企画記事
【ゲームクリエイター街歩き:セガ大鳥居駅編】旧本社,2号館,3号館など,どんどん事業所が増えていった思い出の場所を巡る
人が生きてきた場所には,さまざまな思い出が生まれ,想いが生まれる。それは人と人とのつながりとなって,“モノ”が生まれ,“コト”が生じる。
不定期連載としてスタートする「ゲームクリエイター街歩き」は,かつてゲーム会社のあった街を訪ね歩き,ビデオゲームとそこに生きた人々の思い出,そして今を辿るというものだ。ゲームの歴史はよく語られるものだが,それを作ったゲーム会社にも,そこでゲームを作っていた人たちにも,もちろん歴史がある。その地にゲーム会社があった頃,そこに務める人々がいて,何かが生まれ,育ち,旅立っていった。そんな場所を,改めて巡ってみようというのが本連載の趣旨となる。
第1回は,私(黒川)とも縁の深い,かつてセガ・エンタープライゼス(現在のセガ)があった東京都・大鳥居駅の周辺だ。さあ,改札を出て街を一緒に歩こう。
産業道路+環状八号線+京急空港線
私は,そこを以前から「京急羽田線」と呼んでいたが,どうやら正式な名称は「京浜急行電鉄空港線」らしい。私がセガ・エンタープライゼスに勤務していた1994年前後,今回の街歩きの出発点である大鳥居駅の地下駅は建設途上にあり,現在の東口出口のあたりに細長い無人駅のようなプラットホームが伸びている状態だった。朝の出勤時間こそ賑わいがあるものの,夜になるとプラットホームにわびしい灯りがともり,物寂しい電車待ちの時間を過ごしたものだ。
そもそもこの京急空港線は,現在でこそ都心と日本の空の玄関口である羽田空港を結んでいるが,もともとは1902年に開業したもの。当時は「穴守(あなもり)線」と呼ばれ,現在の羽田空港B滑走路南端付近にあった穴守稲荷神社への参拝電車路線として開業したものだった。開業当初は現在の穴守稲荷駅付近が終点だったが,1913年に当時の穴守稲荷神社門前に延伸し,参詣路線として広く利用されていたという。
話を戻すと,地上駅だった大鳥居駅からセガ本社までは,産業道路と環状八号線の信号事情,さらには京急空港線の緻密なダイヤに応じて,人力で操作される踏切があった。今でこそ,地下駅化が具現化したため,自由に行き来できるが,当時は少しでも時間を読み誤ると出勤時間に間に合わないおそれのある「魔の三角地帯」だったのだ。
しかし1985年に地下駅化に着工し,その計画実施から10年以上を経た1997年(平成9年)11月23日に地下駅が竣工。今となっては,その頃の面影は旧線路跡の空き地くらいにしかない。地下駅化された大鳥居駅を抜けると,その先はまた地上線になり,穴森稲荷駅は地上駅となっている。ともあれ,大鳥居駅周辺の渋滞の解消と,利用者の利便性の向上につながったことは言うまでもない。
だんだん複雑になっていったセガの事業所
そんな大鳥居駅から,私と一緒に懐かしの旧セガ本社界隈を散策してくれたのは,セガの元第3AM研究開発部(AM3研)部長,セガの子会社だったヒットメーカー 代表取締役を経て,セガ 代表取締役などを歴任した小口久雄氏。同じくセガで企画設計生産本部参事などを歴任した吉本昌男氏のお2人だ。歩数を重ねるにしたがって,それぞれの思い出のなかにある当時のセガが蘇ってくる様は,ある意味ではウイスキーの中の氷が徐々に溶けていくような感覚だった。
それでは,改札口を出てみよう。まず今の大鳥居駅東口には,気楽に出入りができる小さな居酒屋がある。当時を思い出した小口氏は「この出口は,当時なかったなあ。駅でハイボール飲めるなんて大鳥居駅も進んだな! あの頃にこんなのがあったら,会社行ってないよ」と笑った。
大鳥居駅東口を出て,東横インを横目に通り過ぎると,まずそこに現存すること自体に3人全員が驚愕した「ハネハビル」(正式名称は「奉仕会館」)があった。ここはセガが成長を続ける中で,多くの部署や子会社,もしくはプロジェクト単位で入居していた古いオフィスビルである。訪れたときは改装工事中のようだったが,ほぼ当時と変わらない佇まいに一同驚きを隠しえなかった。
