企画記事
[インタビュー]ゲーム業界でがんばっ定年! ゲーム開発にポータルサービスにカスタマーサポートを渡り歩いた阿野越雄氏(57歳)
ゲーム業界では秀作を生んだクリエイターが名を上げ,いつしか会社の顔となり,界隈の代弁者として,業界の印象を形成してきた。
しかし,彼らの総数は業界従事者の1%ほどだろう。その裏には開発のみならず,広報や経理,社内エンジニアにカスタマーサポートなど,名を上げずとも人生を生きる99%側の“名もなき戦士たち”がいる。
言い換えればそれは我々であり,世界の大多数だ。
ゲーム業界自体,未成熟ゆえの輝きがあった昭和・平成時代とは違い,今では就業規則に福利厚生にコンプライアンスにと成熟した。大手を中心とする一部メーカーでは徐々に“定年退職者”も増加している。
そこで本稿では,業界の顔役が語る逸話ではなく,99%側として生き,定年を間近にまで控えた者たちの半生に迫っていく。だからこそ見えてくる,ゲーム業界を生き抜いてきた人たちのロールモデル。
新卒入社から,約34年
4Gamer:
あらためて,このたびは「ゲーム業界には重鎮以外の定年退職者ってちゃんといるのか?」の疑問に対して,定年間近まで働いてきた人の姿を届けられないか。そうした企画で打診させていただきました。
阿野越雄(以下,阿野氏):
私でいいんですかね?
4Gamer:
はい,ベストです。阿野さんに関しては一部タイトルで既知の人もいるかと思いますが,今回は貴重なお話を聞かせてくださること,誠にありがとうございます。どうぞ,よろしくお願いいたします。
阿野氏:
分かりました。よろしくお願いします。
4Gamer:
まずはお名前と,簡単な経歴からお教えいただけますか。
阿野氏:
阿野越雄です。私,この取材を受けるにあたって過去を振り返ってみたのですが,最初はほとんど思い出せなくて(笑)。
4Gamer:
ですよね(笑)。私も10年前ですら記憶が怪しいので。
阿野氏:
なので,いろいろと調べてきました。
私は1989年3月21日に,光栄(※)に入社しました。当時の新卒は4月からじゃなく,3月に入社していたんですよね。ですから,会社に入ってから大学の卒業式に行ったことを覚えています。
※社名の変遷:「光栄マイコンシステム」設立(1978年〜1984年)→「光栄」(1984年〜1998年)→「コーエー」(1998年〜2009年)→コーエーテクモホールディングス設立(2009)→グループ再編で傘下組織「コーエーテクモゲームス」設立(2010年〜2024年1月現在)
4Gamer:
すでに知らない昔の文化。
入社当時はこちらの日吉オフィスでしたか?
阿野氏:
いえ。入社時はこのオフィスも,すこし先にある第2ビルもなかったので,日吉駅の向こう側にあった「第二光栄ビル」で勤務していました。
4Gamer:
ああ,そっちのほうにもビルがあったんですね。
阿野氏:
そして私が配属されたのはソフトウェア1部の一角,「信長の野望」や「三國志」を作るチームでした。
ただ,私はもともと文系でして。新人研修でもプログラムのことをほとんど理解できなかったくせに,配属時に「私はプログラマーで!」と言ってしまったんですよ。あれはもう本当に後悔しました。
4Gamer:
なぜそのときプログラマー宣言を?
