インタビュー
【岩田 聡氏 追悼企画】岩田さんは最後の最後まで“問題解決”に取り組んだエンジニアだった。「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」特別編
スーパーデバッガー 岩田 聡
川上氏:
僕は,「生産速度が速いプログラマーって自分のオリジナルライブラリを隠し持っていることが多い」と思ってるんですよ。岩田さんの場合はどうだったんですか?
三津原氏:
ああ……それはですね,実はハル研の中に標準ライブラリがあるんですよ。
どのゲームでも使える非常に汎用的なライブラリが用意されていて,これを使うとレースゲームもRPGも,カービィも作れてしまうんです。これはファミコン時代からあって,ハル研のみんなで使っていたんですけれどもね……まあ,外には明かしていない話なんですが。
ああ,では岩田さんはそのライブラリを使って……。
三津原氏:
まあ,そもそも,その原型を書いたのが岩田さんなんですけど(笑)。
一同:
(笑)。
三津原氏:
ただ,岩田さんは基本的にパワーコーダー(※)なんですよ。なので,ライブラリを使わずに自分で書いていたことも多いと思います。
とにかく作るのが速いし,どんどん開発を前に押し進めてくれるのですが,あまりエレガントなコードではないので,他の人が機能追加をするときには,こう……悩むことにはなるんです(笑)。
※パワーコーダー:ハル研究所社内で用いられる社内用語の一つ。プログラムを力技で作り上げていくタイプのプログラマーを指している
4Gamer:
それはどうしてですか?
三津原氏:
このタイプの人はソースコードをきれいに書かないんです。
川上氏:
まぁ,キーボードが愉快な擬音を立てる速度で書いている上に,誰が見てもエレガントなソースコードだったりすると,もはや我々には立つ瀬がないですからね(笑)。
石原氏:
プログラムコードを書くのもメチャクチャ速くて正確なんですが,プロダクトの最終段階とかで“岩田さんが降臨”することも定番でしたね。
三津原氏:
プロジェクトが終わりに近づいて雲行きが怪しくなると,いつのまにか現れるんです(笑)。そして,コードをあの勢いで書き始めて,「で,次は?」みたいな感じで。
当時,社内で動いていたプロジェクトのラスト1,2か月くらいは,岩田さんが張り付いて開発を終わらせるのが恒例でした。僕らは僕らで「社長にそれやらせるのはマズいよね」と,いかに岩田さんの力を借りずに作り上げられるかを,検討している感じでしたね。
岩田さんはデバッグも天才的でしたよ。「MOTHER2」のデバッグ時に,ハル研究所に行ったんですけど,15mか20mくらいの廊下にずらっと,ラインプリンタで打ち出したソースコードが敷き詰められていて。岩田さんはそこを行き来しながら,その小さい字を見下ろしてデバッグをしているんです。
彼のデバッグにおけるヒラメキは,ちょっと普通の人とはレベルが違うんですよね。本当に早くて正確なんです。
三津原氏:
かなり的確に「ここ!」と指摘できるので,あまり悩んだ姿を見たことがない。むしろたまに悩んでいるときは,なぜか嬉しそうな表情をしているように見えたくらいです(笑)。
そもそも全体的な仕様を把握する能力が高いので,言葉で一生懸命に説明しなくても,実際に起きた現象を見せて,ソースコードをポンと渡すと,「ああこれは……」と返ってきますし。
川上氏:
デバッグ能力が高いプログラマーは素で能力が高いですからね。たぶんインタプリタが脳の中に搭載されているというか,脳の中でシミュレーションができちゃうんでしょう。
三津原氏:
パッと入って来たプロジェクトでも,いきなり「これは○○さんのバグでしょ」と,ものすごく鋭く当てたりしますから。
あと,岩田さんの場合は,普通の人が取れないようなバグまでサクサク取っていくのがすごかったですね。典型的なのが割り込み系のバグで,再現性がないものを推理しながら探っていくことになるから,普通は四苦八苦するはずなのに,岩田さんはそれをヒョイヒョイ探り当ててしまう。
あれは岩田さんが単なるプログラマーではなくて,ハードウェアからソフトウェアまで,コンピュータの動きを深く理解していた優れた“エンジニア”だったのが大きいと思います。ハル研がハードを手がける会社なのもありますが,岩田さんはとにかく勉強熱心でしたから。
石原氏:
アメリカに出張に行くと,バークレーとかのコンピュータサイエンスの教科書を山ほど購入して,それをダンボール5箱単位とかで日本に送っていましたからね。
4Gamer:
でも,それほどの人が,やがてコーディングの現場を離れることになるわけですよね。
石原氏:
任天堂の社長になってからは,さすがにコードは書かなくなりました。そうなってしまった自分に対する苛立ちはずっとあったように思います。
三津原氏:
よく「コードを書きたい」と言ってました。
4Gamer:
変な質問かもしれないですが,三津原さんはその後も第一線で活躍する中で,岩田さんに追いつけたと思ったことはありますか?
