い浮かぶが,中村氏本人はそんな扱いを受けている感じはしなかったという。実際,仕事が多かったわけではなく,1日の仕事を終えて帰ろうとすると,上司から「ちょっと待ってろ」と言われ,会社の経費での飲みに連れて行かれる日々だったそうだ。
「ある日の飲みから帰る満員電車で,先輩がほかの客を押しのけて座席をとって,上司に『どうぞ』と譲ったことがあったんです。それで僕に向かって『サラリーマンならこうしなさいよ』と。
“昭和のサラリーマン”としてはそれが正しかったのでしょうけど,僕は『何やってるんだろう』くらいにしか思っていませんでしたから,ちょっと異質だったんでしょうね」
中村氏が第二営業部に配属されて数年経ったころ,タイトーにコンシューマプロダクト部が設立された。この部署では,電機メーカー各社が取り組んでいたPC規格であるMSX用のゲームを開発する予定だったという。
しかし,プロジェクトがスタートして間もなく,MSXの伸び悩みや社内事情といった理由から,コンシューマプロダクト部は解散してしまったという。
「コンシューマプロダクト部の課長だった人は部下がいなくなり,役員室の隣にポツンと置かれた机に座っている……言ってみれば干されたような感じです。とはいえコンシューマプロダクト部の仕事も残っていたので,僕が第二営業部所属のままで担当することになりました」
いってみれば“他人の尻拭い”だったわけだが,それで終わる中村氏ではなかった。MSXではなく,ヒットの兆しを見せていた任天堂のファミリーコンピュータ(ファミコン)に目を付けたのだ。計画書を出し,件の課長とともにファミコン事業を立ち上げることになった。
アーケードゲームでの実績があったタイトーは任天堂に歓迎され,無事に年間5タイトルのリリース枠をもらえたという。
タイトー初のファミコンソフトは,同社の看板タイトルである「スペースインベーダー」(1985年4月17日リリース)。その後「ちゃっくんぽっぷ」「エレベーターアクション」「フロントライン」「スカイデストロイヤー」と,アーケードからの移植タイトルを次々にリリースし,いずれもヒットさせた。
若手社員でありながら新規事業を立ち上げ,成功に導いた中村氏の行動力には舌を巻く。
「僕たちが手がけたファミコンソフトは,最低20万本売れました。1タイトルの単価が3000円だとしても,売上は6億円。2人だった部署も次々に新卒社員が入って,どんどん大きくなっていきました」
タイトーは1985年に5本のファミコン向けソフトをリリースしたので,いきなり売り上げ30億円以上の新規事業が立ち上がったことになる。会社に与えたインパクトは相当なものだったろう。
事実,ファミコン事業で多大な業績を残した課長は,部長,役員と次々に昇進して,2〜3年後には常務になったという。干されていたような社員が2〜3年後に常務とは,なかなか見られない出世劇だろう。
「実際の仕事はほとんど僕がやって,課長は社内でうまく立ち回るだけだったんですけどね(笑)。でも自由にやらせてもらえたので,そういう意味ではありがたかったです」
「たけしさんのアイデアを実現したい」だけで突っ走った
アーケード向けタイトルの移植で始まったタイトーのファミコン事業だったが,当然ながら移植するだけでヒットを見込めるタイトルには限りがある。
「タイトーとしても次を考えて,キャラクター系の版権ものをやろうということになったんです。
僕が直接小学館に行って,週刊少年サンデーで連載していた剣道漫画『六三四の剣』のゲーム化権を獲得しました」
これが1986年8月に「六三四の剣 ただいま修行中」としてリリースされるのだが,小学館にオファーしたとき,中村氏の頭にあったのは,タイトーが1984年にリリースしたアーケードゲーム「グレートソードマン」だった。同作はフェンシングや剣道といった剣術による試合や決闘をテーマにしたアクションゲームなのだが,大ヒットとまでは行かなかった。それをキャラものにアレンジしようとしたわけだ。
