連載
【鈴木謙介】「〈ゲーム〉にエンディングは必要か」
鈴木謙介 / 社会学者
鈴木謙介の「そこ見るんですか?」 |
映画を超えたエンディング
ゲームをクリアして,エンディングを眺めているときの気持ちというのは,いつも複雑です。
ラスボスとの戦いを終えた疲労感と達成感,これでこのゲームも終わりなんだという寂しい気持ち,あるいは,ストーリーの結末を見ることができた感動など,いろいろな感情が胸に去来するものです。
こう言うと,「どこの厨だよ」とおしかりを受けるかもしれませんが,僕は「ファイナルファンタジーVIII」と「ファイナルファンタジーX-2」のエンディングに,「ほうっ……」というため息を漏らすくらい感動したクチです。
ただ,最近はマルチエンディングのゲームも増えていて,一度エンディングを見たら終わりというわけではないことも多くなりました。そうすると,一つ一つのエンディングの価値が下がるというか,「はー。これで○○ルートもクリアかー」くらいのものになってしまいます。美少女ゲームや,最近はRPGでも見られるようになったトゥルーエンドなんかは大団円という演出が多いですが,それを見るためにはバッドエンドまで全部見ないとダメだなんてことになると,そのゲーム全体が,トゥルーエンドを見るための作業に費やされることになりがちです。
決して良い意味ばかりではありませんが,ある点では,ゲームのエンディングは映画を超えたのだな,と思います。
映画好きの人の間では,エンドロールの最中に席を立つ人は嫌われますが,そういう人を見越してなのか,たまにエンドロール後にもアウトロっぽいシーンが入る映画があります。そうなると,観客は否が応でもエンドロールを見なくてはいけなくなるわけですが,「エンディング過剰」の昨今の一部のゲームは,場合によっては映画以上にエンドロールの押しつけになることがあります。
しかしそもそも,ゲームに「エンディング」って必要なんでしょうか。物語として,あるいは制作上の都合として必要性があるのだとしても,〈ゲーム〉を考えるうえで,エンディングが果たす役割って何なんでしょうか。
今回は,ちょっと内容批評的なところにまで踏み込みつつ,「エンディング」をテーマに考えていきます。
〈ゲーム〉に終わりはない
実は,遊ぶということの本質,つまり〈ゲーム〉に終わりはありません。もちろん,ポーカーでも麻雀でも,1ゲーム,2ゲームと数えられる,単位としてのゲームの終わりはあります。ですがこれらは,一つのゲームが終わっても次のゲームに続いていくというのが普通のスタイルです。
そのゲームの流れをいつ終わりにするかということは,〈ゲーム〉の内在的なルールの中には書かれていません。ギャンブルであればタネ銭が尽きるとか,鬼ごっこなどといった子供の遊びなら「カラスが鳴くから帰ろう」とか,〈ゲーム〉の外にある条件が,その終わりのタイミングを決めるわけです。
もちろん将棋などのように一つのゲーム,すなわち(一局)が長時間にわたる場合,次のゲームに続くというのは難しいかもしれませんが,「一局終わったらもうその日は次の局を打ってはならない」などというルールはありません。
同じようにビデオゲームにも,「一度エンディングにたどり着いたら,もうそのゲームをプレイしてはならない」という縛りは存在せず,ハイスコアや最速クリアを目指してやり込む,「強くてニューゲーム」に挑戦する,あるいはクリア後の世界をプレイするなど,ゲームをプレイし続けるというケースも普通にあり得るのです。
こうしたゲームの特徴は,ビデオゲームに対するよくある批判,つまり「ゲームはプレーヤーを中毒状態にさせ,日常生活を破壊するものだ」という話の根拠にもなります。
そのため,ゲームの設計の中にも,たとえばセーブポイントを増やすとか,チャプターでお話を区切るといった形で,ゲームを中断しやすい仕掛けを盛り込むことが求められます。
逆に,オンラインゲームなどのようにパーティを組んで,複数人での行動が求められるゲームの場合,こうした仕掛けがうまく機能しなくなる可能性が高まります。
