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元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部
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印刷2022/03/29 12:00

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元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部

画像集#001のサムネイル/元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部

 世界で初めて商業的に成功したゲームとされている「PONG」のリリース(1972年)から,今年でちょうど50年,半世紀が経つ。コンシューマゲーム市場という存在を築いたファミリーコンピュータ(1983年発売)も,来年で発売40周年だ。
 ゲーム産業は短期間で急成長しただけに,今なお黎明期の関係者が数多く健在ではあるが,その証言を得ようとする中では“時間との勝負”を意識せざるを得ない。

 筆者は,ゲームの歴史を記すうえで,その証言が欠かせない,任天堂代表取締役社長であった故・岩田 聡氏や,ファミコンの生みの親である故・上村雅之氏へ取材を申し込んだことがある。しかし,どちらもさまざまな事情から実現しないまま,お二人は鬼籍に入られてしまった。

 そういった経験があるだけに,今回の岡田 智氏への取材は,貴重なものになったと思っている。任天堂の携帯ゲーム機がどのように生まれ,どのように発展したのかを,前編とあわせて読み進めてほしい。

岡田 智氏
画像集#003のサムネイル/元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部

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 メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏による連載「ビデオゲームの語り部たち」。今回は,元任天堂の岡田 智氏に登場いただく回の前編として,「光線銃SP」「ゲーム&ウオッチ」「ドンキーコングJR.」などにまつわるお話をうかがいました。

[2022/03/28 12:00]


液晶に振り回されたゲームボーイの開発


 前編で紹介した通り,岡田氏と故・横井軍平氏は,二人三脚で任天堂の玩具やゲームを生み出してきた。だが,ファミコンのリリース後に立ち上がった携帯ゲーム機(後のゲームボーイ)の開発方針では対立したという。本体とは別にソフトを提供する“ファミコン型”か,本体内蔵のソフトのみ遊べる“ゲーム&ウオッチ型”かで意見が分かれたのだ。
 
 「横井さんも,ハードとソフトを別にする“持ち歩けるファミコン”のような構想は持ってたんです。でも,あのときはスケジュールありきで,ゲーム&ウオッチの延長線のような単発の商品にしたいと。
 それで大喧嘩になって。横井さんが『俺のいうこと聞かれへんのか!』と言うんで,僕が『聞けません』と返したら,『だったら,作れる人間を自分で連れて来い。俺はほかの部署に行く』と。
 その後,山内社長に『横井さんはこう言うてるけど』と前置きして『これは1年で作るのではなく,2年3年かけて下地ができてから販売したほうがいい』と説明したら,『それでええわ』と。その頃から,『横井さんとは考え方が違う』と思い始めましたね」

トーセから招待されたイベントでの写真。左が岡田氏,右が横井氏
画像集#014のサムネイル/元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部

 横井氏が実際には部署を離れることなく,ゲームボーイ開発に携わったのは,4Gamer読者の多くがご存じの通りだ。

 ゲームボーイの開発でまず問題となったのが,本体に搭載する液晶ディスプレイの仕様策定だった。岡田氏と横井氏が,ゲーム&ウオッチで付き合いのあったシャープに話を聞きに行ったところ,「難しくてできない」と,いったん話が止まってしまったという。

 そんなとき,シチズンからポータブルテレビ用液晶ディスプレイの売り込みがあり,その画面サイズや価格が手頃だったことから,岡田氏らはこれをベースに本格的な開発を進めることにした。

 だが,発売の可能性が見えてきた頃になって,いったん断ったはずのシャープが,価格や供給能力などを武器に巻き返しを図ってきた。最終的にはシャープが契約を勝ち取ったのだが,この逆転劇には岡田氏が絡んでいたようだ。

 「シチズンと交渉しながらも,何でできひんのかシャープにいろいろ聞いていったんです。こっちも,言ってるものをそのままを作ってくれというわけじゃなく,近いものができればいいから『それやったら,こうしたらどうなん?』といろいろ提案していました。
 それと,ゲームボーイの試作機を置いていったら,面白がってもらえたみたいで。それからシャープも真剣に考えてくれるようになって,やがて『これならできます』となったんです」

 このときのシャープの攻勢はすごかったと,岡田氏は振り返る。

 「シャープも(シチズンの売り込みに)ビックリして,『取られたらあかん』と。任天堂との取引は利益率が高かったようですから。電卓だと競合他社と価格や性能を比較されますが,ゲームボーイ用の液晶はカスタムだから相場がない。だから,言い値が通るんですよ」

