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[GDC 2021]「Quake」はD&Dから生まれた? クラシックゲーム・ポストモーテムで語られた開発秘話とロメロ氏のid Software退社の真相
古参のゲーマーなら名前を知らないという人がいないだろうロメロ氏だが,後に「Quake」を送り出すid Softwareが設立された1990年には,まだ20代前半であった。相棒であり,エンジンプラグラムを担当したJohn Carmack(ジョン・カーマック)氏と共に,「Quake」がリリースされた1996年当時は,メディアでロックスターのようにもてはやされていたのを覚えている。
なお新型コロナウイルス感染症の影響で,一部のセッションのみが開催された2020年ののGDC 2020でも,ロメロ氏は「The Early Days of id Software: Programming Principles(初期のid Software:プログラミングの原則について)」というセッションを行っている。こちらではid Software設立の経緯などが詳しく語られているので,気になる人はぜひチェックしてほしい。
[GDC Summer]ジョン・ロメロ氏が語る,id Software時代に培ったプログラマーの原則
GDC Summerで,ゲームデザイナーのジョン・ロメロ氏がセッションを行い,id Software時代に培ったプログラミングの原則を紹介した。20代の若者達が集い,「DOOM」や「Quake」などを生み出していく過程には,曲げられない共通のルールがあったようだ。id Softwareの歴史も合わせて語られている。
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「DOOM」以前からすでに存在していた「Quake」秘話
設立メンバーの4人は,当時は1年に何本ものゲームを開発する過密スケジュールをこなすかたわら,気晴らしにテーブルトークRPG「ダンジョンズ&ドラゴンズ」(以下,D&D)をプレイするといった,まさにゲーム漬けの毎日を送っていた。うち,カーマック氏がダンジョンマスターを務めたキャンペーン(長編シナリオ)では,森と魔法だらけのオリジナル世界“シャドウバンド”が舞台だったのだが,そのキャンペーン終盤にはジャスティスというヒーローグループが登場した。その中の1人にクエイクというキャラクターがいて,これが強力なハンマーや斧を手に戦うキャラクターだったのだそうだ。
なので「Commander Keen」シリーズを何作か手掛けたあと,このクエイクを主人公としたゲームの企画が持ち上がったのは,彼らにとってはごく自然なことだった。「Commander Keen in Goodbye, Galaxy」のクレジット画面にも,プロトタイプの開発が「Quake: The Fight for Justice」の名前で進んでいることが記載されていたくらいだ。しかし,当時のテクノロジーでは思い描く世界観を実現できないことから,この企画はお蔵入りになってしまう。
その間にも「Dangerous Dave」「Wolfenstein 3D」「Spear of Destiny」,そして「DOOM」シリーズなど,FPSの新作は次々とリリースされていく。弟分だったRaven Softwareが「DOOM」シリーズのゲームエンジンである「id Tech 1」を使って「Heretic」を開発し,ロメロ氏らがこれに協力するかたわら,カーマック氏は完全3Dレンダリングを実現する次世代エンジン「id Tech 2」の開発に取り組んでいた。
この間,たった4年。今なら1タイトル作るのがやっとな期間だが,id Softwareはこの間に計15タイトルを市場に送りだし,ハンドヘルドゲーム機「Atari Lynx」のマスコットキャラクター“パウンス”をデザインし,スーパーファミコン向けに「DOOM」を移植するなどの業績を残している。このときのメンバーは,5人目の雇用者であり,現在もただ一人id Softwareに在籍しているKevin Cloud(ケヴィン・クラウド)氏,その後にビジネス担当として雇用されたJay Wilber(ジェイ・ウィルバー)氏を加え,たった6人のチームだったそうだ。
もっとも,“完全な3Dグラフィックス”でどんなゲームが作れるのか,この時点ではロメロ氏にもまったく想像できていなかったという。件のクエイクが,マイティ・ソーの持つハンマー“ムジョルニア”のような武器を使うことから,「ハンマーを投げて建物をぶっ壊していく」ようなものを考えたり,自由にカメラ位置を変えられることから「崖から飛び降りてグルグルと視点が回る」ようなシーンを思い浮かべたりしたものの,それをどうゲームにまとめるかははっきりしておらず,まだジャンルがFPSになることも決まっていなかった。
ゲームエンジンもエディターもすべて自前の時代
「Quake」が想定した推奨システムは,1992年にリリースされたIntel Pentiumの90MHzプロセッサーと8MBのメモリ,そしてOSにはすでにリリースされていたWindows 95ではなく,より馴染み深いMS-DOSへの対応が決定していた。しかし,実際に制作に入る前に,レベルエディタを開発する必要があった。id Techに限らず,当時はゲームエンジンは内製が一般的で,ミドルウェアなどもほとんど存在していなかったので,自前で用意するしかない。
カーマック氏は3Dモデリングの手法として,彼が“Brushes(ブラシュ)”と呼ぶプリミティブを利用する手法を選んだ。方眼が引かれた平面で形を作り,これを立体化させて3Dオブジェクトや3Dマップを作り上げていく。これにより,現在の“Proof of Concept(プルーフ・オブ・コンセプト)”にあたるデモレベルがカーマック氏によって制作され,後に“E1M1”と呼ばれる「Quake」の導入部分のマップとなったわけだ。
