インタビュー
[インタビュー]SC-3000&SG-1000発売40周年! セガハードを支えた石川雅美氏,奥成洋輔氏,堀井直樹氏がセガハード史を語る
今日の4Gamerには赤くて白いゲーム機の記事が何本か載っているはずだが,そんなことよりセガハードである。ドリームキャスト,セガサターン,メガドライブ……それらの始祖たるSC-3000&SG-1000こそ,我らが本日の主役。7月15日はセガハード記念日であり,それ以外の大抵のことは些事である。あっちの記事の機材提供も筆者だったりはするが,それはそれ,これはこれだ。
これを機に,改めてセガ8bitハード時代の裏側を探るべく,SG-1000IIからメガドライブまでの開発に携わった石川雅美氏と,書籍「セガハード戦記」を執筆した“セガが好きすぎるセガ社員”こと奥成洋輔氏,そしてセガが好き過ぎるエムツー代表取締役の堀井直樹氏に,当時のエピソードなどをうかがった。
白夜書房公式サイトの「セガハード戦記」紹介ページ
磨き抜かれた高性能パソコン,SC-3000新登場!
SG-1000&SC-3000が発売された1983年ですが,当時の皆様はどのように過ごされていたのでしょうか。
奥成洋輔氏(以下,奥成氏):
石川さんは,セガにもう入社されていましたよね。
石川雅美氏(以下,石川氏):
生産技術部(※メカトロ研究開発部の前身)にいたんですよ。当時の研究開発部で作った業務用筐体の試作機や,開発段階のマシンを,量産用に材料や設計などを手直しして,その図面を管理するような部署でした。
4Gamer:
その頃だとゲームやエレメカと言っても,CPUを使ったものでなくアナログ回路によるものですよね。
石川氏:
どうだったかな……担当するのが筐体全体に関わる部分でしたので。例えば,どのように電源を筐体の中に設置するか,配線をつなぐか,基板をセットするか,I/Oの接続はどうするのか……そういった部分をやっていました。あと,スピーカーやイルミネーションといったアクセサリの部分ですね。
奥成氏:
何年に入社されたんですか?
石川氏:
1956年生まれで22歳のときに入社したので,1978年です。
奥成氏:
じゃあ入社してから少しして,タイトーから「スペースインベーダー」が登場したという感じですね。
石川氏:
そうですね。「スペースインベーダーみたいなやつをセガも出そう」みたいな話はしていた覚えがあります。
奥成氏:
その前にも,セガはAtariの「PONG」を参考にした「ポントロン」を出したりしていましたが,まだビデオゲームはあまりやっていなかったんですよね。グレムリン(※1)がどうこうという話が出るよりも前ですし。
※1 セガ・エンタープライゼス(当時)が技術獲得を目的として1979年に買収した,アメリカのGremlin Industries。当初は魚群探知機やファストフード向けのタイマーなどを開発していた企業だが,ウォールゲーム(壁掛け式の電光表示型エレメカ)をきっかけとしてゲーム事業に参入。商標などは継承企業に保持され法人は解散
石川氏:
それでも,研究開発部の製品が売れ筋になっていました。すごく長い生産ラインが本社に3本あって,そこで図面に従ってゲーム機が組み立てられていたんですよ。そこの指導なんかも生産技術部でやっていました。
奥成氏:
昔,羽田の1号館のあったところに“物流棟”と言われていた二階建ての長い建物があって,筐体の組立ラインとか社長室とか,全部そこにあったんですよね。
石川氏:
道路に面した入り口から入って,階段を登ると赤絨毯が敷かれていて,社長室などがありました。横口から1階に入っていくと,3つの製造ラインと部品調達部や品証など,製造に関わる部署がありました。道路を挟んで,当時は“別館”と呼んでいた5階建てビルがあり,そこには開発と生産技術部が入っていました。
4Gamer:
当時,家庭用ゲームというものが大きな市場になるという予想などはセガ社内にあったのでしょうか。
石川氏:
そこは佐藤さん(※2)に話を聞かないと分からないですが……。ただ,佐藤さんとMSXの西 和彦さんが会っていて,「MSXグループに参入するか?」という話はあったはずです。私が生産技術から開発へ移ったとき,デスクが佐藤さんの隣だったので,電話でやりとりしているのがよく聞こえていたんですよ(笑)。
※2 かつてセガの代表取締役社長だった佐藤秀樹氏。1971年にエレメカの開発でセガに入社し,SC-3000&SG-1000からドリームキャストまで,すべての家庭用ハードに責任者として関わった。
堀井直樹氏(以下,堀井氏):
やっぱりそういう話があったんだ! だってSC-3000って,ほぼMSXですからね(※3)。
※3 CPUはZ80A互換(とくにソニー製MSXなどはNEC製の互換チップ・D780C-1でSC-3000と同一),VDPはTexas Instruments製のTMS9918A,RAMは2KB,VRAMは16KBなど。目立つ差異は,BASICをカートリッジで供給するSC-3000に対しMSXは内蔵していたことと,音源がSC-3000はSN76489(DCSG),MSXはAY-3-8910(PSG)であったこと
