連載
元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 前編 “技術的に不可能”を覆したゲーム&ウオッチ 「ビデオゲームの語り部たち」:第27部
任天堂が世界的なゲーム企業となって久しいが,当然ながら設立当初からそうだったわけではない。さまざまな事業へのチャレンジがあり,成功や失敗,紆余曲折を経て今がある。
昭和40年代,筆者の幼少期の記憶にある任天堂は,たばこ屋のガラスケースに置かれていた花札だった。任天堂の公式サイトにある会社の沿革は,1889年に山内房治郎氏が花札の製造を開始したことから始まっており,花札こそが任天堂の原点と言える。
その花札の延長線上にトランプがある(1902年に製造開始)。当初は紙製だったが,任天堂は耐久性を向上させるために日本初のプラスチック製トランプを商品化。さらにディズニー・キャラクターをあしらったり,遊び方を記載した説明書を同梱したりといった施策で競合商品との差別化を図り,市場で大きなシェアを確保するに至った。
花札やトランプほどの歴史はないものの,任天堂が長年手がけている商品のひとつに,携帯ゲーム機がある。ゲーム&ウオッチに始まり,ゲームボーイやニンテンドーDS,現在のNintendo Switch(Nintendo Switch Lite)に至るまで,任天堂は40年以上も携帯ゲーム機を作り続けている。その間,さまざまな工夫が重ねられてきたことは想像に難くない。
本連載「ビデオゲームの語り部たち」では,2007年に任天堂を退社するまで,同社の携帯ゲーム機開発のほとんどに携わってきた岡田 智氏に,2回にわたって登場いただく。前編では,岡田氏が任天堂に入社したきっかけや,上司にあたる故・横井軍平氏とともに行った玩具開発,そして任天堂初の携帯ゲーム機であるゲーム&ウオッチが生まれた経緯などを語っていただいた。
何するかよく分からんけど,モノづくりができるのかな
2022年1月,新幹線から早朝の京都駅に降り立つと,三方を山で囲まれた盆地の寒さが身にしみた。待ち合わせ場所である八条西口に出てしばらくすると,岡田氏自らハンドルを握る赤いSUVが出迎えにやってきた。
岡田氏は1947年に秋田で生まれた。岡田家はもともと兵庫県にあったが,第二次世界大戦のため,岡田氏の父親が経営していた製材所のある秋田の山奥に疎開し,終戦後もそこに留まっていた。岡田氏は生後数年を秋田で過ごしたのだが,当時の記憶はほとんどないという。
「覚えているのはね,伐採した材木を運ぶ営林鉄道があったのと,米軍のヘリコプターを1回見たことだけ。そのあと4〜5歳の頃に大阪に来たんだけど,何もなくてね。そこを市電が走っていたことは覚えています」
岡田家は親戚の住む大阪市の都島(みやこじま)区に,土地を買って移住。以降,岡田氏は1969年に関西大学工学部を卒業するまで,大阪で暮らした。工学部を選んだのは,モノづくりが好きだったからで,ほかの学部はまったく考えていなかったそうだ。大学卒業後の進路も,ぼんやりと電子系の会社に就職することを考えていた。
「教授推薦で中堅の電子機器メーカーの面接を受けたんだけど,落とされてしまって,その教授にえらい怒られて(笑)。多分,学校の試験の結果が悪かったんちゃうかな。英語が全然できひんかったから」
その後,別の会社を探すこともなく過ごしていた岡田氏だったが,急遽任天堂の入社試験を受けることになった。
「友達が,大学の学生部を通して任天堂の入社試験に申し込んだんだけど,気が変わったと言い出して。それを学校にそのまま伝えると怒られるから,『お前,代わりに受けへんか』と」
当時の岡田氏は,任天堂の名前くらいしか知らなかったそうだ。
「何するか分からんけど,暇やし試験を受けてみるかと。交通費と日当を出してくれると書いてあったしね(笑)。任天堂はその年初めて,開発の人材を採ろうとしたみたいなんです」
任天堂は,横井軍平氏が手がけた玩具「ウルトラハンド」のヒットを受けて,1966年に開発課を設けたが,しばらくは以前からの社員がそこに異動して玩具の開発を手がけていた。さらに玩具事業を拡大するべく,新卒の開発者採用に乗り出すというわけである。
