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今回の黒川塾は,黒川氏の書籍「続編のないゲーム――クリエイターたちの美学、消えたプロジェクトの真相」の出版を記念したもの。同書では2025年10月16日に逝去したゲームクリエイター・板垣伴信氏も取り上げており,会場ではゲストが生前の氏にまつわるトークを披露した。登壇したのは以下の4名である。
※初掲時,板垣氏の逝去日に誤りがありました。お詫びして訂正いたします。
ロックスピリッツ 代表取締役 / アンチョビ 執行役員 CSO 兼松 聡氏
スクワッドスターズ 代表取締役社長 岡本好古氏
ナツメアタリ 東京事業所デジタルコンテンツ事業 シニアプロデューサー 風間紀明氏
VS Studio SNK 代表取締役 原田勝弘氏
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ゲストについて簡単に説明しておくと,兼松氏,岡本氏,風間氏はテクモ在籍時に板垣氏とともにゲーム開発に関わってきた仲である。兼松氏と岡本氏は,テクモ退社後に設立されたヴァルハラゲームスタジオやソレイユでも,板垣氏と仕事を続けている。
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原田氏はナムコ(当時)の「鉄拳」シリーズを手がけたことから,同じ格闘ゲームの「DEAD OR ALIVE」シリーズを手がける板垣氏にライバル視されたことで有名だ。
最初の出会いは,初代「DEAD OR ALIVE」が発表された直後,ゲームイベントの帰りにセガの「VIRTUA FIGHTER」チーム,そして板垣氏が同じ駅のホームに偶然居合わせたことだった。
格闘ゲームを手がける開発者同士ということで,一緒に飲みに行ったそうだが,そのときの板垣氏は非常に謙虚で原田氏と「VIRTUA FIGHTER」チームの間で繰り広げられた開発の話に耳を傾けていたという。
飲み会の終わりには,板垣氏から「原田さんはとても気さくで面白い方なんですね」と声をかけられたというエピソードも明かされた。
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しかしその数年後,板垣氏はメディアを介して原田氏と「鉄拳」シリーズを名指しで批判し始める。その勢いは,板垣氏が自身の嫌いなゲームワースト5のすべてに「鉄拳」ナンバリングタイトルを挙げるほど。これは「ライバルを仕立てることで,自身が作るゲームの存在感を高める」という,板垣氏の仕掛けたプロモーション戦略だったのが真相だ。
また,板垣氏が原田氏をライバルに選んだ理由の1つとして,直接の交流はなかったにしろ,2人が大学の先輩後輩という関係だったことも挙げられた。
そうした戦略の1つとして,兼松氏は板垣氏が「DEAD OR ALIVE 2」の開発現場に原田氏を呼び出したエピソードに言及。原田氏によると,板垣氏が「どうしても見せたいものがある」と直接ナムコに電話してきたそうだ。
原田氏がテクモに出向いたところ,芝居がかった調子の板垣氏に出迎えられたという。実際に原田氏が同タイトルをプレイしている最中,板垣氏はキャラクターセレクトでかすみを選択すると「いいチョイスだ!」と感想を漏らし,バトルが始まって少し操作した直後に「どう?」と質問するような状態だったという。
内心では「初見なんだから,そんなのすぐに分かるわけないだろ」と思っていた原田氏だったが,無難に「フィーリングいいですね」と応じたとのこと。
それを受けて板垣氏は,「ここは『鉄拳』のエッセンスを採り入れて――」「このスピード感は『VIRTUA FIGHTER』にはない――」といった説明を披露。挙句,「やっぱり感じるか!」と勝手に納得したり,「『鉄拳』はこういう計算でこの仕組みを作ってるんだろ。俺,分かってんだから」と解析したりする板垣氏の言葉を,原田氏はこれまた内心で「いや全然違うんだけどな……」と思いながら聞いていたそうだ。
さらに原田氏が帰ったあと,板垣氏がスタッフを集め「今日,俺たちはナムコに勝った!」と宣言したというエピソードも披露され,風間氏はその場に居合わせたことを明かした。
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言わばプロレス的な敵対関係だった板垣氏と原田氏。実際には,原田氏が自身の結婚式に兼松氏とともに板垣氏を招待するような関係だった。式に出席した板垣氏と兼松氏のロックスター然とした派手な出で立ちに,ほかの招待客がドン引きしていたという。
なお,よく知られている板垣氏のファッションは,「テクモの看板クリエイター」として売り出すために,兼松氏がプロデュースしたものであることも明かされた。それ以前の板垣氏は,兼松氏によるとTシャツとジーンズを身に着けた普通の青年だったという。
