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[TGS 2009]TGSフォーラム「女性も男性も飛びつく戦国時代」でカプコン,コーエー,そしてNHK大河ドラマのプロデューサーが講演
「歴史上の人物が世代を超えてヒットするワケ/女性も男性も飛びつく戦国時代」と題されたこのセッションには,「戦国BASARA3」プロデューサー・小林裕幸氏(カプコン),「信長の野望・天道」プロデューサー・北見健氏(コーエー),NHK制作局第2制作センター(ドラマ制作)チーフ・プロデューサーの内藤愼介氏が講師として招かれた。モデレータは日経BP社日経ビジネスオンライン副編集長の戸田顕司氏。
従来,戦国武将といえば,なにかと「理想のリーダー像」の一環として語られることが多かった(そういう雑誌は今でも多い)。しかし現在では,ゲームなどを通じ,「ヒーロー」として戦国武将を捉えるグループが急増している。セッションでは,そのきっかけとなった作品の作り手たちによるトークと,パネルディスカッションが行われた。
ただ「バサラ」なだけじゃない――戦国BASARA
作品は幅広いメディアで展開されており,マンガ・アニメ・攻略本・グッズ類はもちろん,舞台から武将ゆかりの地を旅するツアー企画まであり,これを「幅広い」と言うと,幅広いという言葉の定義を変えてしまうんじゃないかと思うくらい多彩である。
非常にキャラクターが立っていることで知られるこの作品は,「歴女」(歴史オタクな女性)と呼ばれるグループを作るのにも大きな役割を果たしたと思われる(筆者の周囲にもかなり重度な戦国BASARAの女性ファンが複数名いる)。
けれど,戦国BASARAはただ奇抜な作品というだけではない。
最初に注目されるキャラクターだが,小林氏は「デザイン/アクション/性格/演出」に注意してキャラクターを構築していったと語る。例えば色使い一つとっても,キャラクターごとに基調となる色(伊達なら青,真田なら赤といった具合)が存在する。同時にシルエットもできる限り個性的なものとし,そのキャラクターを知っていれば遠目にも区別できるようにした。キャラクターの動きも,格好良さ,コミカルさ,セクシーさなどを強調した,全体にオーバーアクションな派手さがある。
同時に,BASARAならではの人物相関を構築した。史実をベースとして,これをBASARA流に再解釈することで,人物の間に新しいドラマを生み出したのである。「戦国時代はテレビや映画,小説などで広く扱われており,身近な存在です。また日本でも有数の激動の時代であったため,そのぶんキャラクターにしやすいのです」と小林氏は語る。その一方で「ゲームは教科書ではないのですから,ゲームとしてより面白くすることを目指しました」――その結果,戦国BASARAの際立った世界が生まれたのである。
アクションゲームとしても,細かな配慮が為されている。
まず,プレイヤーをこういったアクション系“ゲーマー”の中心となる10代男性に限定せず,ゲームの経験がなくても楽しめるもので,かつそこで「一騎当千」が味わえるようにするというのが骨子となる。
これを踏まえて,ゲームは基本的にボタン一つを連打していればクリア可能であり,またラーニングカーブが緩やかになるように設計されていった。「難度が平坦なままだと『うまくなった』という充実感がなくなってしまいますが,『ハードル』と呼べるようなものは作りたくなかった」と小林氏は言う。
その一方で,アクションゲームを楽しみたい人たちに向けて,もう1ボタンを各武将の固有アクションに利用し,この二つのコンビネーションも作れるようになっている。
これだけではない。戦国BASARAシリーズは,「ボタンを押して,それがアクションにつながるレスポンスの良さ」に相当こだわって作成されている。このレスポンスの良さは爽快感につながり,そこに派手な演出が加えられることで文字通り「一騎当千」を体感できるというわけだ。
しかし,おそらくこれだけでは,戦国BASARAシリーズがここまで大きなシリーズに育つことはなかった。
戦国BASARAシリーズは,一つの根幹として,「家庭用ゲームソフトとして,毎年1本発表する」という方針を持っている。理論上,プロジェクトを並行させれば1作に2年をかけることも可能だが,小林氏曰く「1作を1年で作ります」ということだ。これは,制作ペースとしてはかなり早い。
だがこのペースですら,「まだ十分とはいえないかもしれない」という思いが小林氏にはある。「作るだけでは埋もれます」という言葉が,すべてを物語っていると言えるだろう。