奥成氏:
最初は駒井さん(※4)が任天堂から移ってきて,おそらく「これからはホビーパソコンだ」という話があって,SC-3000を作ったんですよね。でも,任天堂で作っているハードがホビーパソコンじゃなくてTVゲームに特化しているというのを聞きつけて,対抗でSG-1000を作ったとか。
※4 駒井徳造氏。任天堂のアーケードゲーム撤退を機にセガへ移籍し,各種ハードウェアの開発に携わった。セガグループではセガの代表取締役副社長や,トムス・エンタテインメントの代表取締役会長などを務めた
奥成氏:
西さんにしてみれば,「これからはMSXの時代だから,セガが一社でホームコンピュータをやっても無駄でしょ?」と考えて誘っていたんでしょうね。セガだけでなく,いろんなところにも。
堀井氏:
久夛良木さん(※5)みたいですね(笑)。
※5 久夛良木 健氏。言わずと知れた元・ソニー・コンピュータエンタテインメントの代表取締役社長にして“PlayStationの父”。現在は近畿大学の情報学部長などを務める。同氏のソフトメーカーに対する姿勢の一端は,「ビデオゲームの語り部たち 第4部」で元ナムコの石村繁一氏より語られている
4Gamer:
西さんとは別の企画でお会いしましたが,実にそういうことを言っていそうです。
当時の奥成さんは小学生でしょうか?
奥成氏:
SG-1000の頃は12歳で小学6年生でした。1982年にトミーのぴゅう太や,タカラのゲームパソコンが出ていて,「これからはホビーパソコンだ」「いやゲーム機だ」という2つの意見があった時代でしたね。友達が松下(通信工業)のJR-100(※6)を買ってもらっていて,羨ましく思ったりもしていました。
でもコロコロコミックに「これからはゲーム機! ファミコン,SG-1000,ぴゅう太Jr.,アルカディアが出る中で,君はどれを選ぶ?」みたいな記事が載っていたりして。それで僕はアルカディア(※7)を選ぶんですけど。
※6 「ナショナル」のブランドで1981年に発売されたPC。モノクロ画面だったり標準では大文字のラテン文字しか表示できなかったりと機能は極めて限られていたが,当時としてはかなり低価格(5万4800円)で一定の支持を得た
※7 バンダイ(当時)が,アメリカ・Emerson Radio Corporationの「Arcadia 2001」をライセンス販売したもの。国内独自タイトルとして「機動戦士ガンダム」や「Dr.スランプ」など,後年で言うところの”キャラゲー”が展開された
堀井氏:
僕は,その頃に貯金を始めて後にパソコンを買うんですけど,買った直後にファミコンが出たんですよ。当時はパソコンの方がアーケードに近いゲームが動くというのが定番だったんですけど,ファミコンが出てからガラッと変わりましたね。
奥成氏:
ファミコン以前はAtari 2600とかインテレビジョンとかでしたからね。
堀井氏:
カセットビジョンもありましたけど,やっぱり画は稚拙でしたから。
みんなで楽しもうネッ!
奥成氏:
石川さんは,ハードの設計をやっていたのに基板の設計に突然移ったんですよね。今の視点からすると別物のように思うんですけど,当時としては同じようなものだったんでしょうか。
石川氏:
研究開発部は回路そのものの開発・設計で,生産技術部は電気設計でしたけど,当時だとまだ,“回路”という意味では同じような言葉で使用していたものでしたね。
奥成氏:
SC-3000やSG-1000って,佐藤さんと駒井さんと,佐藤さんの上の次長だった田中さんという方の,3人ぐらいしかセガ社員は関わっていないそうなので,実際の開発は大部分をフォスター電機に丸投げしていたんじゃないかと思うんですよ。社内にスタッフもいたと思うのですが。
石川氏:
うーん,生産技術部ではコンシューマ機に一切関わってなかったですね。
奥成氏:
SG-1000以前,1982年の春ぐらいにコレコビジョンをセガで販売するって話もあったんですよ。でも発表だけで終わって,コレコビジョンと中身がほぼ同じSG-1000が翌年に出たという。たぶん駒井さんの方で「こんな玩具はやらずに,ちゃんとホビーパソコンをやろう」という思惑があったと思うんですけど。
石川氏:
私が佐藤さんのところに移ったとき,すでにこの形(SG-1000)のものが存在していましたから,それ以前の経緯は分からないですね(笑)。
堀井氏:
もう筐体含め,すでにあったわけですか。
石川氏:
試作機か量産1号機か,そのくらいのものがありました。
奥成氏:
SG-1000の出たのが1983年の7月で,その年の年末商戦にはOEM機のオセロマルチビジョン(発売:ツクダオリジナル)が並んでいたんですよね。
石川氏:
私が最初に手掛けたゲーム機ですね。開発に移るとき,休暇を取ったとかの覚えもないので,いきなりオセロマルチビジョンの開発に入ってたと思います。ケース(筐体)は見覚えが無いので,基板を作って,出来上がったら納めるだけだったんじゃないかな。本当に「基板を作っておしまい」なので,時間は全然かかっていないはずです。
堀井氏:
じゃあ「部品のコストが下がったから改良しよう」みたいなのも無しで,とにかく急いで作っちゃうという。
奥成氏:
オセロマルチビジョンって,本体にキーボードやジョイスティックが直接付いていたんですよね。基板の構成はSG-1000と同じで。でも,この基板が紙と言うか……。
石川氏:
紙フェノールでしたね。ガラスエポキシみたいに固くなくて,簡単に割れちゃうんですけど,メチャクチャ安いんですよ。
奥成氏:
本にも書いたのですが,どうしてSG-1000が売れたかと言うと,まずファミコンが1万4800円で,SG-1000は1万5000円と,他社よりも安価だったことです。ファミコンの初期ロットはPPU(Picture Processing Unit)の不具合で自主回収となったので年末に品切れを起こし,そこでファミコンに次いで安いのがSG-1000だった。アーケードゲームの移植を遊べるとかの特徴もあるんですけど,やっぱり価格は大きかったと思うんですよね。あの価格帯を実現したのが,たぶん紙フェノールとかそういう部分ですよね。
初期セガハードの基板は茶色い紙フェノール製(分解している個体は筆者私物) |
ついでにこちらはドリームキャストのメイン基板。典型的な緑のガラスエポキシ製だ |
奥成氏:
11月にはパイオニアのSEED(※9)に取り付ける「SD-G5」も出ていて,さらに翌年の夏にはSG-1000IIが発売されているわけですが。
※9 TV事業に進出して間もないパイオニアが展開した,オーディオコンポーネント用のブラウン管モニタ
石川氏:
SD-G5も私が担当したのですが,ひどい目にあいましたよ。佐藤さんが1円でも安くしたいと言うので,当時の新しい基板技術を試したんです。片面実装ですが,配線層に絶縁層を被せて,その上にまた配線をするという2層式のものでした。ハンダ(含鉛)の融点が180度くらいなんですけど,上下のパターンをつなげる銀スルーホールに200度くらいの熱が掛かる設計のせいで,スルーホールがズレてしまうんです。
それで動かない基板が出てきて,でも暖めると動いたりして。まだ技術が未成熟だったので,そこの熱を考慮した基板設計にしなければならなかったんです。
奥成氏:
基板なのに熱を持っちゃいけないってすごいですね(笑)。
石川氏:
熱を持っちゃいけないというか,多少はズレてもいいように基板を設計する必要があったんです。でも,そんなのは品質的に信用できないので,結局は両面基板を採用しました。
そういった設計変更の煽りを受けて生産が遅れたので,パイオニアの営業や購買を担当している課長さんがセガに乗り込んで来まして。我々は上がってきた基板をチェックするしかないから,佐藤さんと私と,矢木さん(※10)の3人が並んで,治具で動作確認をしていったんです。それを整理してくれたパイオニアの技術担当の人も含めて4人で一所懸命にやっているのに,「お前ら早くやれよ」とか言われて。
※10 矢木 博氏。セガではアーケード基板やゲームギアなどの開発に尽力した。現在はデータベース開発やウインドサーフィン用具の維持・管理などを手がけるWIND-風の代表を務めている。詳しくは「ビデオゲームの語り部たち:第21部」を参照してほしい
石川氏:
あのときは私も若くて,チェック作業中にパイオニアの方に「こんなに皆で一所懸命やっているじゃないですか」と。我慢できなく,つい,言葉が出てしまったんですね。
作業が終わってから,佐藤さんに「お前も短気だなあ」とたしなめられたりして。パイオニアにとってもSEEDの生産が決まっているので,発売までにはゲームパックも揃えたいというのは分かるんですけどね。
奥成氏:
SG-1000を慌てて出したとは聞くんですが,その割には複数の互換機が半年以内に出ていますよね。そういう互換機ってSG-1000が出る前くらいには仕込んでいないと間に合わないんじゃないですか?
石川氏:
そうでもないですよ。基板だけなら,1か月か2か月あれば。
堀井氏:
そんなもんなんですか!?
石川氏:
回路は基本的に一緒ですからね。違うのは基板の形と,あとオセロマルチビジョンだったら最初からオセロのゲームが実装されているとか,そういうところで。
堀井氏:
マスターシステムのbiosみたいなものですよね。
石川氏:
ただ,いろんなハードで同じゲームが動く,“製品ファミリー”が大事だというのはたぶんあったんでしょうね。最初からか後付けなのかは分からないですが。
奥成氏:
佐藤さんがよく「SG-1000は想定外に売れた。とくに年末商戦で」という話をしていて,でも他の人からそういったことはあまり聞かないんですが,“売れた”という実感はありましたか?