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兼松氏は,テクモ在籍時から退社後しばらくのあいだ,板垣氏とともに仕事をしており,二人三脚のような関係にも思える。しかし,板垣氏の勤務態度などが原因で,氏が逝去する1年ほど前までは,口も利かないような期間が数年続いていたそうだ。
テクモ時代から2人とともに長年過ごしてきた岡本氏は,勤務中の距離感が問題になったのではないかと語る。
すなわちテクモ時代はお互い手を組んで業績を上げていた2人だったが,ヴァルハラゲームスタジオ時代は隣同士の席に座り,それまで見えていなかったこともお互い見えるようになった。そこに業績も振るわないとなると,やはり人間関係も悪くなるというわけである。
岡本氏は「お互いに不満を持っていたはずで,どちらがどうということではなく,2人の関係をよく知る自分がもっとうまくやれたらよかったという反省がある」と話していた。
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ゲームクリエイターとしての板垣氏に関する話題になると,テクモ時代に風間氏が書いたメモが披露された。
それによるとゲームの開発終盤には,「全検」と呼ばれる工程が組み込まれていたという。その工程は,23:00頃に出社した板垣氏が翌朝5:00まで執務室で開発バージョンをプレイヤー視点でプレイし,違和感を覚えた部分などの修正指示を書き出すというものだ。
板垣氏は「次までに直しとけよ」と言い残して帰宅してしまい,スタッフは23:00まで寝ずに修正することになる。その根底には「作り手がどんなに大変だろうと,ゲームを遊ぶ側にとっては知ったことではない」という思想があり,風間氏は「最終的なブラッシュアップにはものすごく貢献していた」と振り返った。
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そうした板垣氏のビジョンにスタッフが共感できていたか,という問いに対して,風間氏は否定の言葉を述べる。
一方で岡本氏によると,当時のテクモには「1年に1本以上ゲームをリリースする」という使命があり,板垣氏にはそれを実行して会社を大きくしていった実績があるという。そこにスタッフは全員がコミットしており,「この人の言うことについていけば上昇できるという感覚を持っていた」と語った。
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原田氏によると,板垣氏はゲーム開発に対して「よく言われる面白さやシステムなどではなく,実際はビジネスモデルで決まってしまう」という話をしていたという。
たとえばアーケードゲームは,1コインで1時間プレイされるとまったく稼ぎにならない。そのため,3分という時間でプレイヤーが面白いと思える体験を提供しなければならないというわけである。
そうした制限のなか,1990年代までは1年前後の開発期間で1つのゲームをリリースでき,その積み重ねが開発者としてのキャリアを形成した。しかし現在は,1つのゲームがリリースされるまでの開発期間が3〜5年になることも普通で,さらにはさまざまな事情でキャンセルされることもある。
22歳で参加したゲーム開発プロジェクトが,27歳のときにキャンセルされたとなったら,その5年間のキャリアはなかったことになってしまうわけだ。板垣氏はそういったことも考えていたという。
それを受けて岡本氏は,2008年に設立したヴァルハラゲームスタジオが,2015年にようやく1作目の「Devil's Third」をリリースできたことに言及。長引いた開発期間中に,ゲームを取り巻く環境が大きく変わってしまった。
とくにオンライン対戦に関しては単純な勝敗だけではなく,離脱されないよう敗者側をしっかりケアしないといけないという話が出てきたのだが,勝負事へのこだわりがある板垣氏は,そこにジレンマを抱えていたのではないかと語った。
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風間氏は,板垣氏が対外的に「ゲームにこだわる姿勢」を示していた一方で,「ゲームじゃなくてもいい。きちんと稼げればいいんだ」と本音を漏らしたというエピソードを披露し,根底では「お金を稼ぐ」というビジネス的なミッションを重視していたと指摘する。
岡本氏もまた「自分が好きなもの,作りたいものを作ってはダメだ」という板垣氏の持論を明かした。板垣氏が,世間一般に語られているイメージとは異なり,ゲームクリエイターとしての独自の哲学をもってゲーム開発に臨んでいたことが改めて示された。
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