阿野氏:
ゲームが好きで,ゲームを作ってみたいから,プログラムができるようになったらいいな,という安易な願望からです。
志望動機にしろ,人生で初めて「信長の野望」を遊んだとき,実家の三兄弟たちで徹夜するほどハマってしまい,大学生時代に「あれを作った会社に入りたい」と思ったからでしたので。
4Gamer:
ゲーム好きらしいスタートで。その後はどうでしたか。
阿野氏:
私は同期のプログラマーと一緒に「三國志II」(1989年)を担当することになりました。彼はちゃんとしたプログラマーでしたが,私の仕事は実のところプランナーみたいなものでしたね。
初仕事も「全部つなげたら1枚の地図になる戦闘マップを作って」と言われ,「すべての川をつなげたらそう見えるだろう」と思い,せっせとマップを制作していましたし。だけど,それが終わったらとうとうプログラミングの仕事が回ってきてしまって。
4Gamer:
心配の匂いがしてきましたが,どうされたのでしょう。
阿野氏:
そのときの業務は,PC-88用ソフトの「三國志II」と「信長の野望・戦国群雄伝」(1988年)を,シャープのX68000に移植することでした。そこでプログラマーを志望したことを本格的に後悔したんです。
仕事としては,隣の同期を参考に,先輩方にも教えてもらいながらやり遂げはしました。プログラムを理解するきっかけにもなりました。けれど「この先はもう無理だな……」と内心思いまして。移植作業はどうにかできても,新しいものを作るのは自分に無理だろうと。
この入社2年目ごろが,仕事を続けていけるかどうか一番悩みました。
4Gamer:
とはいえ,今や勤続34年。転機があったんですかね。
阿野氏:
ええ。悩んでいるとき当時の部長から「プランナーをやってみないか」と声をかけてもらったんです。それで次回作「三國志III」(1992年)からはプログラマーではなく,正式にプランナーになりました。
4Gamer:
転身できたと。プランナーとしてはいかがでしたか。
阿野氏:
それからはもう「三國志」シリーズ漬けです。3作目から5作目まではメインプランナーとして,6作目から9作目までは今でいうプロデューサー的な立場として開発に携わっていきました。
その間,ディレクターとして「信長の野望・将星録」(1997年)に,プロデューサーとして「信長の野望・烈風伝」(1999年)にも参加して,のちの「信長の野望・革新」(2005年)ですこしだけ表に出たりしつつ,それ以降はゲーム開発から離れています。
2000年代後期からはモバイルゲーム,ポータルサービス,品質管理に現職のカスタマーサポートと渡り歩いてきました。
4Gamer:
興味深い激流ですが,まず入社時点でのゲーム作りの経験などは?
阿野氏:
なかったです。学生時代はなにも知りませんでした。研修過程でゲーム会社にはいろいろな職種があると理解できましたが,入社時点では「好きなゲームを作った会社に入れた」くらいの状態でした。
そもそも私,就活先は当社が1社目だったのですが,当時は会社説明会の日に試験から面接まであり,1週間後に採用通知がくるシステムだったんです。そのうえ就活一発目の第一志望で採用が決まってしまったため,他社さんは受けることすらしなかったんですよね。
4Gamer:
なかなかうらやましい就活事情。今でこそゲーム業界のことは手軽に調べられますが,知らない身だと子供が口にする「将来はゲーム作りたい」くらいの感覚でもおかしくないですよね。私自身,就活時のふぬけた業界研究を思い出すとそんなレベルでしたし(笑)。
阿野氏:
まあ,ゲーム作りになんとか携わっていきたい一心でプログラマー宣言をし,その後つまづいたわけですが(笑)。
同期がすごいプログラマーだっただけに,自分もできるようになれば強みになると意気込んでいましたし,「やったら意外とできるのでは?」くらいに思っていましたが,錯覚でした。まるでダメでした。
4Gamer:
でも,プランナーになってからは開花したんですよね。
阿野氏:
一応,三国志演義の訳本が目の前にあったのでずっと読んでいました。三国時代の知識を蓄えられて,「自分ならここをこうしたい」という思いはあるにはあったので,どうにか道が開けた感じです。
ただ,最初は正直に「プログラマーを辞めたいけど,そもそも企画職が務まるかどうかすらわからない」なかでの消極的な転身でしたから。
4Gamer:
そのうえで,企画職をうまくやれた秘訣などは。
阿野氏:
私の場合,謙遜ではなくメンバーに恵まれたのが大きいです。同期のプログラマーが「まずはなんでもやりたいことを言って」というタイプで,こちらが希望を伝えると,できることはできる,できないことはできないとはっきり言ってくれる人だったので。
彼に「プランナーはまずプログラマーなどに聞いてみる」という動き方を教わったことで,自分でプログラミングができずとも,ゲームのアイデアを形にできる術はあるのだと学べました。
4Gamer:
周囲の人がいい影響を与えてくれたんですね。
阿野氏:
その人は「プログラマーは一言目でできないと言ってはいけない」を信条としていて,私の実現したいことを何度も聞いてきました。それが私にとってのプログラマー像となり,その後の開発でも生かされていたと思うので,彼がいなかったら今とは違う道を歩んでいたかもしれません。
4Gamer:
ちなみに「三國志」開発の実情はどうでしたか。
阿野氏:
私は「三國志III」に続き,「三國志IV」(1994年),「三國志V」(1995年)とメインプランナーをやりましたが,正直限界でした。
「三國志II」から数えたらシリーズ4本を連続で担当。個人的にやりたいことも「三國志III」に注ぎきっていた。次回作のアイデアはもう考えつかないと苦しんでいましたよ。やっぱ連投はダメですね。
4Gamer:
そのころには良くも悪くも定番と化していた「三國志」。土台を変えるにも難しかったであろうことは想像しやすく。
阿野氏:
ですので,「三國志VI」(1998年)からはプランナーが別の者になり,私はプロデューサー的な立場に移りました。あのころは今ほどしっかりとクレジットされる存在ではありませんでしたし,肩書としても単に「部長=プロデューサー」といったものが多かったように思います。
4Gamer:
1990年代はそういうものだったとよく聞きます。
当の「三國志VI」についてはどうでしたか。
阿野氏:
「三國志VI」はチャレンジングなタイトルで,世の中的にはあまり響かなかったタイトルです。そのため「次は絶対に成功しなければならない」というプレッシャーに襲われました。
続く「三國志VII」(2000年)も,企画当初は「これじゃあちょっと弱いよね……」と話し合っていました。するとメインプランナーが「全武将で遊べるのはどうですか」と言ってきて,それまでの君主プレイのみならず,武将プレイもできるように一新したんです。
開発面でやりきれなかった部分もままありつつも,売り上げが飛躍的に伸びたナンバリングタイトルでしたし,シリーズとしても大きな転換になったことで,今でも思い出深い1作です。
4Gamer:
ちょうど先日,この企画の第1弾にして,当の武将プレイを企画されました中山茂樹さんにお話を聞かせてもらったところで(笑)。
阿野氏:
ああ,もう1人の取材対象って中山くんだったんですね(笑)。
[インタビュー]ゲーム業界でがんばっ定年! コーエーテクモゲームスの“生きる三国志事典”中山茂樹氏(55歳)
成熟したゲーム業界では,徐々に「定年退職者」が増加している。その多くは誰もが知る有名人ではない。ゆえに,1%の有名クリエイターにならずともゲームの最前線で戦ってきた,99%の“名もなき戦士たち”に話を聞いた。
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- 編集部:楽器
- カメラマン:永山 亘
4Gamer:
そのあたりの時代,業界では「ゲーム開発=徹夜で泊まり込み」の逸話をよく聞きましたが,阿野さんはいかがでしたか。
阿野氏:
徹夜に関しては,私の場合はあまり多くはなかったかと。当時は寮が慶応の裏(日吉駅の前に,慶應義塾大学 日吉キャンパスがある)にあったので,遅くなっても帰っていました。
でも,これ絶対なんですけど,「徹夜した翌日の仕事なんて信用しちゃダメ」です。どんなに若くても仕事がよくなることはない。私は「三國志IV」の仕上げをなかなか詰めきれなくて,朝4時まで仕事して帰るなんてことがありましたが,ぜんぜんダメ。
徹夜後のパフォーマンスなんて信用しちゃダメですよね。
4Gamer:
同意です。では,そうした生活をともにしていたであろう同期たちは,10年ほど経ったころも周囲に残っていましたか。
阿野氏:
うーん,記憶が薄いです。私の同期は20人くらいいて,入社時の全社員が100人くらい? だったはずですが,今も残っているのは4人ほどですかね。その時点で辞められた人もいたはずです。
