連載
メガテンの生みの親,岡田耕始氏が自身を捧げたRPGという祭(前編)アトラス立ち上げと初代「女神転生」 ビデオゲームの語り部たち:第31部
第1部の冒頭で記したように,この連載は,筆者が「ビデオゲームの歴史のなかで,話を聞いておくべき人々や記録しておくべき場所がある」と感じたことから始まっている。だが,それだけでなく「かつて名作を手がけた開発者が,今どこで何をしているか知りたい」という思いもあった。
第30部に登場いただいた福津 浩氏のように,表だった活動こそ少なくなっていても,重要な仕事を手がけている人達は必ずいると思ったからだ。
今回登場いただく岡田耕始氏は,「女神転生」シリーズの生みの親として,ゲーマーの間では広く知られた存在だ。だがここ数年は新作の発表などもなく,その名前を聞くことが減ってきている。まるで,自身が作り上げた“魔都東京”の闇に紛れてしまったかのように感じている人もいるだろう。
だが実を言うと,筆者にとっての岡田氏は“ご近所さん”であり,休日に道ばたですれ違うような関係でもある。
よく見かけるのに,働いているはずの業界では名前を聞かない。近いようで遠い存在であることが,岡田氏が普段からかけているサングラスと相まって,筆者は氏にミステリアスな雰囲気を感じていた。
以前からじっくりと話を聞いてみたいと思いながらも,自宅まで行ってチャイムを鳴らすのもご迷惑かと思い,機会を作れずにいたが,今回,改めて取材を申し込んだところ,快諾いただいた次第だ。
今回の「ビデオゲームの語り部たち」では,岡田氏がどのようにしてゲーム業界に入り,「女神転生」シリーズを立ち上げ,そして今何をしているのかを明らかにしたい。
メガテンの生みの親,岡田耕始氏が自身を捧げたRPGという祭(後編)アトラスの栄華と迷走,そして新たな挑戦 ビデオゲームの語り部たち:第32部
メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏による連載「ビデオゲームの語り部たち」。今回も岡田耕始氏に登場いただき,「真・女神転生」「ペルソナ」「デビルサマナー」などのシリーズ作品や,大ブームを巻き起こしたプリクラ,そしてご自身の会社であるガイアでの仕事について聞きました。
“メガテンの生みの親”は生まれも育ちも浅草の祭好き
岡田氏は生まれてこの方,東京都台東区の元浅草から離れたことがないという。その理由は住みやすいことに加えて,長年の友人知人などが多く暮らしているからとのこと。
「子どもの運動会に行くと,親同士の同窓会になるんだよね。男子だけじゃなくて,女子も交じるし,多少学年が違っても関係なく」
また台東区の鳥越(とりこえ)神社で例年6月に行われる例大祭を楽しみにしており,打ち合わせから参加しているという。
「鳥越祭を中心に,1年のスケジュールが決まってる。その年の祭が終わったら,もう次の祭について考え始める。だから,6月にメガテンのマスターは持ってこないように(笑)。私がやってた頃は,夏にメガテンが出たことはないはず」
「父が40を過ぎてからの子でね。父は大正生まれで,戦争にも行っていて。お米とか食材を扱う工場の工場長かなんかで,近所の人たちが皆自営だった中で,珍しいサラリーマンだったんです」
当時すでに病院での出産が一般化している中,岡田氏は助産師に取り上げてもらったという。
「母子手帳にも,お産婆さんのサインが入ってる。2つ違いの兄は,墨田区の同愛記念病院で生まれたのにね。病院じゃなかった理由は説明してもらえなくて,『お産婆さんが取り上げてくれたんだ』とだけ。だから,自分はこの家の子じゃないんじゃねえかと思ったり(笑)」
台東区立済美(せいび)小学校※時代は,同級生と三角ベースなどで遊びつつ,アメリカンフットボール選手のO・J・シンプソンに憧れて,ボールを自作し,見よう見まねでアメフトごっこをやっていたそうだ。その一方で,小遣いはほとんど戦車などのプラモデルに注ぎ込んでいた。
