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[Gamescom]GDC Europeの基調講演で「Epic Mickey」を開発中のウォーレン・スペクター氏が語る「ゲームがほかのメディアから学ぶべきこと」
スペクター氏と言えば,Origin Systems/Looking Glass Technologies時代の「Ultima Underworld」に始まり,Eidosの「Thief」や「Deus Ex」などに携わった名プロデューサーとして知られる人物。そのスペクター氏は,ゲームとさまざまなメディアとの比較をしながら,ゲームの独自性について熱弁を振るった。
ゲームを文化として考察するときに避けられないのが,映画や小説などほかのメディアとの比較である。スペクター氏は,現代のようにさまざまなメディアが我々の周りに溢れているような状況下において,「ゲーム開発者が,“手法”や“スタイル”をほかのメディアから借用することはまったく問題ない」と話す。ほかのメディアの勃興時にも,例えば映画は舞台劇,テレビはラジオ,そして写真は絵画からその手法やスタイルを利用しつつ独自性を発展させていったように,ゲームにおける表現方法が,ほかのメディアの流用であっても問題はないというわけだ。
もっとも,「もし,あなたが『映画のようなゲームを作りたい』と考えているのなら,いっそのこと映画ビジネスに乗り換えることをお勧めする」と,スペクター氏はゲームを使った表現者として,ゲームの特性を理解すべきことを強調する。そしてスペクター氏は,ゲームというメディアの持つ独自性,つまりはプレイヤーが積極的に関与する“インタラクティブ性”のために,例えば映画において時間の流れをコントロールする「編集」や「ペーシング」といったものは,ゲームには必ずしも当てはまるものではないと続けた。
そういった映画とゲームの違いを明確に形付ける例に,実験的に撮影された「ゲーム的な映画」として,一つの映画をまったく編集することなく1ショットで撮り切ったアルフレッド・ヒッチコックの「ロープ」(1948年)や,主人公のカメラ視点によるファースト・パーソン・ムービーとなったロバート・モンゴメリーの「湖中の女」(1947年)といった作品を挙げた。これらが映画としては失敗に終わったことを説明しつつ,「ゲームは表面上だけはストーリーを相手に語りかけるメディアだが,そこに何も恥じることはない。ゲームで重要なのは“想像”ではなく,“体験”だからだ」と解説する。
ただ銃を撃ちまくるだけのゲームでも,アクションの一つ一つが角度や位置,時間によってまったく違う意味を持ち得るのである。そうした,ゲームのインタラクティブ性というものが,プレイヤーの体験の積み重ねとなって一つの物語を作っていくという点は,制作者のイマジネーションを,見る側にも強要することにもなる,映画とはもっとも異なる部分であるというわけだ。
映画理論を専攻し,大学で映像学についての教鞭を執ったこともある経歴の持ち主だけに,映画とゲームの比較論においては,なかなかの説得力のあるスペクター氏だが,そんな彼が現在,最も気になっているのが「口伝/語り」(オーラル・ストーリーテリング)であるという。
聞き手の輪の中で,語り部がストーリーを話し聞かせるという,ある意味人類の“物語り文化”の中でも最も原始的な形態だが,ゲーム開発者が学ぶべき要素が非常に多いというのだ。
オーラル・ストーリーテリングについては,まだスペクター氏自身が「学生身分」でしかないということから,彼はその道の専門家のさまざまな文章を引用しつつ,「ゲームにおける体験というものは,語り部だけがストーリーのオーサーシップ(原著者)になるのではなく,聞き手もストーリーの意味付けを行う重要な位置にいる」と説明する。
つまり,ゲームでは映画のように一方的にストーリーを聞かせるのではなく,ゲーム開発者とプレイヤーとの間に相互関係を構築しなければ成立しないため,ゲーム開発者はその準備に最大限の努力をしなければならないと言うのだ。
先祖の武勇伝を語る村の長老の話を聞いた少年が,そのストーリーを糧に勇者としての若者に育っていく。スペクター氏は,ゲームにおけるストーリーテリングにも,そういった力があるのだと会場に集まったゲーム開発者に語りかけていた。最後に, Epic Mickeyのオープニングムービーをオマケとして初公開していたが,この作品はスペクター氏の思惑どおりの,プレイヤーとの相互関係を築けるようなストーリーなのか,期待しておきたい。
- 関連タイトル:
ディズニー エピックミッキー 〜ミッキーマウスと魔法の筆〜
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