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ビデオゲームの語り部たち 第15部:激動のビデオゲーム史を彩ったSNKのサムライ精神(スピリッツ)
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印刷2019/12/07 00:00

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ビデオゲームの語り部たち 第15部:激動のビデオゲーム史を彩ったSNKのサムライ精神(スピリッツ)

画像集#002のサムネイル/ビデオゲームの語り部たち 第15部:激動のビデオゲーム史を彩ったSNKのサムライ精神(スピリッツ)

 日本におけるビデオゲームの夜明けが1970年代のアーケードゲームであることに,異論を唱える人は少ないだろう。

 リュウやケンはもちろん,マリオすら生まれていない当時のゲームやその周辺を取材していると,いつも2つの問題が立ちふさがる,1つは時間経過という歴史の壁だ。関係者の多くが現在70歳を超えており,現役で働いている人は少なく,連絡がつかない人もいる。
 もう1つの問題は関係者が「しゃべりたがらない」ことだ。例えば,古くからあるゲーム会社の初代オーナーに取材を申し込んだとしても,断られるケースが多い。

 日本のゲーム企業の歴史を紐解くのは本当に難しい。だが今回は幸運にも,関西を代表する老舗ゲーム企業の1つとなっているSNKの新旧関係者に話を聞くことができた。

 ご存じの方も多いと思うが,1978年に新日本企画として設立されたエス・エヌ・ケイは2001年に倒産しており,現在のSNKはその知的財産を買い取った会社,厳密に言うなら別の会社だ。浮き沈みの激しいこの業界でも,SNKほど波瀾万丈の歴史をたどった企業はそうそうないだろう。

 今回の「ビデオゲームの語り部たち」では,「The Future Is Now」という力強く希望に満ちたコーポレートメッセージを持つSNKが歩んできた道を振り返ってみたい。

SNK本社ビルの入り口
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敏腕経営者にして開発者だった川崎英吉氏


 新日本企画が設立された経緯について,まず話を聞くべきは創設者の川崎英吉氏だ。筆者はさまざまな方面からコンタクトを取ろうと尽力したが,残念ながらかなわなかった。

 本稿ではまず,赤木真澄氏の著書「すべては『ポン』から始まった」を基に,新日本企画の“創世記”を簡単にまとめておこう。

 もともと大阪で喫茶店と土木建設会社を経営していた川崎氏は,1973年に神戸在住の知人が経営していたアーケードゲーム筐体の製造・販売を行う会社への資金提供を相談され,その会社を買い取る形で新日本企画を創業した。「スペースインベーダー」をはじめとしたビデオゲームのブームが起こる前の話である。
 資金提供に留まらず買収に至った詳しい経緯は定かではないが,川崎氏独特の嗅覚がこの頃から発揮されていた可能性は高い。

 創業直後は,「マイコンブロック」(1978年4月リリース)などのブロック崩し系ゲームを開発していた。ちなみに「マイコンブロック」は瞬く間に他社にコピーされたという。
 1978年7月22日に,株式会社新日本企画として正式に法人格を得たが,その背景にはタイトーと「スペースインベーダー」のライセンス生産契約を締結したことがあったようだ。当時タイトーでは同作の生産が追いつかず,同社から許諾を得た他社が生産するケースがあったのである。今で言うOEMだ。

 「スペースインベーダー」のブームが去った後,しばらく経営状況が芳しくない状態が続いたが,1980年代に入るとスペース・シューティング「ヴァンガード」(1981年6月)がヒットし,「ヴァンガードII」(1984年3月)がこれに続く。
 さらに,絶妙な難度調整が評価された「ゼビウス」タイプのシューティング「ASO」(1985年11月),戦車を操るシューティング「T・A・N・K」(1985年)や,同作のシステムを引き継ぎつつ大ヒット映画「ランボー」(1982年公開)をモチーフにしたと思われる「怒(IKARI)」(1986年)といったヒット作を連発。1986年には社名をエス・エヌ・ケイに変更した。

「ASO」
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「怒(IKARI)」のインストカード
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 躍進を遂げたこの頃の開発スタッフは少人数で,コアメンバーはわずか12人だったという。川崎氏は彼らを「二十四の瞳」と呼んだそうだ。

 このエピソードからもうかがえるように,川崎氏は実際にゲーム開発の現場に入り,さまざまな指示を出していた。氏は経営者としてだけではなく,実務者としても非凡な才能を発揮していたようだ。
 SNKのタイトルラインナップに対戦格闘ゲームが多いのも,元プロボクサーであった川崎氏の嗜好だと言う人もいる。


まるで遊んでいるような開発室での日々


 東京で暮らす筆者にとってSNKは遠く離れた関西の企業であり,情報の少なさも相まって,ずっと“得体の知れなさ”のようなものを感じていた。ゲーマー的な言い方をすれば,遠方のゲームセンターにいるという強豪プレイヤーの存在を風の便りに聞くという感じだろう。

 今回お話をうかがったのは,元SNKで現在はゲーム開発会社エンジンズの代表取締役を務める楠本征則氏,同社取締役の足立 靖氏,そして現在もSNKで活躍する松下真介氏(マーケティング本部 デザイン部 部長)だ。
 まずは楠本氏と足立氏に,1980年代半ばに入社した頃の“原風景”から語ってもらうことにしよう。松下氏は1998年入社のため,後ほどご登場いただく。

左から足立 靖氏,楠本征則氏,松下真介氏
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 足立氏がSNKの採用試験を受けたのは,1985年のことだった。

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 「SNKがグラフィックデザイナーを募集していることを,当時通っていた大阪デザイナー専門学校で知りました。それでちょっと調べたところ,『SNKって,ゲームを作っているんだ』と分かって,友だちと一緒に受けに行ったんです。ちなみにその友だちも合格して,『龍虎の拳』などのディレクターとして活躍しました」と足立氏は笑う。

 「面接ではゲームの企画書を見せたんです。当時は企画書を持ってくるヤツなんていなかったようで,その日のうちに『ああ,自分(関西弁では「君」「あなた」の意味)採用な』と言われました」

 足立氏の服装も,SNK側に強烈な印象を残したようだ。

 「僕は記憶にないんですが,入社後先輩に『面接に人民服を着て人民帽かぶってきたのを覚えてるわ』と言われたことがあります。その頃ブームだったYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)が,初期のアルバムで着ていた赤い人民服が話題になっていて,それで人民服を着ていったようです。当時はそれでも採用されたんです。今じゃ考えられないですよね(笑)」