そしてその先に見えているのが,現在はトヨタ・レンタリースの大型拠点に様変わりしていた,のちの2号館ビルである。羽田空港からクルマで10分程度ということもあり,今ではインバウンドの外国人旅行者などを対象にしたレンタカー拠点として稼働しているようだ。
「この企画楽しいねえ……。いろいろ思い出すよ。僕が入社した1984年当時は,2号館があって,旧本社のあったところには工場と食堂があった。のちに2号館と呼ばれたビルには役員が入っていて,その頃はそこに本社機能があったんだ」(小口氏)
そして,このトヨタ・レンタリースの隣こそ旧セガ本社の跡地,住所で言えば大田区羽田1-2-12である。街を歩いた2023年7月は,ちょうど開業を間近に控えたメルキュールホテルが最後の仕上げを行っていた。
やや複雑なので少し整理しておくと,もともとは横長の修理工場と食堂があった地に新築されたのが,今で言う旧本社である。竣工するまでの間,のちの2号館ビル(現トヨタ・レンタリース)に本社機能があり,開発陣の一部と役員が上層階を占めていた。
また,近隣にはサンデーサン(英語表記ではSanday‘s Sunだが日本表記はサンデーサン)とジョナサンというファミリーレストランが,産業道路を挟んで向かい合って営業していた。そこではよく,セガ社員同士の打ち合わせが行われていたそうだ。サンデーサンはしばらくすると閉店した。当時の大鳥居駅やセガ周辺にはそうした場所が少なく,常にセガ社員が出入りしていたという。
なお,当時をよく知るセガの広報であるN氏によれば,ジョナサンの跡地はマンションに建て代わってしまった。
「あの頃は,サンデーサンかジョナサンくらいしか打ち合わせに使える店はなかったなぁ。あとセガの本社前に『村長』っていう酒屋さんがあって,角打ちができるお店でさ。ランチ時はお弁当も買いに行ったなぁ……,って,まだ村長さんの看板があるじゃん!」(小口氏)
その村長は,お店の看板自体は残っているものの,すでに酒屋ではなくローソンになっていた。思い出話からはすでに25年ほど経っているが,皆昨日のように話を続ける。
「旧本社ができて,それまで本社機能のあったビルが2号館になったんだよ。その2号館から,向かいにあった5階建ての別館の屋上で,吉本達が何かやっているのが見えたんだよね」(小口氏)
それはなんと,私の連載「ビデオゲームの語り部たち 第19部」で触れた,R360開発途中の風景だったという。小口氏いわく,R360は「吉本の最高作品」とのこと。
「自分達の部署が,2号館の7階だったかな? 向かいの別館の屋上が見下ろせるんだよ。いつものように上から見ていると,吉本が部下たちと一緒に木製のケーブルドラムに社員を載せてゴロゴロと回しているのが見えたんだ。何だ? とは思ったけどさ。しばらく忘れていたら吉本から内線があって,『小口さん,ちょっと来てくださいよ』って。それで行ったら,ケーブルドラムのクルマのシートが急拵えで備え付けられていて,そこに縛り付けられてグルグル回しにされた記憶があるよ。あれがR360のルーツだからな,それってすごいことだよな」(小口氏)
それを聞いた吉本氏は笑っていたが,このように,まだセガ自体が,この街の中で人もモノも完結していた時代の良き思い出になっているようだ。
なお偶然なことに,今回の取材日だった7月3日は,吉本氏にとって特別な日だったことも明かされた。
「33年前の今日は,R360の誕生日でした。羽田東急ホテル(現在は廃業)でプライベートショーを開催したんです。R360のためだけに,記者発表会を行った日です」(吉本氏)
話は小口氏と小口氏の当時の上司である,鈴木久司常務(当時)にも及んだ。