戦国BASARAのマルチメディア展開は,「作ったけれど埋もれた」ことを避けたいが,1作品に1年はかかるというジレンマ(贅沢なジレンマに思えるが)に対しての回答であった。漫画やアニメ,TCGにご当地グッズなどとのタイアップにしても,「売れたゲームからさらに儲ける」というよりは,「次の作品までの間を繋ぐ」という意識が強いようだ。これにあわせてゲーム自体の販促にも力が入っており,主題歌を特定のアーティストに依頼するのはもちろん,PV用のCG映像を作成途中で楽曲側に提供し,音と映像がリンクするように調整しているという。
――さて,こうして見ると,かなり計画的に宣伝・制作・販売が行われている戦国BASARAシリーズだが,それでもその目指すところはあくまで「面白おかしくかっこよく」であるというのが,「戦国BASARA」が「バサラ」たる所以なのかもしれない。
プレイヤーの思い入れを阻害しない――信長の野望
信長の野望というと,つい「大量の武将が出てくるゲーム」というイメージを抱きがちだが,歴史を紐解くと最初期においては,そうでもなかったことが分かる。例えば初代は本州17国だけをマップに収めており,プレイヤーは織田信長か武田信玄だけを選択できる。武将は,特定の個人というよりも,その国の特徴と武将の特徴の双方を併せ持った象徴的な存在で,キャラクター性はさほど強くなかった。
「全国版」では,プレイできる範囲が50か国に広がり,これに伴って武将も50人に増えた。しかしこの段階でもなお,武将の概念は初代と同義であった。
本格的に「武将」がキャラクターとして追加されていったのは3作目の「戦国群雄伝」で,ここで初めて「配下としての武将」という概念が成立,400人もの武将が収録される。これ以降,武将の数は増大し,最新作の「天道」では1200人(最大は嵐世伝の1600人)にまで拡大している。
さて,かくしてゲームにおける重要なファクターの一つとなっていった武将だが,信長の野望における武将は,機械的にいうと三つの要素で構成される――武将のグラフィックスと,パラメータ,そして名前である。
このうちグラフィックは,史実における立ち位置とゲーム上の要請が中心となって決定される。史実における立ち位置とは,例えばその武将が勇猛な武官だったら甲冑を着た姿,高い政治的手腕を示したのであれば平服姿となる。ゲーム上の要請とは,例えば豊臣秀吉ならば,絵としては太閤秀吉の絵が有名だが,ゲームは1550年スタートであるため織田家家臣として登場することになり,これに従い「織田軍の武将」として甲冑姿が選ばれるといったものが代表例だ。また,衣装や甲冑は残されている絵を重視するが,顔立ちなどは現代的にアレンジするというのも,ある意味でゲームの要請といえるだろう。
パラメータは,まずは史実を調べ,それぞれの能力値について「100」「90」「80」「70」……といった「切りのいい数値」に配置すべき武将を決定する。そういった基準点を作ったうえで,基準点と比較して数値をどれくらいに設定するかを決めていくそうだ。この作業は基本的に書物などの資料ベースで行われるが,やはりその作品が発売される頃における世間的なイメージもある程度まで重視するらしい。
難関となるのは,名前だ。日本の社会的上位階級には諱(いみな・本名)と仮名(かめい・仮称)という二種類の名前を持つという,中国をルーツとした習慣があったため,同じ人物であっても最低二種類の名前が存在しうる。例えば織田,豊臣,徳川に仕えた黒田官兵衛のいみなは「黒田孝高」であり,おそらくはより人口に膾炙しているであろう「黒田官兵衛」は仮名である。
となると,どちらを採用するかという問題が生じるが,現時点での信長の野望シリーズは基本的にいみなを採用している。「いみなで表記することが,人物に対する興味を深めるきっかけになってもらえれば」というのが北見氏の言葉だ。
とはいえ問題はこれで終わらない。「黒田孝高」は後に出家して「黒田如水」と名を変える。これはまだ比較的改名が少ないほうで,戦国武将のなかには非常に頻繁に名前を変えている者も多い(しかもこれが意外と有名人だったりもする)。こういった名前の変化を追いかけるのは,やはり相当に大変な仕事のようだ。もっとも,「森蘭丸のような例外もまだ残っています」ということで,あまりに誰だか分からなくなる有名人については通りがよい名前を使うこともあるという。
こうして聞いていくと,なんだか方針があるようでないような,いま一つ釈然としない気持ちにもなるが,北見氏はここで重要な方針を語る。それは,「信長の野望には,武将が1000人以上います。キャラが立ちすぎれば煩いし,立っていなければ存在する意味がない。大切なのは,人形で遊ぶようにお気に入りの武将で遊んでもらうことであって,そこでプレイヤーの思い入れを阻害してはいけないのです」ということだ。つまり,あくまでも史実をベースとする一方で,プレイヤーの思い入れを破壊してしまうようなレベルでの「史実」は遠ざけるというスタンスである。