そのため,開発は「グレートソードマン」を手がけたセタが担当した。ちなみに当時のタイトーは,セタ以外にも東亜プランやセイブ開発,テクノスジャパンといったデベロッパと関係が深かったという。
中村氏と,セタの社長だった富士本 淳氏は馬が合ったのか,仕事で顔を合わせているうちにプライベートでも一緒に遊びに行く仲になった。その名前に聞き覚えがある人もいるだろうが,富士本氏はパチンコやパチスロ機の製造・販売大手であるユニバーサルエンターテインメントの現社長だ。
そして,このセタが「たけしの挑戦状」の発端となる。
「あるとき富士本さんがやってきて,ビートたけしさんがテレビ局をジャックしていくゲームの企画書を渡してきたんです。とくにジャンルも決まっていない,おおまかな内容を記したものだったと思います。
タイトーは,ファミコン用『影の伝説』(1986年4月18日リリース)のテレビCMに,たけし軍団のメンバーを起用した縁もあったので,たけしさんサイドに打診しようということになりました」
ビートたけしさんは当時39歳。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」「ビートたけしのスポーツ大将」「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」など,自身の名を冠したものも含めて何本ものレギュラーテレビ番組を抱え,俳優としても活躍していた。
後に世界的な名声を得る映画監督としての顔こそまだなかったが,エッセイ集「たけしくん、ハイ!」がベストセラーになり,ラジオ番組での鋭い社会批評が注目されるなど,すでに文化人としての立ち位置も獲得。テレビや雑誌で見ない日はない“日本一の人気者”“日本一忙しい男”と呼ばれるような存在だった。
そんなたけしさんへのオファーだったが,意外に反応はよく,本人が出席しての打ち合わせが行われることになった。
打ち合わせ場所となったのは,たけしさんがかつて四谷で経営していた居酒屋,「北の屋」。タイトーからは中村氏と前述の課長,セタからは富士本氏と開発者1名,たけしさんの所属事務所だった太田プロなど関係する企業から数名,そしてビートたけしさん本人と,放送作家の高田文夫氏が参加した。
書籍「超クソゲー」によれば,セタの開発者は福津 浩氏ということになるが,中村氏はその名前を思い出せないという。また,Wikipediaの「たけしの挑戦状」のページにプログラマーとして記載されている森永英一郎氏の名前にも記憶がないそうだ。
これは中村氏があくまで営業の人間であり,開発現場と直接の接点があまりなかったことから来るものかもしれない。
中村氏が「たけしの挑戦状」の開発スタッフとして名字だけ覚えているのは,「六三四の剣 ただいま修行中」にもプログラマーとして参加した宮成氏ぐらいだという。
「打ち合わせでは,まずこちらがゲーム内容をプレゼンしたのですが,その間,たけしさんは無言だったんです。ときおり首を回すような独特のしぐさをしながら,こちらの説明を聞いている。
それが終わると,たけしさんは『この企画じゃないとダメなのか?』と,いきなりマシンガンのようにアイデアを出してきたので,違う企画でも全然構いませんよと。それで,改めて打ち合わせをしましょうということになりました」
中村氏は,この“最初は物静かだが,いったん話し出すと止まらない”たけしさんが強烈に印象に残っているという。
キドカラー大道さんのブログによれば,実はタイトーからオファーが来る前から,たけしさんの中には自分でゲームを作ってみたいという願望があったそうだ。
たけしさんは,たけし軍団のグレート義太夫さんがファミコンに夢中になっていることを聞いて興味を持ち,自身でも「ポートピア連続殺人事件」(1985年11月29日リリース)をプレイした。そして「こういうのはどうだ?」「ここがこうなら面白いな?」などとネタ帳にアイデアを書き込み「どこかで作ってくれないかな」などと話していたという。