石川氏:
いえ,無いです。私も後からインタビューとかを読んで「売れたんだなあ」と思ったくらいで。
4Gamer:
記録上の実売数などは残されているのでしょうか。
奥成氏:
期末なのか年末なのかは分からないんですけど,16万台とされていますね。
堀井氏:
けっこうな台数ですよね。
奥成氏:
まあ,ファミコンは同年に数十万台と出ていて(※11)。
任天堂はゲーム&ウオッチやカラーテレビゲーム15などもやってきたので,堅実に成功させている感じですね。でもセガはSC-3000を10〜20万台くらい売ろうとしていたところから,機能を削ったSG-1000を慌てて出したら,16万台も売れちゃって,佐藤さん的には成功したと。
※11 「情報化白書1989 80年代情報化を巡る歩みと今後の展望」によると,1983年に44万台を出荷している。なお1984年に167万台,1985年に368万台
石川氏:
セガとしても成功だったと思うんですよ。
ただ,それに続くSG-1000IIは今ひとつ反響が薄かったんですよね。
4Gamer:
デザインはカッコいいんですけどね。
奥成氏:
たぶん,デザインはここからプロの仕事が入ってるんですよ。SG-1000はデザイン的にも急造な感じでしたけど。
石川氏:
デザイン案のスケッチが作られていた記憶はあります。このラインを細くするとか,そういうのはちゃんとしたデザインあっての話ですしね。
堀井氏:
子供が買うとき,ガワはけっこう重要ですからね。
ゾクゾクするね,未体験ワールド
奥成氏:
SG-1000IIくらいまではフォスター電機が作ったものから基板デザインを変えていたわけですが,セガ・マークIIIで改めて設計したときってどうされていたんでしょうか?
石川氏:
私が回路設計をして,それを元にヤマハが半導体の物理設計をしていました。ヤマハがTexas InstrumentsのTMS9918を解析して,そこにスクロール機能とかを入れた315-5124を搭載したのがマークIII。半導体に関しては,たぶんSG-1000IIからヤマハなんですよね。
ブレッドボードにTTL(Transistor-Transistor Logic)でチップの中身を作って,それをヤマハまで運んでいました。新しく背景のスクロール機能を入れたりしてね。
「このスペックでやれ」みたいな指示は無かったんですけど,佐藤さんが「これ使えないか?」って疑似SRAMを持ってきたりはしました。価格を抑えるためにいろいろ探していたんだと思うんですけど。
疑似SRAMって中身はDRAMなので,メモリにアクセスせず放っておくとデータが消えちゃうんですが,外見的には静的な動きができるんです。それをヒーヒー言いながらデータ読み出しの工夫を実装していた記憶があります。
奥成氏:
価格面での条件が大きかったんですかね。SG-1000とファミコンでは後者の方が高性能でしたけど,マークIIIはファミコンを一部上回っていたので,ファミコンを意識して作ったと考えるのが一般的なんですが,実際のところはあまり考えられていなかったのでしょうか?
石川氏:
考えてないですね。指定があったのは,SG-1000のゲームもコンパチで動くことと,さっきも言ったスクロールくらいでした。
奥成氏:
それだと,たぶん想定にあったのはマークIIIの横で矢木さんが作っていたシステム2(※12)なんですよね。
※12 セガのアーケード基板。「忍者プリンセス」「スタージャッカー」のシステム1基板に多少の性能強化を施したもので,「UFO戦士ようこちゃん」「ワンダーボーイ モンスターランド」などに用いられた
石川氏:
はい。システム2も動いている画を見ていて,再現できるような機能を考えていました。
堀井氏:
1パレットに16色も使えたのはすごかったです。あれのおかげで,ファミコンとは全然違う画が出ますし。
石川氏:
色数は確かにね。当時のゲームの命だったかもしれない。
4Gamer:
マークIIIのFMサウンドユニットも,やっぱりアーケード基板(システム16)に積まれるからという流れなのでしょうか。
石川氏:
そうです。
堀井氏:
でもOPM(YM2151)でなくOPLL(YM2413)になったのはなぜなんですか?