 楠本氏は,足立氏の1年後に入社した。

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 「足立と同じ大阪デザイナー専門学校の卒業です。在学中はお互いのことを知らなかったですけどね。入社の経緯も足立とほとんど同じで,SNKのグラフィックデザイナー募集を見て応募しましたが,その時点でゲームを作っている会社だとは知りませんでした。
 なぜSNKを選んだかというと,初任給が同業他社さんより少しだけ高かったからです。それで面接に作品を持っていったら,5分くらいで足立と同じように『キミ採用』って言われて」

 あまりのあっけなさに,楠本氏は逆に不安を感じたという。

 「これはアカンやつやな〜と思いましたね(笑)。もっと何かしなくてもいいんですか? とは聞いたんですけど,『オッケーです』と。まあ,就活はすごく楽でした。
 面接には学校から行って,終了後に戻ったんですけど,さっき『面接に行ってきます』って出ていったのが,戻るなり『採用って言われたんですけど』と報告したので,先生も『それはちょっとどうなんやろなぁ』と心配顔になっていたのを覚えています」

 楠本氏や足立氏が入社した頃のSNKは,現在も拠点がある大阪府吹田市江坂に移転してきたばかりだった。

 「江坂駅の次にある東三国駅近くのビルに本社があったということですが,アーケードゲームのヒットが生まれず,経営状況が悪くなった時期に江坂へ引っ越してきたと先輩に聞いたことがあります。
 江坂に移転したころの拠点は3つに分かれていたと記憶しています。ゲーム開発部門の建物と,通りを挟んで向かい合う工場のようなところに機構設計や商品部,購買部,それと小さい組み立てラインを持った部門。それと江坂駅近くのジョーシン(上新電機)が入っているビルの6階に,経理や営業,広報など本社機能の部門がありました」

 足立氏の記憶によると,工場は田んぼの真ん中に建つ,プレハブのようなものだったという。江坂周辺を知っている人であれば大まかな位置関係は把握できると思うが,東急ハンズがある場所の西側はもともと田んぼが広がっていたそうだ。SNKが移転してきたのはその中に住宅地や工場のようなものがポツンポツンとでき始めた頃で,牧歌的な風景が広がっていたという。

足立氏や楠本氏が開発に勤しんだプレハブ建屋があった付近。当然,今は田んぼなど跡形もない
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 この頃の社名はまだ「新日本企画」であったが,ロゴにはSNKの文字が使われていた。その色は最初赤だったが,ほどなくして現在も引き継がれている青文字に変更された。物証はないのだが,変更の理由は川崎氏が「赤字はダメだ」と指示したからという話がある。

 ただ,足立氏も楠本氏も,この頃リリースしていたファミコンソフトの海外版に付属する印刷物に,赤や青だけでなく緑のロゴが描かれていた記憶があるそうなので,コーポレートカラーが決まっていたというわけでもなさそうだ。

新日本企画時代のSNKロゴ
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 足立氏が覚えている開発拠点の話に戻そう。

 「僕らがいた部屋は建物の2階でした。開発室と言うと聞こえはいいですが,8畳くらいの部屋が3つ,4つだけみたいな作りです。窓から外を見ると水が張られている田んぼが広がっていました。1階にはカセットテープなどを販売していた会社が入居していたと思います。
 僕が入社したときは,先輩方が『怒』の開発を終えて,『怒号層圏』(『怒』の続編となるアクションシューティング。1986年)に取りかかろうとしていたくらいの時期でした。まだ『怒』を開発した名残りがあって,方眼紙にドットを打ったものも見た記憶があります」

 当時はゲームが産業として明確に社会の中に位置づけられていない時代だ。「『スペースインベーダー』なら儲かりそうだけど,高いから詳しい奴を雇って同じようなものを作らせよう」といった感じで事業を始める会社もあったが,とにかく勢いだけはすごかった。SNKの社風も今とは大きく違っていたようだ。足立氏はこう回想する。

 「僕らの頃はとにかくメチャクチャでしたね。勤務時間は自己申請で,残業も250時間とか300時間とかになってました。その分残業代が入っても,当時のゲーム業界人がよく言ったように使うヒマなんてなかったです。
 で,社内の規律とか就業規則などが整うほど,残業代が減って年俸が下がっていく(笑)」

 「働き方改革」が叫ばれる昨今ではありえない勤務状況だが,これには当時の開発体制も影響している。

 「当時は1チームが4〜5人で,企画者はせいぜい1人か2人。グラフィッカーも人物やエフェクトなど,SNKでは「フロント」と呼ばれていたものを描く人間と,背景などの「バック」を担当する2人ぐらいでしたからね。
 なので,その頃は本社や工場にいる社員を全部足しても50人くらいでした。その後10年ほどで社員が1000人レベルになったわけですが,急成長していたときの雰囲気は独特なものがありました」

 具体的にどんな雰囲気だったのか,聞いてみると……。

 「言ってみれば毎日遊んでいるような,自由な感じでしたね。昼休みに開発者同士で『ファミスタ』をやったりしていました。勤務時間の概念も管理も,何もなかったんですよ。朝から夜中の2時とか3時まで,遊んだりゲームの仕事をしたりして,会社が用意してくれた寮に帰る,みたいな生活をずーっと繰り返していました」

 かなり無茶苦茶に思えるが,そんな足立氏の上を行く猛者もいたようだ。

 「僕は自分の布団で寝たいタイプだったので,比較的ちゃんと寮に戻っていましたけど,そうじゃない連中は会社に泊まっていましたね。夕方になると会社に布団の業者が来るんですよ。で,『布団とパンがいる人』って注文を取って回って,布団を持ち込んでくれるんです。それを机の下に敷いて寝て,次の日になると業者が回収しにくるっていう……いい時代でしたね(笑)。


「でや!?」の声とともにやってきた川崎氏


 「スペースインベーダー」のブームが去った後,SNKにとって厳しい時期があったのは前述の通りだが,そんなときもオーナーである川崎氏のエネルギッシュな仕事ぶりは変わらなかったようで,足立氏によれば,ほぼ毎日のように開発現場を訪れていたという。