※平成15年に台東区立精華小学校,台東区立小島小学校と統合され,台東区立蔵前小学校となった
「ドイツのタイガー戦車とかが大好きで,そこからデザインやメカニックにハマって,クルマに乗りたいと思うようになって。作文にも『レーサーになりたい』と書くほどでした」
ゲームとバンド活動に明け暮れた中学校時代
岡田氏がゲームと出会ったのは,台東区立台東中学校※に上がった頃だ。叔母が地元で経営していたスナックに置かれていたり,裕福な同級生が持っていたりした「ブロックくずし」を遊んでいたという。
※平成14年に台東区立御徒町中学校と統合され,現在は台東区立御徒町台東中学校となっている
「叔母はきれいな人で,近所のおじさん達は皆そのスナックに通ってたね。当時は喫茶店やゲームセンターにテーブル筐体のブロックくずしが置いてあって。ゲーセンでは,怖いお兄さんに『ジャンプしてみろ』なんて言われるのもしょっちゅうでしたよ(笑)」
また中学生時代は,同級生と3人でバンドを組み,岡田氏はドラムを担当した。
「リードギターの実家が帽子屋で,秋葉原に倉庫を持ってたんです。その倉庫に,自分達の小遣いを集めて買ったドラムセットを置いて,週末の金曜夜から月曜朝まで,毎週泊まり込んで練習してました。まあ練習の傍ら,秋葉原のゲーセンに入り浸ってましたけど(笑)。
私はギターがやりたかったんだけど,帽子屋の子は後にセミプロになったくらいギターがうまかったので,なり手のいなかったドラムをやってみたら,ハマったんです」
一方ゲームは,「平安京エイリアン」などを遊んでいたという。
「トラックボールで操作する,タイトーの『ミサイルコマンド』もよく遊んでいました。機械に関心があったから,『どういう仕組みなんだろう』と興味津々でね。
そんな感じで毎週のように入り浸ってるから,ゲーセンのオヤジが『ブームが終わって,もう稼げないから』と『スペースインベーダー』の基板と筐体一式を,2万円くらいで譲ってくれたんです。そうなると今度はゲーセンへ行かずに,練習場所の倉庫でずっとインベーダーをやるようになった」
少々余談になるが,岡田氏が後の奥さんと付き合い始めたのも,この頃だった。
「どちらも永住湯って銭湯に通っていて,1歳の頃からの知り合いなんですよ。男の子も小さい頃は女湯に入れるし,母親同士もご近所さんだし。
中学に上がってからの彼女はバリバリの優等生で,成績は常に1番で学級委員もやっていて。私は夜な夜な遊んでるような人間だから,多少言葉を交わすことはあっても『自分とは違う領域の人間だ』と思ってたんです。
でも何かの拍子で『バンドでステージに出るんだ』と言ったら,『じゃあ聴きに行くよ」と。彼女は,スティービー・ワンダーなんかの洋楽が好きだったんですよ。映画も私と同じく『ビッグ・ウェンズデー』が好きで,一緒に吉祥寺の映画館まで観に行ったこともありました。そうやって,勉強とは違うところで思いのほか趣味が合ったので,徐々に付き合いが始まった感じですね」
“青学”からユニバーサル,テーカンへ
「クルマを作る仕事に就くなら,理工学部がある日本大学に入るといいだろう。そんな漠然とした考えで付属高校に入って,理系を専攻したんです。数学も好きだったし」
ただ,高校卒業後は青山製図学院(現・青山製図専門学校)に進学することとなった。
「ホンダに入って,F1のエンジンを設計したいという夢があったんです。でも,たとえF1でなくとも,エンジンの設計なんて大学院の首席レベルじゃないと無理ということが当たり前のように分かってきて,『俺には無理だ』と。
それで機構設計の仕事に就きたいと思って,専門的に設計を学んだほうがいいだろうと考えたわけです。ただ,学校で学んだことは実務では全然役に立ちませんでしたね。コストなどの問題が絡んでくるので。実務で学んだほうが早かった」