4Gamer:
その点,阿野さんが残られた理由というのは。
阿野氏:
単純な話,勇気がなかっただけです。
転職するとしたら同業他社だったと思いますが,よそにいって通用するのかと考えると踏み出せず。というか,そもそも転職したいと思ったことがなかったと言ったほうが正確ですね。
唯一あるとすればやはり,入社2年目が一番危うかった。ですが当時の上司が道を開いてくれて,そのあともわりと気持ちよく仕事ができていたので,強く思うことはそれほどなかったです。
4Gamer:
私も引っ越しですら面倒くさがるゆえ,よく分かります。
ほかに,時代ごとのハードの変遷が壁になったことなどは。
阿野氏:
私はコンシューマゲームの開発経験がほとんどないんです。ハードはPC-8800からPC-9800,そのうちWindowsと様変わりしましたが,ずっとPC畑。移植にも関わらず,最初の1本目を作る仕事をしていたので,技術的進歩も既存の延長線上で対応してこられました。
それに私のゲーム作りは前述のように,「欲しいもの」を考えて,プログラマーなどに聞き,形にできるかできないかを考えて,やれる・やれないを積み重ねていくといった方法でしたしね。
4Gamer:
ある意味,技術的な習熟を問わず作れそうではあります。
阿野氏:
まあ,「どういうゲームを作るか」の一点を目指して,みんなと一緒に固めていくそのやり方は,当時のゲームプロデューサーの人たちとも考え方からしてちょっと違っていたかもしれません。
そのうえでリーダーシップのある人間ではなく,かといって口を出さずにお任せというわけでもない。間違っていたこともたびたびありました。だた,自分に合うやり方がそれだっただけです。
4Gamer:
そうやって作っていった成果物には満足していましたか。
阿野氏:
私の意図を形にしてくれる仲間がいたおかげで,いいゲームを作れて,売れるものに仕上がった。そういう感覚は持てました。
逆に,個人的にやりきったなどの感覚はなんとも言えません。過去の「三國志」シリーズは自分で考えて形にしたからか,完璧ではなかったものの,なんとかできたことへの達成感があったんですけどね。
4Gamer:
現場の兵士と,指揮する君主の違いみたいな?
阿野氏:
そうなのかもしれません。そもそもプロデューサーにおける満足感は,世の中に受け入れられたかどうかの結果次第なところがあるため,ゲーム作りの見方というか,受け取り方が異なりますしね。
4Gamer:
そのうえで,最後に作った「信長の野望・革新」はどうでしょう。
阿野氏:
私がプロデューサーとして最後に作った革新はですね。完成したときに「いいものができた」って思いました。
ゲームってリリースまでにプレイし尽くしてしまうので,変な言い方ですが感覚がマヒしてしまって「市場で面白いと感じてもらえるかの不安」が大きくなり,逆に心配になってきます。
ところが革新は「これはいける」という手応えがあった。納得のいくものを作れた感覚が確かにありました。
4Gamer:
私が「三國志」より「信長の野望」に傾倒しはじめたのが革新,天道,創造あたりなので,個人的にもなによりです(笑)。
そして以降のキャリアですが,ゲーム開発から離れて「シティ企画部」に移られたとのことで。状況としてはどのような?
阿野氏:
2000年代後半のこと,フィーチャーフォン向けゲームを手がける,シティ企画部のモバイル課に異動したんです。
4Gamer:
それはご自身の意志で?
阿野氏:
いえ,まさかの異動ですね。ちょっと食い下がりましたよ(笑)。
モバイル課の仕事は「信長の野望」や「三國志」のシリーズ作品を古い順から移植することで,当時の携帯電話に収まるようデータを削りつつ,どれだけ遊べる内容にできるかというものでした。
私自身,そのころはモバイルのことをよく理解しておらず,最初はなにから手をつければいいやらとなっていました。あのころの端末スペックでは,ナンバリングが進むにつれて無理も出てきましたし。
4Gamer:
据え置き機よりも携帯ゲーム機が台頭しはじめた時代。モバイルは右肩上がりの最中,といったご時世でしたっけ。
阿野氏:
そうですね。私の仕事にせよ,移植作業は社内ではなく外注会社さんに頼んでいたため,業務も外注管理がメインになりました。
初めての外部調整は難しく感じましたし,それまでとの畑の違いもあって,なかなかうまくいかないこともけっこうありました。
4Gamer:
感情的には,ツラかったとか?