石川氏:
FMサウンドユニット自体は関わっていないですし,当時はコンシューマ関係の人間も増えていましたから,そこはちょっと分からないんですよ。ヤマハと言えば,マスターシステムの生産のときはヤマハだけだとVDPやチップを作りきれなくて,コストダウンも狙ったのかNECに作らせたりしていました。生産数の都合があったのかもしれないですね。それでNEC製VDPの開発時期は,玉川工場に通ったりしていて。
奥成氏:
ヨーロッパでは売れていたので数が足りなかったんですかね? でもPCエンジンをやっていたNECにマスターシステム用のチップを作らせるのは面白いですよね。まあ(NEC)ホームエレクトロニクスと本家は別ではありますけど。
石川氏:
ただ半導体って,簡単には設計を起こせないんですよ。各社ごとに物理設計のライブラリがあるので,同じ回路でも簡単には作れない。
とくにヤマハの回路は,すごくカスタムされているので作りにくいんです。消費電力が小さいものはサイズも極力小さくするとか,電力が必要なところは大きいトランジスタにするとか,そうやって回路そのものがカスタマイズされているわけです。なので,各社ごとに作り方を変える必要がありました。
堀井氏:
ヤマハは楽器用にプロセッサや半導体を作っていたわけですから,その中でゲーム機のチップを作ろうとしたらパンクするのも不思議ではないですね。ただ解析はすごくて,さっきTMS9918の話もありましたけど,その次の世代はV9938っていうやつで。もう名前からしてそうですから。
奥成氏:
何にせよ,家庭用ハードを作っている人達はライバルハードをあまり意識していない感じですね。
4Gamer:
ソフトではマリオを意識した「アレックスキッドのミラクルワールド」がありましたが,ハードはそうでもなかったと。
奥成氏:
ソフトの開発陣はバチバチに競合を意識しているんですよ。アーケードも,「グラディウス」キラーを作れと言われて「ファンタジーゾーン」が,「ポールポジション」キラーを作れと言われて「アウトラン」が出てきたわけです。キラーと言ってもコピーじゃダメだから,どんなゲームにするかというところが肝心でした。
石川氏:
アーケードでは,「これだけのキャラを動かせる」とか「スクロールを2ラインにしてきたぞ」とか,ナムコやKONAMIに対して敏感に反応していましたね。でもコンシューマでは,基本的に佐藤さんが決めていたので。業務用だとしっかりしたスペックシートがあるんですけど,コンシューマにそこまでのものは無いんですよね。
堀井氏:
SG-1000にZ80を使おうというのは誰が決めたのかって話ですよね。そこは“誰が”というより,安く調達できるからとか,ICE(インサーキット・エミュレータ)も高価でしたから,アーケードで使っていたものを転用できるとか,そういうのが大きかったと思うんですよ。
石川氏:
そうですね。現場が使いこなせていたからというのもあるでしょうし。
基板も1m×1mくらいの定尺から切り出すので,数ミリ小さくすることで取り数が何枚か増えたりして。小さくして2枚に分けたら多く取れたりしますし,でも分けたらつなぐためのハーネスが必要になったりする。そういったところのトータルコストを考えていました。
奥成氏:
でも1982,3年のマシンなんて,ほとんどZ80じゃないですか?
堀井氏:
例外がFM-7くらいでね。
奥成氏:
ファミコンが6502(互換のリコー・RP2A03)だけど,あれもインタビュー記事を読んでみると,任天堂の人達ですら「Z80じゃないの?」みたいなことを言っているんですよ。結果的には6502で良かったんですけど,アーケード版の「ドンキーコング」でZ80を使っているんだから,そのまま使ったほうが開発的には良いはずなんですよね。
だから,あの時点で家庭用ゲーム機やホームコンピュータを作ろうと思ったら,実質的に一択だった感じはしますけどね。細かいスペックの違いはもちろんあると思いますけど。石川さんがメガドライブを作っていたときも,MC68000じゃなくてZ80をまだ使う説もあって,なかなか決めてもらえなかったとか。
石川氏:
なので,最初はZ80を前提に設計していたました。結果的にMC68000になったのは,時代的な流れはあるんですけど,広告戦略もあったんじゃないかな? 「16bitだから8bitとは違う!」みたいな。
奥成氏:
筐体に「16-BIT」って書いちゃってるくらいですからね。
石川氏:
そういえば,メガドライブでは「2CPU構成のほうがサウンドは楽ですよ」という私の意見が汲み取られました。1CPUで領域を分配してやっていると,だいたい最後にサウンドが泣くことになりますから(笑)。
だったらMC68000とZ80を搭載して,Z80にサウンドを処理させたほうが良いというのを,ブロック図みたいなものを描いて佐藤さんに持っていったんです。
奥成氏:
ただマークIIIの後方互換は苦しめられたとか。
石川氏:
後方互換するとなったら,ソフトからCPUに同じアクセスをするような仕組みを作らないといけないですから。最初はZ80をメインCPUとして設計してしていたので,サブCPUでの回路をイチから考えるのは面倒くさいというのもありました。
奥成氏:
早いうちにMC68000に決まっていたら,後方互換はやめていたかもしれないし,でもパレットに自由度があったかもしれない(※13)。