とは言え,青山製図学院での学生生活は楽しい思い出のようだ。
「当時は,“青学”の学生だと自称してました(笑)。学校が渋谷にあったから,遊んじゃいましたね。遊ぶと言ってもお金がないから,午前4時までやってる居酒屋とかで,ホッケ1尾だけ頼んで10時間くらいかけてチマチマ食べたり。それから始発で帰るか,そのまま暇をつぶして学校行くかで。
バイトもしたんですが,お金を稼ぐ手段としてパチンコにハマって。景品のタバコを定価の1割引きくらいで友達に売ったりして,お金がないなりに楽しんでました」
この頃の岡田氏は音楽から遠ざかっていたが,ゲームセンター通いは続けており,ユニバーサル(現ユニバーサルエンターテインメント)が開発した「Mr. Do!」※や,その続編「Mr. Do! V.S ユニコーン」を遊んでいたそうだ。それが,岡田氏のゲーム業界入りに大きな影響を与えることになった。
※1982年にリリースされたアーケード用アクションゲーム。主人公のピエロを操作し,ボールを投げつけながら敵を倒していく
岡田氏は,青山製図学院卒業後の1983年4月,その「Mr. Do!」のメーカーであるユニバーサルに入社した。
「就職活動では,歯車を設計・製造する会社の内定をもらったんですが,何か違うなと思って。ほかにないか探していたところ,ユニバーサルが募集をかけていて,しかも設計士を探していると。それで『これは行くっきゃねえ』と応募したんです。まさに運命でした。
当時のユニバーサルは,アーケードゲームだけでなく,スロットマシンやピンボールも手がけていて,活気のある会社でしたね」
岡田氏は,スロットマシンのコインシューターやアメリカ規格のスロットマシンの設計に携わった。世には出なかったが,フライトシミュレーターの仕事もあったそうだ。
「当時はCADなんてないから,ドラフターを使って鉛筆で設計図を描いてました。シャーペンを使う人もいたけど,鉛筆のほうが黒光りするきれいな線が描けるんです。そんなところにこだわってましたね(笑)。
半年から1年試作を繰り返して,強度や耐久性などをチェックするんですが,まだペーペーだから,自分が設計したものがなかなか製品化するところまで行かなくて。一番は,いかにコストを軽減するかでしたね。学校で習った方法だとコストや時間がかかりすぎるので,必要最小限でやる方法を先輩から実践で教えてもらったりしてました」
入社後約半年は,都内の人形町にあったユニバーサル本社に通っていた岡田氏だったが,所属部署が栃木県小山市に移転することとなった。
「私の入社時には,もう小山へ移転することが決まってたらしいんです。でも一切知らされていなくて,人形町勤務とだけ。
小山市に移転してからは,朝6時上野始発の東北本線の電車に2時間乗った後,8時20分に駅から出るバスで20分かけて工場に着いて,ラジオ体操の後に勤務開始です。工場のおばちゃんと仲よくなって,『彼女いるの?』なんて聞かれたり(笑)」
1日約5時間を通勤に費やすこととなった岡田氏は,さすがに嫌気が差してユニバーサルを辞めようと考え始めた。
そんなときに,テーカン(のちのテクモ,現コーエーテクモゲームス)が設計部門を立ち上げたんです。人形町時代に私の隣で仕事をしていた横山さん(元アトラス,現ガンホー・オンラインエンターテイメントの横山秀幸氏)がそこに移籍して,私のことをテーカンに誘ってくれました。横山さんは,一緒にお昼を食べに行ったり,昼休みに受付の女子社員を交えてバレーボールをやったりする仲だったんですよ」
横山氏の誘いを受けて,岡田氏は1984年にテーカンに入社し,まず映像でリールを回すスロットマシンなどの設計アシスタントを担当。仕事に慣れると,アメリカンフットボールをテーマにしたアーケードゲーム「Gridiron Fight」(1985年リリース)や,「All American Football」※(1985年リリース)などの筐体デザイン任された。
