企画記事
[インタビュー]ゲーム業界でがんばっ定年! コーエーテクモゲームスの“生きる三国志事典”中山茂樹氏(55歳)
ゲーム業界では秀作を生んだクリエイターが名を上げ,いつしか会社の顔となり,界隈の代弁者として,業界の印象を形成してきた。
しかし,彼らの総数は業界従事者の1%ほどだろう。その裏には開発のみならず,広報や経理,社内エンジニアにカスタマーサポートなど,名を上げずとも人生を生きる99%側の“名もなき戦士たち”がいる。
言い換えればそれは我々であり,世界の大多数だ。
ゲーム業界自体,未成熟ゆえの輝きがあった昭和・平成時代とは違い,今では就業規則に福利厚生にコンプライアンスにと成熟した。大手を中心とする一部メーカーでは徐々に“定年退職者”も増加している。
そこで本稿では,業界の顔役が語る逸話ではなく,99%側として生き,定年を間近にまで控えた者たちの半生に迫っていく。だからこそ見えてくる,ゲーム業界を生き抜いてきた人たちのロールモデル。
新卒入社から,約32年
4Gamer:
コーエーテクモゲームスのみならず,ゲーム業界全体への失礼ですが,「はて,この業界には重鎮以外の定年退職者ってちゃんといるのか?」と。いなくても不思議じゃないと思っていた節があるため,実際に定年間近まで働いてきた方々と会ってみたく思いまして。
中山茂樹氏(以下,中山氏):
そうでしたか。私でよければですが(笑)。
4Gamer:
それではあらためて。本日は業界での半生をお聞かせいただけること,誠にありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします。
中山氏:
こちらこそ,よろしくお願いします。
4Gamer:
はじめに,お名前と簡単な経歴をお教えいただけますか。
中山氏:
中山茂樹と申します。私は1991年4月に大学新卒で光栄(※1)に入社しまして,今年2023年で勤続32年になります(※2)。現職は当社“シブサワ・コウブランド”のシニアリーダーです。
入社後はソフトウェア事業部(現エンタテインメント事業部)に配属され,プランナーとしてゲーム開発に携わってきました。主な担当は「三國志」「信長の野望」などのシリーズ作品です。
※1:社名の変遷:「光栄マイコンシステム」設立(1978年〜1984年)→「光栄」(1984年〜1998年)→「コーエー」(1998年〜2009年)→コーエーテクモホールディングス設立(2009)→グループ再編で傘下組織「コーエーテクモゲームス」設立(2010年〜2024年1月現在)
※2:インタビュー収録日は,2023年11月29日
4Gamer:
32年前,入社のきっかけはなんだったのでしょう。
中山氏:
中高生のころ,戦国時代や三国時代などの歴史物の小説やドラマ,それとボードゲームを好んでいたところ,大学生時代に初めて触れた「信長の野望」と「三國志」でコンピュータゲームにハマりまして。
それが影響し,就職活動の時期に光栄のことが思い浮かんで,受けてみようと考えたのがきっかけでした。
4Gamer:
当時もやはり“歴史ゲームなら光栄”という印象でしたか。
中山氏:
個人的に,1990年代に入るころにはそうでした。他社さんもさまざまな歴史ゲームを出されていましたが,やっぱり光栄だろうなと。
4Gamer:
当時の勤務先は日吉のオフィスですか(※)?
※現在の本社所在地は,神奈川・横浜みなとみらい(KTビル)
中山氏:
そうですね。入社当時は日吉本社のさらに先にある当社「第2ビル」が完成したばかりで,私はそこに務めていました。
4Gamer:
太陽と星座の壁画が印象的な「コーエージェミニ」(日吉の別ビル。2007年に営業開始)もまだなかった時代なんですよね。
中山氏:
ええ。あれの完成後は地元の方々によく尋ねられましたね(笑)。
4Gamer:
その人たちの気持ちはよく分かります(笑)。
さて,入社後はどのようなお仕事をされたのでしょう。
中山氏:
最初に担当したのは「三國志 ゲームボーイ版」(1992年)です。
そのすこし前に「信長の野望 ゲームボーイ版」(1990年)が発売されていて,「三國志」も移植ではなくオリジナルで,ゲームボーイのモノクロ4階調で作ってみようという企画でした。私が参加したころには企画はすでにとおっていて,仕様書も8割ほど完成していました。
とはいえ,ゲームデータはなにもできていなかったので,仕様書を引き継いだあとは,社外のプログラム会社さんにお願いしにいくところからスタートしました。先輩方にゲーム作りのことを教わりつつ,毎日外出して少しずつ形作っていったことを今でも思い出せます。
4Gamer:
入社以前のゲーム作りの経験などは?