 「川崎さんは江坂の開発拠点に毎日来るんですよ。事実上の開発部長みたいな感じで,今で言うクリエイティブ全部に関わられていました。
 昼間に社長の業務をこなした後,ボクシングのスパーリングで汗を流していたそうなので,こちらに来るのは夜になってからでしたけど(笑)。塩のビンを持っていて,僕らに指示を出しながら口に入れて塩分補給していました。考えてみたらアレ,体に悪いですよね(笑)」

 川崎氏には,お決まりのかけ声があったという。

 「いつも一言目は『でや!?』(どうだ? の意味)。川崎さんの話はいつもそんな感じの短い言葉で進むので,ニュアンスをうまく把握するのが大変でした。間違った理解をすると後がまずいことになってしまうので。
 例えばゲーム画面を『ここは宇宙人に侵略された街なので,紫色になっています』と説明しても,川崎さんの中で違うとなったら,『紫じゃないなあ,緑だな』みたいな感じのオーダーが入ります」

 そのオーダーに従えばいいというものでもなかったようだ。

「サイコソルジャー」メインビジュアル
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 「僕が『サイコソルジャー』(※)のグラフィックスをやっていたとき,川崎さんはちょうど娘さんが生まれたこともあって,女の子の表現にはメチャメチャうるさかったんですね。
 あるとき『女性はもっとふっくらしているほうがいいんだ』と言われたんですが,当時は解像度が低かったので,1ドット増やしただけでもすごく太くなっちゃう。なので,次の日に川崎さんが『でや?』って言ってきたとき,『はい,ちょっと直しときました!』と言って同じものを見せたんですよ。
 すると『ほら,ようなったやろ,この方がええんや』って言って去っていきました」

※1987年にリリースされた横スクロールアクションシューティング。麻宮アテナが登場した最初の作品

 ここだけ読むと笑い話のようだが,これは単に手を抜いたとか,指示を無視したのではなく,川崎氏の意図を汲んだうえでの行動だった。

 「社長がこだわりたいのは女性の可愛らしさなのだと,自分なりに理解したうえで,キャラクターを見ての判断でした。そういった事をできるかできないか,は大切なコツだったと思います」

 確かに,言われるままにドットを増やしていたら,逆に川崎氏の意にそぐわないものになっていた可能性もありそうだ。

 ところで,筆者は初期のSNK作品には,ヒット映画などへのオマージュ,あしざまに言えばコピーに近い手法を感じていた。代表的なものが前述の「怒」だが,開発側はそのあたりについて,どのように考えていたのだろうか。楠本氏に語ってもらおう。

 「『怒』は当時のハリウッド映画に触発されたというか,影響を受けました。あの頃は業界全体がそんなでしたよね。あの映画のヒーローがキャラクターとしてカッコいいから,あんなふうにしようっていう感じです
 時代と共にSNKにも法務や知的財産などがある程度分かる人が入社するようになって,一部のタイトルについては法務部から開発メンバーに『いや,それはちょっとアカンでぇ』と注意が行くこともありました。そのあたりから意識が変わったんだと思います」


SNKを大きく変えた「餓狼伝説」のヒット


 足立氏は,現在に至るまでのSNK作品の流れを作ったのは,当時の開発者たちの熱い想いだと語る。

 「当時のSNKは開発者の人数が少なかったこともあって,ディレクターやプランナーといったクリエイターひとりひとりの『俺はこういうゲームが好きなんだ』とか『こういうゲームを作るんだ』という思いをはっきり打ち出せていました。で,大きく分けて2つの流れができたんです。
 1つは『怒』に端を発するアクションゲームです。自分はたまたまそちらに配属されて,後に『サムライスピリッツ』(以下,サムスピ)などを作らせていただきました。
 もう1つは『ASO』とか,『アテナ』(※)といった,現在はディンプスにいらっしゃる河野さん(河野和人氏)が作られたRPG的なストーリーを持った作品の流れです。『ASO』も『アテナ』もシューティングゲームですけど,どちらもRPGの要素があるんです」

「アテナ」は,ファンタジー世界を舞台にビクトリー国の王女となって戦うRPGテイストのアクションゲーム。リリースは1986年
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 この2つの流れは,単なるゲームジャンルの違いを示すものに留まらず,SNKにとってもっと大きなものになっていく。

 「アクションゲームの流れがアーケード部門,RPGが家庭用部門につながっている感じがします。当時は気づきませんでしたが,振り返ってみて分かって,ちょっと面白かったです」

 そして,SNKを急速に成長させたのはアーケードゲームだった。1990年にリリースされたアーケード基板(または筐体)のMVS(Multi Video System)向けに,格闘ゲームを中心としたヒットタイトルが次々に送り出されたのである。

 格闘ゲームの中でも「餓狼伝説」は別格のようだ。楠本氏が語る。

 「SNKにとって『餓狼伝説』がヒットしたのは大きかったですね。『ストリートファイターII』で格闘ゲームが非常に目立っていたところにリリースできて,あとはMVSのおかげでしょう。MVSは1つの筐体で2人が対戦できる仕組みになっていましたし。
 対戦ってどっちかが必ず短い時間で排除されて,また次の相手が来るじゃないですか。その仕組みと合ったといいますか。あれはアーケードゲーム史に残る“発明”ですね。勝った人はそのまま続けられるけど,負けた人は例え10秒で試合が終わっても続けるためお金を入れなくてはいけない。おかげで時間あたりのインカムがガッと上がりました。それまで1日の上限がいいとこ1万とか1万5000円くらいだったのが,5万,6万,7万と伸びていきました」

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 その「餓狼伝説」開発の歴史を紐解いてみよう。足立氏はまずキーパーソンの名前を挙げた。

 「西山さん(現ディンプス代表取締役社長の西山隆志氏)がカプコンからSNKに移籍してきて,オリジナルの格闘ゲームを作ろうとなったことがきっかけだったと思います」

 西山氏は初代『ストリートファイター』の開発に携わった人物だ。

 「開発の自由度は高かったですね。制限らしい制限はなかったです。プロトタイプもなかったし,予算について何か言われたことも,決済のスキームもほとんどなかった。それがいいわけでもないんですけど……。
 2,3人で企画をまとめて,『足立は次何すんの?』って言われたら,じゃあこれやろうかくらいのノリと言いますか。自分たちも企画を考えるときに,ボツになるっていう思考がなくて,まあ好き放題やっていましたね。『餓狼伝説』に関してもヒットするのは見えていた感じです。その理由は,今だから言えますが,『ストリートファイターII』によく似ていたから(苦笑)」