三津原氏:
いやあ……とてもとても。
なんというか,岩田さんは引き出しが異様に多いんです。プログラムを組むとき,我々はアルゴリズムや手法についての色々な知識を持った上で実装するのですが,岩田さんはその選択肢がとてつもない量でした。ただ多いだけじゃないですよ,その中の最適解を瞬時に判断して最善の一手を当てはめていくんですから。
経験の多さもあるとは思いますが,特殊能力にしか思えないこともありました。岩田さんに追いつきたくて僕もずいぶんと勉強はしましたが,今でも全然追いつけそうにないですね。
ポケモンを変えてDSを生み出した,エンジニアとしての功績
4Gamer:
こうして逸話を聞けば聞くほど,岩田さんほどの優秀な人がどうしてゲーム業界に来たのかが不思議になってくるんです。どの分野でも超一線級で活躍できたくらいの,とてつもない地力を持っていた方だと思うんですよ。
石原氏:
工学的なもの全般に興味を持っていましたよね。パーソナルコンピュータだけじゃなくて,GPSだとかテレビのリモコンなんかもそうです。まだiモードが出る前の95年頃に,今のスマホが標準搭載しているGPSの仕組みの面白さをものすごく丁寧に,そして熱心に教えてくれたのを,今でもよく覚えています。
川上氏:
岩田さんの,そういう興味の幅の広さが開発に影響した事例はあるんですか?
石原氏:
そうですね,ゲームボーイ用のワイヤレスアダプタの普及などは,岩田さんが大きく関った好例じゃないですか。
4Gamer:
それもちょっとお聞きしたいですねぇ。
石原氏:
ちょうど,ポケモンの「ファイアレッド・リーフグリーン」(※)の開発が佳境に差しかかった頃のある日,岩田さんが「これを組み入れない?」とワイヤレスアダプタの話を持ってきたんですよ。私たちは「いや,この段階で新しいことを入れるのは」って躊躇したのですが,岩田さんは楽しそうに「これを使えば,ポケモンに革命が起きます」「どれだけ大変でも,これは今やるべきです」と,情熱を込めて語るんですね。
4Gamer:
実際,ワイヤレスアダプタによって,ポケモンを遊ぶ風景は一変しましたよね。面倒な通信ケーブルを使わなくてよくなったわけですから。
石原氏:
はい。ただ,入れることを決めた後も,「みんなこれだけのために,別売りの数千円のデバイスを買うのかなぁ?」というのが不安でした。で,そんな話をすると岩田さんは,「じゃあ,ソフトに同梱しましょうか」なんて,実にとんでもないことを言い出してくるんですね。結局,岩田さんが値段据え置きでワイヤレスアダプタを同梱する取りはからいをしてくれたおかげで,ポケモンに新しい通信手段を組み込むことができたんです。
こうしてゲームボーイアドバンスで無線通信デバイスの基礎技術が確立したことが,その後のニンテンドーDSのすれ違い通信などにつながっていくわけですから,今思えば,あの時に岩田さんがおっしゃった「どれだけ大変でも,これは今やるべきです」というのは,ものすごく重い言葉だったんですよね。
川上氏:
ニンテンドーDSの勝因として,すれ違い通信の存在は欠かせないですからね。後のゲームの歴史の1ページを切り拓く判断だったように思います。
石原氏:
岩田さんは,「まあ何年後かにできたらいいですよね」で終わるような話を,「今やるべきです。この困難を乗り越えれば,みんなが驚いてくれるはずです」と,ぐいぐい引っ張ってくれた人でした。CVSを使う判断だってそうだし,その他の事例で言えば,映画館でポケモンがもらえる仕組みづくりなどは,岩田さんがリードして実現した典型的なプロジェクトだったんです。
川上氏:
というか,映画館でのポケモン配信にも,岩田さんが関わっていたんですか?