中山氏:
いえ,なかったです。プログラムについても無知でした。
そのころは全社員150名ほどだったところ,私を含む新人50数名が大規模採用されましたが,新入社員のほとんどがプログラミング技術を持っていなかったと思います。ですからまずは入社で,それからプランナーやプログラマーに分かれ,各自が現場で勉強する。そういう流れでした。
4Gamer:
昔話でよく聞く,体一つで飛び込めた時代ですね。
では,入社してからの10年間はいかがでしたか。
中山氏:
ちょっとアンチョコを見てもいいですか?
4Gamer:
大丈夫です。自分だったらまず思い出せないので(笑)。
中山氏:
すみません(笑)。ええと,そのころのソフトウェア事業部には,PCゲームの新作開発や学習用ソフトウェア開発などの部署があり,私は「三國志 ゲームボーイ版」から家庭用ゲーム開発の部署で“PCゲームのコンシューマ移植”を担当していました。
当時はスーパーファミコンなどの16bit機,PlayStationなどの32bit機が次々と生まれていった時代で,それぞれの仕様に合わせてゲームを最適化する作業がおもしろかった記憶があります。
4Gamer:
今でこそマルチプラットフォーム展開は当たり前ですが,昔は後追いの「移植開発」が主流でしたものね。
中山氏:
ですので,ハードごとの仕様が難敵でしたね。なかでもセーブデータのサイズが大きいゲームはメモリ管理が厳しくて,泣く泣く仕様を変えることも多々ありました。当社のゲームはとくにでしたし(笑)。
お客さんに楽しんでもらうための幹は絶対に残しつつ,どこを切るか。そういった検討をよくみんなでしていました。
4Gamer:
移植は1タイトルあたり,何人でやっていたのでしょう。
中山氏:
プランナーとプログラマーを合わせて5〜6人といったところです。
4Gamer:
その業務はいつごろまでやっていたのですか。
中山氏:
約6年です。移植業務に従事している間,社内組織も毎年のように再編されていき,そのうち新作と学習ソフトなどの分け方ではなく,ゲームジャンルなどで区分けされるようになりました。今のブランド制の走りのように,個々人の強みがより生かしやすくなる体制と言えます。
そして入社から7年目,私はシミュレーションゲームを主に制作する部署に異動することとなり,「三國志VI」(1998年)を作りました。
その後はディレクターとメインプランナーを兼任する形で,次回作「三國志VII」(2000年)も担当しています。
4Gamer:
「三國志VII」っ。“武将プレイ”にはどハマりさせられたものです。現在制作されている「三國志8 Remake」の原作にも。
中山氏:
ありがとうございます。
その武将プレイを企画したのが私です。
4Gamer:
そうなんですか! 「太閤立志伝」はIVから知った身なのもあって,あのゲームデザインには革新を感じさせてもらいました。
中山氏:
ありがとうございます。「太閤立志伝IV」も「三國志VII」のあとに,ディレクター兼メインプランナーで担当したタイトルでした。私も以前から「太閤立志伝」シリーズのファンでしたので,武将プレイの起案時にはよく参考にさせてもらいました。
まあ,企画会議ではやはり「これは太閤立志伝とどう違うのか?」を詰問されましたが(笑)。
4Gamer:
そこでどう答えたのでしょう。
中山氏:
当時,私は「ゲームにおけるプレイヤーってなんなんだ?」と考えていました。それ以前の「三國志」では,プレイヤーの役割は勢力の神だったり,戦場の部隊を動かす司令官だったりと場面場面で変化しましたが,それとは違う武将個人の視点を“プレイヤーの定義”として導入したらどうなるのか。この考えが発端となりました。
そして武将プレイの要領をまとめて,シリーズを改善ではなく「改革」したい旨を答弁した結果,やらせてもらえることになったのです。
4Gamer:
実際,世に響いたシステムの一つかと思います。
そうしたゲームデザインの知見も仕事で培ったのでしょうか。
中山氏:
そうですね。さっき言いましたが,ボードゲームの影響も大きいです。ヒストリカルな歴史題材の作品が好きだったので,「武将や場所をパラメータでどう表現するか」「土地をどう分けて,どういうルールを制定すべきか」「あの時代をシナリオ化するなら,どんな風にすべきか」など,そんなことを昔から遊びながら考えていたのが役立った気がします。
4Gamer:
確かに,アナログゲームはゲームデザインの原液みたいなものですもんね。自然と最適な教材で学べていたのだと。