これはまた,実在の人物である武将に対して敬意を持って対するという態度でもある。「例えば,桶狭間を中心にしてゲームを作るなかでは,今川義元はどうしても無能で愚かな将軍と描かれがちです。その勢いで,つい今川義元のパラメータも低く評価してしまう。けれど,それは今川を馬鹿にしているのではないでしょうか?」と氏は語る。
「よくある解釈」になびきすぎれば,それは一方的な断定になりかねない。あくまで史実を踏まえ,それぞれの人物を個別に評価しつつ,最終的にはプレイヤーの思い入れを壊さないように配慮する。26年の重みは,今もなおしっかりと生きているのだ。
そろそろ敗者を扱おうじゃないか――天地人
天地人は,直江兼続という,正直にいうと戦国武将のなかでは割とマイナーだった人物に焦点をあて,(失礼ながら)それにも関わらず大きな反響を得ている大河ドラマである。
内藤氏は,これまで「大河ドラマは勝者を扱ってきた」とし,「そろそろ敗者を扱おう」「それを通じて,日本人とはどういう人間であったのか,また日本人にとって価値のあるものとは何だったのかを見つめなおしたい」という意図のもとに,直江兼続を選んだという。
直江兼続は,上杉家のいち家臣でありながら,秀吉から30万石の大名として求められた人物である。この30万石という数字は,当時の大名ベスト10に入るほどの「高給」だ。なにしろ,石田三成でも20万石前後だったのだから。
けれど彼はそのオファーを蹴った。「愛」という文字を掲げた兜をかぶって戦場を駆けた直江兼続――現代の感覚でいえば,報酬100万円の仕事と,1億円の仕事を並べられて,100万を選んだ人間――「そういう人物こそが,日本人と呼ばれてきたのではないか?」と内藤氏は訴える。
内藤氏は,従来の歴史解釈は史書によるものであり,必然的に「勝者の視点に立ちやすい」とする。例えば石田三成といえば,優秀だが気難しい官僚肌的なニュアンスが一般的になっているが,関が原の最終局面において石田軍が2〜3000,徳川側は数万という差が開いたとき,石田軍は「三成を逃がせばまだ豊臣方は戦える」と信じて最後まで抗戦をやめなかったという。そこにいる「総大将」石田三成は,本当にステロタイプな官僚であったのだろうか?
また,三成が最後まで自死を選ばなかったのも,自分のために2000人が死んだと思えばこそ,彼らの死を背負ったからこそできなかった可能性も,あり得るのではないか――このような,敗者側の視点に立った解釈が,「天地人」の一つの特徴となっている。そしてこのことを内藤氏は「ドラマは人間のありよう,人の生き様を描くものです。歴史を再現するものではありません」と語る。
というものの,「もちろん,それがありうる解釈かどうか,ギリギリの一線を踏み越えていないかは,専門家の先生にチェックして頂いています」という点において戦国BASARAほど自由奔放な歴史解釈をしているわけではない。「大河ドラマで描かれた解釈は,そのままそれが史実だと思う方がよくいらっしゃいますので」というのは,テレビ(しかも大河ドラマ)ならではの悩みかもしれない。
もう一つ,「天地人」が従来の大河ドラマと異なっているのは,現代的な視点における「本音」を取り入れていることだと内藤氏は語る。
従来の大河ドラマは,戦を前にすれば武将は「死ぬのが当然」と勇み立つし,そのように役者は演技する。しかし「天地人」ではそこに対して女性陣の布陣を厚くとり,女性側からの意見として「本当にそれでいいの?」という本音の部分の投げかけを行っている。
結果的に,「天地人」では役者も相当に悩みながら演技をしているという。歴史上の偉人として,自分から隔絶した存在として武将が描かれるのではなく,自分に近い人間として描かれているためだ。そしてその近さは視聴者にとっての「近さ」でもある。「そこで,もう一度,日本人のありかたを問い直したいのです」と内藤氏は言った。
テクニカルなところでは,「天地人」ではCGの利用も積極的に行われている。これは実写技術とあいまって,さまざまな効果と反響を呼んでいるようだ。実際,「ここってCGですよね」といわれるシーンの多くは実写で撮られているという。
実はCGによるシーンは,合戦での激突や,大規模な行軍シーンなどで積極的に使われていて,とくに後者は気づかれにくいらしい。またオープニングのカットでCGを見せていくことで,「いきなりCG」というギャップを視聴者に感じさせない努力も行われている。視聴者は毎回のオープニングを見るたびにCGによる合戦の一部を見ており,それに慣れた目で本番の合戦CGシーンも見るから,違和感が生まれにくいという。