石原氏:
ええ。「ファイアレッド・リーフグリーン」で付属したワイヤレスアダプタにより,無線でポケモンを交換できるようになったわけですが,技術的な仕組みとしては,通信ケーブルを無線に置き換えただけで,1対1の処理だったんです。
川上氏:
なるほど。
石原氏:
後で発売されたニンテンドーDSにはネットワーク通信機能が付加されていたわけですが,一方でローカルのワイヤレス通信も,手軽さという面で依然として重要な機能でした。
だから,「ダイヤモンド・パール」(※)では,ネットワーク通信とワイヤレス通信の両方を実装すべく技術検討を進めていたんですよ。
そんなとき,「ポケモンの映画を上映している映画館で,その映画で活躍したポケモンがもらえたら凄く嬉しいと思いませんか?」と提案し,それを強く推進したのは岩田さんなんです。
4Gamer:
へえ,そうだったんですね。
石原氏:
しかし,多くの関係者は,それが簡単ではないことだとも感じていました。
4Gamer:
それはなぜですか?
石原氏:
当時考えられていた仕組みでは配信に時間がかかるし,トラブルも多く,もしできたとしても,全国の映画館にその仕組みを導入していくことが簡単ではないからです。
例えば,もし映画館に行ったのにポケモンを受け取れない人が出たら,その対応だって大変ですからね。そもそも,「暗い映画館の中で画面が光るデバイスを開かせるのはあり得ない」とも言われていましたし。
4Gamer:
確かに,映画館では携帯電話だって切るのがマナーですからね。
しかし岩田さんは,新たな技術検証を行いながら映画館での実証実験を繰り返し,根気よく取り組まれて。3年後にそれを実現させたんです。
実際,実現の可能性が高まるにつれて一気に協力者も増え,全国の映画館への説得行脚が始まり,2007年に公開された劇場版10作目「ディアルガVSパルキアVSダークライ」で,初めてポケモンのデータ配信が実現しました。これにより映画の興行収入も劇的に増加し,商業的にも大きな成功を収めたんです。
川上氏:
いや,素晴らしいですね。
石原氏:
これはまさしく,岩田さんが単にプログラマーとしてだけでなく,通信技術の分野についても非常に詳しかったからこそ,実現できたプロジェクトだと思うんです。
私はつねづね,任天堂の素晴らしいところは,汎用なデバイスを作るのではなくて,変わったコントローラーや二画面を使うゲームの仕組みなんかを含めて,常に“ユニークなゲーム体験”をさせてくれるところだと思っているんですが,岩田さんは,まさにその核となっていたのだと思います。
川上氏:
任天堂の強みは,まさにそういうところにありますよね。
石原氏:
岩田さんが,他に類を見ないほどの天才プログラマーだったのは間違いありません。それでも,私から見た岩田さんというのは,もっとこう,「大きな意味でのエンジニアだった」というのかな。もう一つ上の,工学的な知識全般に長けた人なんです。
川上氏:
岩田さんと対談したときに,「社長もやってみたら最適化問題だということが分かった」とおっしゃったのが印象的だったんですが,岩田さんにとってみたら,世の中すべてが最適化問題としてコーディングの対象になっていたんだと思います。
世界を相手に岩田さんはプログラムを書こうとしていたのであって,アセンブラだったりC言語だったり,ハードウェアや開発環境,さらには経営を含めても,そのときに「たまたま使える材料で最適解を目指していた」に過ぎなかったのでしょう。
石原氏:
そういう意味では,横井軍平さんからの流れでの任天堂イズムを持つエンジニアとして,岩田さんを見ることもできますね。
まぁ,横井さんは「枯れた技術の水平思考」という言葉で有名なように,必ずしも最先端の技術を使うというわけでもなかったのですが,岩田さんの場合は,横井さんの思想を受け継ぎながらもコンピュータへの深い理解がありましたから,まだ一般的に判断がつかないような最先端の技術までを含めて,まさに川上さんの言う「最適化」をかなり正確に行えたんでしょう。
4Gamer:
「任天堂らしさ」みたいな部分に対して,岩田さんが果たしてきた役割は計り知れないものがあると,あらためて感じさせられます。
石原氏:
ハードウェアとソフトウェア,その両方に通じているからこその視点でモノを考えることができ,しかもそれを,とても大きなスケールで実行していく。私から見た岩田さんは,そういう人物でしたよ。
そんな岩田さんと一緒に企画を考え,一緒に悩むことができたことは,本当に本当に楽しかった。
ゲームがゲームではなかった黎明期
4Gamer:
ただ,プログラマーとして優秀すぎるからなのか,岩田さんのゲームに懸ける情熱みたいなものが,かえってぼんやりしている印象があります。岩田さんのゲームへの熱意って,どこから生まれたのかが気になるんですよ。
川上氏:
いや,岩田さんはやっぱり,ゲーマーというよりは“プログラマー”なんだと思いますよ。
なるほど……。もしかしたら,もう皆さんの世代には,我々の時代の感覚が分かりにくくなっているのかもしれないですね。
4Gamer:
どういうことですか?