キドカラー大道さんは,これをたけしさんの“新し物好き”エピソードとして紹介しているが,新し物好きであるということは,飽きっぽいことも意味する(事実,「ポートピア連続殺人事件」をプレイしたのは1週間程度で,クリアもしていないという)。タイトーのオファーは,最高のタイミングだったと言えそうだ。
「また北の屋で打ち合わせをすることになって,たけしさんからアイデアがバーッと出てくるわけです。もう無茶苦茶でしたよ。
金属バットで両親を殺害した男の名前を付けたバッティングセンターを作ろうとか……それはさすがに止めましたが。
あと,これはよく知られている話ですが,ファミコンのIIコントローラーにあるマイクを使ったカラオケもたけしさんのアイデアですね。ファミコンでは音の高低などは判別できず,マイクから音が入ってきているか否かを判定するだけなんです。たけしさんはそれを分かったうえで,敢えて歌わせようと。なので,あれは歌のうまいへたは関係なくて,ウーでもなんでも声を出していればいいんです」
このようにたけしさんがさまざまなアイデアを出し,それをセタの開発者が持ち帰ってサンプルを作り,また打ち合わせをして……といった流れを繰り返しながら,ゲームにまとめることになった。
中村氏は開発メンバーではなく,あくまでパブリッシャの営業だったこともあり,打ち合わせには参加していたが,ゲーム内容について口を出すことはほとんどなかったという。これは「たけしの挑戦状」以外のソフトでも同様だったそうだ。
その後の主な打ち合わせは,新宿にあるヒルトン東京のセミスイートルームで行われた。この部屋は,富士本氏が忙しくて帰宅できないときなどのために半年契約していたものだったという。
だが前述したように,当時のたけしさんは超が付く多忙だったうえ,よく知られているように“休みぐせ”もあったため,中村氏が困惑することも多かったようだ。
「たけしさんが好きだと聞いたお酒を買ってヒルトンに行ったら,『今日たけしさんは来ません』とお付きの人に言われたり,タイトーの社長や専務との挨拶の場を設けたのに現れなかったり……」
そんな苦労がありながらも打ち合わせを重ねて開発は進み,1986年12月10日の発売が決まった。中村氏は開発期間をはっきりとは覚えていないとのことだが,たけし軍団とのつながりができた「影の伝説」が1986年4月発売だから,おそらく半年から10か月と言ったところだろう。
ソフトが完成すると,中村氏はたけしさんが深夜番組を持っていたラジオ局まで行き,直接ソフトを手渡したという。
「僕の名前も覚えてくれていて『ほかに仕事したい人がいれば紹介するよ』などと声をかけてもらいました。番組終了後に飲みに行こうとも誘われたんですが,その日の朝まで夜通し飲んでいたので,帰らせてもらったんです。もしあのとき飲みに行っていたら,たけし軍団入りしていたかもしれないですね(笑)」
あとは発売を待つばかりとなったのだが,発売前日の1986年12月9日の夜,大事件が起こる。
たけしさんが軍団のメンバーを率いて講談社の写真週刊誌「FRIDAY」の編集部に乗り込み,結果編集部員に傷害を負わせた,いわゆるフライデー襲撃事件だ。同誌の強引な取材に抗議しての行動だったが,人気絶頂の芸能人が弟子を巻き込んで起こした暴行事件は,世間を震撼させた。
昨今では芸能人が不祥事を起こすと,出演作品が販売中止や公開延期になることが多いが,「たけしの挑戦状」は翌12月10日,報道がフライデー襲撃事件一色の中で,予定通り発売された。
中村氏も事件を受けて動くようなことはなかった。「その頃にはあまり会社に行きたくなくなっていた」そうで,12月10日は休暇をとっていたため,発売当日のタイトー社内の反応がどうだったのかも分からないそうだ。
「『話題になっていいじゃない』くらいの感じだったと思いますよ。あの事件で想定以上に売れることもありませんでしたが,マイナスにもならなかったですね」
そんな当時の風景を想像してみると,そこまで含めてたけしさんの仕掛けだったのかとさえ思えてくる。ある意味で,前代未聞の作品らしいリリースだった。
「『たけしの挑戦状』は70万から80万本は売れたんじゃないでしょうか。タイトーにとっては,完全新規IPのファミコンソフトがヒットしたことも大きかったです。
