連載
レトロンバーガー Order 71:「アイドルマスター」最新作が発売されたから,アイマスに至るゲーム史を振り返ってみようか(1970年代から)編
消しゴム版画家兼コラムニストだったナンシー 関氏は,朝日新聞社(当時)の「週刊朝日」に連載していた“小耳にはさもう”(1996年3月6日付回)で,このように述べました。
近年,アイドルを題材にしたゲームが「溢れかえっている」と形容できるほどに増えていることは,皆さんもご存知の通り。関氏の述べた切り口から考えてみると,今は「ゲームおよびゲームのキャラクターが,プレイヤーとの“関係性”や“状態”を構築できるだけの表現力を獲得することに成功した」時代だと言えるかもしれません。
そんな“関係性”や“状態”を追求することで「アイドルゲーム」を確立したと言っても過言ではないのが,バンダイナムコエンターテインメントの「アイドルマスター」シリーズ。そして,その最新作である「アイドルマスター スターリットシーズン」(PC / PS4)が,2021年10月14日に発売されました。
「アイドルマスター スターリットシーズン」が本日リリース。追加DLC“みんなからのメールセット”やTOARISEコラボ衣装などを配信開始
バンダイナムコエンターテインメントは本日,アイマスシリーズの最新作「アイドルマスター スターリットシーズン」を発売した。本作は,シリーズ4ブランドのアイドルが所属事務所の垣根を越えた「プロジェクトルミナス」をマネジメントするアイドルプロデュースゲームだ。
「アイドルマスター スターリットシーズン」公式サイト
「アイドルマスター」の初代(アーケード版)がリリースされたのは15年前。15年前ということは「ソウルエッジ」が出た頃の「ギャラガ」,「鉄拳6 BLOODLINE REBELLION」が出た頃の初代「鉄拳」,「機動戦士ガンダム ガンダムVS.ガンダム」や「機動戦士ガンダム 戦場の絆 REV.2」が出た頃の「機動戦士ガンダム」(バンプレストの格ゲー)と同じくらいの“レトロゲーム”です。IPとしての「アイドルマスター」は現行コンテンツなので,レトロゲームと言われると戸惑う人もいるとは思いますが,“レトロゲーム”認知のアップデートは実時間の進行に対して遅く,ゲームがリリースされてから後に復古されるまでの期間が指数関数的に増える傾向にありますので(とOrder 41の「俺ナムコットコレクション」回でも述べましたが),本連載では10年以上昔のタイトルなら「1990年代に1980年代のゲームをクラシックだレジェンドだと言ってたんだからレトロゲームだよ!」と強弁する次第です。
そして「機動戦士ガンダム」(バンプレストの格ゲー)と言えば,それと同じくバンプレスト発売・アルュメ開発でリリースされたアップグレード版の「機動戦士ガンダム EX REVUE」もありまして,同作にはゲームオリジナルのモビルスーツ・ドルメルが登場するわけですが,2009〜2013年にKADOKAWAのガンダムエースで連載された漫画「機動戦士ガンダム カタナ」において,「Gジェネレーション」シリーズからのグロムリン登場に続いてドルメルが登場したことには驚かされると共に,そうなると「機動戦士ガンダム カタナ」で重要な役どころを担ったガンダム試作2号機もGP-02と呼ぶよりか,これまたバンプレスト発売・アルュメ開発の「SDガンダム ネオバトリング」での“アトミックガンダム”という名称が脳裏をよぎるわけですが(でもGP-01は“スターダストガンダム”呼称じゃなかったのが今思うと不思議ですね),それならイスコ開発の「機動戦士SDガンダム サイコサラマンダーの脅威」に登場したサイコサラマンダーやEIM開発の「SDガンダム三国志 レインボー大陸戦記」登場したオリジナルモビルスーツ群も何らかの形で復活することを期待したい思いもありつつ,ところで余談ですが「SDガンダム三国志 レインボー大陸戦記」のプロデューサーおよびビグ・ザムなどのドット絵を担当したのは,EIMの代表を務めていた飯野賢治氏であるということを筆者は今年の頭ごろに知って驚いたりもしましてですね。
いえ間違えました。今回はガンダムでも「Dの食卓」でもありません。
そうそう,初代「アイドルマスター」の話をしていましたね。つまりコレです。
コレが「アイドルマスター」のインストールされた「SYSTEM256」基板(筆者私物)です。SYSTEM256というのはナムコから2000年代後半にリリースされたシステム基板で,PS2互換の「SYSTEM246」基板にCPUのクロックアップやVRAMの増設などを施した上位モデルとなっています。要は“つよつよPS2”ですね。PS2と言えば「ゲームセンターCX」でもプレイが解禁されましたし,やっぱりレトロゲームですよ。レトロゲーム。
15年前の機械ですので,ヤングは「ナムコが改造したPS2でアーケードゲームが動いていたの!?」と驚くかもしれませんが,そういったいろいろモロモロうねうねクニクニがあって今日のゲーム市場の礎が築かれています。そんなわけで今回は「ゲームのキャラクターが,プレイヤーとの“関係性”および“状態”を構築できるだけの表現力を獲得することに成功」するまでのゲーム史(※せっかくなのでナムコ基軸)を,近年のインタビュー記事などもチラ見しつつやっていきましょう。2000年頃の話や,こういう角度からの話って,総括する機会が意外と稀ですし。
……あ,「アイマスの記事だ!」とアクセスしてきた人がいるかとは思いますが,この後アイマスの話はほとんど無く,マガジンハウス「BRUTUS」誌のNo.933みたいな“IPやコンテンツとしてのアイマス”を追った話はマジで皆無な,その方向では極めて薄味のラジオはアメリカンでして,こういう“ラジオはアメリカン”的な形容をキャッチできるできる方でしたら,まあ面白いんじゃないかという話が延々続くわけですので,騙して悪いが仕事なんでな(ランバージャンヌ)。今この瞬間は力こそが全てだ!(ジノーヴィー) アビスへようこそ!(スティンガー) やるんなら本気でやろうか! そっちのほうが楽しいだろ!(まあVDはバンダイナムコゲームスとの共同開発だったりしたしね!?)