田中氏:
いや,そもそも僕や岩田さんの時代には,今でいうゲームなんてないんです。我々にとってのゲームって,パソコン以降のコンピュータ文化が発展していく大きな歴史の中で現れたもので,当時は夢の箱であったパソコンで「できることの一つ」だったんです。
例えばコモドールのPET(※)で動くミニゲームや,BASICで書かれたとてもシンプルなゲームはたくさんありました。でも,当時の僕らは,まさかそんな遊びが発展した先に,今のような巨大な市場が育っていくなんて思いもしませんでした。たぶん,岩田さんもそうだったはずですよ。
こんなに自由に動かせるものがモニターに出力できてしまうなんて,それはもう十分に面白いじゃないですか。そこに興味を持ってしまった最初の人たちが乗っかって行った結果が,今につながっているんですね。
※コモドールのPET:1977年にコモドール社が発表したコンピュータ,PET 2001のこと。PETはPersonal Electronic Transactor(個人用電子実行機)の略称で,世界初のホームコンピュータとされる。
4Gamer:
そもそも,今ゲームと呼ばれるものとは指していることが違うわけですね。何よりもまず,コンピュータでできることに魅せられていた,と。そういう意味では,少し岩田さんの話からはズレてしまいますが,石原さんはメディアアートのご出身ですよね。
石原氏:
はい,そうですね。
4Gamer:
浅田 彰さん(※)とテレビ番組を作られたりと,日本のコンピュータグラフィックス黎明期の立役者のお一人でもあるわけです。岩田さんは理系,石原さんは文系といった違いはあれど,そういうコンピュータ文化を社会に普及させていく熱気は,やはり共有されていたのでしょうか?
※浅田 彰:日本の批評家。京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。ニュー・アカデミズムの代表的な人物の一人で,メディアアートにも積極的に関わっていた。
石原氏:
いやいやいや……。確かに当時の私はコンピューターの表現に興味を持っていましたが,もう岩田さんのようなプログラマーの方とは,やっていることのレベルも理想も違っていましたから(苦笑)。
4Gamer:
具体的にはどのようなことをされていたんですか?
石原氏:
当時は,出てきたばかりの商業用コンピュータを使った,CGの映像制作プロダクションにいたんです。でも,DEC製のVAX 11/750なんかが最先端で,3Dのガラス球1枚をレンダリングするのに24時間くらいかかる,さらにその玉が移動する10秒程度のロゴを作るのに,半年を要する……という状態だったんです。
川上氏:
本当にCGが商用に利用され始めた初期の頃ですね。石原さんもなんだかんだいって,時代の最先端でものづくりをされてきていますね。
石原氏:
ところが,ある時期から田尻さん(※)や岩田さんのような若者たちがどんどん登場してきたんです。彼らは,私たちには,想像もつかないようなことを成し遂げてしまうデザイナーであり,エンジニアでした。
だって,CGアーティストが1枚の絵を動かすのに24時間かけているときに,彼らは毎フレーム動くキャラクターを100個とか出してくるんですから。しかも,こっちは当時最先端のスーパーハイスペックマシンなのに,彼らは店頭で普通に買える普及機しか使っていない。その環境でインタラクティブに画面を動かしてくるわけです。
※田尻 智(たじりさとし):ゲームクリエイター,ゲームフリークの代表取締役社長。「ポケットモンスター」の生みの親として知られる。アニメ版の主人公「サトシ」の名前も,氏に由来する。
川上氏:
つまり,ゲームクリエイターたちのほうが優れたコンピュータの使い方をしていると見ていたということですか?