中山氏:
そうですね。おかげで「ゲームは簡略化が大事」という概念を当時から持っていたように思います。時代が進むにつれ,ゲームは膨大なデータを扱えるようになっていきましたが,表現を盛り込みすぎると最終的に分かりづらくなったり,焦点がブレたりしてしまうものですので。
あとは,三国志などの歴史物の書籍や資料をあさるのも好きだったので,仕事や私事などのいろんなところで知識として蓄えられていったのかもしれません。
4Gamer:
最初の10年では,新卒同期はどれくらい残りましたか。
中山氏:
どうでしょう。10年後も半分は残っていたと思います。
今現在も10名くらいは同期がいますし。
4Gamer:
新卒入社30年で10名勤続。当時の人材流動が激しいゲーム業界のイメージと比べると意外というか,さすがというか。
その点,ゲーム業界は身軽に転職するパターンもよく見聞きしますが,これまで転職を考えたことはありませんでしたか。
中山氏:
正直,まったく考えなかったわけではないのですが,私は結局のところ「歴史をゲームで再現したい」という志望動機でしたので。
他社さんでも制作できたとは思いますが,コンスタントに開発できていたかと考えると,結果的にそうじゃなかったでしょうし。
それに当社での仕事はけっこう楽しくやってこられましたから。苦労はあっても,イヤだと思うことが少なかったんですよね。
4Gamer:
ある意味,最善な場所だったと。
中山氏:
そう思います。
4Gamer:
続いて,10年目から20年目。2000年代からはどうでしたか。
中山氏:
以降の担当作品としては,武将プレイ制の集大成にしようという意気込みで作られた「三國志X」(2004年)に携わり,その後は「真・三國無双4 Empires」(2006年)に続けて,「戦国無双2 Empires」(2006年)などの開発にも関わりました。
4Gamer:
2000年代に入るとPlayStation 2やXboxなど,当時の次世代機が続々と参入し,加速度的に進化していく時代でした。
こうした環境の変遷は,年齢・能力ともに中堅と言えたであろう10年選手のプランナーとして,技術の学び直しなどで苦労しましたか。
中山氏:
作品の見栄えが比較されやすい時代になったため,開発内でも“ならではの色”を追求しないとというプレッシャーはありました。ですが,それもまた競争的な楽しみと捉えていた覚えがあります。
PlayStation 3やXbox 360以降の次世代機も,同機種のグレードアップ版といった方向性で進化していったため,大きな違和感もなく,制限が徐々に取り払われていくイメージで仕事できていました。
当然,プログラマー陣は新たなスペックの活用で技術的な苦労があったかと思いますし,プランナー陣もそうした解析結果のスタディなどはやはり必要だったものの,既知の概念の延長で仕事できていましたね。
4Gamer:
いいですね。今の私のような中年代は,気を抜くとトレンドやツールの乗り換えについていけなくなりますし……(笑)。
そうした節目に自らをアップデートしていける術は,ハイスピードに進化してきたゲーム業界ではとくに重要だったような。
中山氏:
昔は,画像や音楽のデータ量を事前に想定し,ROMカセットやCD-ROMなどの媒体に収められるかから計画していました。ボリューム制限が厳しかったため,入らないものは入らなかったので。
ゲームボーイの画面はモノクロ4階調。ファミコンはカラーパレット1つが4色で,そのうち1色が透明色か背景色。1画面あたりスプライト用とBG用合わせて8パレットの最大で25色しか使えないなかで,理想の絵を描き出すために「この絵は,この色とこの色とこの色で描いてください」といった指定まですることもありました。
それが今では「自由に描いてください」と言える時代ですしね。
4Gamer:
人のほうで見ると,当時も今の中山さんのように,30年勤続の定年間近なスタッフはいたのでしょうか。
中山氏:
入社20年目あたりで40代になったころの話だと,同世代はそれなりにいましたが,上の世代の方々はゲーム業界らしく,いろいろな方面に散らばっていった印象があります。
もちろん,チラホラと定年を迎える方々はいたのですが。
4Gamer:
新入社員はどうでしたか。1990年代の新卒との毛色の違いなどは。
中山氏:
当時の肌感でも,2000年代はそれほど変わりませんでしたね。
4Gamer:
まだ体一つで突撃してくる人もいたり?