※事実や出来事に対する見解や解釈等は,あくまで個人のものです。
※記載の内容には編集部調べのものが含まれます。
ナムコと,バーチャとソニーとゲーセンと
アーケードゲームの基板というのは,黎明期にはハードウェアとソフトウェアが不可分のものでした。例えばAtariの「PONG」(1972年)などは,ロジックICを組み合わせるTTL(Transistor-transistor logic)方式でゲームを作っていたので,「ハードウェアの設計自体がソフトウェア」であったと言えます。ほーら,さっそく時計の針が吹っ飛んじゃったよ。ちなみに「パックマン」を制作した岩谷 徹氏によると,ナムコはIntel 8080を用いた「ジービー」(1978年 / アーケード)でビデオゲーム開発をスタートしたため,TTL式のビデオゲームは作っていなかったそうです。もちろんエレメカではTTLを使っていて,その一端はアソビモットの“バンダイナムコ知新”の第1回で大杉 章氏によって語られています。
岩谷徹第2回インタビュー前半: ナムコビデオゲーム黎明期の開発体制(pdf)
バンダイナムコ知新「第1回 ビデオゲームのはじまり 前編」大杉章氏インタビュー
「ハードウェアの設計自体がソフトウェア」の時代は,基板を改修しても根本的なゲームの設計を変更することは困難でしたが,CPUやROMを使用する基板では「実装するROMを変えることで,動作するゲームを変える」ということが可能となりました。ソフトウェア交換の萌芽と言えますが,当時の方々のインタビューなどでよく語られるのが,「既存の基板を“改造”して新しいゲームを作った」との言い回しです。遠藤雅伸氏が「マッピー」の基板を改造して(発言によっては”再利用”とも)「ドルアーガの塔」を作ったという話は有名ですね。つまり「ゲームAが動いているゲーム機」から「ゲームBが動いているゲーム機」へ切り替えることが,「ソフトの交換」という認識にはなっておらず,まだ概念的にはハードウェアとソフトウェアが一体だったようです。
複数のゲームが展開されることを前提として設計された,ソフトウェアとハードウェアが分離しているゲーム基板は「システム基板」と呼ばれます。ナムコが明確にシステム基板であるとした最初の基板は「SYSTEM86」(1986年〜)でした。
ちなみにシステム基板はソフトウェアをオペレータの任意で交換できるもの(ナムコのNA-1や,SNKのMVSなど)と交換できないもの(ROMを基板に直接取り付けたもの)で,さらに大別できますが,掘り下げると果てしないので割愛します。それにSYSTEM86は黎明期のシステム基板ゆえゲーム交換はICの抜き差しやジャンパの配線替えによるものだったので,「まだ実質的に基板改造の世代」だと言えるかもしれませんし,逆に「バラデューク」や「ドラゴンバスター」(ともに1985年 / アーケード)などに使われた前世代の「パックランド」(1984年 / アーケード)基板は,もしかすると他タイトルの改造を前提として設計された「実質的なシステム基板」だったかもしれません。変化の過渡期は分類が難しいですから……。
SYSTEM86に採用されたCPUは,MotorolaのMC6809。その後もナムコは当時のアーケードゲーム業界における標準仕様と言えるMotorola製CPUを採用し,「オーダイン」や「バーニングフォース」などの「SYSTEM II」基板(1988年〜)や,それに3D演算LSI・ポリゴナイザーほかを追加実装した「ウイニングラン」や「スターブレード」などの「SYSTEM21」基板(1988年〜)ではMC68000系が使われています。なお巷には“ポリゴナイザー”を SYSTEM21の別称とする説もあったりしますが,2004年に「湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE」公式サイトで現・バンダイナムコアミューズメント プロダクトビジネスカンパニー クリエイティブフェローの小山順一朗氏が述べているところだとLSIだそうです。
「ドライブゲームの黒歴史その2」の巻
その一方で1990年代,3DCGのゲームが珍しくない時代になると基板や筐体のコスト高騰が問題となってきて,ナムコは「根本的に新しいシステム基板」の必要性に迫られました。また同時期,ナムコは自社製家庭用ゲーム機の展開も計画していて,開発に試行錯誤を重ねていました。これらの詳しい話は黒川文雄氏の“ビデオゲームの語り部たち”第4部を参照してほしいのですが,石村繁一氏いわく「何年もの間現れては消えるを繰り返し」が続く中で,ナムコはソニーの久夛良木 健氏にアドバイスを求めます。
ビデオゲームの語り部たち 第4部:石村繁一氏が語るナムコの歴史と創業者・中村雅哉氏の魅力
メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏が,ビデオゲームの歴史で記録・記憶しておくべき人々や場所などを振り返る連載「ビデオゲームの語り部たち」。第4部では,ナムコ(当時)の社長を務めた石村繁一氏が,同社の歴史や創業者である中村雅哉氏のエピソードを語っています。
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- ライター:黒川文雄
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久夛良木氏は,アドバイスどころかナムコのハードウェア開発自体を否定し,ソニーの発表を待つように告げたそうです。そして後にソニー・コンピュータエンタテインメントから公表されたPlayStationは,ナムコに「これは競うより相乗りした方が得だ」と思わせたとか。まるで「美味しんぼ」の山岡士郎みたいなムーブです。ドチャクソ余談ですがファミリーコンピュータ用ソフト「美味しんぼ 究極のメニュー三本勝負」を発売した新正工業は(系譜的には)現・プレックスでバンダイナムコグループの一員……と言うか創業者がバンダイ創業者でもある山科直治氏なので,もともとバンダイとは兄弟みたいなもの。開発したトーセは近年だとバンダイナムコエンターテインメントの「SCARLET NEXUS」(PS5 / PS4 / Xbox Series X / Xbox One / PC)を手がけるなどしていて,歴史の妙を感じますね。アンキモ,アンキモ,アンキモ!