そりゃもう。しかも,それがものすごい速度で進化して,やがて「ゼビウス」のようなゲームが現われ,今度はそれがファミコンに移植されて家庭に入っていく。これって,CGに関わっている側からしたら劇的なまでにショッキングなことでした。当時は「一体,俺たちのやってることはなんだったんだ……」と悩んだものです。
ビジュアルの面でもそうでしたね。こっちがCGで油絵みたいな表現の顔を一生懸命にコンピュータで作ろうとしているのに,ラインプリンタでガーッとあのマリオの顔がプリントアウトされるのを見たら,「なーんだ,こっちの方が面白いじゃん!」ってなるでしょう。
4Gamer:
そういう空気の中でなら,岩田さんのゲームへの佇まいもなんとなく分かる気がします。続けてしまいますが,実際のところ岩田さんって,今で言う“ゲームデザイン”みたいな作業にはどの程度関与されていたのですか?
石原氏:
岩田さんは,人がコンピュータに触れたときに画面からどういう反応が返ってくると嬉しいのかみたいな話を,インタフェースを含めてかなり根本的な部分から考えるんです。分かりやすい例では「大乱闘スマッシュブラザーズ」なんかがそうですよね。あの“キャラクターを吹っ飛ばす”バトルシステムの原型は,岩田さんがプログラムしたものです。コアの技術を岩田さんがこしらえて,そこにゲームデザイナーの桜井さん(※)たちがアイデアを乗せていって,ああいう形で完成しましたから。
※桜井政博(さくらい・まさひろ):「星のカービィ」シリーズや「大乱闘スマッシュブラザーズ」シリーズの生みの親。ハル研究所在籍時代に,これらの作品を岩田氏と共に作り上げた。
川上氏:
やはり,核となる部分の仕組みを提示される感じなんですね。
石原氏:
岩田さんがプログラムを持ってくるときって,いつもそんな感じです。「新しいこと作ってみたんですけど,なにかに使えませんか?」と,本当にポンと投げてくるんですよ。それを企画者が上手にキャッチできると,見たこともない新しいゲームが生まれてくるという。
4Gamer:
ほかにもそういったお話はあるのですか?
石原氏:
ポケモンなら「ポケモンスナップ」(※)がそうですね。あれはそもそも「コンピュータで写真の良し悪しを評価する仕組みを作れるんじゃないか」と岩田さんが言い出したことから始まった企画なんです。良い写真というものを,例えば被写体がどこに写っているのか,画角がどう切り取られているか,小さすぎず大きすぎず,視線が合っているか……みたいに,パラメータで定義できるはずだと,岩田さんは言うわけです。
そうやって岩田さんがポンと投げ込んできたものが,「ポケモンを撮りに行くゲームにしてみよう」となって,あの作品が生まれたんですね。
岩田さんのゲームって,「RPGを作ろう」とか「レースゲームを作ろう」みたいな発想とは逆を向いたスタート地点から始まるんです。そもそも「コンピュータで何ができるか?」というところからアプローチしていくわけですから。
※ポケモンスナップ:ハル研究所開発,任天堂発売のNINTENDO 64専用ゲームソフト。「ポケモンアイランド」を舞台に,野生のポケモンをカメラに収めていくゲーム。被写体の大きさや向き・ポーズなどで得点が出るという斬新なシステムで話題を呼んだ。
川上氏:
逆にゲームバランスの調整みたいなものは,あまり興味の対象に入っていなさそうですよね。ちゃんと正しい方向で大きな枠組みを作って,それがいかに正確に効率的に動くかを考えていく。そこにひたすら興味があったように感じるんです。
でも,そういう岩田さんの,いわばゲーマーというよりは正統な「コンピュータ技術者」としての柔軟な視点が,WiiやニンテンドーDSを大成功に導いたんでしょうね。
4Gamer:
手に取る人のハードルを下げることで新しい楽しみ方を生むって考え方ですから,むしろアラン・ケイやスティーブ・ジョブズの思想に近いものがある気がしますね。
石原氏:
手に取りやすくという部分は全くそうなんですけど,そこに強い考え方があったというよりは,やはりNINTENDO 64からゲームキューブになって,どんどんボタンが増えて難解なものになっていくというハードウェアの進化に対して,「小さくて,ボタンが少なくて,軽い」という正反対の方向に走ってみた,というのが実情だったと思いますよ。山内さんも複雑化していくゲームに,「これはアカン」と思われていたはずですし。
