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書籍「アート オブ グラスホッパー・マニファクチュア」の発売記念イベント開催。須田剛一氏とイシイジロウ氏が歴代タイトルのアートワークを語った会場の模様をレポート
グラスホッパー・マニファクチュア公式サイト
最初の話題は,なぜ一緒にゲームを作ったわけでもないイシイ氏が,こうして須田氏とトークをすることになったのかについて。そもそも須田氏とイシイ氏が親しくなったきっかけは,ゲームクリエイター同士の飲み会で席が隣になり,「宇宙戦艦ヤマト」で盛り上がったことにあるという。
以後,オタク友達として親交を深めていったとのことで,須田氏は1歳年上のイシイ氏のことを「いろんなことをよく知っている先輩っぽい。よく本屋で一緒になる1コ上の兄ちゃんみたいな存在」と表現した。
グラスホッパー・マニファクチュア 須田剛一氏 |
イシイジロウ氏 |
GhMの足跡を振り返る中で話題に挙がったのは,第1作となる1999年の「シルバー事件」のこと。このタイトルは,イシイ氏もアドベンチャーゲームを研究するためにプレイしたそうで,そのアート色の強さから,ゲーム業界以外のクリエイターが作った作品だと思ったという。あとで「ファイヤープロレスリング」シリーズの開発者が作ったゲームだと知り,ビックリしたそうだ。
須田氏はこのタイトルについて,「スタッフが10名前後しかいなかったので,プログラマーも含めて全員で素材を作った」と説明した。イシイ氏が「オシャレ」と指摘する独特のアートワークは,宮本 崇氏による部分が大きいという。
また須田氏は,GhM設立前に所属していたヒューマンを「野良犬集団」と表現し,著名な大手メーカーではない会社からの独立ということで,頑張らなければいけないと考えていた当時の心境を明かした。
2作めの「花と太陽と雨と」は,須田氏によると「肩の力を抜いて作った」そうだが,今なおファンが多く,とくにニンテンドーDS版は海外での評価が高い。
また1993年に発売された「SHINING SOUL II」の頃には,GhMの開発ラインもようやく2本になったという。
そして,GhMの代表作となる「killer7」の話題では,プロデューサーの三上真司氏から開発をほぼ任されていたと須田氏は述べた。まだGhMの認知度があまり高くなかった頃に,全部やらせてもらえたのは非常に嬉しかったという。
そんな三上氏は,須田氏にとってディレクターやプランナーとしての先輩的な存在だったとのこと。当時のミーティングは,会議室を2時間くらい押さえていても,最初の5分で仕事の話をし,あとは時計など,三上氏の趣味の話で盛り上がっていたのだそうだ。
もう一つの代表作である「NO MORE HEROES」がリリースされたときイシイ氏は,コザキユースケ氏のキャラクターデザインを含めたアートワークに「やられた!」と思ったという。とくに,ゲームに登場する「ビーム・カタナ」などのアイデアには,「(作った人は)同世代で好きなものが同じ」という感覚を抱いたという。
イシイ氏は現在,そのコザキ氏がキャラクターデザイナーとして参加するアニメ企画「Under The Dog」に取り組んでいるが,どんなアイデアを考えても「『NO MORE HEROES』がコザキさんの絵で先にやっている」となるため,「タイムマシンがあったら(『NO MORE HEROES』を)なかったことにしたい」と話していた。
一方の須田氏は,「NO MORE HEROES」では,「killer7」によって作られたGhMの海外人気をベースに,海外で暴れてやろうと考えていたことを明かした。
須田氏によると,「killer7」の開発では外部からのインプットを一切せず,自分の中にあるものだけで作ろうとしていたのに対し,「NO MORE HEROES」では肩の力を抜き,それこそアメリカのテレビ番組「ジャッカス」くらいバカバカしいものを作ろうという意識があったという。
それを受けてイシイ氏も,自身がチュンソフトに入社して初めて手がけた「3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!」では肩に力を入れていたが,「428 〜封鎖された渋谷で〜」では逆に肩の力が抜けていたと明かした。