しかし,より迅速にレベル(マップ)を制作していくには,レベルエディタが必須となる。このためにロメロ氏が作り上げたツールが「QuakeEd」だ。今で言う「Autodesk 3ds Max」をイチから作り上げるようなものだが,機能としてはよりシンプルで,3Dレベルをトップダウンに固定し,ブラシュで高低差を変えたり,テクスチャを付けたりするようなスタイルだったという。
ただ,傾斜を作るのは非常に時間がかかる仕様だったとロメロ氏は回想する。実際,E1M1に登場する少し入り組んだ形の扉も,幾つものパーツを組み合わせ,エディタの画面を切り換えながら作業するという,複雑なプロセスで作る必要があったのだそうだ。
歴史的作品の開発で燃え尽きたid Softwareの内情
しかし,「初の完全3Dグラフィックスゲーム」の開発は難航を極めた。
カーマック氏は「Commander Keen」のゲームデザインの助力を求めていた縁もあって,当時は全プログラマーの愛読書であった「Power Graphic Programming」の著者であり,マイクロソフトに勤めていたMichael Abrash(マイケル・アブラッシュ)氏――のちにFacebookでカーマック氏と共にOculusの開発に取り組むことになる――を招聘したが,それでもゲームエンジンがなかなか完成しなかったのだ。
そして問題が起こり始める。ロメロ氏ら「3Dスペースで何ができるのかもう少し実験したいので,ゲームエンジンの完成を待つ」派と,「FPSになることを想定し,銃器などを先行して作りはじめたい」派にチームが二分されてしまったのだ。ゲームを少しでも早くリリースするため,最終的にはロメロ氏らが折れることになるが,氏によればこれが1995年の末頃とのこと。1996年になるとid Softwareのチーム内の雰囲気は最低だったという。
この時点で,ロメロ氏は「Quakeがリリースされたらid Softwareを去る」と決めていたそうだ。同社の共同設立者であり,「DOOM」の開発途中で「ストーリーを重視するゲームを作る」ために退職していたTom Hall(トム・ホール)氏に連絡を取り,すでに新しいゲーム開発チームを立ち上げる話も進行していた。
当時id Softwareが占拠していた6階建ての建物の最上階は改修されて,その一角がゲームデザイナーが集まる“コマンドセンター”になっていたのだが,「Quake」を完成させるために邁進していた彼らも,最後の数か月の“クランチタイム”は修羅場と化し,誰も会話しなくなるほどバーンアウト(燃え尽き)状態だった。レベルデザイナーの1人として幾つものマップを制作したAmerican McGee(アメリカン・マギー)氏などは,最後の1か月は出勤してこなかったほどだ。
そうして「Quake」がようやくマスターアップしたのが1996年6月22日のこと。もはやid Softwareのオフィスには誰も顔を見せず,個々にバケーションを取っている有様だった。そんな社内で,ロメロ氏は1人でプログラムをLHA圧縮し,同社のこれまでの作品の通例どおりデモを完成させたという。さすがに1人では寂しかったからか,友人でもあったハードコア「DOOM」ゲーマーのMark Fletcher(マーク・フレッチャー)氏をオフィスに招き,ファンがIRCで大騒ぎする中,2人でデモをアップロードする儀式を行ったそうだ。
その後の1か月ほどは,皆が休暇を取ったり,リリース後の整理をしたりといったスローな時間が過ぎていったが,ロメロ氏によれば「8月6日にカーマック氏から辞職を要請された」という。ロメロ氏自身,すでにトム・ホール氏やOrigin Systems出身のWarren Spector(ウォーレン・スペクター)氏らとともに新しいスタジオであるIon Stormを結成する話も進んでいたので,ある意味円満退社と言えるかもしれない。
ちなみにクランチタイムの頃にパブリッシャのGT Interactiveから1億ドル(約100億円)での買収を持ち掛けられたというエピソードも披露されたが,ロメロ氏はこのときに社を売却していれば,その後の彼らのキャリアは今とは異なっていたかもしれないと語った。事実,ロメロ氏を含めて当時のid Softwareの半数にあたる6人のメンバーが,「Quake」完成からまもなくで辞めてしまったのだから。
ともかく,Ion Stormが正式に船出したのは1996年11月のことであり,ロメロ氏が難産の末に産み出した「Daikatana」は大きく評価されることはなかったものの,まさに彼が「Quake」で実験したかった“3Dスペースで何ができるのか”を突き詰めた結果だったのだろう。“ダイカタナ”と言う名前も,まだロメロ氏やカーマック氏らが駆け出しの頃に遊んでいた,「D&D」のレジェンダリーウェポンに由来するものであり,“クエイク”とのつながりが想起される。
セッションの最後で,ロメロ氏は「あれだけバーンアウトして,完全に破壊してしまったid Softwareだけど,その後に立ち直ってジョンとケヴィンは“Quake 2”を作り上げた」と,袂を分かった昔の仲間達を評価する言葉を述べていた。id Softwareの創設メンバーの一人でアーティストのAdrian Carmack(エイドリアン・カーマック)氏はゲーム業界からは離れているが,「ジョンはFacebookでVRやAIの開発しているし,ケヴィンは当時のメンバーで唯一id Softwareに残ってスタジオを切り盛りしています。そしてトムはサンフランシスコのPlayFirstに在籍し,私はアイルランドに移ってRomero Gamesを経営している。皆,それぞれに良い人生を送っているよ」と語り,セッションを締めくくった。
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