また,筐体や基板の価格が高騰傾向にあったアーケードゲーム市場で,ナムコはPlayStationアーキテクチャを流用した比較的安価なアーケード基板を構想し,SCEと交渉します。そこから誕生したのが,ナムコのPlayStation互換基板である「SYSTEM11」と,その第1弾タイトルである「鉄拳」でした。以降のナムコは,ハイエンド志向のSYSTEM2x系と,PlayStationベースのSYSTEM1x系によるハイローミックスでのゲーム展開をしばらく続けることとなります。ちなみにアーケード版「リッジレーサー」はMC68020搭載の「SYSTEM22」基板なので,PlayStation版は移植というよりも「別に作った」ようなものであり,開発に携わった岡本達郎氏が“バンダイナムコ知新”第2回で述べたところによると「よく別々に『リッジレーサー』作れたね」と驚きをもって評価されたそうです。
バンダイナムコ知新「第2回 カーレースゲームの変遷 前編」大杉章氏、岡本進一郎氏、岡本達郎氏インタビュー
ナムコのハードウェアを時系列順に見てみると「いろいろと試すよりも,規格を共通化・継承させて開発を効率化させよう」という思想が感じられます。また,SYSTEM2x系最後の「SYSTEM23」基板ではMotorolaのCISC系CPUではなくRISC系CPUのR4650(PlayStationに使われたR3000Aシリーズの後継にあたるもの)を採用し,コンシューマとアーケードの開発アーキテクチャを統一する方向に向かっていたようです。オールドナムコファンであると同時にオールドセガ派閥でもある筆者は「そりゃナムコからセガサターン用ソフトが出なかったわけだよ」と真顔になったりします。
ただアーキテクチャを共通させても,FlashROM / CD-ROMのアクセス速度差をはじめとしてハードウェア的な制限や性能差はいかんともしがたいため,「SYSTEM12」(SYSTEM11の上位機種)でリリースされた「ソウルキャリバー」は移植先がドリームキャストだったり,逆にドリームキャスト互換のNAOMI向けだったカプコンの「機動戦士ガンダム 連邦 vs.ジオンDX」はPS2版がドリームキャスト版より先に出たり,そういうケースがしばしばありましたが。まったく難儀な時代だったよ!
閑話休題(それはともかく),SCEにとっても「アーケード向けのPlayStation」という話は渡りに船だったのではないでしょうか。かつてSCEの取締役会長を務めた丸山茂雄氏は,2012年の黒川塾(弐)で「PlayStationのコンセプトを明確にしたのは,セガの『バーチャファイター』」だったという旨を述べています。まだ未知数だった「3Dポリゴンのゲーム」を育てる土壌としてアーケード市場を欲したのでは……というのはあくまで筆者の予想ですが,実際のところSCEとカプコンの協力による「ZN-1」,タイトーによる「FX-1A」,KONAMIによる「GVシステム」,テクモによる「TPS System」,そしてナムコの「SYSTEM10」(SYTEM11の廉価版)のような派生バージョンなど,PlayStation互換基板は1995〜1997年にかけて「ちょっとした試み」ではないレベルで複数社からリリースされています。
PlayStationが成功したのは,バーチャファイターのおかげ――元祖“次世代ゲーム機戦争”の現場で,PlayStation事業の当事者達は何を考えていたのか。SCE創業メンバーが当時を振り返った「黒川塾(弐)」レポート
2012年8月31日,メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏が主催するトークイベント「エンタテインメントの未来を考える会 黒川塾(弐)」が,東京都内で開催された。ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の創業メンバー3名をゲストに迎え,初代PlayStationの立ち上げ当時についてトークが繰り広げられた。
SCEと早くからコンタクトを取っていたうえ,アーケード展開の先駆けにもなったナムコは,任天堂の態度硬化やセガとのライバル関係もあり,PlayStation陣営の旗頭と言えるような存在になります。そういったスタンスをナムコ自身が表明していたわけではありませんが,「鉄拳3」でレイ・ウーロンの「好きなもの」が「SONY製品(CMに出演したことがある)」となったり,1999年にSCEのIPを使ったアーケードゲーム「ウンジャマ・ラミーNOW!!」がナムコからリリースされたりといった部分で,ユーザー的には「ナムコは親ソニー」の印象が強いところです。そりゃナムコからセガサターン(以下略)。
そこから「PS2互換のアーケード基板も作ろう」というプロジェクトが立ち上がるのは,ナムコとしてもSCEとしても自然な流れだったでしょう。2000年2月,SCEはPS2をベースにしたアーケード基板を供給することと,発表時点ですでに30万枚の基板を出荷していることを発表。同年8月,ナムコはPS2ベースのマザーボードと自社製のインターフェイスを組み合わせたSYSTEM246を発表し,翌月の「第38回アミューズメントマシーンショー」で第1弾タイトルの「リッジレーサーV アーケードバトル」をお披露目しました。そしてPS2の欧州発売日とオーストラリア発売日に挟まれた同年11月28日,SYSTEM246および「リッジレーサーV アーケードバトル」の稼働がスタートします。