 もちろんそれだけではない。足立氏はストIIに“ないもの”を「餓狼伝説」に入れて,差別化を図っていた。

 「やっぱりキャラクターです。SNK開発タイトルの多くに言えることですが,『餓狼伝説』は『ストリートファイターII』より物語性があって,キャラクター設定がはっきりしていましたよね。パッと見もカッコいいですし,そういう意味でもイケる感,ヒットする感はすごくありました。もちろん『ストリートファイターII』のヒットから始まった格闘ゲームブームという追い風もあったと思います」

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 キャラクターについて,楠本氏はまた違った角度から分析をしている。

 「例えばカプコンさんのキャラクターメイキングって,傍から見ているとですけど,機能からデザインされている印象があるんです。大きい人はこういう動きをするでしょう,といった感じの。
 SNKは機能とデザインを一致させちゃうと広がりが出ないという発想で,例えば身体が細くても重い攻撃を出すヤツがいました。僕はデザイン部門で,開発部門を少し外から見ていて,そこが興味深かったです」

 足立氏もその点を補足した。

 「ストIIは岡本さん(岡本吉起氏)が関わった作品。岡本さんってメチャメチャ,ロジカルなんですよ。西山さんが作られた初代『ストリートファイター』と『餓狼伝説』は,やっぱり非常に似ていて,まず意匠からキャラクターが作られている感じがしますが,ストIIのキャラクターはロジックで組み立てられていて,非常に分かりやすいんですよね」

 簡単に言ってしまうと,キャラクターのカッコよさや,アクションの華麗さにこだわったのが「餓狼伝説」で,キャラクターの性能を可視化させることに重点を置いたのがストII,といったところか。これは目指す方向性の違いであって,優劣を付けるようなものではない。実際足立氏は,“岡本流”の手法を参考に別のヒット作を生み出している。

 「なんで『サムライスピリッツ』が面白くなったかというと,ストIIをメチャメチャ研究したからです。もう遊び倒して,当たり判定の位置から大きさまで全て把握してました。だからなのか,実は『サムスピ』の設定ロジックはストIIにかなり近いんですよ(笑)」

 「『餓狼伝説』の開発では,カプコンにいらっしゃった皆さんが,SNKという新天地に来て『俺たちが俺たちらしく』という思いがあったと思うんです。
 開発期間が短くて,ゲーム性の部分ではまだまだのところもありました。“こうやったほうが新しいから”といったことが優先だったんでしょうね。
 ただ,それがあったから『餓狼』の物語ができて,『THE KING OF FIGHTERS』(以下『KOF』)までつながっていったとは思うので,面白いですよね」

SNKの主な格闘ゲームタイトル
1989年 「ストリートスマート」
1991年 「餓狼伝説」
1992年 「龍虎の拳」「餓狼伝説2」
1993年 「サムライスピリッツ」
1994年 「THE KING OF FIGHTERS '94」「真・サムライスピリッツ」
1995年 「餓狼伝説3」
1999年 「餓狼 MARK OF THE WOLVES」
2000年 「THE KING OF FIGHTERS 2000」


日陰者だった「ファミコン課」


NEOGEO本体
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 アーケードゲームのヒットで成長していったSNKは,ファミリーコンピュータをはじめとするコンシューマゲーム機向けにもソフトを開発しており,自社でもMVSとほぼ同じ性能を持つゲーム機「NEOGEO」を1991年に,NEOGEOのCD-ROMドライブ搭載版とも呼ぶべき「NEOGEO CD」を1994年に発売した。

 アーケードゲームを開発していた足立氏は,コンシューマゲーム機向けの開発をどのように見ていたのだろうか。

 「『他社のハード向けに作りたい』とまでは思いませんでしたが,隣の芝生は青く見えると言いますか,新しいハードを見て,『あの機能はいいなぁ』ってみんなで言い合ってたりはしました」

 その一方で,アーケードゲームを開発しているプライドのようなものもあったようだ。

 「コンシューマゲーム開発の部署って,長いこと『ファミコン課』と呼ばれていたんですが,当時アーケードの開発からファミコン課に行くことは,アーケードの華々しい舞台から降りた,左遷されたみたいな空気があって……。もちろん実際はそんなことないんですよ。
 その後にできたモバイル部署への配置換えのときも,同じような雰囲気がありました。けど,結局そちらに行った人たちが最後は勝っているという(笑)」

 新しいものが軽く見られるという傾向は,SNKやゲーム業界に限らずある話ではないだろうか。

 「だから今考えると,『アテナ』とか『ASO』を開発した河野さんの功績は素晴らしいと思いますよ。アーケードゲーム全盛時代のSNKでRPGと作られていましたから。河野さんがSNKのRPGのルーツを作られたんだなぁと感じます」

 そんな“日陰”で奮闘していた河野氏にも,チャンスが訪れる。

 「河野さんが僕の上長だったときに,外部から『サムライスピリッツ』でRPGを作りましょう,っていう話が持ち込まれたんです。あのときの河野さんは『ようし!』って感じで色めきたっていました」

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 それが1997年6月にNEOGEO CD,PlayStation,セガサターン向けにリリースされた「真説サムライスピリッツ 武士道烈伝」である。だが同作はハードウェアの仕様(詳細は後述する)に起因する長めのロード時間などが災いして,思ったほどの評価を得られなかった。

 「みんなRPGで新しい家庭用ハードを売るぞって意気込んで,先走った感じはありましたね。NEOGEOというハードに,RPGのようなじっくり腰を据えて遊ぶものが合わなかったということもありますが」

 前述したように,NEOGEOはMVSとほぼ同じ性能を有しており,“アーケードゲームが家で遊べる”ということを売りにしていた。コンシューマゲーム機であっても,アーケードゲーム向けのハードウェアだったのである。

 同じゲームと言っても,コンシューマ向けとアーケード向けでは大きく違う。足立氏は,アーケードゲームならではの作り方を語ってくれた。

 「スタートボタンを押してからゲームが操作可能になるまでを30秒に収めろと言われていました。
 MVSは最大で6本ROMが挿さっていたので,1つが長く回っているとほかのインカムが入らないんです。だから早く終わらせて次に,という指示があって大変でした。野球ゲームでもチーム選択からルール説明まで,全部30秒でやらないといけないんです。だからあのころのデモ画面は,テレビ番組の最後に流れる高速のテロップみたいで面白いですよ」