また,ゲームを強制的に中断させる仕組みとして,一部の携帯電話向けゲーム(とくに乙女ゲー)で採用されているような,一日にプレイできる範囲を制限するというものもありますが,これは月額利用料を長期にわたって徴収することで成り立つビジネスモデルが背景にあるので,少し事情が違うと思います(ゲームが終わっても,登場人物からのメールが届くなどの仕掛けでプレイヤーを飽きさせないのはさすがだと思いますが)。
「ゲームの終わり」の哲学的考察
そして「不可能性の時代」(2008年)では,「CLANNAD」などの美少女ゲームを挙げつつ,同じくゲームのエンディングについて論じています。大澤氏の議論はとても難解に見えますが,問題関心と基本的な構造は一貫していて,シンプルです。
それは,「オタクはなぜエンディングを求めるのか?」という問いを立て,それを彼独自の「第三者の審級」という概念で読み解くというものです。
と言われても,まず「第三者の審級」が分かりませんね。これは簡単にいうと,神様が信じられなくなった時代に,私達が神様の代わりにしている「なにか」のことです。
そこにはいろんなものが入るのですが,大澤氏の説によると,オタクというのはこの「なにか」が,非常に自分の内面に近い存在であるというのです。
そういえば確かに,アニメでも美少女の姿をした神様はよく出てきますし,2ちゃんねるでもニコニコ動画でも「神!」とかよく言いますけど……。
ともあれ,この神様の代わりの存在は,かつての神様と同じく,運命だとか世界の成り立ちだとかに関わる,決定的な存在でなければいけないわけです。ですが神様の考えることなので,その決定打は,世界が終わる瞬間まで分からないというのが,キリスト教をはじめとする宗教によくある話。
で,オタク達がゲームのエンディングを求める気持ちは,この宗教における神様の審判を求める気持ちと似ているというのが大澤氏の考えなのです。
例えばゼビウスのエンディング。これはゲームシステム上は存在しないものなのですが,当時のゲーマー達の間では,ある条件を満たすと隠れキャラである「タランチュラ」が登場し,「ゼビウス星」が現れるという噂が広まったのでした。
隠れキャラが大量に登場する同作だけに,この噂は根強くささやかれ,ゲーマー達のやり込み意欲を煽ったのです。
ここでのエンディングとは,要するに無限ループするゼビウスの世界に終わりをもたらす決定打ということになります。同じように,CLANNADや「ひぐらしのなく頃に」といった作品を挙げつつ大澤氏は,無数のエンディングを経験することでたどり着く「トゥルーエンド」を,世界に決定的な意味をもたらす「終わり」への欲望の表れと論じています。
確かに,美少女ゲームのトゥルーエンドでたどり着くのは,ゲームクリア後の世界を共に生きる「運命の相手」との恋の成就だったりすることが多いですね。
こうした哲学的考察にどんな意味があるのか,人によって反応は分かれると思いますが,ここまで述べてきた「〈ゲーム〉には内在的な終わりは指示されていない」という主張を踏まえたときには,とても興味深いものになることは確かです。
というのも,〈ゲーム〉がそれ自体で終わらないとすれば,それを終わらせる手段は,おそらく次の二つのどちらかだからです。
一つは,〈ゲーム〉をプレイしている人達が飽きる。あるいは,時間的な限界がくること。
もう一つは,自分の中で納得のいく「終わり」の基準を作り,それを達成することです。
前者は,一般的な鬼ごっこやかくれんぼなどの遊び,あるいは「モンスターハンター」シリーズなんかが当てはまるでしょう。塾帰りの子供達がたむろしてPSPを突き合わせてミッションに出ている姿を見ていると,それが古典的な「子どものみちくさ遊び」の延長線上にあることがよく分かります。