「プレイステーション2」業務用基板の供給を決定(pdf)
新システム第一弾は、「リッジレーサーVアーケードバトル」!!ナムコ、「システム246」(仮称)を発表、同時にメンテナンス・開発サポート事業を開始
ただ,2000年代初頭はアーケードゲームの転換期にあって,さまざまな規格が模索された時期でもあり,ほかにPS2ベースの規格を採用したのはKONAMIの「パイソン」基板くらいでした。さらに2000年代半ばからWindowsやLinux系OSを搭載したPCベース基板が普及し始め,PS3互換基板はバンダイナムコゲームス(当時)の「SYSTEM357」(2007年〜)のみ,かつバンダイナムコゲームスも「SYSTEM ES1」(2009年〜)からPCベース基板へと徐々に移行し,PS4はスクウェア・エニックスのアーケード版「ディシディア ファイナルファンタジー」に“業務用PS4”が用いられたものの,ついぞ互換基板は作られませんでした。
よく「歴史に“たられば”は無い」と言いますが,もし任天堂の「スーパーファミコン用CD-ROMのPlayStation」が頓挫しなかったら,もしセガが「バーチャファイター」で大成功しなかったら,もしナムコが自社基板開発に固執していたら……などなど,「もし歴史が少しでも違ったら,SYSTEM256や,それ用のゲームは無かったんじゃないか?」と思えるファクタは多数あります。当然,SYSTEM256用のゲームがシリーズ化して家庭用ゲーム機やスマートフォンでIP展開されることも無かったでしょう。
さて,そんなSYSTEM256向けに開発された「アイドルマスター」を特徴付けた(=それ以前のアイドルゲームや育成ゲームなどと一線を画した)最大の要素は,「3DCGのキャラクターが歌って踊る」ことです。これは大きく分けて,3つのコンテキストが影響しています。1つはゲーム音楽におけるサンプリング音源。1つは3DCGを用いた表現技法。1つはゲームにおけるキャラクターIP運用です。うん。今回はいつも以上に話が長いよ。
ナムコと,キングとバルーンとモー娘。と
まず「ゲーム音楽におけるサンプリング音源」について見ていきましょう。サンプリング音源自体は,ナムコの「キング&バルーン」やタイトーの「スペースサイクロン」,サン電子の「スピーク&レスキュー」(いずれも1980年)など,アーケードゲーム黎明期から利用されてきました。おいおい2000年頃まで行った時計の針がまーた過去へとスッ飛んだよ。
ピカイア |
マレーバク |
ちなみに“音声合成”と呼ばれる技術は幅広いため,巷で割と混同が見られるのですが,先述の3タイトルはDPCM(差分パルス符号変調)のサンプリング音声を8bitラダー抵抗のD/Aコンバータ経由で発声させる方式(有志調査によると「キング&バルーン」はNational SemiconductorのDigitalker MM54104に独自の音声を書き込んだもの)だったそうで,Century Electronicsの「Century Video System」基板(1981年)などで使われたTMS5100A(「Speak&Spell」で知られるTexas Instruments製TMS5100 / TMC0281のダイシュリンク版)のLPC(線形予測符号化),あるいはゲームアーツの「シルフィード」(1986年)などで使われたPC-8801mkIISR(以降)のYM2203によるCSM(複合正弦波モデル化)などとは割と別物ですから,注意が必要です。と言っても,脳味噌の代わりにメロンパンが頭蓋に詰まっているような筆者には難解すぎるので「言うなれば模写と戯画化や図形化みたいな差かな〜」と超ざっくりな認識をしているのですが。
サンプリング音源によって初めて“歌った”ゲームは,SNKの「サイコソルジャー」(1987年 / アーケード)だと言われています。このゲームは,アイドルとして活動していた清水香織さんのADPCM(適応的差分パルス符号変調)サンプリング音声とFM音源の伴奏による“歌”が流れることを特徴としていて,「TVゲーム業界に世界初 歌うゲーム誕生!」というキャッチコピーが付けられていました。いちおう,それ以前にもボイス音源をBGMに使おうという動きはあったのですが,セガの「カルテット」(1986年 / アーケード)の「OKI Rap」のような限定的な用法に留まっていました。
Amazon.co.jpの「Oki Rap (QUARTET)」販売ページ(試聴あり)
その後10年間ほど,ゲーム業界では歌を活用するための試行錯誤が続きます。ビック東海の「ゴルゴ13 第一章 神々の黄昏」(1987年 / ファミリーコンピュータ)やアイレムの「アンダーカバーコップス」(1992年 / アーケード)など,カラオケ演出で歌の“雰囲気”を盛り込もうとしたケース。イマジニアの「銀河伝承 ギャラクシーオデッセイ」(1986年 / ファミリーコンピュータ ディスクシステム)やスタジオパンサーの「神の聖都」(1989年 / PC-8801mkIISR以降)など,音楽CDをゲーム本編と別に制作したケース。メサイヤの「超兄貴」(1992年 / PCエンジン CD-ROM2)やセガの「ソニックCD」(1993年 / メガドライブ メガCD)など,CD-DA規格やCinepakコーデックによるデータ再生を利用したケース。セガの「デイトナUSA」(1993年 / アーケード)やアスキーの「ダウン・ザ・ワールド」(1994年 / スーパーファミコン),そしてナムコの「テイルズ オブ ファンタジア」(1995年 / スーパーファミコン)など,PCM音源を多用する力技でボーカル曲を成立させたケース。