 厳しい条件下での開発作業だったが,得るものも大きかったようだ。

 「30秒でも分かるようにしないといけないから,そこでだいぶ研ぎ澄まされた感じはあります。カーソルを最初どこに置いておくかとか,一番目立つところに何を置くかみたいな……,今でいうユーザーインタフェースですね。それこそ何度も繰り返して,スパルタの中で学んだ感じです。
 ゲームセンターの騒音の中で,通りがかった人をどう捕まえるか,筐体の前で足を止めさせるかというところでも,いろいろなことを考えました。目立つ音を大きく鳴らしてみたり,ピカピカ光らせてみたり。そこはパチンコとかパチスロとかの見せ方にちょっと近い部分がありますね。
 コンティニューのカウントダウンも,どうやったらもう1回お金を入れたくなるか,だいぶ考えました。開発している空気感はそんな感じでした」

 楠本氏も回想する。

 「アーケードゲームの基本ですよね。1分でも30秒でもいいんですけど,プレイしているところを見た人が,面白そうだからお金を入れよう,と思うように誘導するっていう。ルールも何も知らないけど,人がやっているのを見て,これは面白そうだ,こいつが終わったら遊ぼうって思わせるような設計に特化する。
 『beatmania』や『Dance Dance Revolution』を見たときは,その点で強烈なインパクトを受けました。あれは人がプレイしている姿そのものが,もう最高のプレゼンでしたから,そりゃ遊びたくなるわ……って」


“常識破り”だらけだったMVSとNEOGEO


 1台に6本のROMが挿せるという,MVSならではの仕様はなぜ生まれたのか。楠本氏はこう推測する。

 「狙いは利益の向上だと思うんですよ。アーケードゲームの場合,通常はハードウェアの上限数がソフト販売本数の上限になるんです。たとえば1店舗に5台入れてもらったとすると,ソフトも5本になる。
 でも,6本ROMが入る筐体を5台入れてもらえば,導入時にすべて埋まらなくても,後で営業が行ったときに『スロット空いてますやん。入れて下さいよ』とか言えて(笑),最大なら30本売れる可能性が出てくる。
 ソフト販売の上限を突破するためのアイデアだと思うんです。ゲームセンター側にとってもそんなに悪い話じゃないですよね。1台に2本入りますよとか,4本入りますとかは」

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1筐体で複数のタイトルを遊べるのがMVSの特徴だった
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 MVSは当時主流だったJAMMA(日本アミューズメントマシン協会)規格に準拠していない部分があったが,それが逆にメリットにもなった。

 「JAMMA仕様の筐体はどのメーカーの基板でも入りますが,MVSの場合はMVS仕様のものしか遊べませんよっていう排他的なプラットフォームだったと思うんです。アップルさんなどと一緒ですよね,発想が」

 商品開発やシステム設計の部分で,何をどこで売るか,どこで儲けるかといった,今で言うマネタイズがしっかり考えられていたわけだ。このあたりは,純粋なクリエイターではなかなかできないところだろう。
 そして足立氏は,川崎氏が「胴元になる」とよく言っていたことを覚えているという。それらを踏まえると,MVSの発想が川崎氏から生まれた可能性は高い。
 
 そして楠本氏の話を聞くと,川崎氏が現場の反応を見ながら柔軟に対応していったこともうかがえる。

 「JAMMA仕様の筐体にMVSカセットを挿せる,元々のコンセプトから少し外れた「MVS-1」というものも販売されたと記憶していますが,あれはおそらく『6本もいらん,1本だけ挿せるのをくれ』といったオーダーがあって,それに応えて出したんだろうと思うんです。ただ,最初の理念は先ほどお話した通りで,徹底的にロジカルなものだったと思います」

 川崎氏ならではのセンスを感じるエピソードはほかにもある。
 筆者は以前,足立氏から『バミューダトライアングル』(※1987年リリースのシューティングゲーム)にまつわるこんな話を聞いた。
 
 このゲームの開発中に行われたロケーションテストでは,自機のパワーアップが強すぎてプレイタイムが長くなり,インカムが伸びないという結果が出た。
 そこで開発チームでは,パワーアップを下方修正しようとしたのだが,それを知った川崎氏は「自機が強すぎるからって弱くしてどうする! 敵をもっと強くするんや!」と怒鳴ったそうだ。
 この一件は,その後の足立氏のゲーム作りのベースになっているという。とにかくインフレーションでサービスを充実させるという考え方だ。

 MVSとともにSNK隆盛の立役者となったNEOGEOについても語ってもらおう。
 そのネーミングの候補は3つあったという。楠本氏が提案した「NEOGEO」,川崎氏が推した「クロフネ」,もう1つは「プロス」で,社内投票の結果,NEOGEOに落ち着いたのだが,発案者の楠本氏に,その由来を聞いてみた。

 「美術の本で見かけた『ネオ・ジオ派』という芸術運動の名前だと記憶してます。ネーミング自体に深い意味はなくて,NEO・GEOとアルファベットで並べると綺麗なので,候補に入れておこうって感じでした(笑)。
 クロフネは,『海外からやってきたくらいのインパクトがある』といった意味が込められていました。今だったらそのネーミングはアリかなとも思いますが,若かった僕には,ちょっと受け入れられなかったですね(笑)。
 余談ですが,筐体に色を付けるとコストがかさむし,表面の仕上げや見栄えの点で都合が良かったので,黒一色のデザイン案を出していた時期があるんです。川崎さんはそこから『クロフネ』っておっしゃられたのかなぁと思っています」

 なお,「プロス」の語源はプロフェッショナルなスペックのハードを標榜していたことだそうだ。

 NEOGEOといえば,2つの「O」に顔をあしらったロゴマークも印象的だが,これにも楠本氏が関わっている。

 「当初のロゴデザインは,筐体のデザインを阻害しないように,シンプルなサンセリフ系のフォントでやっていたんです。ですが,当時お取引していた代理店のデザイナーの方が,広告やマーケティングの観点からは地味すぎるから,もうちょっと目を引くロゴを作ろうよと言ってこられて。その方が作った丸いロゴを基に,簡単なキャッチボールをしていって,ハロウィンのカボチャをモチーフにしようという話から顔を入れようということになったのだと思います。だから,合作みたいなロゴですが,基点となったのはその代理店の方ですね」

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ゲーマントはNEOGEOだけでなく,SNKの社員募集広告などにも登場した
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 NEOGEOのローンチ時期に,「ゲーマント」というイメージキャラクターがいたことを覚えている人もいるかもしれないが,これは急造のキャラクターだったという。