「試験当日,会社の場所が分からなくてね。電車も乗り間違えて遅刻してしまって。ようやくたどり着いて,守衛さんに『試験を受けに来ました』と伝えたら,『何時だと思ってるんや,もうあかんぞ』とあきれられました。それでも守衛さんは『とりあえず電話したるわ』と連絡を取ってくれて,試験の担当者からは『試験時間はもう何十分もないけど,それでよかったらすぐ受けに来い』と」
岡田氏は,自身の置かれた状況を鑑みて「これは絶対に受からない」と思ったそうだが,結果は合格だった。
「試験が“簡単”だったんですよ。そのときの問題は,僕が使っていた入社試験対策問題集から作っていたようで,『似たような問題だな』と思いながら答を書いていました。入社後に,採用の理由を聞いたら『試験の成績がよかった』と(笑)」
もちろんペーパーテストの結果だけで入社が決まるわけではない。岡田氏自身は,実技試験でモノづくりが得意なところを評価されたことも合格につながったと考えている。
「もともと趣味で電子工作をやっていて,はんだ付けが得意でしたし,大学の研究室でも実験材料を作るために工作をしていたからね。そこを認めてもらえたんだと思います」
岡田氏は大学卒業直後の1969年3月に任天堂に入社した。採用試験を受けるきっかけは偶然のようなものだったが,実際に就職先とするにあたっても,深い考えはなかったそうだ。
「何するかよく分からんけど,モノづくりができるのかな,電子屋が必要なのかなと」
「何してもいい会社」で経験した大ヒットと大失敗
当時の任天堂社内はかなり自由な雰囲気で,岡田氏いわく「何してもいい会社やった」という。筆者は以前,ある任天堂関係者から,宮本 茂氏が銭湯の看板を手がけたことがあるという噂を聞いたのだが……。
「銭湯は知らんけども,近くにあった喫茶店に頼まれて(宮本氏が)看板を描いていましたね。その喫茶店は,何年か前に閉店してしまいました」
当時の任天堂には研修制度がなく,新入社員は即現場に投入された。良心的に解釈するなら,今でいうOJT(On the Job Training)だ。岡田氏も入社後すぐに先輩と「N&B(エヌビー)ブロック」の商品企画を行うことになった。
N&Bブロックはブロック玩具だが,これが同じくブロック玩具の「レゴ」と類似しているとして,レゴ社から訴訟を起こされることになる。
「当時は新人ですし,担当が違うのでよく分からないんですが,N&Bブロックはもともとほかの会社からの持ち込み企画やったと思います。レゴとの訴訟には勝利したんですけど,商品力が弱くて。品質も悪いし,社内でも『やっぱレゴのほうがええなあ』『金型の差かなあ』という話が出るくらいでした(笑)」
そのN&Bブロックの代表的な商品で,月面探査車をモチーフとした「クレーター」を企画したのが,前述の横井氏だ。
「横井さんが,『月面探査車を作ったらええんちゃうか』といい出したんです」
1969年7月はアポロ11号が史上初めて人類を月に着陸させることに成功したタイミングだったが,横井氏はそれをモチーフとするだけにとどまらなかった。
中にバネが仕込まれた“地雷”のようなブロックを踏むと,月面探査車がひっくり返ってバラバラになるギミックを取り入れたのだ。組み立ての面白さを主眼とするブロック玩具で,破壊の爽快感を追求した逆転の発想は,いかにも横井氏らしい。実際の月に地雷などないのだろうが,宇宙にロマンを抱く子ども達の心をグッと掴んだのは間違いないだろう。岡田氏も,そんな横井氏を一言で「アイデアマン」と表現する。
「そのときから横井さんと一緒に仕事をするようになって,1970年には光線銃SPの企画を持ってきて『こんなんやるんやけど,電子屋おらんからお前がやれ』と」
岡田氏が設計を担当した「光線銃SP」は,銃口から出る光と,ターゲットに仕込まれたセンサーによって射撃の命中を判定するという玩具だ。大ヒット商品となったが,その裏で任天堂は大変な状況に陥っていたという。
「光線銃SPは,素人が設計したんで量産ができなかったんです。作っても作っても不良品ばかりでね。学校で習ったことだけで設計したんで,部品を組み合わせたときのサイズの整合性とか,品質管理みたいなことなんて考えていなかったんですよ。