彼らは帰宅しなければいけない時間いっぱいまで,画面の中の世界で〈ゲーム〉をプレイするわけです。逆にオンラインゲームの「廃人」達は,こうした限界をさまざまな理由で突破せざるを得なかった人達(あるいは,突破したかった人達)だといえそうです。
後者には,それぞれの基準で〈ゲーム〉をやり込む人たちが挙げられます。最近も4Gamerで「怒首領蜂 大往生 デスレーベル」のクリア者の記事が掲載されていましたが,そこで語られる「終わり」に向けた徹底的な合理化の精神は,マックス・ヴェーバーが資本主義の精神として描いた宗教的エートスそのものだ,などといいたくなります。
トゥルーエンド達成,全CGコンプ,最速クリア,最弱クリアといった「自分基準」で〈ゲーム〉の終わりを作る人達は,まさに終わりなき〈ゲーム〉の世界を終わらせようとする点で,大澤氏の議論と似たような要素を持っているのだと思います。
延長される「終わり」
ただ昨今,大澤氏の言う説に必ずしも当てはまらない現象が見られることも事実です。たとえばPC向けアダルトゲームの世界では,よく「ファンディスク」や「スピンオフ」のような形で,すでに発表されたゲームの後日談やアナザーストーリーが発売されることがあります。
日本ファルコムの名作「英雄伝説 空の軌跡」も,新シリーズ「零の軌跡」が発売されたことだしと思って,積んでた「3rd」をプレイしてみたら,全体的に前日談や後日談が続いていて(相変わらず面白いのですけど)ちょっと間延びしているところです。
そのほか,同人誌やネットで発表されるショートストーリーなども含めれば,オタク業界としてはむしろ大澤氏のいう「終わり」を,本当の「終わり」にせず,どこかに自分だけの,本当の「トゥルーエンド」があるんじゃないかと,いつまでも探し求めるような動きのほうが目立ちます。
僕自身はこうした「本当のもの」を求めてながらも,いつまでも得られないがゆえに「これこそ本物だ!」と盛り上がれるようなものを求める動きを「カーニヴァル」と呼んだことがあります。ですが,ともあれ「終わり」が本当に「この〈ゲーム〉の終わり」になるかどうか,ちょっと難しいところだと思います。
当然,この背景には産業としてのゲームという問題があります。ゲームソフトは,いつまでも同じものを遊ばれても困るし,ある程度の値段をつけなければいけないだけに,すぐに終わってしまうようなものでも困ります(でなければ,内容と価格が見合ってないと批判されかねません)。
また,開発コストや資金繰りを考えれば,一度完結した物語であっても,ファンの要望に応える形で「終わり」を「なかったこと」にしてしまわなければならないケースもあるわけです。
この「終わらせないといけない」と「終わられては困る」という矛盾した課題に取り組まなければいけない点は,ほかの産業でも似た部分があります。しかし,内在的に「終わり」を示せないがゆえに,なんらかの「エンディング」を盛り込まなければいけないゲームという表現では,とくに難しいものになります。
もちろん,ある程度のプレイ時間を見越した設計に,「これこそもう次のない終わりだ!」と思えるようなエンディングを組み込むことが,その解決につながるのでしょうが,口でいうほど簡単なことではありません。
そう考えると,たとえエンディングがインフレを起こしていても,映画と同じく,毎回スタッフロールをスキップせずに見るべきなのでしょうね。
■■鈴木謙介(関西学院大学准教授)■■ 社会学者として教鞭を執る傍ら,TBSラジオ「文化系トークラジオ Life」やNHK教育テレビ「青春リアル」に出演中。今回のテーマである「エンディング」のために,積み気味なゲームを最後まで終わらせるつもりだったそうですが,「ファイナルファンタジーXIII」に「Steins;Gate」,ついでに4Gamerでは取り扱わない系統のPCゲームまで含め,クリア手前で止まったままだとか。子供の頃と違って「買えてしまう」からこその悲劇といったところでしょうか。 |
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