川上氏:
なるほど。
田中氏:
岩田さんがハードウェア開発に与えた影響という意味では,Wii以降のハードではソフトウェア開発者の考える領域が増えたのが大きいですね。開発プロセスにおいても,かつてはハードとソフトの人間は分かれていたのですが,今は意見の集約の仕方も変わっているはずです。
あと,WiiとかMiiみたいな一貫性のある名前の付け方は,やはり彼がApple信者だったことが影響しているんじゃないですか(笑)。
一同:
(笑)。
三津原氏:
歴代のMacintoshの多くは持っていましたからね。足の上に落としたら骨折しそうな,「Macintosh Portable」(※)なんてのも使っていました。
※Macintosh Portable:1989年9月に発売された持ち運べるMacintosh。ポータブルと呼ぶには気が引けるほど大きく重かったが,電源コンセントに接続しなくても使えるようになった記念すべき最初のMacintoshだった。
石原氏:
アメリカに行くときも,わざわざMacintoshにUnixをはじめとするあらゆる開発環境を入れてましたね……。フライングプログラマーというか,いつでも,どこででも開発ができるというのが理想だったようです。
話を戻すと,Wiiのネーミングには相当にコダワリをお持ちでした。事前に英語圏の言葉のニュアンスを理由に反対もあったようなんですが,結局,岩田さんが押し通したんですよ。
川上氏:
最初は逆張りだったにしても,とくにWii以降の戦略は相当に岩田さんの肝入りだったんですね。
石原氏:
岩田さんがWiiや脳トレのようなものを出して,コンピュータゲームの遊びの領域をさらに広げたことで,実際にゲーム人口は広がっているんです。岩田さんが取り組んだことで,ゲームのハードが,改めてコアな人たちのためのものではなくなったんですね。
川上氏:
でも,岩田さんがそこまで“ライト層”にこだわった背景ってなんなんですか? 当時,いや今もだけど,ゲームのメインストリームの一つは,常にコア向けじゃないですか。
石原氏:
そこは彼の趣味である「問題解決」のテーマだったんだと思います。岩田さんは,読書やスポーツのような趣味,あるいは新聞や雑誌のようなメディアと比較して,ゲームの地位が相当低いことに,ずっと問題意識を感じておられましたから。小説ばかり読んでいても勉強はできなくなるし,野球ばかりしていても勉強はできなくなるわけで,やりすぎたらどれも同じなのに,なぜゲームだけがこれほど辛く当たられるのか,その問題を多方面から分析した結果が,彼の採ったDSやWiiの戦略につながっているんだと思いますね。
経営者・岩田 聡の功績
4Gamer:
経営者としての岩田さんについても,近くで見ておられたお三方にうかがってみたいんです。
川上氏:
よく言われる,岩田さんが社長になった経緯の話がありますが,近くにいた皆さんは把握されていたんですか。
三津原氏:
……どうなんでしょう。ただ,一つハッキリ覚えているのは,岩田さんが任天堂の取締役になられてしばらくした頃,冗談のつもりで「岩田さん,社長になったら仕事ください」みたいな話をしたとき,岩田さんがニコっと笑って「もしなったら,どうする?」なんて返してきたことがあるんですよ。
普段,そういう冗談は言わない人なので「珍しいな」と思っていたら,一年くらいして本当に社長になられたという。もちろん,そう仰った時点では,まさか自分が任天堂の社長になるとは思っていなかったと思いますけれど。
石原氏:
私は,ずっと相談を受けていましたけどね。
「さすがにポケモンの取締役は続けられないと思うんですよ」なんて言いながら悩んでおられたのですが,そもそもポケモンの社長としての立場からすれば,岩田さんが任天堂の社長になってくれれば,ますます多くの方にポケモンを楽しんでいただける可能性が広がるわけです。なので「断る理由なんてないでしょう」と(笑)。
(笑)
4Gamer:
実際のところ,(株式会社)ポケモンを作るにあたっての岩田さんのご活躍を,石原さんは間近で見てこられたわけですよね。
石原氏:
はい。それはもう大きな役割を果たしていただきました。
4Gamer:
それは,やはりポケモンスナップのような商品開発の面で,ですか?