それでもあまり売れなければ,修理を受け付けて戻せばいいんですが,ヒットしてしまったから修理が間に合わない。返品もたくさんある。社長(山内 溥氏)に直接呼ばれて,『これ,どうすんねん』と言われたこともこともあります(笑)」
だが,この大ピンチの要因は,岡田氏を「どうすんねん」と問い詰めた山内氏にもあったのかもしれない。
岡田氏は,山内氏を「現場が『こうだ』と決めたことは任せてくれるリーダー」と表現したが,その一方で,自身の勘で動く「勝負師」でもあったと語った。光線銃SPでは,それが裏目に出たわけだ。
「普通だったら,まず1万セット作って,その販売実績を見て次を考えます。でも社長は,売れると思ったらいきなり『100万セット作ろう』といい出すんです。確かに,そのほうがコストが低くなりますからね。僕はその頃,まだそういった考え方が分からなくて,ただイケイケどんどんで『そんなに売れるんや』と思って聞いてましたけど。でも実際は,『半分くらい不良品やで』という事態になったわけです」
やがて光線銃SPのブームも終わり,社内には大量の在庫が残った。大ヒットするも,あっという間に熱が冷めて在庫の山となる玩具の話は今でも聞くが,光線銃SPもその1つだったわけだ。
任天堂は光線銃SPと同時期に,トランシーバーのような玩具「光線電話LT」を発売している。岡田氏が光線銃SPの部品で試作品を作って遊んでいたところ,急に発売が決まったそうだ。
※初出時,「光線電話LT」の商品名に誤りがあったため,2022年3月28日21:20に記事を修正しました。
「僕は,そんなもの売れると思ってなかったんです。でも横井さんが『面白いから発売しよう。さっそく社長のところに持っていこう』と。実際には,思ったとおりあまり売れませんでした。
これは人から聞いた話ですが,横井さんは僕の反応を見て,玩具が売れるかどうか判断することもあったようです。それまでは,横井さんがやっていることに関心を持つ人は社内におらんかったからね」
当時の開発部は,先輩後輩という間柄はあっても,とくに誰がリーダーということはなく,全員がフラットな関係だったという。任天堂全体としても風通しが良く,社長が直接開発部に指示を出したり,いち社員が社長に企画を直接プレゼンしたりといったことも珍しくなかったそうだ。
その頃,社長の山内氏は,花札やトランプのビジネスから脱却し,任天堂をタカラやトミー(社名はいずれも当時)などに代表される総合玩具メーカーにすることを考えていたという。
「それまでの任天堂の商売は,1つの玩具を作って売り,それが売れなくなってきたらまた別の玩具を作って売り……というサイクルだったわけです。そのビジネスモデルから脱したいといろいろやっているうちに,たまたま当たったのがゲーム&ウオッチでした。これならシリーズ化できると」
“技術的に不可能”を覆したゲーム&ウオッチ
「ゲーム&ウオッチ」は,任天堂が1980年4月に発売した携帯型液晶ゲーム機だ。ゲームボーイに代表される後のコンシューマ携帯ゲーム機とは違い,1台で1種類のゲームしか遊べないが,シリーズ化されて数十タイトルが世に出ている。
ゲーム&ウオッチにまつわるエピソードでは,新幹線で移動中の横井氏が,暇つぶしに電卓のボタンを押して遊んでいる乗客を見かけたことがきっかけで誕生した,というものが知られている。
「当時,他社から出ていたFL(蛍光表示管)ゲーム機や,『サイモン』※のようなゲームを見て,マイコンを使ったゲームを作れるなと思っていました。ただ,どう考えても子ども向けで,大人は遊ばへんなと」
※ラルフ・ベア氏が開発し,1978年にアメリカのタイガーエレクトロニクスから発売された,記憶力を競うゲーム。ボタンが発光する順番を覚え,プレイヤーがその順にボタンを押す
岡田氏が挙げたゲーム機は当時「電子ゲーム」「LSIゲーム」などとも呼ばれていて,ゲーム機とは言っても基本的には1つのゲームしか遊べないものだった。電池駆動で持ち運び可能ではあったが,ポケットに入るほどのサイズではなく,原色を使ったデザインのものが多かったため,確かに大人向けではなかった。
「そこに“電卓で遊ぶ”という話が出て,そういう大人も遊べるギアみたいなものがあったら出張にも持って行けると考えたんです。ちょうどその頃,液晶画面を使ったマテルのLSIゲーム機が発売直後に手に入って,けっこう面白かったんですよ。それで液晶だったら小型にできるなと」