「セガのゲームマシンをマイケル(故マイケル・ジャクソン氏)のネバーランドにも送ったよな。鈴木さんがネバーランドに招待されて何回も行っていたし,セガからの新作ゲームマシンが出るたびにマイケルに送っていたと思う」(小口氏)
セガとマイケル・ジャクソン氏の関わりといえば,もちろん1990年に発売されたアーケード/メガドライブ用ゲーム「マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー」だ。
マイケル・ジャクソン氏と鈴木常務のエピソードも飛び出した。
「アミューズメント系の開発会議をやっているところに,マイケルから電話がかかってきて,皆驚いたんだよ。まあ,会議中に電話をつなぐのもどうかって思うけど,マイケルから直電が入ってさ,鈴木さんも得意満面な感じだった。『マイケルだよ,マイケル』って。日本人でマイケルから直で電話が来る人なんて,鈴木さん以外にいたのかな」(小口氏)
別館から,“大鳥居の東急ハンズ”ことハニープラザへ
吉本氏の思い出の場所は,旧本社と2号館の向かい側にある別館である。ここでは,上記のR360を筆頭に大型筐体の開発などが行われており,主にハードウェア系の開発者達が集っていた。セガはこの大鳥居駅周辺に数多くのビルや部屋を借りていたが,その中でも大きな拠点の1つがこの別館だった。
「この辺りはパチンコ屋もあって,今も営業している2店舗は自分達が働いていた頃からあったね。なかでも別館側の『凱旋門』はビルの入り口にちゃんと凱旋門があるからね。なかなか凝った作りだよね」(吉本氏)
パチンコ屋には,小口氏も昼休みによく行っていたそうだ。
「当時は“一発台”があってさ,入賞口に玉が1発入ったら大当たりで10分以上,玉が出続けるんだよ。休憩時間があと10分くらいになるとオフィスに帰ろうか,やり続けるかなんて,迷ったんだよな(笑)」(小口氏)
吉本氏は,“大鳥居の東急ハンズ”と勝手に呼んでいたハニープラザにも思い出があるという。
「今じゃドラッグストアだけど,昔は金物屋の延長線にあるような小さなスーパーマーケットみたいだった。ここに来ればなんでもある。当時は買い物をしようと思っても,ここしかなかったんだ。
あと,セガ社員はランチ難民になっていた。だってさ,大鳥居駅周辺には,1000人ものセガ社員がいたわけだから。それが移転することによって,閉店した店も多かったかもしれない。おそらく,あの当時からの社員はまだこの街に住んでいると思う。」(吉本氏)
確かにセガだけで1000人ものの人員がいたことを考えると,そのあとの本社移転により影響を受けた地元の店舗などはかなりの数に上ると思われる。セガ城下町が,徐々になくなっていくことは,当時は誰も予想しなかっただろう。
「それと銭湯に行っている社員もずいぶんといたね。もう今じゃ考えられないけど,徹夜が続いたし,自宅の風呂より広くてイイって」(吉本氏)
ハニープラザを背にして,そのまま直進して産業道路に出るとかつて右手にあったのが「羽田菱信(りょうしん)ビル」だ。ここにはハードウェアの研究開発やアミューズメントの営業・販売部署が入っていたのだが,すでにビル自体はあとかたもなく,現在は白亜のマンションが建っている。このあたりは羽田空港に近いため空港管制空域ということもあり,建築上限があるそうで高さはタワーマションにはおよばない。
ちなみに,この羽田菱信ビルの裏手にあるレストラン・さん太に,小口氏と吉本氏はよく通っていたという。
「まだ当時は珍しかったピエトロのドレッシングがあってさ。これをサラダに掛けて食べたら,うまいの何の。もうそれだけでご飯が進んだよ。まあ,若かったってのもあるけど。でもあの頃,多くのセガ社員がこのさん太に来ていたからオススメできるよ」(小口氏)
3号館と鈴木 裕伝説
2000年代に入ると,肥大化したセガは各所に拡張していった。中でもアミューズメント部署が集約されたのが,かつてAKAI(赤井電機)ビルだった3号館である。