阿野氏:
ツラいってよりは「どうしようか……」という困惑でしたね。ときには外注さんのプログラマーがいきなり消えて,進行がパタッと止まったりもしましたし。そういうことが普通に起こる時代だったんです。
それでも納期はあるので,起きたトラブルにどう対処するか。いろいろと体験できたという意味では,そう悪い記憶ではないです。
4Gamer:
いろいろな初めてを学んだんですね。
さらにこのあと,ポータルサービスに移ったとのことで。
阿野氏:
はい。2011年のことですね。
体制としては,ネットワーク事業部のオンラインサービス部にモバイル課とポータル課があったころ,モバイル課がゲーム開発部門に統合されることとなり,オンラインサービス部が新たに「ポータルサービス部」として再編されることになったんです。
そのとき上司に,モバイル課についていくか,部内のポータルサービスに残るか。どちらか選んでほしいと尋ねられました。
4Gamer:
では,なぜポータルサービスに?
阿野氏:
モバイル課のままならゲーム開発に戻れる。当時はMobageさんやGREEさんが台頭していたので未来があるのも分かっていた。でも,そのころには長らくゲームを作っていませんでしたので。
それにポータル課とは同じフロア,というより位置的に真隣で働いていたのもあり,開発に戻るよりも顔見知りなここにとどまりたいと思って。聞かれたときは悩みすらせず選んだ気がします。
4Gamer:
そしてまた新たな業務に挑むと。そこでのお仕事というのは。
阿野氏:
主な業務は,当社のポータルサイト「GAMECITY」の運営でした。
ですが,昔のGAMECITYは当社のファンクラブといった性質が強く,そのあり方に課題がありました。サイト構造も昔からの積み上げ部分が多く,とりあえず変えるといったこともしづらい仕組みになっていて。
最終的には「もう一度,ポータルサイトとして注目してもらいたい」を目標に,新たなソーシャルゲームプラットフォーム「my GAMECITY」を立ち上げることが決まり,私もそれに携わりました。
4Gamer:
ああ,my GAMECITYはその時期でしたか。
阿野氏:
my GAMECITYの立ち上げは正直,私が努力したというより,別の担当者が尽力してこぎ着けたって感じでしたけどね。
ただ,最初はオープンプラットフォーム化もしておらず,他社さんのゲームがまったくないなか,他社プラットフォームで展開していた「100万人の三國志」などの限られたタイトルでの運営となりました。そんな状況から2014年にオープンプラットフォーム化し,サードパーティタイトルも配信しはじめました。当時はゲーム会社さんに毎日連絡しては訪問し,「うちでもリリースできませんか」とお願いしにいってましたね。
4Gamer:
そのころはDMMの「艦隊これくしょん -艦これ-」など,PCプラットフォームのソーシャルゲームが群雄割拠の時代でしたっけ。
阿野氏:
DMMさんにも行かせていただきました。
オープンプラットフォーム化からは徐々に他社さまの協力も得られて,タイトルのラインアップも段々と増えていきました。
一方で,2015年はすでにスマートフォンゲームが流行していて,PC向けの展開だっただけに流入を得るのに苦労しました。
4Gamer:
スマホゲーム隆盛期の活発さも,今では懐かしいの領域に。
阿野氏:
ソーシャルゲームプラットフォームとしても業界的にはかなり後発でしたし,メリットの押し出し方には悩み続けましたね。
アクティブユーザーの計測値を見てはうなって,夏休みや年末年始に大型キャンペーンをしたりして。それも懐かしい記憶です。
4Gamer:
結果的に,ポータルサービスに携わったのは9年ほどですか。
阿野氏:
はい。2019年度いっぱいまでいて,2020年度からは品質管理本部の品質管理部に異動しました。品質管理部というのは,開発中のゲームのデバッグやリリース前の最終チェックなどを行う部署ですが,私は3か月後にまた異動になったため,業務内容をほとんど覚えられませんでした。
次に移ったのは同じ品質管理本部内のカスタマーサポート(以下,CS)部で,その後,本部全体がグループ会社「コーエーテクモクオリティアシュアランス」(KTQA)となり,そこで部長を務めております。