中山氏:
はい。強いて言えば,会社の規模が大きくなっていったことで,さまざまなことを経験し,勉強してきた人が増えていった気はします。「みんな優秀そうな人たちだ」と思った記憶がありますので。
それでも総じて,まだ自分たちに近いというか,“コーエーだから”を理由に入社してくる人が多かったです。
「信長の野望」や「三國志」はもちろん,競馬ゲームやネオロマンス,「真・三國無双」シリーズが好きな人も増えましたし。
4Gamer:
とくに「真・三國無双」(2000年)は業界の衝撃でしたしね。
本線のSLGに従事していた中山さん的にはいかがでしたか。
中山氏:
当時,私たちSLG側は会長の襟川(襟川恵子氏)に「あなたたちの作るものは四角いのよ。硬いのよ。もっと丸く柔らかく発想してください」と,よく言われていました(笑)。
ですから,「真・三國無双2」(2001年)の画面を目にしたとき,「これぞ丸くて柔らかいな」としみじみ感じました。
あの言葉の解釈はシステム的にも,ビジュアル的にも,ブランド的にも,根本かつ総合的な意味で求められていたんだなと。
4Gamer:
例えば「三國志」シリーズも徐々に美男美女の意識が高まりましたが,やはり主軸は兜,ヒゲ,イカツイ顔。対して「真・三國無双」シリーズは陸遜や張郃をああするなんて,ほんと丸いとしか(笑)。
中山氏:
そうですよね(笑)。
私が「三國志VII」を担当していたころ,交流のある人が「真・三國無双」を作っていたので,社内でときどき話は聞いていたのですが。
1人の武将として戦場を駆けめぐるというプレイ体験も「本当に,これは新しい形の三国志だ」と驚かされました。
4Gamer:
いわゆるイケメン武将たちを見たときも,題材とビジュアル性の組み合わせに抵抗感を覚えたりはしませんでしたか。
中山氏:
とくになかったです。私は戦国時代も三国時代も題材自体が好きで,映画,ドラマ,マンガなどの作品や媒体を問わず楽しんでいましたしね。2000年代以降はさらにファンタジーやSF的な解釈,武将の女性化などでも盛り上がりましたが,普通に楽しんできました。
4Gamer:
あと,2000年代には業界も変動しはじめ,2010年代にもなると「コンプライアンス」などの横文字でピシッとしはじめていったかと思いますが。例えば,あるあるだった「開発の徹夜しまくり問題」などは?
中山氏:
コンシューマ移植をしていた1990年代と比べるとだいぶ減りましたが,マスターアップで立て込んでいるときは,自分の机の下や椅子で寝ちゃう人もときどき見かけました。
それでも,緊急でどうしてもなときに朝まで仕事して,翌日を振り替え休日にするなどの対応は,昔からしやすい会社ではあります。
4Gamer:
プライベートなことで恐縮ですが,ご結婚はされていますか?
中山氏:
はい。「太閤立志伝IV」を作り終わった2001年に。
4Gamer:
そのころ,家庭と仕事も両立できていましたか。
中山氏:
妻が家にいてくれたのもありますが,とくに問題なかったです。繁忙期は休日出勤もわりとありましたが,そうでない日は私も家事を多少,本当に多少ですけど手伝ったり,子供の相手をしたりしていました。
4Gamer:
開発の追い込みで,お子さんの運動会に行けなかったなどは?