1979年ごろの任天堂では,故・上村雅之氏が部長を務める開発第二部が電子系の企画を専門に扱うようになっていた。開発第二部では,他社が先行していた電子ゲーム機などの試作や,安くても3万円と高価だった8ケタ計算電卓を4ケタ計算にして1万円台で販売するプロジェクトに取り組んでいたという。
「企画書を書いて,こういうの(ゲーム&ウオッチ)を作ると社長に提案したら『これは第二部にやらせよう』と。ところが第二部から,『こんなの難しくて,技術的に不可能だよ』と突っ返されました」
ただ,これは岡田氏や横井氏の想定内だったようだ。
「僕らは,最初から企画が手元に戻ってくると思ってました。彼らは電卓や電子ゲーム機の開発をなまじ知ってるから,無理だと考えたんです」
企画書だけでは伝わらないと考えた岡田氏らはまず,実際に作ろうと思っている液晶ゲーム機よりも大きなサイズのプロトタイプを開発することにした。
「当時はPCなんてないから,まず横井さんが『ボール』なんかの絵を描いて,その裏から電球をスイッチで光らせたり消したりして,『こんな画面はどうやろ』と。僕がそれを電子的に落とし込んでいくんです。
それまでプログラムなんて組んだことなかったけど,できないと絶対あかんということでNECのTK-80を買いました。そして液晶のランプを駆動するドライブ回路を作り,自分でプログラムを書いていったんです」
こうした過程を経てゲーム&ウオッチは完成する。開発第二部が「できない」と言ったものを作ってしまったとなると,社内の空気が悪くなりそうで心配になるが,そんなことはまったくなかったそうだ。
「そこは作ったもん勝ちですよ。その頃の開発第一部は,僕と横井さんの2人だけで,開発第二部は十数人いたんじゃないかな。でもゲーム&ウオッチが出た後は,『人がおらんから,あいつとそいつを入れて』と,部署間でそんな人員のやり取りを繰り返していましたね」
岡田氏はゲーム&ウオッチ絡みで,開発とまるで畑違いの仕事も担当した。
「当時の時計は高額商品で,物品税がかかったんです。あと時計としての正確さの問題で,どこかに申請して許可をもらわないとあかんかったんちゃうかな。ともあれ,ゲーム&ウオッチに物品税がかかると分かったんで,僕が京都の税務署と交渉しました。『これはゲームがメインで,時計の原価は50円くらいしかかかっていない』と主張したら,その50円にだけ課税されるようにしてくれたんです」
岡田氏の交渉術は,後のファミコンでも発揮された。
「当時は不良品が多かったせいで玩具に検査が必要だったから,『これはコンピュータであって,玩具じゃない』という論理を僕が考えて通産省と交渉しました。通産省にもいろいろ窓口があるので,コンピュータを扱っているところに相談すれば,そこの手柄になるから応援してくれるだろうとも考えていました。そんな感じで,自分が作ったものに関わることは,本当に何でもやらされましたね」
岡田氏はゲーム&ウオッチを,それまでの玩具と同じく1タイトル作って終わるものと考えていたそうだ。しかし,山内氏に「3本作れ」と指示され,実際に作ってみたところ,「もっと作れるだろう」となって,シリーズ化された。
「1つめのあと,2つめをどうやって作るのかと思いましたけどね。最初の3本は,横井さんが全部アイデアを出しました。僕は,そのアイデアをどうやって具現化するかを考えたんです」
「ドンキーコング」の“後始末”から始まった訴訟騒ぎ
ゲーム&ウオッチが一段落したあと,岡田氏はアーケードゲームの開発を手がけることになり,1982年には「ドンキーコングJR.」,1983年には「ドンキーコング3」「マリオブラザーズ」がリリースされた。
「『ドンキーコングJR.』は,売れたけど在庫も多かったドンキーコングの後始末だったんですけどね。社長に『何とかせい』と。そんな仕事ばっかり回ってくる(笑)」
岡田氏が話した「ドンキーコングの後始末」とは,「ドンキーコングJR.」の基板とプログラムが,先にリリースされた「ドンキーコング」の流用だったことを指している。だが,流用と言ってもそう簡単な作業ではなかった。ソースコードが手元になかったのだ。