「ここは,1997年10月1日にセガとバンダイが合併にしてセガバンダイになった暁には,本社になると言われていた場所。残念ながら,そうはならなかったけど……。ここも空港関連の建築制限があって,8階建てだった。最上階の8階には第2AM研究開発(AM2研)が入っていて,うちのAM3研はその下だったような気がする」(小口氏)
3号館は小口氏,吉本氏とも思い出が深い場所とのこと,とくに思い出すのはAM2研を率いた鈴木 裕氏の豪快かつ本物志向のエピソードである。
「最上階に裕さんのオフィスがあってさ,ちょうどリアルなフェラーリF355のゲームを作っていたときだと思うんだけど。裕さんはホンモノ志向だから,フェラーリのゲームを作るんだから『本物のフェラーリを8階に上げてくれ』って,セガの総務に言ってたんだ。それを受けた総務も,どうやろうかって悩んでいたね。クレーンでフェラーリを釣り上げて,ビルの壁をぶち抜いて……みたいなことを真剣に検証したらしいよ。でも,やっぱり耐震構造とかいろいろな問題がありそうなんで諦めてもらったんだって」(小口氏)
「あと,裕さんのワインセラーが地下にあったね。小口さんも自分のピンボールとかのコレクションを置かせてもらっていたから,人のこと言えないよね(笑)」(吉本氏)
その3号館も,今はニトリになっている。なお,ニトリの前にある電話ボックス(東糀谷2-12-22表示)には当時の案内盤がそのまま残っており,表記は「セガ・エンタープライズ(表記ママ)」になっているとのこと。おそらくそれくらいしか当時のことを感じさせるものは無いが,大鳥居を歩いたらぜひご覧いただきたい。
産業道路を挟んだ3号館の向かい側にある路地には,中華料理店・龍門がある。ここも多くのセガ社員が通っていた店で,吉本氏によると,女性主人が焼く餃子が絶品とのことだ。
田毎のそば
さて,この街歩きも終盤に向かっている。徐々にスタートした大鳥居駅東口に戻りつつあるが,その前にどうしても寄っておきたいところがある。さらに言えば,朝から梅雨の合間の猛暑の中を歩き疲れたこともあり,皆でランチをいただくことにした。
ランチには,3人そろって「やはりここ」というお店があった。それは蕎麦処・田毎(たごと)である。大鳥居駅から徒歩2分ほど,セガ旧本社からも3分ほどの場所にあるお店だが,当時は冒頭に記した京急空港線の踏切を渡る必要があった。
ちょうど昼時,入店すると店内から「あらー,久しぶり」という声が,小口氏と吉本氏に掛かった。田毎の店内にいた,おかみさんだった。あれから約30年は経過しているものの,未だに覚えていらっしゃるとは。そして,当時のセガの社員が,たまにプライベートで食べにくるということも教えてくれた。それくらい,この田毎はセガ社員に愛された蕎麦屋なのである。
「ここで,いろいろな新規のプロジェクトがスタートしたな。鈴木常務には,よく無茶な仕事の依頼もされたよ。『次の展示会では,こんな感じのをやってくれ』とかね……。」(吉本氏)
「鈴木さんは,よく田毎に来ていたよね。田毎って,出前は基本やらないんだけど,鈴木さんだけは特別で出前をしてくれていたよ。どれを食べてもおいしいけど,おすすめは冷やしたぬきそばだな」(小口氏)
三人で冷やしたぬきそばをいただいた。
「あの頃は,皆若かったよね。あのとき20〜30歳だった人が50〜60歳になっているわけだからな。年取ったよな。田毎のおかみさんには,よくしてもらったよ。でも,昔のことだけど,田毎の向かい側に黄色で塗られた社員寮のようなものができて,田毎の皆が怒っていたなあ。『店内のそばまで黄色く見える』ってね(笑)」(小口氏)
「ああ,セガに面接に来た時のことも思い出した」と小口氏。何でもナムコ(当時)とセガの両方に対して就職活動をしていたとのことで,実は第1志望はナムコだったそうだ。当時のナムコは「マッピー」や「リブルラブル」などエポックメイキングなアーケードゲームを数多く世に送り出していて,小口氏自身,自分からゲームの企画書を提出するなど本気で入社したかったという。