4Gamer:
また新たな部署ですが,CS部とはどのようなものですか。
阿野氏:
ユーザーサポートの担当部署です。主に,顧客から寄せられた意見・要望を精査して,開発に回し,顧客への返信内容を考えます。
CS部ももとはポータルサービス部の隣で仕事していたため,業務内容を深く知っていたわけではありませんが,見知った人たちが働いていたことで飛び込みやすかったという背景があります。
4Gamer:
面識のあるなしは大きいですもんね。
阿野氏:
それと,CS部の専用ツールが同時期に入れ替わったのも味方してくれました。異動直後にツールが切り替わったことで,ある意味,全員が同じスタートをきれる環境になっていたわけです。
あと,初年度は「自由にやっていい」とも言われていたので,変えるべきことを変えやすかったのも個人的に助かりました。
4Gamer:
なら,業務自体はいかがでしたか。
阿野氏:
実際にやってみて,見方がガラッと変わりましたよね。本当に情けない話,CS部に入ってみるまで“顧客寄りの考え方”を真には理解しきれていなかったことに気付けました。
私も開発にいたころは「CSがいろいろ言ってくるなあ」と思うこともありましたが,今は会社自体が別々になったため,こちら側も開発側も互いに敬意を持ちやすいパートナーになれている気がします。
4Gamer:
顧客への返信もですが,開発にどう伝えるかも大切なんですね。
阿野氏:
そうですね。ゲームやガチャの仕様は決まっている。できないことはできない。けれど,時間やお金を使ってプレイしてくださっているお客さまの気持ちもよく分かる。それをどう開発に伝えるべきか。
当然,開発側もSNSなどの反応で事前に理解していることが多いです。そのため,もらった意見を単に横流しするのではなく,いかに分析してまとめて,未来に生かしてもらえるかが大事になります。
4Gamer:
難しそうな。意見を情報に加工して,知見に変えるわけですから。
阿野氏:
極論,「最近こういう意見が多いですよ」と開発に伝えるだけでも効果はあります。ただ,彼ら自身も分かりきっていることなら,そのゲームの今後に役に立つかはまた別の話になってしまう。分析しないと価値を付加できないことも多いので,工夫のしがいはあります。
4Gamer:
そのうえで,最重要なのが顧客への返信なんですよね?
阿野氏:
はい。お客さまに満足してもらえる返事をできるかは,常に一番難しい業務です。自分でもまだ足りないと思っているので,日々精進です。
4Gamer:
開発のころも踏まえると,自由さが上向きの決め手なんですかね。
阿野氏:
いえ,運がよかったのだと思います。仕事しやすかったのは事実ですし,昔は今よりも少人数でゲームを作れたからってのもありそうですが,どれもそのときどきに,たまたまうまくいったと解釈しているだけかもしれないので。結果につなげられなかったこともけっこう多いです。
単に,34年もいると良いとき悪いときがあるという話です。
4Gamer:
30年あれば人間,波の一つや二つはそりゃあると。
阿野氏:
そのとおりです。
4Gamer:
ちなみに,近年の新入社員などに思うことはありますか。
阿野氏:
この立場や年齢になると,なかなか新入社員と直接接点を持つことは減りましたね。ただ,当社ということではなく,あくまで私が感じる最近の若い人たちの印象としては,決断が早いなと。会社に入ってみたものの「自分に合わないときはすぐに辞めてしまう」などの。
昔からそういう人はいましたし,時代や職域に対して一概に言えるものではない気もしていますけど。
4Gamer:
それでも,似た話は近年のトピックでよく目にしますよね。
阿野氏:
まあ,私も若いころに今の時代に生きていたのなら,会社を辞める決断を早くにしていたのかもしれませんし(笑)。
それと働き方でいうと,きっちり定時に帰るという意識の人が多くなりました。当然仕事によるとは思いますが,若い人ほど定時に帰り,仕事と私生活の線引きがしっかりできている印象は受けます。
4Gamer:
時代ですよねえ。私も一昔前と比べると日々の時間がかなり増えましたほうですし。今の若い人たちがそういう潮流に持っていってくれた一因だったのならば,逆にお礼しなければといった心境です。
阿野氏:
もはやできるだけ残業しない時代ですからね。私も昔は,上長が残っていると先に帰りにくいみたいな空気を感じていました。
4Gamer:
あらためてですが,阿野さんは開発のみならず,さまざまな業種を渡り歩いてきたものの,当初はゲームを作りたくて入社した。この先がどうなるかは誰にも分かりませんが,最終的にゲームを作らない立場となった今の心境は,失礼ながら,どのように感じているのでしょう。
阿野氏:
いやあ,あれですね。会社というのはとどのつまり,どの部署にも役割があって,必要だから存在しているわけで。私は“その一部を任せてくれている”と捉えているので,長らくゲームを作っていなくても,そこに関してはネガティブに考えてはいません。
どちらかというと,配属された場所で貢献できないこと。とくにモバイル課に移ってからはそういうことが増えたため,自分がなにも成せていないことに落ち込むことのほうが多かったです。
4Gamer:
CSも目に見える成果となると,パッとは可視化されなさそうな。
阿野氏:
ええ。けれど,成果が目に見えるか見えないかは別の話です。
目標としたことを達せたかどうかは自分で測れますから。
4Gamer:
なるほど。ならば阿野さんは現在57歳(2023年12月時点)とのことですが,定年まであと3年。今後について考えていることはありますか。
阿野氏:
うーん,仕事に関してはこれからもがんばりますが,少し前は「早く60歳にならないかなあ」と考えていたことすらありました(笑)。
4Gamer:
いやほんと。私としてはそれが“一番前向きな夢”と言いますか。
まだ若輩なものの,共感しかないゴールはそれというか(笑)。
阿野氏:
ただ危惧もしています。私は無趣味というか,やりたいことがないんですよね。家にいても家族にお荷物扱いされたり(笑)。
ですから,今のままスッと定年退職してしまうと,最初の1か月は休みを満喫できても,すぐに飽きる気がしているんです。
だからその後を考えると,例えば仕事でも趣味でも,自分がまだ社会で役に立てることがないかは考えたいと思っています。
4Gamer:
あー,先達からよく聞く系の。
阿野氏:
定年後も新しいことに触れたり,なにかしたりしていないと社会から取り残される気がしそうで怖いんです。ニュース番組を見ても,ただ消化するだけで,なにも得ようとしなくなるんじゃないかって。
ですから34年と働いてきた結果,早く休みたい気持ちが一瞬上回ったときもありましたが,定年後の私にもこの会社でまだ役に立てるようなことがあれば,やらせてもらいたいと。今はその思いのほうが強いですね。
4Gamer:
仕事ではなく,趣味での代用は?
阿野氏:
独り身のときは好きなときに旅行に行ったり,お酒を飲んだりしていましたが,趣味と言えたのはそれくらいで。結婚後はどっちも難しくなりましたし,今は犬を飼っているので遠出も難しいんです。
しかも私,人となにかすることが苦手なんですよ。嫌いとまでいきませんが,例えばゲームでもマルチプレイやコミュニティとかがちょっと苦手で。1人でやりたいことは1人でやる気質なものでして。
4Gamer:
1人でゲーム作り,などはどうですか。
阿野氏:
ないですね。まったく考えてないです。定年後ですよね? ないですないです。たまに,一緒に革新などを作っていた人と話すと「もう1回くらいはゲーム作ってみても」みたいに思うことはありますが。
いやー,やっぱりないです(笑)。
4Gamer:
定年メンバーで作る,みたいなのもイイ夢に聞こえますが(笑)?
阿野氏:
いやー,ないですねえ。そもそも定年後も働くとしても,できれば週3くらいでお願いしますって思っちゃうので。
まあそれは冗談ですが(笑)。
4Gamer:
ああでも,そんくらいがいいですよね。
阿野氏:
そう。何事もちょうどよくがいいんですよ。
■コーエーテクモゲームスの人事コメント
キャリアを活かしながら時代の流れに合わせて会社と共に成長を続ける。コーエーテクモでは永く働き続けられる環境づくりに力を入れています。
「コーエーテクモホールディングス」コーポレートサイト
「コーエーテクモゲームス」公式サイト
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