また,その後に『さんまの名探偵』(ナムコが1987年4月2日にリリース)などが出ましたから,そういったタレントゲームの走りにもなったと思います」
そして現在,「たけしの挑戦状」は,“愛すべきクソゲー”という希有な存在になり,“早すぎた名作”といった評価も受けている。このようなゲームは作ろうと思って作れるものではない。その様子をつぶさに見ていた中村氏は,こんな言葉を漏らした。
「たけしさんが次々に出してくる,それまで聞いたこともないようなアイデアを何とかつなげて形にしたい……みんなその思いだけで,『実現できるだろうか』『ゲームとしてどうか』なんてことはよく考えずにやってましたからね。そりゃあ,クソゲーにもなりますよ(笑)」
運を引き寄せ,素早い決断を重ねたアテナ時代
タイトーのファミコン事業を成功させ,「たけしの挑戦状」という後世に残るタイトルを送り出した中村氏だったが,翌1987年,異動の内示があったことを機にタイトーを退職し,7月にゲーム開発会社のアテナを設立した。
前述したように中村氏は入社時から独立を考えていたので,それを実行に移したということになる。時代はバブル経済の真っ只中,タイトーで築いた実績や人脈を手に満を持しての独立かと思いきや,そうではなかったようだ。
「勝算のようなものはなかったですね。創業時の社員にもタイトーから来た人はいなくて,電通大の教授だった僕の親父から教え子を紹介してもらったり,それまでホステスさんをやっていた女性に入ってもらったり……。まぁ,何とかなるだろうと考えていました」
出資金については,富士本氏や父親,そしてとあるPC業界の関係者にかけあって協力してもらったという。
「その人からは『こんな話は腐るほどあるんだけど,お前面白いから乗ってやるよ』と出してもらったんです」
中村氏自身は時代や運がよかったと話すが,この関係者の言葉からも分かるように,筆者は氏の人柄が周囲の人達を引き寄せた結果ではないかと感じている。厳しい上下関係がある自由学園の寮で,人間関係の構築術のようなものを学んでいたのだろうか。
中村氏が魅力あふれる人物であることは,タイトーの幹部社員との付き合いが,退職後も続いていたことからも分かる。
中村氏がアメリカで開催されるエレクトロニクス展示会のCESに行ったときには,タイトー・アメリカ社長の鈴木 実氏と副社長の鈴木義治氏が,リンカーン・コンチネンタルに乗って空港に迎えに来たという。
「『2人で迎えに来るのはお前くらいだ』と言われました(笑)」
このエピソードは,空港から市街へと向かう高速道路で事故に遭い,リンカーン・コンチネンタルがボロボロになるというオチがつくのだが,こんな事件を体験したのも,ある意味で中村氏らしいと言えるだろう。
話を戻そう。設立当初のアテナは,海外のゲームをローカライズしてMSXに移植したり,ファミコンソフトの開発ツールをメーカーに販売したりといった業務を行っていたという。
「そうやって次第に会社を大きくして,1988年にファミコン向けの『ファミリークイズ 4人はライバル』を自社から発売したんです。
あまり経験を積んでいないプログラマーだから,アクションやシューティングは難しい。シナリオを書ける人もいないから,アドベンチャーやRPGも無理。じゃあ何ができるんだ考えたときに,クイズならプログラムも作れるだろうし,問題は僕や元ホステスさんでも考えられるだろうと……。
このゲームはあまり売れなかったんですが,翌年にカプコンが出したアーケードゲームの『アドベンチャークイズ カプコンワールド』ヒットしているので……。早すぎたのかもしれないですね」
資金繰りが厳しくなったときもあったが,そんなときに助けてくれるスポンサーにも恵まれ,やがてアテナはヒットシリーズを生むことになる。
その1つがシューティングゲーム制作ツール「デザエモン」シリーズだ。1作目である「絵描衛門(デザエモン)」がリリースされた頃は,家庭用ゲーム機向けのゲーム制作ツール自体が珍しかった。