ところが,セガの面接で当時の面接官や人事部長に気に入られて,その場で小口氏の採用が決定したそうだ。当時のセガはあまりヒット作がなく,「スターファイター」くらいしか知られていない状況だった。そのため,本当に就職していいものか,今はベローチェになってしまったパチンコ屋で悩んだという。しかし最終的には,セガに就職することに決めた。
「マイケル・ジャクソン・ストリート」と命名
田毎の蕎麦を食べ終わり,大鳥居駅へ向かう道を歩いていると,後ろから小口氏が「ここをマイケル・ジャクソンが歩いたって知ってる?」と驚愕の事実を語り始めた。吉本氏もそのことは知っていたようで,横で笑っている。
「この辺の住民の皆さんも,この道をあのマイケル・ジャクソンが歩いたって言っても誰も信じないよな(笑)」(小口氏)
実はこの田毎の並びには,今も当時のままの大きな倉庫然とした建物がある。そこには一時期,アミューズメント系開発の秘密の別室のようなものがあり,多くのゲーム開発が行われていたという。ちょうどマイケル・ジャクソン氏が来日してセガに立ち寄ったとき,鈴木常務らが本社からこの倉庫兼開発ベースまで歩いて氏を案内し,いくつかのゲームをプレイしてもらったそうだ。そんな経緯もあり,我々3人は勝手にここを「マイケル・ジャクソン・ストリート」と命名して,セガにまつわる街歩きを終えた。
すべては時間とともに過ぎ去り,消え去ろうとしている。
永遠にこの地にあると思われたセガ旧本社も,もうすでにここにはない。旧本社ビルの前庭にあった,小ぶりな池とそれを彩る噴水,その横にタイルで象られた“SEGA”の文字も跡形もない。あのSEGAのタイルを踏むかどうか,中山隼雄社長(当時)が常に社長室から見ているという,まことしやかな噂もあった。
ゲームをたくさん遊んで,素晴らしい楽曲をたくさん生み出した“King of Pop”ことマイケル・ジャクソン氏もこの世を去った。「思い出は美しすぎて」とはよく言ったものである。人がゲームを作り,ゲームが人を育てた。人が街を作り,街を人が育てた。めくるめく思い出のなか,この原点を忘れることなく,明日に向かって歩いていきたいと思った。
グルメガイド
最後に,小口氏と吉本氏に教えてもらった(&私のオススメの),今回の街歩きのグルメをまとめておこう。●田毎
多くのセガ社員が通った,昔ながらの蕎麦屋。この時期の小口氏のオススメは,冷やしたぬき蕎麦。
●キッチン さん太
当時はまだ珍しい,ピエトロのドレッシングを使っていた洋食屋。小口氏も吉本氏もそれしか覚えていないが,自分達を含め多くのセガ社員が通っていた記憶があるので「美味しかったはず」とのこと。
●龍門
“セガのソウルフード”と2人が呼ぶ中華料理店。吉本氏のオススメは餃子。
●どんぐり
AM3研の打ち上げでよく使われた居酒屋。今でも5年に1回くらい,この店で同窓会をやっているとのこと。店内はあまり広くないため,いつも待機列ができるが,美味しいそうだ。なお,すでに閉店しているが,となりのラーメン8では,小口氏がよく塩ラーメンを食べていたという。
●グッドモーニング ラーメンショップ
セガの旧本社にほど近いラーメンショップ。12:00を過ぎると多くのセガ社員が待機列を作っていたという。そのため,今はセガを退社したある大物ゲーム開発者は,12:00前から店の前に並んでいたそうだ。店のオススメはネギラーメンだが,小口氏はネギが嫌いだから行かなかったとのこと。
●上々家
横濱六角家の流れをくむ家系ラーメン店。都内家系の中でも,黒川オススメの店。
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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