そこにブレイクスルーをもたらしたのがKONAMIでした。フル尺でサンプリングした楽曲を前面に押し出したゲーム――「beatmania」(1997年 / アーケード)の登場と,大ヒットです。初期「beatmania」シリーズに使われた「DJ MAIN」基板は「システムGX」基板を改修したものですが,「システムGX」自体が「究極戦隊ダダンダーン」(1993年 / アーケード)や「ツインビーヤッホー! ふしぎの国で大あばれ!!」(1995年 / アーケード)でフルPCMのオンボーカル曲をバリバリ流していて,音楽面での性能が割としょっぱなからクレイジーゴナクレイジーでした。
初期の音楽ゲームは日本語ボーカルの楽曲は忌避されていた印象(容量削減のためにサンプリングレートを下げると日本語だと違和感が強いからでしょうか?)ですが,1999年になるとKONAMIの「Dancing Stage featuring TRUE KiSS DESTiNATiON」(アーケード)やコンパイルの「ぷよぷよDA!」(ドリームキャスト / アーケード)といった,日本語ボーカルをフィーチャーした音楽ゲームが登場してくるようになります。
にわかに沸き立った音楽ゲームのブームにナムコも乗ろうとして,先述の「ウンジャマ・ラミーNOW!!」のほか「ギタージャム」「クエスト フォー フェイム」「ミリオンヒッツ」(いずれも1999年 / アーケード)や,「TEKNOWERK」(2000年 / アーケード)をリリースしましたが,いずれも商業的には振るいませんでした。ただ,現・バンダイナムコアミューズメントのロケーションビジネスカンパニーテーマパークディビジョンマネージャー(ニュークリエイティブディビジョンマネージャー)執行役員である相木伸一郎氏が2018年にメディアに向けて語ったところによると,知名度が低かったころのモーニング娘。による「抱いてHOLD ON ME!」を,「ミリオンヒッツ」に採用したところ,ロケテストのときに多くのプレイヤーを集めることに成功したため,そこから“歌謡曲を使った音楽ゲーム”という構想が浮かび上がって,「太鼓の達人」に繋がっていったのだそうです。エンターブレイン・アルカディア編集部制作のムック「アイドルマスター プラチナアルバム」によると,「アイドルマスター」の企画成立にはモーニング娘。を輩出したASAYANの影響もあったそうで,ナムコ史を追ってみると妙な形でモーニング娘。のブームがいかに大きかったかを感じられますね。
以上のように,ハードウェアのスペック向上によって徐々に「ゲームに日本語ボーカルの楽曲を使う」ことが浸透していき,2000年以降になると,それこそ「太鼓の達人」シリーズのような日本語ボーカル楽曲を複数収録したゲームが珍しくなくなります(と言っても2004年の「太鼓の達人6」までSYSTEM10基板で頑張っていたりもするのですが)。
ナムコと,ポリゴンとレンダリングと“動き萌え”と
次に「3DCGを用いた表現技法」について見ていきましょう。ベクターグラフィックス(座標上の点を線で結んで描画する手法。3DCGやAdobe Illustratorで用いるベクターデータなどを含む概念)を用いた業務用ビデオゲームは,その先駆けをExidyが1979年に発売したアーケードゲーム「Star Fire」に求められるそうで,家庭用にはGeneral Consumer Electronicsのゲーム機「Vectrex」(国内版はバンダイの「光速船」)などもあります。ただ,疑似3Dやワイヤーフレームなどではないリアルタイムおよびフラットシェーディングの3Dポリゴンを初めて採用できたのはAtariの「I,Robot」(1983年 / アーケード)でした。
その後も1988年のナムコ「ウイニングラン」(アーケード)の時点では3DCGによる人間の描画は困難でしたが(テクスチャマッピングが無いので,いわゆる“板ポリ人形”すら不可能でした),時代が下って1990年代半ばになると人型のポリゴンモデルを動かすことが(比較的)困難ではなくなります。ただ,そのクオリティたるやリアルタイムレンダリングでフォトリアルなどは夢のまた夢。ナムコ「レイジレーサー」(1996年 / PlayStation)のプリレンダムービーで初登場した永瀬麗子や,くつぎけんいち氏がポートレート形式で表現したテライユキは,そういった夢の一端でした。また,夢を諦められない人間のリビドーの暴走によって,ナムコ「ダンシングアイ」(1996年 / アーケード)やタイトー「まじかるで〜と」(1996年 / アーケード)といった,当時感覚でクレイジー,今日び感覚ではモアクレイジーなゲームがリリースされたりして,筆者のようなアレ系の人を楽しませてくれたものです。