さらにイシイ氏は,「428」当時の自身のアプローチを「いい人材が集まったから,一人で全部作るのではなく,皆に任せようと思っていた。結果として一人で作るより,広いものができた」とし,「NO MORE HEROES」でも同じことが起きたのではないかと分析した。
エレクトロニック・アーツからリリースされた「シャドウ オブ ザ ダムド」(2011年)については,「いい思い出がたくさんある」としつつも,無茶なことをしたと須田氏は振り返る。
最初,北米でどんなゲームが受けるのかをEAから徹底的に教え込まれたそうで,例えば,「小さい女の子は耳障りな雑音を発する存在でしかないので,アメリカ人は好きじゃない。お願いだからゲームに出さないでくれ」と言われて驚いたことや,スタッフの「銃がないとダメでしょ」という言葉により,急遽,銃を使うゲームになったといったエピソードなどが披露された。
そうした指摘はストーリー展開にもおよび,須田氏は設定をそっくり変えて,5回もシナリオを書き直す──つまり5タイトル分に相当する量のシナリオを書く羽目になったという。須田氏はそうしたカルチャーの異なる北米エンターテイメントについて,「実際に一緒にやってみなければ分からないことがある」と話した。
また,「シャドウ オブ ザ ダムド」では「サイレントヒル」の伊藤暢達氏に依頼してクリーチャーをデザインしたが,残念ながらゲーム本編ではボツになってしまったという。今回,「アート オブ グラスホッパー・マニファクチュア」に収録するにあたって許諾を取ろうと連絡を取ったところ,伊藤氏はデザインしたこと自体を忘れていた,というエピソードも披露された。
そうしたEAとの経験は,2012年の「LOLLIPOP CHAINSAW」の企画にも反映されている。GhMでは初めて全世界累計でミリオンを記録した同作は,Warner Bros. Interactive Entertainmentの意見を取り入れて企画が進められており,ヒロインのジュリエットを日本人にもアメリカ人にも受け入れられるデザインにしたことから,日米双方の開発スタッフに愛されるゲームになったと須田氏は話す。
また,武器をアメリカのホラー映画などでおなじみのチェーンソーにしたことで,銃を使うように変更を迫られることもなかったそうだ。
須田氏が「LOLLIPOP CHAINSAW」の成功を予感したのは,会議でプロモーションムービーを流したときのことだという。ムービーの内容は,バスケットボールの試合中,チェーンソーで撥ね飛ばしたゾンビの首がゴールに入り,点数が加算されて逆転するというもの。会議室にいたアメリカ人重役達が爆笑しているのを見て,「海外でもイケる!」と確信したそうだ。
そのほか会場では,事情により開発途中でキャンセルされてしまった幻のタイトルの映像も流され,来場者は興味深そうに見入っていた。
また「KILLER IS DEAD」の主人公・モンドは黒いスーツを着ているが,欧米ではパーティのときかギャングくらいしか黒いスーツは着ないという指摘がイシイ氏によってなされたり,海外メディアから女性キャラの下着姿などセクシーな描写について「社会的な影響をどう思うか?」と質問されたことなど,イベントではこれまで知られてなかった,さまざまなエピソードが披露された。
トークの最後では,会場に集まったGhMおよび須田氏のファンを代表し,イシイ氏が「もうすぐGhMも20周年ですから,ぜひ今回の書籍に掲載できなかったボツイラストなどを『裏バージョン』として公開してほしい」とし,「この先も日本のアートを引っ張るゲームメーカーとして期待しています」とエールを送った。
また須田氏は,今回の「アート オブ グラスホッパー・マニファクチュア」の出版に尽力したスタッフに向けて,「アートという側面だけでも,これだけのことをやってきたんだという感慨があります。たくさんのスタッフのおかげでGhMのゲームが出来上がっていることをあらためて実感しました」と感謝の言葉を述べ,「皆さんの限られた時間の中で,『何よりも先に,このゲームを遊びたい』と思ってもらえるものを作っていきたいと考えています」として,トークを締めくくった。
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(C)GRASSHOPPER MANUFACTURE INC. / Published by KADOKAWA GAMES
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