また,どうやら大河ドラマは視聴者の層が変わってきているようで,昔は基本的に一家の父親が見るものだったのが,いまでは女性が見ているという。これに従い,女性の登場人物を増やし,本音の部分を女性の語りに仮託するといったように,大河ドラマも構造自体が変容しつつある。これは「分かりやすい」という評価を得る半面,「ぬるい」という批判も浴びやすいらしい。
加えて,最近では視聴率というのは1分単位で,誰が見ているかまでがチェックされており,これを調べていくと例えばサブタイトルに戦闘的なもの(「本能寺」「関が原」など)が入ると男性の視聴率が伸び,「悲しい花嫁」といったサブタイで女性の視聴率が伸びるなど,「副題にも敏感になっています」とのことだった。
テレビは,ゲームに比べてインタラクション性が低い。しかしそうであるからこそ,作り手は「視聴者に何をどのように届けるか」に対して非常に敏感にならざるを得ないというのは,ゲームメディアにとって興味深い話であると言えるだろう。
歴史上の物語ではなく,事実として。
ゲーム制作サイドが大河ドラマを意識するのはある意味で当然(北見氏は「流されてしまうので,なるべく見ないようにしています」と言ったが,これもまた「意識」の仕方の一つである)だが,大河ドラマ側も「勉強の素材として使っている」というのは「やはり」と言うべきか「さすが」と言うべきか,というところだろう。
キャラクターを作る秘訣,という論点では,小林氏が「戦国BASARAはキャラを立てようという努力の繰り返しです」とし,「史実を拡大解釈し,史実よりもファンタジー的な要素を多く取り入れていますが,史実をまったく無視したり,何も考えずに好き放題したりしているわけではありません」と語った。
これに対し,内藤氏は「テレビだと,フィクションを足してしまうと史実だと誤解されるので難しい」とし,「なので例えば『天地人』では前田慶次は出ません。視聴者の思い入れが強すぎて,全部出してしまうと破綻してしまうんです」と逆に「減らす」手法を提示した。「サービスのつもりでちょっとだけ出すと,『なぜもっと出さない』というクレームも来ます」。
この「思い入れが強すぎるキャラクター」問題は北見氏にとっても重要な問題だ。信長の野望には1000人近い武将がデータ化されており,だいたいの有名人はすべて網羅されている。しかし地方固有の有名人となると収録されていないこともあり,そうなるとその地方の人から熱烈な要望が来ることがあるという。「でも,やはりそういう武将の資料は少なくて,かといってその武将が戦った範囲で全戦全勝だったからといって最強の武将にすることもできないですし」と,パラメータ化の苦心は相当のようだ。
また,例えば織田軍の場合,「この人は収録しなくては話にならない」という人物があまりにも多すぎて,結果的に織田軍の陣容だけ厚くなるという危険性もあるという。そういった部分の調整はなかなかに困難だ。ただ,これに対して内藤氏が語った「テレビの場合,そこで役者の貫禄を活かすことができます。『この人には100人の部下がいてもおかしくない』という説得力が役者にあるから,人数バランスはそれで対応できるのです」という視点は,ゲーム側では持ち得ない視点であるようにも思う。
「今なぜ歴史ブームか」という点については,小林氏が「武将に魅力があり,憧れる。逆にいえば,現代の人の魅力が少ないのかもしれません。その時代の人たちの凄さを,自分で調べていって,体感できる良さがあります」とし,内藤氏も同様に「『ゆるい』現代に対し,死と隣り合わせだった人たちが魅力的に見える。自分の価値という建前に生きる,生きるしかない人が生きていた時代であり,命は一つしかないということを実感できる,そういう時代と人への憧れがあります」とした。
一方で北見氏が示した「歴史はこれまでもエンターテイメントとして受け入れられてきていたけれど,かつては文字オンリーだったのに対し,今は漫画やゲームなどビジュアルに訴える,『目で見てわかる戦国』になったのが大きいと思います。これが,悪い言い方をすれば『商売になる』と思わせ,社会現象になったのではないでしょうか。だから今後,淘汰はあるでしょうね」という見解は,ブームへの安易な便乗に対する警鐘として心すべき点であろう。
最後に,仕事へのやりがいを聞かれた三人が三人とも,「歴史は楽しい」と語ったのは,当然とはいえ重要なことだろう。「その時代,その土地に生きていた,実在していた人々の行動を真剣に考える」ことの楽しさ,そしてそれを楽しいと感じられる人々が作った作品が,新しい世代の歴史ファンを生んでいるのではないだろうか。
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