2000年代になると夢が現実にだいぶ近付いてきますが,それに並行してトゥーンレンダリングという新たな3DCGの表現技法もゲームの世界に現れます。先陣を切ったセガによる「ジェットセットラジオ」(2000年 / ドリームキャスト)と「クラッキンDJ」(2000年 / アーケード)は今までにないグラフィックスで,非常に鮮烈でした。ゲーム業界ではとくにカプコンが,自社開発による「アウトモデリスタ」(2002年 / PS2),子会社のクローバースタジオによる「ビューティフルジョー」(2003年 / PS2)や「大神」(2006年 / PS2),他社開発ですがグラスホッパー・マニファクチュアによる「killer7」(2005年 / PS2)など,積極的にフィーチャーしていた印象です(あくまで筆者の主観ですが)。
ゲームに用いられたトゥーンレンダリングは,初期こそアメコミやバンドデシネ的なテイストを追いかけていましたが,そこから派生して「2Dイラストレーションと3DCGの中間点」を目指そうという動きも生まれました。近年では,ほぼ完成形と言えるものがアークシステムワークスの「GUILTY GEAR Xrd」シリーズなどに見られるような,そういう方向性です。それに,シェーダが未発達で高解像度テクスチャも難しい時代では,ツルツルテカテカな「いかにもCG」の質感よりも,トゥーンレンダリングをかけたほうが見栄えするという側面もありました。
「2Dイラストレーションと3DCGの中間点」のトゥーンレンダリングとして代表的なものが,KONAMIがリリースした「ときめきメモリアル3」(2001年 / PS2)ですね。レンダリングの方向性は同作で基盤が築かれたと言っても過言ではないと思いますが,表情や仕草などには「動きの硬さ」が否めませんでした。描画はできても,それを使った“表現”の難しさが立ちはだかったわけです。
その「動きの硬さ」の打破に臨んだ挑戦者が,ナムコの「ゆめりあ」(2003年 / PS2)でした。現・バンダイナムコスタジオの柳沢直幹氏は,同作のサウンドトラックCDリリース時に行われた記者発表で,「ナムコが得意とする3Dやモーションの技術を使って、女の子の動き、ちょっとした仕草や表情の変化などを一連の動作として見せ、新たなキャラクターの魅力、いわゆる“動き萌え”を提示できないかと考え」たと述べています。
『ゆめりあ』サウンドトラックCD 発売記念記者発表レポート
今では「トゥーンレンダリングの3DCGキャラクターが話しながら身振り手振りをする」というのは珍しくありませんが,そこに至るまでにはゲーム業界のトップメーカー達による試行錯誤があったわけです。
ナムコと,歌手と声優とバーチャルアイドルと
タイトーの「スペースインベーダー」(1978年 / アーケード)において明確かつアイコニックなゲームキャラクターというものが描かれて以降,ゲームIPを用いた関連商品の展開というのは数え切れないほど行われてきました。ただ,まだゲームの表現力が乏しかった1980年代は,エレメカの「ワギャン」やロボットの「マッピー」を元にしてゲームが作られるなど,「ゲームが何らかの派生商品」というケースも多い時代でした。
ゲームのプロモーションに関しても,外部のタレントやキャラクターに「ゲームを牽引してもらおう」という考えがゲームメーカー各社に見られます。そのうえ当時はアイドルブームの最中(さなか)でしたので,先述した清水香織さんの「サイコソルジャー」,石野陽子さんの「テディーボーイ・ブルース」(1985年 / セガ。同名アーケードゲームとコラボレーション),牧野アンナさんの「Love Song 探して」(1987年 / エニックス。ファミリーコンピュータ「ドラゴンクエストII 悪霊の神々」よりアレンジ),荻野目洋子さんの「ロマンティック・オデッセイ」(先述した「銀河伝承」のイメージソング),伊藤美紀さんの「小夜(リトルナイト)カーニバル」(1987年 / タイトー。ファミリーコンピュータ「奇々怪界 -怒濤編-」のCMソング)など,アイドル歌手とコラボレーションしたゲーム関連楽曲が複数制作され,プロモーションに活用されています。
また,ナムコはビクター音楽産業のCD「ビデオ・ゲーム・グラフィティ」シリーズ(1986年〜)で,ボーナストラックとしてゲームミュージックのボーカルアレンジ曲を制作しているのですが,その中の「ちょっとマッピー男の子」「恋のディグダグ」「ワンダーモモ」はアイドルソング的なテイストとなっています。さらに,ボーカルアレンジ曲を集めたベスト盤「ナムコ・ベスト・ヒット・パレード!」の書き下ろし曲「レベルUP!ときめいて」(ファミリーコンピュータ「ラサール石井のチャイルズクエスト」のイメージソング)では,単に“それっぽいボーカル”ではなく,お笑いアイドルのチャイルズがボーカルを担当しました。
そんなアイドルブームも1990年代になると冷え込みます。アイドルを活用したゲームのプロモーションは,日本テレネットの“ミス優子コンテスト”(1989年),日本ファルコムの“ミス・リリア・コンテスト”(1990年),KONAMIの“ときめきティーンズコンテスト”(1996年)など,牽引してもらうのではなく「ゲームからアイドルを打ち出そう」という趣向のものが現れるようになりました。ナムコもアーケードゲーム「スタアオーディション」(1997年)およびイベント「ザ・ビッグオーディション」を展開するなどしています(「スタアオーディション」からは,妻夫木 聡さんや塩谷 瞬さんなど俳優志向の男性が多くデビューしましたが)。