「MSX用ソフトの『吉田工務店』を面白いと思ったので,ファミコンソフトにしてみようと。作っていくうちにバックアップ用のメモリが足りなくなったんですが,なぜか任天堂が特別に容量の大きいRAMを用意してくれました。おそらく任天堂も,新しい何かを求めていたんでしょうね」
「プロ麻雀 極」シリーズは,いわゆる脱衣麻雀や,人気漫画を題材したものが多かった当時の麻雀ゲームの中で,本格派として人気を集めた。
「当時将棋や麻雀のゲームは必ず売れるという話があって,僕自身も学生時代に麻雀が大好きだったので,やってみようと思ったんです。
とは言え,ただ麻雀ゲームを作るだけでは面白くないので,日本プロ麻雀連盟に連絡を取ってみました。そうしたら,プロ雀士の伊藤優孝さんや,元MSXマガジン編集部で女性プロ雀士の高橋純子さんと面識ができて,プロ雀士を使った麻雀ゲームを作ろうと。
PS2向けにリリースした『プロ麻雀 極 NEXT』は,点数だけではなく,プレイヤーの打ち筋を評価するシステムをソニー・コンピュータエンタテインメントが推してくれました」
サウンドノベルの「夜光虫」シリーズもアテナの作品だ。
「アテナでもサウンドノベルをやってみようと思って,日本放送作家協会に電話をかけました。そうしたら当時の若手作家が在籍しているライターズクラブを紹介されて,シナリオを公募することになったんです。それで選ばれた方は,それまでただのOLさんだったんですが,賞金1000万円をもらって会社を辞めたそうです(笑)。
『夜光虫』は発売時期にも恵まれましたね。発売は1995年6月16日だったんですが,1994年11月発売の『かまいたちの夜』が大ヒットして,店頭で品切れになっていた時期だったので,そこから流れてきた人が多かったようです。一度受注を締め切った後に追加発注が来る異例の事態になりました」
「かまいたちの夜」をリリースしたチュンソフトとは,意外な縁もあった。
「(チュンソフトの社長だった)中村光一君は,僕の親父の教え子だったんです。優秀な学生だと親父からよく聞かされていましたし,偶然六本木のバーで会ったこともありました」
アテナが上り調子だったこの頃を,中村氏はこう振り返っている。
「時代もよかったし,周りの人にも恵まれて,運が良かったんでしょう。それと,すぐに決断できたのが大きかったんじゃないでしょうか。決断ができなくてチャンスを逃す人もいますからね」
自身がそう話したように,中村氏の強みは新しいものに目を付けるセンスと,それをすばやく実行に移せるフットワークの軽さかもしれない。タイトーのファミコン事業も,中村氏がいなかったら立ち上げは遅くなっていたことだろう。「夜光虫」についても,“元祖”であるチュンソフト以外のメーカーからリリースされた初のサウンドノベルだとする説がネットを中心に見受けられる。
中村氏の眼力は,ゲームソフト開発以外のところでも発揮されていた。
「アテナでは高円寺や町田,下北沢,市川といったところでゲームセンターを運営していました。月間売り上げ1000万円超の店もあって業績は良かったんですが,あるときから一気に落ち込んだんです。代わりになるものを探していたところ,たまたま誘われてダーツを遊んだんです。
アーケードゲームだと,うまい人は1コインで何周もプレイできてしまって,店の稼ぎになりませんが,ダーツだとうまい人ほど早く終わってお金が落ちる。それで,これからはダーツバーだと,渋谷の道玄坂に店舗を開きました。
たまたま近くにセガの『Bee』というダーツバーがあって,そこが大盛況で入れなかった人達がうちに来てくれて,これまた月間1000万円くらいの売上になったんです」
だが,アテナの業績は2000年頃から下り坂となり,2013年12月には,東京地方裁判所から破産手続きの開始決定を受けた。当時の記事によると,アテナ公式サイトの製品一覧には2004年以降タイトルの記述がなく,同年から携帯電話向けの麻雀ゲーム開発を手がけているとの記述があったという。