石原氏:
いや,岩田さんのポケモンにおける功績と言うなら,ゲーム開発以外の部分でポケモンに関係する人たちの調整をしながら,会社を大きくしていくスキームそのものを作り上げてもらったことの方ですね。株式会社のポケモンがマスターライセンスを持って,全体をコントロールしていくようにしたのは岩田さんなんです。
川上氏:
それは普通に文系の人の仕事ですよね(笑)。
石原氏:
私を含めて,川上さんのおっしゃる文系の人間も関わってはいますが,まあ「ちょっと」です(笑)。ほとんどは岩田さんが構築されたようなものですよ。
4Gamer:
そもそも(株式会社)ポケモンは,どういう経緯で出来たんですか?
石原氏:
元々,ポケモンの基本になるライセンスは任天堂でハンドリングしていたのですが,2000年頃に世界中でポケモン人気が爆発したときに,コントロールが効かなくなってしまったんです。
世界中で見たこともない商品が溢れかえって,山のように売られているのに,それが一切ポケモンに関係する側の利益につながらない。これではマズいということで,ポケモンに関わる全ての権利を集約してコントロールする場を作ることになったんです。
そのときに調整役に立ったのが岩田さんでした。彼は,米国任天堂,任天堂,クリーチャーズ,ゲームフリーク,さらにはテレビ東京やJR東日本企画,そして小学館なども含めて,全て交通整理をされて図面を描いて,今の会社の母体となる「ポケモンセンター株式会社」から「株式会社ポケモン」への道を作ったんです。
4Gamer:
相当にタフな交渉能力を必要とする仕事だと思うのですが……。
石原氏:
ポケモンというIPが長く愛されるためには,こういう役割分担にしてこういうふうにシェアすれば良い,という青写真が本当に見事だったんですね。特定の会社だけが目先の得を考えたなら寿命はこのくらいだけど,そこを我慢してポケモン全体を大きくすることで儲けもずっと大きくなる。そういう仕組みを構築した上で,関係者を説得して回ったんです。
あらゆるグッズや出版などの関係者に対して,この人の権利の主張はやりすぎ,この人は控えめすぎという判断を持っていて,ここがバランスの中心じゃないかという部分を個々で調整してあれだけのシステムを作り上げた。
川上氏:
まさに誰か一人が得するのではない,全体最適の仕組みを作ってきたわけですね。
4Gamer:
いや,それにしても出版社やテレビ局など,他業界も含めたメリットやデメリットを推察して整理するなんて,普通のプログラマーが扱える知識やセンスではないですよね。
石原氏:
そこが岩田さんの凄いところですよ。あくまでも,このIPの事業システムが巨大化していくための最適解はここにあると,当時の業界の中で大変にわかりやすく,しかもロジカルに示されたんです。
その辺は,岩田さんが任天堂の経営企画室長になってから勉強されたことなんだと思います。そもそも,任天堂本社と米国任天堂と任天堂ヨーロッパの役割分担も彼が作ったものです。最終的にはグローバルプレジデントになられましたが,それも岩田さんからしたら「勉強すればできること」みたいな感じだったのかもしれないんですけど(笑)。
(笑)
4Gamer:
それにしても,お話を聞いている限り,石原さんって「MOTHER2」以降,岩田さんとずっと行動をともにしているくらいに思えるんですけど。
石原氏:
実は今回の座談会のために岩田さんと私の年表を作って,いろいろと比べてみたんですよ(笑)。
そこで初めて気づいたことがあって――実は私が初めて岩田さんと出会ったときって,岩田さんはハル研の社長になって4か月めだったんです。
川上氏:
岩田さんご自身も大変な時期ですよね,その頃は。
石原氏:
ええ。あのときの私は「MOTHER2」の開発が止まってしまって,本当に暗い海の底でもがいているような状況でした。そこに颯爽とスーパーエンジニアの岩田さんが現れた,そんなふうに思ってたんですけど。
本当はそのときの岩田さんは,ハル研の再生を任されたばかりで,とてもほかのことに構っている余裕なんてなかったはずなんですね。どこにでも有利な条件で再就職できるほどの技術の持ち主が,わざわざ潰れそうな会社のために,銀行巡りをしたり,資金繰りをしたり,きっと慣れないことをたくさん経験されながら,行動を起こされていた,その真っ只中だったんです。
川上氏:
ある意味,当時のお二人は,似た境遇にあったわけですね。
石原氏:
お互いに「やり直しの日々」を送っていたんですよね。でも,だからこそ,あのとき岩田さんは,僕に力を貸してくれたのかもしれません。
岩田さんが,僕のことを「共に戦った仲間」「戦友」って言ってくれたことがあったんですけど,今回改めてその理由が分かったような気がします。
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