 「ゲーマントは制作のコストと期間があまりなかったんですよね。当時は個々のソフトよりも,システム自体を売るっていうのが先で,それには何かキャラクターが必要だって話になって作ったものだと記憶しています」

 NEOGEOは一般向けの販売に先駆けて,1990年からレンタルビデオチェーンのTSUTAYAなどを通してのレンタルが行われていた。

 現TSUTAYAのルーツとなるのは,1983年に大阪府枚方市にオープンした「蔦屋書店 枚方店」だった。翌年,江坂に「蔦屋書店 江坂店」が開業。ご近所の縁がTSUTAYAでのNEOGEOレンタルにつながったという証言を,筆者は当時のTSUTAYA関係者から聞いている。


“異色の商売”を展開した営業部署


 SNK躍進の要因にその開発力があったことは言うまでもないが,楠本氏によれば,アーケードゲームの営業体制も斬新だったという。

写真の筐体はそのコンパクトさゆえか,ゲームセンター以外の場所に置かれることも多かった。2018年に発売された「NEOGEO mini」のモチーフにもなっている
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 「会社の規模が大きくなる中で,販売部と営業部という2つの部署ができました。販売部はほかのゲーム会社さんにもあるBtoBで,ゲームセンターとの間で筐体を売ったり,買ったりっていう部門です。
 じゃぁ営業部は何をしていたかというと,風営法に抵触しない場所への営業です。今でいうところのイオンさんとかの遊戯機コーナーやボウリング場などですね」

 風営法の適用はゲーム機の設置面積割合などで決められており,適用されない場所であれば営業時間などの規制は緩かった。このあたりに目を付けていたのも,実にSNKらしい。

 「そういった店に行って,『SNKが筐体を用意します。ソフトウェアも用意します。お店のほうで提供していただくのは電気代とスペースだけです』という営業をするわけです。さらには売上利益も一定の割合で配分しますという,BtoBtoCのシェアビジネスのようなものを展開していました。当時の他社と比べて,かなり異色な商売をしていたと思います。
 もちろん,ほかのメーカーさんも同じようなことをやろうとは思っていたんでしょうけど,SNKは“設置する側が楽なサービス”をやっていたと思います。メンテナンスもします。ソフトも交換しますよと」

 設置される場所の状況がさまざまであったからか,筐体の設計方針もユニークだったという。

 「自販機などと同じような考え方だと思うのですが,コインボックス周辺の板厚を厚くするとか,バールでこじ開けようとしても壊れないようにしましょうってことですよね。そこにお金が入っているのをみんな知っている,いわば貯金箱ですから。
 営業から,筐体の移動を楽にするための軽量化を要望されて,機構設計の担当者が,薄鋼板を指定したら,川崎オーナーに『ココは厚い鋼板やろ!』って怒鳴られてました(笑)」

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 好調な業績を受けてSNKの支店は一時期40以上に増え,すべての都道府県に支店を作ることが目標になっていたという。

 「当時のSNKの勢いを象徴するようなエピソードとしては,社用車に描かれていたNEOGEOのロゴマークを剥がしたことがあります。集金に使っていたので,『狙われるぞ』って話になったんですよ」

 しかし,SNKの営業体制には問題もあったようだ。足立氏は,営業が外回りをする中で得た,他社のヒットタイトルを始めとする情報を,開発にフィードバックできる仕組みがなかったことが残念だと振り返る。その要因の1つには,川崎氏が営業に対して「とにかく作ったものを売ってこい」というスタンスで接していたことがあるかもしれないとも語った。
 SNKは開発と営業がつながっていない,奇妙な二人三脚で突っ走っていたのだ。


NEOGEO CDから始まった不振


 SNKは1994年9月9日に「NEOGEO CD」を発売した。ゲームメディアをROMカートリッジからCD-ROMに変更して低価格化を図った,いわばライトユーザー向けNEOGEOだったが,その評判は芳しくなかった。等倍速のCD-ROMドライブを搭載したため,読み込み時間の長さが目立ち,4万9800円という価格もネックになったとされている。
 高い3Dグラフィックス性能を持ち,2倍速CD-ROMドライブを搭載して当時「次世代機」ともてはやされたPlayStation(1994年12月3日発売,3万9800円)やセガサターン(1994年11月22日発売,4万4800円)が,NEOGEO CDより安い価格で発売されたことも影響したのだろう。

NEOGEO CDは発売後すぐにモデルチェンジが行われ,ディスクの挿入方式も変更された
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 楠本氏は当時もSNKに在籍していたが,NEOGEO CDについてあまり多くを知らないという。

 「初代NEOGEOのデザインには関わりましたが,NEOGEO CDの頃には,インダストリアルデザインや家庭用ゲーム機の商品企画,設計といった仕事からはだいぶ離れてしまっていました。
 あまりにも仕事が多くなり,機構設計やインダストリアルデザイン系の仕事は外部にお願いしようということになり,そういった情報が自分にあまり入らなくなったんです」

 そのため,「これは想像ですが」と断りを入れつつも,以下のように語ってくれた。

 「CD-ROMはROMカートリッジと違って原価が安いし,製造期間も短縮できる。イコール利益率が高い……だから,今あるソフトも全部CD-ROMで作り直したら,商売として成立するのではないか? といった考えがベースだったのではないでしょうか」

 「NEOGEOは欲しいけど,ソフトが高いから」と二の足を踏んでいる人をターゲットにしたかったのでは,というわけだ。何にせよ,NEOGEO CDがつまづいてしまったため,社内は大慌てになったようだ。

 「セガサターンとPlayStationは2倍速なのに,NEOGEO CDは等倍速でローディング時間が長くてRAMの容量も少ないから,『これはもうあかん』という話になって。
 すぐに2倍速の『NEOGEO CD-Z』を出したんですが,そのあたりから迷走している感じがありました。見た目のデザインも全然違うものになっていて,整合性があまりなかったと思います」

 足立氏が付け加える。

 「今だから分かりますが,開発における段取りやゴール設定の部分が足らなかったんだと思います。チップ開発やハード開発をしながらゲームの企画を立てるみたいなことをやっていましたから。NEOGEO CDもそうですけど、あの当時ゼロから作っていた人たちはホント大変だったろうなとは思います。