「多くのゲーム会社が,2000年前後から落ち込み始めましたよね。タイトーはスクウェア・エニックスの,セガはサミーの傘下に入りましたし,ナムコとバンダイは合併しました。ハドソンはコナミの子会社になり,今はもうブランドとしても残っていません。名前があるところはかろうじて生き残ったけれども,小さなところはほとんど潰れました」
その頃,中村氏が「自分から会社を畳むべきかもしれない」と思ったタイミングがあった。
「あるところに出荷していたソフトが大量に返品されて,当然ながら相応の金額を支払うことになりました。ですが,どういうわけかチャラになったんです。会社の業績は悪くなっていましたから,『こんな幸運なことはこの先ないだろう,これが最後の神風だ』と思ったのを覚えています。
また,その頃になると自分がゲームに飽き始めていると感じることがありました。アテナではずっと『映画のようなゲームが作りたい』というキャッチコピーを使っていて,自分でもカッコいいと思っていたんですけれど,2000年以降は本当に映画のようなゲームが出てきましたよね。それで逆につまらなくなったのかもしれません。
そのときにやめておけばよかったんでしょうけどね」
だが,時代の流れを読み,素早く決断を下してきた中村氏も,自分で立ち上げた会社を閉める決断を下すことはできなかった。
「僕は自分のことを優秀だと思っていたんです。ですが,それは当時のゲーム業界の中では優秀だったということで,世間全体から見ればそんなことはなかったんでしょう。だから,もっと優秀な人達が始めた携帯電話やスマホのゲームに取って代わられたんです」
自分の作ってきたものを完結させたい
アテナ破産後の中村氏は,1年半ほどスーパーの深夜業務で棚卸しをしたり,4か月ほど焼き鳥屋で働いたりした。
「刑務所に入ったような気持ちで『ああすればよかった,こうすればよかった』と,アテナ時代を振り返りながら働いていました。“修行”みたいな感じですね」
現在の中村氏は,4年半ほど前に開業した新宿にあるバー「Premium gelato Cafe NEXT」を経営しているが,そのCafe NEXTには,2台のダーツマシンがある。
中村氏は“修行”の後,以前のつてを生かしてダーツマシンの流通に携わるようになったのだが,ダーツマシンを卸していた店舗の1つが,Cafe NEXTの前身だった。
「店のオーナーが辞めることになって,ダーツマシンを引き揚げるのも大変だから僕がそのまま受け継ごうと。僕はバーテンダーでも料理人でもないし,ダーツがうまいわけでもないんだけど,後世に僕自身のやってきたことを少しでも伝えられたらいいなと思って始めました」
コロナ禍によってお客は減っており,休業期間もあったそうだが,中村氏はそれによってできた時間を「神様の贈り物」と前向きに捉えている。今,中村氏の中には,もう一度ゲームを作ってみたいという思いがあるそうだ。
「アテナ時代に作った『デザエモン』はシューティングゲーム制作ツールでしたが,今度は『テトリス』や『ぷよぷよ』みたいなパズルゲームを作れる,スマホ向けの『デザエモン』を開発できないかと思っています。
それで,どこかの会社と組むことができれば,毎月パズルゲームのコンテストを開催してもいいですし,そこから『テトリス』クラスのヒットが生まれるかもしれない」
「プロ麻雀 極 NEXT」のスマホ版もやってみたいと語る中村氏からは,やはりゲームに対する情熱を感じる。大きな成功と失敗を味わい,最後には「ゲームに飽きたかもしれない」と語った中村氏だったが,離れたところからゲーム業界を見て,ゲーム開発の魅力と,自身がやり残したことに気付いたのだろう。
「これまでの人生を振り返ってみて,結構面白かったなとは感じていますが,死ぬまでの残り少ない時間で,自分の作ってきたものを完結させてみたいですね」
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
「たけしの挑戦状」カートリッジ写真協力(C)BEEP
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