その一方で盛り上がってきたのが,「らんま1/2」(1989年〜)や「美少女戦士セーラームーン」(1992年〜)などによるアニメ美少女ブームと,声優ブーム。昭和のアイドルカルチャーが衰退に伴って拡散したことから,1990年代半ばには“アイドル声優”という概念も発生します。いわゆる“声優ソング”も人気が過熱し,「らんま1/2」に出演していた林原めぐみさんは,キングレコード所属となる前の1990年ごろを「ただただ、あまた矢のように降ってくる歌の仕事、まだ未開拓な声優という世界へ乗り込んでくる激しいマスコミチックな波」と自身のblogで批難的に述懐しています。
林原めぐみ オフィシャルブログ「私らしく(超長文)」
声優ブームおよび声優ソングは,ゲーム業界にも影響します。先駆的な一例としてはハドソンの「銀河お嬢様伝説ユナ」(1992年 / PCエンジン CD-ROM2)のOP曲「Dream Girl」(Vo.横山智佐さん)ですが,一気に爆発したのは1996年から展開されたKONAMI「ときめきメモリアル」の楽曲群でしょう。ちなみにユナはアイドルという設定,ボーカルデビューした藤崎詩織は“バーチャルアイドル”としてプロモーションされるなど,ここにもまた1990年代の「ゲームからアイドルを打ち出す」という志向性が見られます。
詳細や例外などを述べていくといよいよ1冊の本ができるテキスト量になってしまうので大幅に割愛しますが,「ときめきメモリアル」がインスパイアされたという通説のある「プリンセスメーカー」「同級生」「卒業 〜Graduation〜」といったPCゲームや,「卒業 〜Graduation〜」の姉妹作であるアイドル育成アドベンチャーゲーム「誕生 〜Debut〜」および関連楽曲群も,当時の空気感を築いたものとして重要なファクタです。また“メディアミックスを前提とした恋愛シミュレーションゲーム”の概念が普及したことで,セガの「サクラ大戦」(1996年 / セガサターン),アスキーの「トゥルー・ラブストーリー」(1996年/ PlayStation),メディアワークスの「お嬢様特急」(1998年 / PlayStation&セガサターン),NECインターチャネルの「センチメンタルグラフィティ」(1998年 / PlayStation)などのプロダクト展開が行われ,徐々に「複数のヒロインと,ヒロインのアイドル的IP運用と,声優ボーカルによるキャラクターソング」といった方法論が確立されていきました。
“バンダイナムコ知新”第6回では,SYSTEM256版「アイドルマスター」の開発当時は,まだ声優にボーカル曲を依頼して良いものなのかが分からなかったという旨が語られていますが,少なくとも「なくはない」くらいには確立されていたと言えるでしょう。
バンダイナムコ知新 第6回 アーケード版『アイドルマスター』誕生秘話【前編】
ナムコと,ヘッドライトとテールライトと,またヘッドライトと
2000年。
PS2が発売されました。
ゲームで長尺かつ高レートのサンプリング音源を使えるようになっていました。
ゲームにトゥーンレンダリングという方法論が現れました。
ゲームのためにキャラクターを打ち出すことが当たり前になっていました。
ゲーム用のボーカル楽曲が珍しくなくなっていました。
“声優が歌う”ということが「なくはない」くらいに確立されていました。
昭和アイドル歌謡は「古臭い」を通り越して往年のコンテンツとなっていました。
ASAYANからダンス系アイドルのブームが起こっていました。
そこに至るまで,ゲーム業界では多くの栄枯盛衰と,開発競争と,逆張りと,後追いと,正面衝突と,共同戦線がありました。
再び「アイドルマスター プラチナアルバム」を引用すると,「アイドルマスター」の企画がスタートしたのは1999年,制作がスタートしたのは2002年だったそうです。ナムコが「ドラゴンクロニクル」(2003年 / アーケード)に続く「リライタブルステージ」筐体の第2弾タイトルとして検討していた企画は,「女子プロレス」や「女子バレー」などの案もあったそうですが,それらを退けて「アイドルゲーム(仮称)」の制作が決定されました。折よく諸条件が揃った当時の状況を鑑みると,それがアイドルか,ナムコがやるかはともかく,「ポリゴンで描画されたキャラクターが歌って踊る」というコンテンツが登場することは“必然”と言えるものでした。
「ドラゴンクロニクル」製品紹介ページ
「歴史に“たられば”は無い」という言葉は,「例え先人がやらなかったとしても別の誰かがやっていたはずだ」という意味でも恐らく是でしょう。作家のジュール・ヴェルヌは「蒸気で動く家」にて「可能性の範囲内にあることはすべて実現されるべきだし,きっと実現される」と書いていましたし,哲学者のゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは「可能性が必然的な現実性に止揚されるのは偶然的なもの」みたいなことを説いていたような気もします。ヘーゲルに関してはうろ覚えですが,ブラックエンジェルのザ・松田は「いんだよ細けえ事は」と言ってましたし,そんな感じです。