仕事の進め方はユニバーサルと違うところもあったようだが,岡田氏には合っていたようだ。
※1987年リリースの「テクモボウル」へとつながる作品でもある
「自分が設計して,半年かけて試作したものが,すぐに製品化されました。試作と並行して製品化しているようなもので,調子が悪いとなると夜中にゲームセンターにメンテナンスに行くこともありましたね。とは言っても,自分が設計したものの悪いところを直すわけですから,充実してました。
ユニバーサルは自社工場を持っていましたが,テーカンは製造を全部外部に委託していたので,足立区にある町工場に設計図を持っていって,『これ作ってください』と依頼するんです」
そういった製品を生み出していたテーカンだけに,ユニバーサルよりは“コストよりデザイン重視”の面があったようだ。
「テーカンの開発部長の方が本当に凝り性だったんです。それで自分も,サッカーゲームの『TEHKAN WORLD CUP』の筐体上部をアール状にするために,当時まだ珍しい湾曲した強化ガラスを採用したり,トラックボールも真円の象牙製ビリヤードボールに限りなく近いものをプラスチックで作ったり,「ピンボールアクション」の専用コントロールパネルを作ったりしました」
デジタルの世界,そしてRPGとの出会い
主に筐体設計を担当していた岡田氏がソフトウェア開発に携わるようになった経緯には,さまざまな偶然が絡んでいるのだが,発端は設計作業のデジタル化だった。
「もはやドラフターで設計図を描く時代ではなくなり,CADを導入することになったんです。CADを使うには,そのとき初めて耳にしたソフトウェアとやらが必要で,プログラミングをしなければならないと。それでプログラミングって何? となったんです。
私は設計と同時に電気も学んでいたおかげで二進法だけは知っていましたが,あらためて勉強しました。そこで,プログラミングしたソフトウェアを使って,デザイナーが描いた絵やサウンドクリエイターが作った音を出力し,ゲームが動くことを初めて理解したんです」
ちょうど同じ頃,テーカンのソフトウェア部門では,岡田氏が小学生時代から好きだったアメフトのゲームが開発されていた。アメフトとは何かと縁がある岡田氏だが,これが氏の人生を変えることになる。アメフトゲームの開発を知った岡田氏は,定時で業務を終えるとソフトウェア部門に行き,「こうしたら面白くなるのではないか」といった口を挟みつつ,夜中までCADに必要な16進法を学んでいたという。その道のプロがいるわけだから,勉強には最適の場所だったのだろう。日によっては,プログラマー向けの仮眠室に泊まり込むくらい熱心に学んでいたそうだ。
岡田氏にプログラムのイロハを教えてくれたのは,石塚路志人(いしづかみちひと)氏だった。石塚氏はその後,岡田氏より先にテーカンを辞め,ウエストンを設立した。同社は「ワンダーボーイ」シリーズなどで知られる開発会社だ。
結局,設計のCAD化は見送られたのだが,岡田氏のソフトウェア部門通いは続き,自分でPC-8801を購入するほどプログラムにのめりこんだ。
「最初はBASICでプログラムを組んでいましたが,そのうちアセンブラでZ80用のプログラムを組むようになって。そうやってPCへの興味を深める中で,海外に『Wizardry』や『Ultima』といった,RPGというものがあることを知って,自分でも遊んでみたんです。並行輸入で取り寄せたから,日本語マニュアルはなかったんじゃないかな。
とくに『Wizardry』は,戦闘が始まりそうになったら即座にディスクを抜く裏技※を駆使するほどやり込みました。ワイヤーフレームを使った3D表現も印象的でしたね」
※「Wizardry」は,戦闘の度に必要なデータをフロッピーディスクから読み出していたため,それを阻止して戦闘をキャンセルできた