※13 メガドライブは15色×4パレット。なおファミコンは4色×4パレット(スプライトとBGで別:計8パレット),スーパーファミコンは15色×8パレット(スプライトとBGで別:計16パレット)
石川氏:
マークIIIからメガドラへの進化は,やっぱり大きかったですね。メガドライブの叩き台ができたとき,ソフトの人達に集まってもらって発表会をやったんですよ。こういう機能を予定しています,これを作り込んでいます,みたいな話をしたんですけど,今までZ80しかやっていないソフト側は何ができるのか想像もつかなくて,質問も無いくらいでした。開発に入っても,最初は私の作ったチェックプログラムを参考にしていたくらいで。
堀井氏:
当時,友達の家によく遊びに来ていたセガの人がいて,「速いZ80で十分なんだけど,アーケードの連中は『よくZ80なんて使ってられるな』と言ってくる」みたいな話をしていましたね。確かにそれはあるかもしれないけど,やっぱり触れば分かるわけです。「もうバンク切り替えいらねえじゃん!」みたいな(※14)。
※14 ……とはいえ,さすがに晩年のメガドライブ版「スーパーストリートファイターII」など,40Mbit以上の容量を有するソフトではバンク切り替えを使っている
石川氏:
でも慣れてくると思わぬ使い方をしてくれる人がいたりもして,想像を超えた使い方で表現してくれているのを見ると,嬉しくなりましたよ。
堀井氏:
僕らがX68000で作っていたゲームのコードをメガドライブに移植してみたんですが,どちらもMC68000ということもあって2週間で済んで,しかもスルスル動いてビックリしましたよ。スプライトのサイズも16×16だけじゃなくて,24×24や32×32が使えて嬉しかったですね。ある意味,50万円で買ったパソコンよりすごかった(笑)。
堀井氏:
その後,実際にメガドライブ用のゲームを作って,そこからセガさんにゲームギア版「ガンスターヒーローズ」の仕事をいただいたんですよ。でも,マークIII系はスプライトのフリップ(左右反転)機能が無かったのが……。最初は「そんなわけないだろー」と思って資料や機材を調べたんですけど,本当に無くて! 他社はハードによっては90度回転もできるのに! ただし,BGにはフリップがあるので,「スペースハリアー」のデカい顔とかは半分だけ描いて片側は反転表示にすることで容量を浮かしていたりするんですけど。
4Gamer:
オパオパも困っちゃいますよね。
堀井氏:
だからマークIII版では,ソフト側でオパオパを反転させているんです。それに,マークIIIってパレットが2本あるんですけど,1本はBG専用で,スプライトから使えるのはBG・スプライト兼用の1本だけなんですよ。これだと色変えのキャラを出しにくいですよね。
何かの事情があったんじゃないかと思うんですが。
石川氏:
事情……無いんじゃないかなあ。
4Gamer:
スーパーファミコンの回転拡縮もBGだけですし,そういった意味での機能制限なのかなという気もするのですが。
堀井氏:
でもパレットは,どっちを参照して描画しても,VDP的には関係ない気がするんですよね。もし反転が付いていたら,もう1ランク表現の幅が広がったというか,処理が軽くなるので僕らにとってはかなり嬉しかったんですけど。
石川氏:
そんなに大変な話ではないと思うんだけど,何でだろう。あくまで予想ですが,メガドラのときは少しでもスペックの高いもの,機能が盛りだくさんなものを目指していましたけど,まだマークIIIのときはそういう考えが無かったんじゃないかと。
堀井氏:
PCエンジンやファミコンといったライバルがいたからこそ,メガドラはそれらに勝てるだけの機能を盛り込んだわけですよね。実際,スペックシートには夢があった。そして,それを触って楽しかった! 何でもできた!
奥成氏:
具体的に他社ハードを意識したりはしていたんでしょうか?
石川氏:
私には無いですね。とにかく「業務用ハードがやっていることは全部できる」というのを目指していました。
奥成氏:
そのお陰で,メガドライブ版の「獣王記」は1か月で作れたそうですからね。
堀井氏:
それはちょっと早すぎるけど(笑)。
あと1つ,スプライトを倍角で表示する機能がマークIIIから入っているんですよね。マークIIIではバグって使えなかったんですけど,ゲームギアでは使えたんです。
4Gamer:
「バーチャファイターmini」の,キャラが近寄るとズームになるやつですね。
堀井氏:
荒いけどでっかい画が出せて。あれはそのどこから来た発想なのかなと思っていて,マークIIIの時点で実装はされてるんで。
石川氏:
それもどうだったかな……メガドラの時は明確に覚えてるんですけどね。スプライトの拡大縮小が実装されないことになった後,サイズ指定だけはできるようにしたんですよ。
堀井氏:
あれは後からなんだ! いろいろと使いやすくて,あれは本当に神でした。
石川氏:
正方形じゃなくても使えたでしょう。1×4でも4×1でも,何でも作れるようにしようと思ったんです。
堀井氏:
X68000で24×24ドットのキャラクターを出すとき,もったいないけど16×16のスプライトを4枚使わないといけなかったところが,メガドライブでは8×8が9枚分で組めるから無駄がないんですよ。本当に良かった!