 最近のゲーム開発で例えるなら,家庭用ゲームを作っていた人たちが,いきなりオンラインゲームの開発を任されて,それまでと同じ速度感で『3か月もあればできるよね』と思ってしまった……といった感じが割と近いのではないでしょうか。
 成功するためにはきちんとした計画が必要だったと思いますが,当時のSNKが持っていた,前へ前へ走ろうとする力は,すごかったんだとも思います。とにかく強気の姿勢でしたからね」

 NEOGEO CDの後,SNKは携帯ゲーム機事業に参入。1998年10月に「ネオジオポケット」,1999年3月に「ネオジオポケット カラー」をリリースした。
 半年も経たないタイミングで新型機をリリースした理由は,多くが想像するであろう通りで,「ネオジオポケット」の売れ行きが振るわなかったためである。だが「カラー」も,とくに北米市場での不振が目立ち,挽回を果たすことはなかった。

「ネオジオポケット」(左)と「ネオジオポケット カラー」(右)
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 NEOGEO CDから続く不調がSNKの財務状況に与えたマイナスの影響は,決して小さくなかっただろう。

 そんな中,SNKはもう1つ別の事業を進めていた。1999年3月,当時開発が急ピッチで進んでいた東京・お台場にオープンした屋内型テーマパーク「ネオジオワールド 東京ベイサイド」である。
 SNKはこれに先駆けて「ネオジオワールド つくば」などを運営していたのだが,アトラクションは他社が手がける施設でも稼働しているものと同じだったようだ。それに対して「東京ベイサイド」には,ここでしか楽しめないアトラクション,しかもローラーコースターなどのライド型や3Dシアターといった,大がかりなものが用意されていた。

「ネオジオワールド 東京ベイサイド」のエントランス
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 当時,筆者はその情報を聞いて驚くとともに「大丈夫だろうか」という不安を感じたのを覚えている。1997年に「ぷよぷよランド」の構想を発表したコンパイルが,翌1998年に75億円の負債を抱えて事実上の破産に至った衝撃も覚めやらぬ時期とほぼ重なっているのだ。

 SNK社内はどのような状況だっだったのだろうか。足立氏に聞いてみた。

 「開発メンバーはゲーム作りに集中していたので,詳しいことまでは分かりませんでしたが,川崎オーナーと自分たち社員では,見えている景色が違ったんだと思います。おそらく,さきほど話したゲームバランスのように“もっと強くしろ”という感覚だったのではないでしょうか」

 確かに,いいときも悪いときも,SNKは常に攻めの経営を続けてきた。楠本氏もそれを強く感じていたようだ。

 「守る選択もあったと思いますが,攻めたんですよ。SNKブランドを高めて,世界的なものにしようと。
 ネオジオワールドって東京ベイサイドのお台場だけじゃなかったですからね。関東だと,つくばにも作りましたし,さらには海外,ブラジルとか……。1か所だけでも凄い費用がかかるのに,それを3個も4個も建てたら……。
 それでも収益につながっていったらよかったんでしょうけど,望むに足るインプットを毎月稼ぎ出したかっていうと,そうではなかったと思います。このあたりは,どうしても口が重くなっちゃいますね……(苦笑)」

 楠本氏が話したように,ネオジオワールドもSNK起死回生の一手にはならなかった。

 「今だったら,ユニバーサルスタジオジャパンという分かりやすいモデルケースがあるんですけどね。VRとかARとかの技術を駆使したものですよね。ただ,あそこまで施設型じゃないものを目指していたとも感じるんです。
 きっと,川崎さんには見えていた手があったんじゃないでしょうか。1つの筐体にROMを6本挿したら6本売れる……的な発想が」

 川崎氏やSNK幹部が未来を託した「ネオジオワールド東京ベイサイド」は,SNKの経営悪化により開業から2年半足らずの2001年7月31日に閉園。その後には「東京レジャーランド パレットタウン店」が入り,2017年7月17日に営業を終了したが,今も建物の屋根にはネオジオワールド営業時に描かれたNEOGEOのロゴマークがかすかに残っており,パレットタウンの観覧車からそれを確認できる。

観覧車から見たNEOGEOのロゴマーク
写真提供:dreamrise!
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買収と倒産,そして残ったもの


 ここまで紹介してきたように,1990年代後半にSNKが打った施策の多くは,思うような結果を残せなかった。その結果,2000年に入ってSNKの経営は行き詰まる。

 そこでSNKは,以前から近しい関係にあったアルゼ(現在のユニバーサルエンターテイメント)からの支援を取り付けた。具体的な内容は,SNKの第三者割当増資にアルゼが50億円を出してSNK株式の50.9%を取得し,親会社として同社の再建を目指すというものだった。

 しかしそうなった以上,SNKはアルゼの意向を無視できない。優秀なスタッフがアルゼに移籍したり,営業部門が厳しく管理されたりといったことが起こった。会社再建に痛みは付きものとはいえ,SNK社員には心血を注いで育ててきたものが食い尽くされるような気持ちを覚える者もいただろう。

 結局アルゼの支援も功を奏さず,SNKは2001年4月2日,大阪地裁に民事再生法の適用を申請,その後破産宣告を受け倒産した。負債総額は約380億円。このニュースには多くのゲームファンが衝撃を受け,落胆した。

 最後のゲームタイトルは,2000年7月26日に稼働を開始したアーケードゲーム「THE KING OF FIGHTERS 2000」だった(その後NEOGEO,PS2,ドリームキャスト向けにもリリース)。

 楠本氏は倒産までSNKに残った社員の1人である。

 「こんなことを言ったら誤解されるかもしれませんが,SNKのいろいろな仕組みや関係性が少しずつ崩れていく様を見るのは,それはそれで勉強になると考えていました。悲壮感もなかったですし……かといって過剰に前向きな気持ちでもなかったですが。
 再建は難しいだろうと思っていましたけど,最後までつき合ってみようと思って会社に残りました。
 そして潰れるときに,資料などはきっちり整理したんです。取扱い説明書やイラスト原画などは散逸しちゃう可能性がありますから。次世代の基盤になるものを残しておこう,きっちりファイリングして,デジタルデータにするものはして……と,段取りを組んで作業したと記憶しています」

 さて,かなり登場が遅くなってしまったが,ここからは松下氏の視点からも旧SNK末期の様子を語ってもらおう。松下氏は足立氏,楠本氏と同じ大阪デザイナー専門学校を卒業し,1998年にSNKへ入社した。