RPGの魅力に触れた岡田氏は,テーカンでもRPGを作ることを提案。しかし上層部は「今,流行っているものを作る」という姿勢を崩さなかった。日本はまだ“RPGの夜明け前”だったのだ。
「月に1回か2回ある企画会議で,『こういうのはどうでしょう』とRPGの企画書を提出するんですけど,通らなくて。『こんなに面白いのに何で通らねえんだろう』と,モヤモヤしていたんです。それで,本所吾妻橋のモツ焼屋「稲垣」で,テーカンのゲームセンターを管理する店舗部門の長だった原野さん(アトラス創業者の原野直也氏)に愚痴を聞いてもらったんです」
「稲垣」は,当時のテーカンから60メートルほどの近所にあり,常連客の社員が多かったそうだ。
そうするうちに原野氏と親しくなった岡田氏。プライベートでは,ダイビングの免許を取りに一緒に三宅島まで行ったり,岡田氏がテーカン店舗部門の野球チームに参加したりといったこともあったそうだ。そして,これが岡田氏のアトラス参加へとつながっていく。
少々余談になるが,岡田氏のトレードマークとなっているサングラスは,この野球チームでの活動中に起きたアクシデントがきっかけだという。
「フライを捕ろうとしたときに,横でキャッチボールをやっていた人達のボールが左目にガーンと。瞳孔が開いちゃって,左目の視界が真っ白で何も見えなくなったんです。
病院で瞳孔を収縮させる薬を注射したんですが,そのときは医者から『何があっても絶対こっちを見ないでください』と言われて,眼球にプチッと。人生で一番痛い思いをしましたね。それでようやく左目の視界が戻ったんですが,今でも瞳孔が少し開いていて裸眼だとまぶしいので,サングラスをしているんです」
筆者は岡田氏のサングラスについて,ダークな世界観を持つ「女神転生」の作り手を“演出”するものだと思っていたのだが,大きな誤解だったわけだ。
“海賊の親分”とともに,アトラス出航
岡田氏は原野氏を,「あの人は海賊ですから(笑)」と評する。その理由は,テーカン入社前に,海洋サルベージの会社で旧日本軍の沈没船引き揚げに携わっていて,その際に現地政府から目をつけられて軟禁されたエピソードがあるからだという。
そんな原野氏はあるとき,会社に不満を持っていたソフトウェア部門の社員達に「資金を出してくれる人がいるんだけど」と,独立話を持ちかけた。そこで有志3名がそれに応じることを決意し,ソフトウェア部門に出入りしていた岡田氏にも「一緒に来ないか」と声をかけた。
「原野さんが,『お前らが独立するんだったら,スポンサーを用意してやる』と言ってくれたんです。スポンサーは,原野さんがお世話になっていた遊技機系の会社のオーナーさんでした」
ただこのとき,原野氏自身にはテーカンを離れる気がなかったという。
「でも独立の下準備をしている最中に,原野さんの手引きが会社にバレちゃったんです。それでテーカンに居づらくなって辞めるという話になったんで,原野さんも私達に合流することになりました。
私は会社に引き留められたんですが,その話が延々と2時間も続いたので,逆に『これはもう辞めよう』と踏ん切りが付きましたね」
岡田氏たちは最終的にテーカンから独立する形になって,1986年4月に7人でアトラスを設立した。社長になった原野氏,ユニバーサルで「Mr. Do!」,その後テーカンで「スターフォース」「ソロモンの鍵」などを手がけたゲームプランナーの上田和敏氏,先に紹介した横山秀幸氏,サウンドクリエイターの増子 司氏(増子津可燦の名でも知られる)ら,錚々たるメンバーだ。このとき岡田氏は22歳になったばかりだったが,創業メンバーとして,自社の株を持つこととなった。
「アトラス創業当時は株のことなんてまったく分からなかったけど,原野さんから『お前も持っておくか?』と。当時はお金がなかったから,月賦で代金を払いました。のちに株式を公開するなんて思っていなかったというか,『株式公開って何?』という感じでした」