石川氏:
そんな感じで,細かい機能を入れられるんだったら入れちゃおうみたいなところはありましたね。マークIIIの倍角もそうだったのかもしれません。
堀井氏:
力技でスプライトを積んできたX68000と比べて,メガドライブではアーケードでゲームを作っている人達の要望が反映されているんじゃないかと当時考えていたんですが,今のお話しを聞くと“1人の男の機転”だったらしいのは,ちょっと感動しました。
石川氏:
メガドライブのスプライトには透明モードと,影モードもあるじゃないですか。あれもやっぱり業務用でやっていて,細かい仕様ですけど入れられるなら入れちゃおうと。
堀井氏:
あの力技もすごかった。無理やり輝度を半分にしたりとか。
4Gamer:
「エクスランザー」で有名なやつですね。
奥成氏:
やっぱりセガがアーケードで当時の最先端を走っていたからこそ,家庭用ゲーム機の方向性も,ライバル機どうこうではなく自動的に決まってた
石川氏:
そういうことですね。
奥成氏:
ただ,石川さんが家庭用を手がけなくなったセガサターン以降になると,やっぱりライバルは他の家庭用ハードになっていく感じがあるんですよね。
石川氏:
あれは明確に意識してますよね。セガサターンの開発は業務用ハードのチームが担当することになって,それまでコンシューマをやっていた私と入れ替わりになったんですよね。私は1人で矢木さんの下に行って,ST-V(セガサターン互換のアーケード基板)とかの業務用ハードに携わっていました。
奥成氏:
逆に,もうちょっとアーケードを意識していたらセガサターンはもっとポリゴンのことを意識していたかもしれないのに(苦笑)。
4Gamer:
確か開発中のPlayStationの映像を見て,CPUを2枚にして力技でポリゴンを出せるようにしたとか,そんな話ですよね。
奥成氏:
久夛良木さんと佐藤さんで,実はPlayStationとセガサターンの手の内を明かし合っていたような部分があるみたいなんですよね。お互いにちょっとずつ変えていったところはあるんだと思います。
幻のセガハードをさがして……
4Gamer:
話は変わるんですが,ちょっとお伺いしてみたいのが「SC-5000」が開発されていたという噂なんですよ。それが実のところSC-3000Hだという説もあるのですが,ご存知でしょうか?
石川氏:
それは聞いたことすら無いですね……。
堀井氏:
資料によると1983年の「電波新聞」に,9月頃に出荷予定のSC-3000の上位機種はPC-8000シリーズと同等の機能があり,CPUは16bitも検討していると書かれていたみたいですね。いやー,SC-3000をそうするのは大仕事ですよ。本当なら。
奥成氏:
そのタイミングでスペックが決まっていないなんて,発表から掲載までのタイムラグを踏まえても,あり得ないですよね。
4Gamer:
やっぱりこれは都市伝説って感じですか。
奥成氏:
そもそも,セガにSC-3000のスペックが不足しているという考えが無かったと思うんですよね。もしあったら,SC-3000Hでアップグレードしているはずです。まあ新聞に載っていたというのは,面白い話ではありますが。
堀井氏:
ブラフで言っていた可能性もありますよね。ライバルを牽制するのは大事ですから。
奥成氏:
この年末にMSXが出るわけですからね。でも,上位機種の話をしちゃうと今の物が売れなくなっちゃいますよ。
……と現場では言っていたのだが,取材後に奥成氏が追跡調査をしたところ,SC-5000の資料を発見したという。
奥成氏:
その後ちょっと調べたところ,1983年5月のマイコンショーで展示されていることが分かりました。ただしスペックはSC-3000と全く同じで,キーボードがハードになっているだけでしたので,まるきりSC-3000Hのことのようです。
写真左端のパネルに注目。壁に掛かっているキャリーバッグも興味深い
恐らく,SC-3000に対する設計的な上位機種として「SC-5000」の名称が考えられていたものの,スペック的な優劣があると勘違いされることを避けるため,製品版では「SC-3000H」となったのだろう。
4Gamer:
では実際にあったらしいものとして,エスコ貿易の発売していた「パソコン学習机」はご存知でしょうか。SC-3000を組み込んだ,コインオペレート式のアーケードマシン(?)なのですが。
石川氏:
それも知らない(笑)。
奥成氏:
僕も実物を見たことは無いですけど,ホビーパソコンって家庭にどうやって忍び込むかっていう考えが大事でしたから,PRの一環でしょうね。だからSC-3000用(およびセSG-1000用セガ・キーボード対応)のソフトって,「楽しい算数」みたいなものが大量にあるんです。
堀井氏:
そういうのがあると,親に買ってもらえるからね。
奥成氏:
それを最高レベルまで上げたのが「学習机に内蔵しちゃえ」という(笑)。
4Gamer:
ついでに言えば,(キッズコンピュータ・)ピコを内蔵した「ハイパーデスクMIRAI」というのもあったそうで,セガだなーと思いました。
奥成氏:
セガというよりは,学習机メーカーから持ちかけてきた企画じゃないかと思いますね。だってピコって限られた期間しか使わないじゃないですか。小学6年生にもなると,まずピコをやらないでしょう。SC-3000にしても,机に入れるなら10年は使えないと厳しいですよ。
4Gamer:
SC-3000から10年となると,ファミコンのソフトならギリギリ出ていたぐらいの頃ですね。
