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研究者のゲーム事情:第3回は富永京子さんと「ときメモ」シリーズ。今も昔もまぶしいヒロインたちの「主体性」を考える
第3回となる今回は,社会学者の富永京子さんが登場。普段は社会運動を主なテーマとして研究を行っている富永さんは,ティーンエイジャーの頃からずっと「ときめきメモリアル」のファンだと言う。当時見つめたヒロイン像と,今あらためて見つめるヒロイン像に違いはあるのだろうか?
「ときめきメモリアル」が好きである。「Girl’s Side」も好きだし,続編もプレイしたけど,やっぱり初代が好きだな。出会ったのは10歳の頃だけど,私の精神・人間形成に与えた影響の大きさたるや,余りある。
「ときめきメモリアル」は男子高校生(「Girl’s Side」であれば女子高校生)になって,高校1年生から3年生まで自分磨きと女の子とのデートや下校を繰り返しながら,本命の異性と仲良くなったり,本命じゃない異性と仲良くなりすぎないようにして,うまく卒業式に異性から告白されるよう仕向けるゲームだ。私はこれをきっかけに,恋愛アドベンチャーゲームや恋愛シミュレーションゲームにのめり込む青春を送った。
私自身についても少し自己紹介をしておくと,社会運動の研究者です。環境保護やジェンダー平等,労働や貧困の問題,マイノリティの権利といった主題を取り上げ,公正のために投票以外のやり方(署名やデモなど)で社会に訴えかける人々を対象として研究しており,自分自身もマイノリティの権利を守るべきだと考えているし,フェミニストだと自覚してもいます。
このような私がいわゆる「ギャルゲー」(今は萌えゲーというのでしょうか)を好きだと公言することに,疑問を抱く人もいるかもしれない。いわゆるフェミニズムに賛同する人のなかには,いわゆる「萌え」表象や,女性を記号的に描くことに対して抵抗を覚える人も数多くいるからだ。
自分自身,大人になってから「ときメモ」をやらなかったのも同じ理由だ。社会運動を通じてフェミニズムを多少なりとも知ったばかりに,かつて好きだったキャラクターやゲームを嫌いになるのはイヤだなあ,と思ったからだ。
しかし,ときメモは,相変わらず面白く,なんなら私が昔プレイした以上にずっと健全な主人公と,自立した女の子たちの世界だと気がついた。
もちろん全年齢向けのゲームということもあるが,高校三年間で女の子と付き合うこともなければキスもなく,セックスなんかもってのほかである。お色気イベントもあるにはあるが,その多くは最低限の描写に留められている。
何より,キャラクターたちなりの倫理観(といっても、時代錯誤に感じる部分もなくはないのだが)がこの世界の健全さを守っている。シリーズ中で最も好きなドラマシリーズ「彩のラブソング」で,男子生徒複数と女子生徒一人が夏合宿に行くことになった際,主人公が「噂だけでも女の子を傷物にできるか」と言って反対する。この言葉が出てきた時は「傷物っ!」と声が出てしまった。
正直,当時小学生の私でも「いまどき高校生がこんなのありえないでしょ。せめてチューくらいしろよ」と思っていたくらいだ。ときめきメモリアルの発売元であるコナミから発売された「あいたくて…」や「みつめてナイト」は結構際どい表現もあり,これらの作品のほうが自分のある種の欲求は満たせた記憶がある。ちなみに,ときメモのエロ同人誌も(隠れて)読んでました。
ただ,今,大人になってから見ると,ときめきメモリアルが「清潔さ」や「健全さ」として守ってきた価値は結構尊いとも思う。高校生ともなれば,恋人との望まない性交渉であったり,周りに流されて異性と関係を進めようと焦ったり,そんな話はごろごろある。その大元は「断って嫌われるのが怖い」とか「友達の多くが経験しているのに」とか,そういった相手や周囲との力関係に規定されている。
しかし,そういう力関係も,ときメモにはあまりない。その点で主人公とヒロインたちの関係は,徹底して健全かつ公平なのだ。このゲームの女子たちは驚くほど主人公の顔色を見ないし,余計な気を遣わない。不快な時は不快だと言うし,主人公のことが大嫌いな場合,めっちゃ顔に出す。
先ほどの合宿のエピソードについても同様だ。女子生徒は,主人公の憂慮を耳にして合宿に行くことを決断する。彼女たちはどんなに大人しく見えても,単に守られるお姫様でなく,主人公側の配慮を超える自主性を常に持っている。
20年前は,あまりにも気ままに振る舞う女子たちに「もうちょっと他人に気を遣えよ」「楽しそうなフリくらいしろよ」とも感じていたが,30代の今見ると,異性にビクビクしない彼女たちの自由さは強さのようでもあり,以前とは異なる意味でまぶしい。