そうやって立ち上がったアトラスだが,いきなりピンチに見舞われた。最初の開発タイトルとなったイマジニアのファミコンディスクシステム用ソフト「銀河伝承 ギャラクシーオデッセイ」(1986年11月6日発売)は,当初1年で開発する予定だったところを,1年半かけてしまったという。アトラス設立は1986年4月なので計算が合わなくなるのだが,岡田氏の記憶は「1年半」とのことなので,もしかしたら設立前から開発に着手していたのかもしれない。
「1年分の開発費しかもらえないので,残り半年分がない。それで原野さんがテーカン時代のツテを使って,アーケードゲームの基板やジュークボックスを米軍基地に納入するなどして資金を作ったんです。原野さんは『お前らと組んで失敗した』とか言ってましたね。一方で私達は,イマジニアに『いいゲームを作りたいんで,発売日を延ばしてください』とか言って(笑)。それでも十数万本は売れたんじゃないかな」
容量不足との戦いだった「女神転生」
「徳間書店から『デジタル・デビル・ストーリー』という小説が出て,コンシューマゲームとPCゲーム,OVAも展開することになったんです。今で言うメディアミックスですね」
設立間もないアトラスが,なぜ大手出版社が絡むメディアミックスプロジェクトに参加できたのか。原野氏が後に執筆した「プリクラ仕掛け人の素顔」によれば,「デジタル・デビル・ストーリー」の作者である西谷 史氏と原野氏は古い知り合いだったという。原野氏の人脈の広さは相当なものだったようだ。
「そのコンシューマゲームをアトラスが開発することになって,これまた原野さんがテーカン時代のツテでナムコ(当時)に開発費を出してくれと営業をかけたら,パブリッシャになってくれて。
ただ,詳しい経緯までは知らないのですが,ナムコに話を持っていく前に,アトラスが『女神転生』の商標を取得していたんです」
詳しくは後編でお伝えする予定だが,この商標取得は,後にアトラスが女神転生シリーズを自社パブリッシュすることになる要因の1つになったと思われる。
岡田氏は,東京・飯田橋駅に隣接する商業ビル,ラムラの上層にある飯田橋セントラプラザマンションの一室で,まだ机もない中,絨毯の上に寝そべって「女神転生」の企画書を書いた。「Wizardry」や「Ultima」のようなRPGを,ファミコンで実現しようと考えていたという。
「でも,そんなときに『ドラゴンクエスト』がポーンと出てきて。Ultimaみたいなゲームを先に出されたとか思ってましたね(笑)。いや,堀井雄二さんは今も昔もずっと尊敬しています(笑)」
いわゆる“原作モノ”だった「女神転生」だが,小説の要素は,ナカジマとユミコが主人公で,ナカジマが「悪魔召喚プログラム」で悪魔を呼び出す……といった,最低限のものにとどまり,ストーリーの細かい描写もなく,広大な3Dダンジョンをひたすら探索していくゲームとなった。ファミコンの表現力には限界があったとはいえ,いわゆる“IPもの”としては思い切った作りだが,原作者側から異議はなかったという。
「たぶん,日本テレネットが開発していたPC向けの『デジタル・デビル物語 女神転生』が,原作小説に沿った内容になってたからじゃないかな。私らのほうは『自由にやってください』と。信頼されてたのかどうかは分からないけど,できたゲームを見せたら『全然いいですよ』と言ってくださって」
敵として登場する悪魔を交渉で“仲魔”にしたり,仲魔同士を合体させてさらに強い仲魔を生み出したりといったシステムは,上田氏が中心になって考えたゲームオリジナルのアイデアだ。
用語としては悪魔(仲魔)だが,ここには世界各地で信仰されている神も含まれている。お祭り好きの岡田氏が,神々を集めたお祭りのようなゲームを作ることになったのは興味深い。
岡田氏の念願だったRPG開発だが,苦労が多かったようだ。