奥成氏:
セガサターンの1年前ですし,MSXだったらturboRがとっくに出た後ですよ。技術革新もポンポンありましたし,能動的に使うパソコンのスペックとしては厳しいですね。セガAIコンピュータ(※15)やテラドライブもありましたが,セガはパソコンに関して成功しませんでしたね。
※15 1986年に発売された児童向け知育コンピュータ。基本ソフトウェアとして人工知能研究に適しているとされたPrologのインタープリタを搭載していたことから,“AI”と謳われていたらしい。セガでプロローグと言えばセガカラの方を思い浮かべがちだが,当然ながら無関係
石川氏:
そう言えば,AIコンピュータも私が作ったんですよ。大塚のCRI(CSK総合研究所)に通っていました。
奥成氏:
CSKが構想していたものを,当時グループに入ったばかりのセガにやらせてみたという感じですよね。セガというより,大川さん(※16)の意向という雰囲気があります。
※16 1984年から2003年までセガを傘下に収めていたCSK(設立当初はコンピュータサービス株式会社。現SCSK)の創業者,大川 功氏。同氏がマサチューセッツ工科大学へ多額の寄付を贈ったことで,OKAWA: Center for Future Childrenが設立され,現在の教育機関で使われるScratchが開発されたりもしている。2001年没
石川氏:
そうだと思いますよ。「やることになったから」と言われて関わったんですけど,あれのどこが“AI”だったのかまったく分からない(笑)。
堀井氏:
“上から降ってくる”仕事だなあ……。でも,今でもAIの定義は曖昧なんだから,当時は言ったもん勝ちじゃないのかな。
奥成氏:
ちなみに,僕にとっての最初のAIは「ザナック」です(※17)。
堀井氏:
難易度ね(笑)。
※17 MSXやファミリーコンピュータ(ディスクシステム)などでリリースされた,コンパイルの開発によるシューティングゲーム。詳しくはモリカトロンAIラボの仁井谷正充氏インタビュー記事に記されているが,実際のところ同作が謳っていた“AI”とは「複数の評価基軸がある内部ランク」(および,その制御)であった
〜千年紀の終わりに夢を繋いで脳天直撃〜
4Gamer:
今年でセガハードが40周年ですが,石川さんとしての今を振り返ってみての総括などはいかがでしょうか。
石川氏:
そうですね……やっぱり途中でコンシューマハード事業が無くなってしまったのが残念ですね。難しいことなので仕方ないんですけど。コンシューマハードをやっていると会社の名前がどんどん外に広まっていきますから,外部からのイメージが違います。
今はもうゲームセンターもジョイポリスも社外ですし。まあ,現在ではスマホゲームが一強なので,続けていたとしても厳しかったとは思うんですが。でも任天堂を見ると,彼らのコンテンツで立ち向かっていますからね。
後から振り返ってみると,今の自分の基礎となっているのは,いろいろなコンシューマハードを担当したことで勉強した設計技術ですから,そういう意味では感謝しているんですけど……。辛いことしか覚えてないかもしれないなあ(笑)。
奥成氏:
でも「メガドライブを作ったのは石川さん」って言えるのは,僕ら的にはスペシャルなことですよ。
堀井氏:
ゲームの歴史をしたためるとしたら,100年単位でまとめたとしてもメガドライブとGenesisは絶対に入りますから。それを作ったのが石川さんだというのは,僕からすると「ズルい!」と言いたくなるくらいです。
奥成氏:
ファミコンの開発者としては上村雅之さんがいらっしゃいますけど,宮本さんなどソフトの開発者と比べると,意外と知られていないじゃないですか。でも「これを作ったのはこの人」と言える個人があるのは素晴らしいことなので,石川さんがメガドライブを作ったというのは,我々としてはもっと知られてほしいですよね。
石川氏:
そうですね……日本科学未来館の「GAME ON 〜ゲームってなんでおもしろい?」で登壇したことがあったんですけど,あのとき小さいお子さんがメガドライブを持ってきてサインを入れたりしましたね。あと,知り合いのバンダイナムコの子が恋人と来ていて,握手しに来てくれたりね。あれはちょっと感動しました。またああいう場が欲しいですね。
4Gamer:
奥成さんに,あくまで“お約束”的なところでお聞きしたいのですが,例えば「SG-1000ミニ」や「セガ・マークIIIミニ」といった製品がリリースされる可能性はあるのでしょうか。
奥成氏:
可能性はまったくのゼロではないですが,難しいでしょうね。個人的には全ハードのミニを作りたいくらいですけど,アンケートでも希望している人は多くはなかったので。また会社としても,何でも出せば良いという風には考えていないので,お客さんのニーズがメガドラミニ並みに高まったらというところでもあります。
4Gamer:
アーキテクチャ的にはゲームギアミクロをベースに「SC-3000ミクロ」的なことも可能ではないかと思うのですが,堀井さん的にはいかがですか。「アレスタコレクション」限定版のように特典にしてみたり(関連記事)。
堀井氏:
そうですね……もし「やってくれ」って言われたら,新作を10本くらい作るんですけど。
奥成氏:
その代わり,新作の開発だけで2年くらい掛かりそうですね(笑)。
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