「アイドルマスター」の開発が進められた2000年代には,かつては怪獣大戦争レベルの激戦が繰り広げられていたアーケードゲーム市場に衰退の兆しが見え始めていました。PS2は業務用基板に匹敵するスペックがありましたし,ADSLなどのインターネット常時接続サービスと共にMMORPGも急速に発達していきました。ゲームメディアも,なんか知らんけど「forGamer」とかいうPCゲーム特化型のWebメディアが出てきたりして,その一方で「ゲーメスト」や「ネオジオフリーク」といったアーケード志向の雑誌は消えていきました。forGamerとかなんか知らんけど。
4Gamerは,20周年を迎えることができました
2000年8月18日にオープンした4Gamerは,おかげさまで20周年を迎えることができました。世界を取り巻く状況のせいで,やろうと思っていた記念イベントなども出来なくなってしまいましたが,ご挨拶だけさせてください。
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アーケードゲームの中でも,とくに格ゲーは収束傾向となり,バンダイナムコエンターテインメントのチーフプロデューサー / ゲームディレクターである原田勝弘氏は,西田宗千佳氏による近年のインタビューで「『鉄拳』と『モータルコンバット』以外は,多くがフェードアウトしていった暗黒時代」だったと述べています。アークシステムワークスの「GUILTY GEAR X」のような新興タイトルもありましたが,かつて社会現象にまでなった「バーチャファイター」は,2004年に「バーチャファイター サイバージェネレーション 〜ジャッジメントシックスの野望〜」(PS2/ゲームキューブ)という少年漫画風なスピンオフを展開するも後が続かないなど,苦境に立たされました。今はもう当たり前に寒風吹き抜けるアーケードゲーム業界ですが,当時は「少し前まで暖かかった」分,寒風が余計に寒く感じられたものです。
先述の“バンダイナムコ知新 第6回”でも述べられていますが,SYSTEM256版「アイドルマスター」の「アイドルからメールが届く」というシステムは,ゲーマーの足が遠のいたゲームセンターに人を呼び戻すための方法論として考案されたそうです。そういったコミュニケーション要素は,今日の「アイドルマスター」シリーズタイトルでもアプリのプッシュ通知などに形を変えて受け継がれています。
必要は発明の母,滅亡と新生は表裏一体。ずらり並んだ汎用筐体のブラウン管に多種多様なメーカーのゲームが映っているゲームセンターというのは,もはや一部に遺されている限りの旧世界ですが,そこで培われた技術や手法は過去に葬られるばかりではなく,今日の家庭用ゲームやスマートフォン向けアプリに継承されています。
失敗があるから成功があり,成功に固執すれば凋落し,安寧を求めれば押し流され,変化するから変わらない。ウィリアム・シェイクスピアの「マクベス」にいわく「Fair is foul, and foul is fair」(綺麗は汚い,汚いは綺麗)であり,押井 守氏の「武道のリアル」にいわく「落語で有名な話があるんですけど『あの人だけは変わらないね』っていう人は進歩してる人なんです。本当に変わらない人っていうのは『ダメになったね』って言われる人」ってなもんです。
Xbox 360版「アイドルマスター」は,SYSTEM256版「アイドルマスター」の移植というよりも実質的なリメイクでしたが,もしこれが“変化の無い”ベタ移植だったら後へと“変わらないもの”を続けることはできなかったでしょう。また「アイドルマスター スターリットシーズン」ではPS4版早期購入特典およびPC版予約特典としてSYSTEM256版のBGMを追加するDLCが提供されていますが,こうやって“変わらないもの”が出てくるのも,コンテンツが“変化し続けてきた”からこそでしょう。なべてこの世はパラドクスです。
それでいて,現状がベストなわけでも,絶対的なメソッドが確立されたわけでもありません。そう,ゲームの進化は止まりませんし,アイドルを成立させているのは“関係性において発生する「状態」”といった曖昧模糊のモッコモコなので,今後の形も変わっていくはずです。
2021年は,最初期のしゃべるゲーム「キング&バルーン」から41年,国産初の業務用3DCGゲーム「ウイニングラン」から33年,動き萌えの「ゆめりあ」から18年。いずれも今では忘却されるほどの過去ですが,それら無くして今日はありません。今後は何が変化し,何が変化ゆえに保たれるのでしょうか?
そう,例えば……2050年には,PlayStation 9,もしくは改修機の「SYSTEM16777216」で,共同生活できるバーチャルアイドルが出てくるかな……。リドリー・スコット監督の「ブレードランナー2049」レベルまで発達したようなやつ。で,「鉄拳12」で組手してくれたり,「エースコンバット10」でコパイとして乗ってくれたりする。あとVRで家庭用移植された「ギャラクシアン3」とか「ドルアーガの塔」(アトラクション)とかを協力プレイできるし,何ならナムコ・ワンダーエッグが丸ごとVRで再現されて,モスラも飛んでくる。そういう未来研究をしていく……していこう? していって? していかないものか?
- 関連タイトル:
アイドルマスター スターリットシーズン
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(C)窪岡俊之 (C)BANDAI NAMCO Entertainment Inc.
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