「本当は,もっといろんなイベントが入る予定だったんです。でも容量の制約で,半分も入れられなかった。当時のアトラスにはアーケードゲームのノウハウはふんだんにあったんですが,コンシューマゲームだと勝手が違って。アーケードゲームなら,基板のROMを増やして対応という手もあるんですが,ファミコンのROMカセットではそれができないので」
この時代のゲーム開発には,容量不足の問題が常につきまとった。
「踏破に50時間以上もかかるような,だだっ広いダンジョンのマップを最初に作って,そこにストーリーまでは行かなくとも,ところどころにイベントを入れてメリハリを付けるはずだったんです。
でも全然入らなくて,イベントを削って削って。私はメインプログラマーではなかったんですが,削る作業もやりました。3バイト使っているところを別の言語を使って2バイトにしてROMに納める,なんていう途方のない作業を延々とやっていたんです」
岡田氏が話したように,「女神転生」のダンジョンは非常に広大なうえ,ところどころに落とし穴やターンテーブル(主人公達が進む方向を変えてしまう床)といったものが仕掛けられている。さらに画面が一人称視点のため迷いやすく,マップを確認できるのは現在地周辺の限られた範囲のみと,難度は高めだ。だが,これはマップ機能が容量不足で削られた結果というわけではなく,ほぼ岡田氏の目論見通りであるようだ。
「結果的に難度は高めになりましたが,こっちはさらに難しい『Wizardry』をやり込んでいましたからね(笑)」
「女神転生」には,“一人称視点でダンジョンを進むRPG”という見た目以外の部分でも,岡田氏のWizardryに対する思いが込められていたと言えそうだ。
この作品を語るうえでは,増子 司氏による音楽も欠かせない。戦闘のBGMをはじめとして,いわゆる“ピコピコ音”とは一線を画したロックサウンドが印象的だが,これはナムコがパブリッシャになったことによる恩恵なのだという。
「当時,ナムコは任天堂と業務提携していたこともあって,ディストーション機能のついた音源チップを使えたんです。そのおかけで『女神転生』のBGMは,ロックサウンドを実現できました。あのディストーション・ノイズは,ナムコのチップでしか鳴らせなかったと思います」
1987年9月11日に発売された女神転生は,仲魔やその合体などのゲームシステムや,プレイしがいのある難度,増子氏のサウンドなどが高く評価され,現在まで続くシリーズの礎となった。
だが,前述したようにイベントを削ってしまったこともあり,岡田氏にとっては,やり残したことが山積みだった。その意欲は続編に向けられていく。
「『女神転生II』では容量の大きいROMカセットを使えたので,ストーリーをガッツリ入れたんです。事前に原作者の西谷さんともお話しして了解をいただいて,原作小説とはまったく違う,世界を征服した魔王を倒す話にしました。それでもやり足りなくて,『真・女神転生』では分岐を入れることにしたんです」
今から約30年前,若き頃の熱い思いを語った岡田氏だが,サングラスの奥にある目には,斬新な世界設定を持った壮大なRPGを作りたいという野望が今なお滾(たぎ)っているように感じられた。
「真・女神転生」は,タイトル名からも分かる通り,前2作の要素を引き継ぎつつも,世界設定は大きく見直された。プラットフォームがスーパーファミコンとなったことや,ナムコではなくアトラスの自社パブリッシングとなったことも含め,シリーズの新たな出発点となったタイトルである。そこからの詳しい話は,後編でお伝えすることにしよう。
※後編は2022年9月27日に掲載します。
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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