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 「江坂にあった開発系の事務所で、楠本さんに面接していただいて入社しました。SNKを選んだ理由は,募集を見た中で給料が一番高かったからです。ほかの会社が安過ぎたのかもしれませんが」

 足立氏や楠本氏と違い,松下氏が入社した頃のSNKは,NEOGEOや格闘ゲームタイトルの数々でその名を知られた,押しも押されもせぬ存在である。それに見合うような好待遇を提示していたのだろうが,この3年後には破産へ至るのだから,その急激な衰退ぶりが感じられる。
 
 「SNKが倒産したとき,私はまだ右も左も分からないような若手でしたが,短期間で入社,倒産,新会社の立ち上げと,ちょっとあり得ないような経験をさせていただきました。アルゼ傘下時代はパチスロのデザインワークを担当していて,倒産のときには楠本さんと一緒に過去のデータの整理作業もやりました」

 松下氏が話した新会社というのは,プレイモアのことである。SNKの系列会社として2001年8月に設立された同社は,SNKの倒産後,競売に掛けられた同社の知的財産権を落札した。松下氏のような旧SNKからの社員も多く,2003年にはSNKプレイモアと社名を変更し,その後会長に川崎氏を迎えるなど,さまざまな面でSNKの“血”を受け継いでいる。

 「SNKプレイモア時代は,ゲーム部門と遊技機部門が完全に分かれていて,私の仕事は遊技機がほとんどでした。その頃のゲーム部門は『どきどき魔女神判!』(※)などをリリースしていましたね」

※2007年7月5日二リリースされたニンテンドーDS用ソフト

 現在もSNKで働く松下氏は,旧SNKが残したものの大きさを常日頃から感じているという。

 「あの頃の財産,コンテンツが,今ちょうど中国や韓国などのアジア市場でものすごくヒットしているので,当時の方たちが残してくれたものを継承すると同時に,それを進化させていく責任みたいなものを感じますね」

 そして今回の取材に足立氏や楠本氏が参加していることからも分かるように,SNKを辞めた人々との交流や協力関係も今なお残っている。これもかけがえのない財産と言っていいものだろう。


SNKの目はもとから世界を向いていた


 SNKプレイモアは2015年に,Ledo Millennium(レド ミレニアム)の傘下に入り,2016年には社名をSNKへと変更した。
 外資による買収では社内の雰囲気も大きく変わりそうなものだが,松下氏によれば,そんなことはなかったそうだ。

 「経営のやり方は変わりましたけど,ゲーム開発の雰囲気は同じですね」

 その理由の1つと思われることを,楠本氏が語ってくれた。SNKでは昔から,常に世界市場を見据えていたのだという。

 「当時から『世界に向かって発信する』という意識が当たり前のようにありましたね。
“世界戦略”みたいに,力んでいるわけではないんですよ。開発する中で,アメリカで売るからこうしよう,中東で売るからこうしよう,といった意識が普通にあったんです」

 もとから“世界基準”の仕事をしていたということになるのだろうか。これは営業でも同じだったようだ。

 「当時から世界展開していたアーケード系のゲーム会社さんは同じような感じだったと思いますが,若い社員が『ブラジル支社や!』『次は北米や!』とか言われて,海外に1人か2人くらいで行ったんですよね。そういう人たちって,川崎オーナー直属の特命部隊みたいなもので,交渉や決済のスピードがものすごく速かった」

 筆者は,SNKがテレビの普及率が低い国での販売に乗り出すとき「テレビがなきゃゲーム機も売れないだろうから,先にテレビを売れ」と指示があったという破天荒なエピソードを聞いたことがある。足立氏にその真偽を確認してみると……。

 「実際に海外営業のメンバーからそう聞きましたね(笑)。『テレビを持っていない国民が多いから,テレビのカタログも一緒に持って売りに行くねん』って。冗談で言ったものではないでしょうが,会社としてその方針を打ち出すとかいう話でもないと思いますけどね」

 そして足立氏は,そんなSNKらしいビジネスが,巡り巡って意外な形で現在のSNKに返ってきていることを教えてくれた。

 「現在のSNKは海外の企業からも注目を浴びていますが,そういった会社にはかつてサムスピやKOFが好きだったという方がたくさんいます。
 かつて海外に向けて送り出したものが,開発するエネルギーとして返ってきて,また新しいものが作れるのは,非常に面白いなぁと思います。あの頃,日本の企業やファンドでSNKに投資しようというところはなかったですからね」

 この話を聞いて,「The Future Is Now」というSNKのコーポレートメッセージを思い浮かべる人もいるのではないだろうか。あの頃の開発者や営業社員の頑張りがなければ,今のSNKもなかったのだ。


海外のファンから教えられたこと


 1978年に新日本企画が設立されてから40年以上の月日が流れたが,その間,SNKのゲームは日本のみならず世界中でプレイされ,その国の人々に愛されてきた。

 足立氏は海外のSNKファンから教えられることが多かったという。

 「映画や舞台,小説などは文化的,芸術的な側面があって,社会的な価値も認められていますよね。昔の日本ではゲームにそれが認められていなくて,作っている自分たちも同じような感覚だったんですが,海外の方は『作品』とか『アート』として見てくれていた。その見識が逆輸入された感じです。
 大変ありがたかったというか,日本以上に大事にしてもらっていると感じて嬉しかったですね。日本にもそういう機運が生まれてきていますけど,もっともっと強くなってほしいと思います。
 現在SNKで開発に携わっている小田さん(小田泰之氏)と話していても,『餓狼 MARK OF THE WOLVES』(1997年に発売された「餓狼伝説」シリーズ作品)が海外で高く評価されていることが誇りになっていることを感じますし,たぶんそれがエネルギーになっているとも思うんです」

 足立氏が名前を挙げた小田氏は,1990年代半ばにSNKへ入社して格闘ゲームの開発に関わった後,一度SNKを離れるも舞い戻って「THE KING OF FIGHTERS XIV」(2016年リリース)を開発した人物である。SNK復活の立役者の1人ではあるが,その道のりは平坦ではなかったようだ。そのあたりの詳細と,SNKの将来については,次回でじっくりと紹介することにしたい。

※次回は2019年12月12日に掲載します

著者紹介:黒川文雄
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 1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
 現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
 プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設


(C)SNK CORPORATION ALL RIGHTS RESERVED.
参考資料:
「それは『ポン』から始まった」赤木真澄
「アルゼ王国の闇」松岡利康 

協力:
仁志睦

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