「ドンキーコングのプログラムは,任天堂で作ったものじゃなかったんですわ。確か,営業が企画したのを開発部が蹴って,池上通信機がプログラムを担当することになったんです」
そのため,「ドンキーコングJR.」の開発は,「ドンキーコング」のリバースエンジニアリング(プログラムの解析)から始まった。これが後にトラブルへとつながるのだが,当時の岡田氏は気付いていない。
「ビデオゲームのプログラムはまったく分からんかったんで,『これ,どうやって作ってんやろ』と。それで岩崎技研工業※の優秀なプログラマー3人に来てもらって,ゴールデンウィークも任天堂の社内に缶詰めで作業していましたね」
※当時の任天堂タイトルの開発に関わっていた会社。ハル研究所の設立時に出資したほか,ここの社員が独立する形で「ファイアーエムブレム」シリーズなどで知られるインテリジェントシステムズを立ち上げた
「ドンキーコングJR.」のゲームデザインを担当したのは,「ドンキーコング」に引き続いて宮本 茂氏だった。岡田氏は,宮本氏が「ドンキーコング」に関わることになったエピソードも話してくれた。
「彼が描いたキャラクターを使って,ゲームを作ろうと。最初は『ポパイ』のキャラクターを使おうという話だったんですが,版権が高かったか下りへんかったかで,ドンキーコングになったんですよ」
岡田氏によると「ドンキーコングJR.」は「まあまあ売れた」そうだ。“後始末”として始まったことを考えれば上々の結果と思えるが,思わぬ問題が持ち上がった。リリース翌年の1983年に,池上通信機から著作権侵害で訴えられることになったのだ。
「ソースコードについては何にも分からんで,プログラミングデータをそのまま使ってたからね。そこに社名や担当者の名前,外線電話番号が入ってた。テキストに変換して出力すれば分かったんだけど,やらなかった。それでドンキーコングのソースコードを使ってるのがバレて,著作権侵害やとなりました」
任天堂が開発を委託したプログラムの著作権がどちらに属するのか,明確にされていない契約にも問題があった。当時を知らない人は,「任天堂らしからぬ」と思われるかもしれないが,そもそも,プログラムが著作物であるという認識すらまだ薄い時代だった。「プログラムの著作物」が著作権法に明記されたのは1985年のことである。
岡田氏は,訴訟担当者が「最後まで争う」と話していたことを記憶しているそうだが,判決は確認できず,おそらく和解で決着したと思われる。
ドンキーコングをめぐっての訴訟も,光線銃SPの不良在庫も,岡田氏がその分野での経験をあまり積んでいなかったことが招いた事態かもしれない。だが,未経験の分野であっても臆せずに挑戦できる岡田氏だからこそ,ヒット作を生み出せたことも確かだろう。ほかの社員がさじを投げたゲーム&ウオッチを世に送り出した功績は,その最たる物ではないだろうか。
今回の取材で,岡田氏からは「何するかよく分からんけど」と任天堂に入社したり,「プログラムなんて組んだことなかったけど」とゲーム&ウオッチのプログラムを書いたりといったエピソードがうかがえた。普通なら「分からない」ということは,あきらめや拒否の材料になることがほとんどだが,岡田氏はそれを挑戦への後押しに変えてしまう人なのかもしれない。
後編は,ゲームボーイにまつわるエピソードを中心にお届けする予定だ。
元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部
メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏による連載「ビデオゲームの語り部たち」。元任天堂の岡田 智氏に登場いただく回の後編では,ゲームボーイの開発やファミコンソフトのプロデュース,任天堂社内へのeメール導入といった仕事を振り返っていただきます。
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- ビデオゲームの語り部たち
- ライター:黒川文雄
- ライター:大陸新秩序
取材協力:たけだむねのり(まめ)
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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