ときめきメモリアルは,とくに「自分磨き」に特徴がある。「文系」や「理系」,「運動」や「容姿」といったパラメータがあり,それぞれに対応したコマンドを選択して一週間の行動を選ぶとパラメータが上がっていく。
かといって全部が順調に上がるなんてことはあり得ず,勉強ばっかりしていたら容姿が下がり,たまには休息も入れないと病気になってしまう。パーフェクトな異性が好みの女の子もいれば,どれか一つが得意であればいいという女の子もいる。
ここでもやはり女の子の反応は分かりやすい。期末テストでいい点を取れば女の子が褒めてくれ,運動能力を磨いてスキーデートをすれば女の子たちは高く評価してくれる。
こうしたシステムに関しても,疑問を持つ人はもちろんいるだろう。女の子たちは,自分を磨かなければ手の届かない「高嶺の花」だと自覚しているから自由に振る舞えるだけなのではないか,という見方をする人もいるだろう。魅力的でなければ女性が自由に振る舞ってはいけないのかというと,もちろんそんなことはない。あるいは,主人公側にしたって,知性や容姿を磨かないと恋愛が実らないってのはちょっと能力主義的すぎない? と思う人もいるかもしれない。
先ほど,主人公とヒロインたちが公平だと書いたが,主人公は能力を磨かないと彼女たちに認められないわけだから,不公平といったほうが適切かもしれない。
だが,かつての私はときメモの,「自分磨き」をすれば,女の子たちからの好意という分かりやすい「ご褒美」が返ってくるというシステムにどハマりしたし,30代になった今も驚くほどすんなりハマった。なぜかといえば,「自分を磨かなければ自分は他者から好かれる資格なんてない」と自分を下に置く点において,10代の私と30代の私はそれほど変わっていないからではないかと思う。
10代の私は,容姿に恵まれず,人を楽しませる話術や知識を持たない自分は,努力しなければ人から好かれないと本気で思っていた。特に努力はしていなかったが,能力が上がればより多くの人から好かれると本気で信じ込んでいた。実際はそうでもなく,友人も恋人もそれなりにいたが,何かそういう信念だけはやたらと強く持っていた。
30代の自分も同じようなものだった。自分の研究成果が人の目に触れ,国際会議に招聘されればうれしい。ファッション誌の依頼が続けば,自分がまだ見られる容姿なりセンスがあるとわかってホッとする。自分の営為が常に誰かから評価され受け入れることと結びつく以上,私は不器用なパラメータ上げから逃れられないのだ。
もちろん,努力や成長の楽しさを否定したいわけではない。たとえば勉強の結果,知識を得て,前とは異なる視角で物事を見られれば,世界も広がるしなにより嬉しい。しかし,それは他者から好かれ評価されることと一直線につながっているわけではない。
今にして思えば私は,他者に好かれようと能力を上げる主人公でなく,自分の好きなように感情を発露し,主人公の顔色なんか微塵も伺わない女の子側に感情移入する選択肢もあったような気もする。
しかし,そんな私ならこのゲーム自体やっていないだろう。「能力を上げて好きになってもらう」側だと信じ込んでいた自分だからこそ,このゲームの主人公になることを受け入れたし,きらめき高校にいた彼女たちに恋をしたのだ。
私のみならず,性別や世代を問わず,自分が他者に好かれているという自信を持つ人であっても,努力という根拠なく他人から評価されていると考える人はそれほど多くないだろう。だからこそ,努力と成長を重ね,他者から評価・好意されるというときメモのストーリーは説得力を持つし,主人公にこの上なく感情移入できる。
しかし,私たちはヒロインの側に感情移入して,自分の価値を多少は確信してもよかったんじゃないか。私はときメモの女の子たちほど可愛くも魅力的でもないが,もう少し,他人の顔色を見ず,自分の思うままに振る舞ってよかったんだろうと今は思う。
30代になり,社会運動を通じてフェミニズムや自己責任論に触れた自分は,多くの人が努力や研鑽という価値を内面化し,向上しない自分には価値がないと思い込んでいると知っている。他者の顔色を伺わず,自分の思った通り行動することが若い女性にとってどれほど難しいか分かっている。
そういう30代の自分にとって,評価されようと努力し続ける主人公は,哀れながらもいとおしい。
自由気ままで自立したヒロインたちのすがたは,あらためてまぶしい。
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