中山氏:
そういう面でも困ったことはありませんね。自分がどうしても立ち会わなければならない場面でもなければ,事前に「いついつに休みます」と言っておけば,ちゃんと休める会社でしたから。
2000年代からは福利厚生などもさらに改善されて,以前は明文化されていなかった部分も整えられていきました。有給休暇を半日ずつで取る,フレックス制で出社や退社の時間も融通が利くなど,働きやすさがだんだんと向上していったのをよく覚えています。
4Gamer:
イメージ通りの健全さ。体質改善の早さもさすがで。
続いては20年目から30年目。社名もコーエーテクモゲームスに変わったころかと思いますが,ここ10年のお仕事はどうでしょう。
中山氏:
私は2011年,新たにソフトウェア事業部ソフトウェア3部に配属されました。2000年代は「太閤立志伝IV」をはじめ,オンラインゲームや無双シリーズ,アドベンチャーゲームなどのジャンルにも関わってきましたが,久しぶりに「三國志」シリーズなどのシミュレーションゲームの開発に携わることができました。
思い返すと人材や技術のさらなる基盤ができていった時期だったので,希望するプロジェクトにチャレンジさせてもらいやすかったんだと思います。2010年代からは移植作業も他部署や別チームに任せるのではなく,「自分たちが作ったものを自分たちで移植する」流れになりましたし。
4Gamer:
ここ10年もゲーム業界はいろいろと激動でしたが,ベテランの域である40代から50代までの時期も,現場で学ぶことはありましたか。
中山氏:
ありますね。新作でも新機種でも,新しいことをやろうとするときはやはりスタディが必要になります。私自身,知らないことを知るのが楽しいと思えるほうなので,今も日々学び続けています。
ほんと,学生のころはぜんぜん勉強しなかったのですが(笑)。
4Gamer:
少なくない数の人はそういうものですよね(笑)。
そのあと,2016年から現職の“シブサワ・コウ”ブランド シニアリーダーとのことですが。こちらはどのような役職なのでしょう。
中山氏:
現代のゲーム作りは,数十名や百名以上といった数多くのスタッフたちと制作するのが当たり前になっています。
そしてプロジェクト内には役割によっていくつかのチームに分かれており,各チーム内にはさらに細分化されたパートがあります。
私はそうしたパートのリーダーになったり,違うリーダーのもとで作業したりします。パートによっては1人パートもけっこうあったりするので,状況ごとにまちまちですね。
4Gamer:
三国志で言う,伍長的な?
中山氏:
近いですね。
4Gamer:
パートを率いるときは,世代もバラバラなのでしょうか。
中山氏:
今は年齢もバラバラです。20代の若い子もいます。
4Gamer:
20代の子たちとコミュニケーションを取る秘訣は?
中山氏:
私は多弁なほうではないので,若い子と突っ込んだコミュニケーションをできるタイプではないものの,話を聞くのは好きなので,話してくれるときは聞くって感じです(笑)。
それに昨今は普段から接しているメディアが人それぞれな時代ですが,やはり同じゲーム業界の開発スタッフということで,よく飛び交うのはゲーム,アニメ,マンガなどのエンタメ話です。
私もそれらが変わらず好きなので,話題はつなげやすいですし,いわゆる世代間のギャップもそれほどは感じませんね。
4Gamer:
私はいつの間にやら実感中ですが,昔は好きだったコンテンツを追うのがツラくなったりした時期はありませんでしたか?
いわゆる「大人になってからゲームやれなくなった問題」など。
中山氏:
ありましたねえ。知識や義務のために追わなければならないと思うようになったころ。それだとやっぱりツラくなってしまったので,今は興味があるものだけを取捨選択するようになりました。
4Gamer:
ほんと,その点は職業も相まって難しいですよね……(笑)。
中山氏:
分かります……(笑)。
4Gamer:
反対に,そんな感覚はまだ遠そうな,ここ10年の新入社員の印象はどうでしょう。御社に関しては春になると,私と同世代の現場の人から「最近の新卒はバイリンガルの子も多くて驚きます……!」と,新入社員のポテンシャルの高さに毎年刺激されている様子をよく見ますが。
中山氏:
あくまで私が見聞きしている範囲ですが,近年の新入社員の方々に感じるのは「信長の野望が好き」「三國志が好き」といった人が,往年と比べて減ってきたという印象です。
もちろん当社作品のファンはちゃんといて,シリーズ数の多さから好きの対象がばらけただけかもしれませんが,なかには特定のタイトルではなく「コーエーテクモゲームスでゲームを作りたい」「ここで自分のなにかを表現してみたい」といった志望動機の人もいます。
4Gamer:
難しいところですね。それを新しい風と見るか,新世代の認知からくるブランド力の現状と見るか,人と時代の変化と見るか。
「自分のゲームを表現したい」の優先順位が高くなる傾向が続くと,既存シリーズを引っぱってくれるかどうか,みたいな話にも。
会社の上層部もそれらを把握したうえで絵を描いているでしょうし,新規アイデアの運び手として期待しているのでしょうけれど。
中山氏:
おっしゃるとおり,仮に「三國志」などをやったことがなくとも,彼らが現場で無力ということはまずありません。むしろ,私たちの世代よりも幼いころからゲームに親しんできた優秀な人たちですしね。
そういう人たちだからこそ,しがらみもなく新しいものを生み出せるのだろうと思っているので,個人的には期待のほうが大きいです。
4Gamer:
現場でうまく混ぜ合わせて,内部に新たなファンを生むのもまたあるあるの人事戦略でしょうから,そう悲観的な話ではないと思いつつ。
この「既存シリーズを作りたい子が減った(かもしれない)問題」は良くも悪くもな意味で,業界全体に広がるのかもしれませんねえ。
中山氏:
昔は「信長・三國志を作りたい」が50人中40人だったのが,今は50人中10人くらいなのだとすれば,自分と同じ動機で入ってくる人たちが少なくなったんだなあと思えて,個人的にはちょっと寂しいですね(笑)。
4Gamer:
あらためて,昔と今で最も違うと感じることはなんでしょう。
中山氏:
私としては環境ですかね。ゲーム自体のデータ量が増大したのもそうですが,データの共有方法などもそう。昔はフロッピーディスクで手渡しして納品していたのが,今ではPC上で完結できます。
社内外の連絡も「文書でプリントアウトしてください」「FAXで送ります」だったのが,オンラインだけで済んでしまう。顔を合わせたことない社員と気軽にチャットできてしまうのも気楽です。
労働環境にしろ「二徹,三徹は当たり前」なんて風潮はすっかりなくなり,ワークライフバランスを考えて働かないと,逆に会社から指導されるほどです。昔に比べて心身が健康になった人は多いかもしれません。
4Gamer:
それと,気を悪くされるかもしれませんが,これまで「有名なクリエイターになりたい」という願望を持ったことはありましたか。
中山氏:
自分でも不思議なことに,そういう気持ちはなかったです。一応,ディレクターやメインプランナーといった立場も経験しましたが,担当作で有名になりたいという気持ちは昔も今もあまりないですね。
4Gamer:
仕事に満足できていたから,とか?
中山氏:
どうでしょうね。入社当時にやりたかったことを形にできた。自分が表現したかった世界もある程度は作り上げられた。本当にそうした仕事をやれてきた30年だったので,確かにそれなりの満足感はありました。
でも,今も100%満足しているわけではないから,まだゲーム制作に携わって,仕事を続けていられるんだと思います。
4Gamer:
今は55歳とのことですが,定年後はどうされますか。
中山氏:
当社は60歳で定年退職となるので,まずは今までどおりゲーム作りに携われたらなと思っています。定年退職後も働き続けられる制度もありますが,それはおいおい考えていこうかなと。
あと私は銭湯が大好きで,お城や神社仏閣なども好きなので,全国各地でそれらをブラブラめぐってみたいです(笑)。
4Gamer:
昨今,潮流が生まれはじめている「引退したら個人的にインディーゲーム作り」などの熱意はどうでしょう。
中山氏:
それも趣味の一案として考えてはいます(笑)。
4Gamer:
分かりました。ほんと,ここにいる私たち(編集者,カメラマン,同社スタッフの世代バラバラな男性3人)にはもうすこし先の話なのですが,定年後のことを考えるのって夢の一つでもあるなあと(笑)。まあ,世の中的に定年70歳だの,年金問題だの不安はつきませんが……。
といった中年世代の悲観はさておいて。人の30年を振り返るには短い時間となってしまい恐縮ですが,最後に。ゴールのゲートも見えてきたこの30年間のゲーム業界人生は,どうでしたか?
中山氏:
私が入社したころ,当社は歴史ゲームでは名が知られていたものの,会社としては株式も公開しておらず,親からも「ゲームの仕事って,大丈夫なのか?」などとあの時代特有の心配をされたものです。
私も私で「3年は辞めずにがんばる!」といって飛び込み,3年経ったらいつでも辞められるようにとプリントアウトした辞表を机の引き出しにいつも入れていたくらいでしたが(笑)。こんなに長くいるとは思ってもみなかった。それが今の正直な感想です。
4Gamer:
3年のつもりが30年。しかも現代の就職事情でコーエーテクモゲームスの名を聞けば,反応も打って変わって感激でしょうし。
中山氏:
ほんと,これまで「三國志」シリーズなどのビッグタイトルに携われたのはとてもうれしかったですし,だからこそのプレッシャーもありましたし,なんだかんだツライ思いもかなりしたんですけれど。
4Gamer:
けれど。
中山氏:
ええ。やっぱり楽しかったなって思えます。
■コーエーテクモゲームスの人事コメント
コーエーテクモゲームスは「生涯ゲーム開発者」になれる会社です。業界では老舗企業になりますが、一人ひとりの情熱を風化させることなく、キャリア実現できる会社を引き続き目指してまいります。
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