 ゲームボーイの液晶を巡ってのシャープとシチズンの競争は,筆者も話を聞いたことがある。それは「シャープがシチズンを下回る価格を出し,最後は山内 溥社長の鶴の一声でシャープとなった」といったものだったが,岡田氏の話を聞く限り,少なくとも上層部の独断ではなく,現場同士で努力と調整を重ねたうえでの決定だったと言えそうだ。

 ところが,採用された液晶に,山内氏から「見えないやないか。売れるわけないやろ」というダメ出しがあり,開発は振り出しに戻ってしまう。視野角が狭く,少しでも斜めから見るとコントラストが低くなってしまうことが原因だった。
 横井氏へのインタビューをまとめた書籍「横井軍平ゲーム館」には,このとき横井氏が自殺を考えたというエピソードが書かれている。だが,当時一緒に仕事をしていて,横井氏の様子を見ていた岡田氏は「それはないと思う」と語った。

 「すぐにシャープの技術陣と相談しました。ゲームボーイが発売中止になれば大きな損失になるので,シャープも必死ですよ」

 その結果,液晶の表示形式を,TN方式からSTN方式へと変更することとなった。STN方式はTN方式に比べ,視野角やコントラストに優れる。だがSTN方式の液晶は量産体制が不十分で,コストが上がることは確実だった。そのため筐体のサイズはそのままに,液晶だけを当初の想定よりも小型にすることで,帳尻を合わせたという。

 その液晶のサイズ感も含め,ゲームボーイのデザインを「おしゃれ」「かわいい」「クール」と評価する人は現在でも少なくない。この帳尻合わせは結果的に正解だったのかもしれない。

 「デザインについては,まず中に入れる部品を並べてね。どうやったら一番コンパクトになるか考えてくれと担当者に頼んで。それで『最適解です』と持ってきたのが,あの縦型のデザインだったんです。僕は最初,持ちやすい横型を考えていたんですよ。でも横だと無駄が出るから縦だと。それをデザイナーに持っていったら,角を1か所丸くすると言い始めてね(笑)」

 後継のゲームボーイポケットやゲームボーイライトにも引き継がれた特徴的な丸みは,“最適解”のままでは面白くないと思ったデザイナーの遊び心が生んだのかもしれない。

右からゲームボーイ,ゲームボーイブロス,ゲームボーイカラー,ゲームボーイポケット
画像集#002のサムネイル/元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部

 ゲームボーイには,通信ケーブル用のジャックが搭載されている。岡田氏は「どのように使えるか分からないが,とりあえず通信機能を付けておくように」と自身が指示した結果だと語った。

 「誰がゲームボーイに通信ジャックを搭載したのか」には諸説ある。そもそもが曖昧な問いかけであり,最初にアイデアを出した者でも,正式に社内で提案した者でも,最終的に搭載を決めた者でも当てはめられてしまうため,諸説出てくるのは当然かもしれないが,開発者責任者であった岡田氏が通信ジャック搭載にGOサインを出しているのは間違いない。

 「最初はファミコンとの互換性も考えて,CPUはリコーのマイコンを使おうと思っていたんですよ。でも上村さん(当時任天堂第二開発部部長の上村雅之氏)から,その頃開発中のスーパーファミコンにも関わっていたリコーのリソースを使うなと。
 そこに,シャープが液晶とセットでマイコンを売り込んできて。それに簡単な通信機能も備わっていたんで,対戦ゲームに使えないだろうかと思ったんです」

 だが,その通信機能は簡易なもので,社内では「ゲームには到底使えない」「意味あるんかい」と反対されたという。「付けるなら再設計してよりよいものにするべき」という意見もあったが,ゲームボーイの発売時期やコストを考慮し,岡田氏はそのままの仕様で押し切った。

 このとき岡田氏の頭には,かつて自身が手がけた電子ゲーム「コンピュータマージャン役満」(1983年リリース)で,2台間のケーブル通信対戦を実現したことがあったそうだ。

 そして,ゲーム&ウオッチのときもそうだったように,ほかの人が無理だと思うことをやってしまうのが岡田氏である。通信ジャックがそのままの仕様でも使えることを示すため,ゲームボーイのプロトタイプ完成後,自ら対戦ゲーム用のライブラリを開発した。

 「『プログラムが難しいんで,通信なんてできるわけない』と周囲からは言われた。実際,難しかったけどね(笑)。でも僕がライブラリを作って,『できるよ』と。サンプルで『アレイウェイ』の対戦機能も作ってみせたし,専用コントローラも作った。でも,ゲームボーイを発売するタイミングでは,将来どんな使われ方をするかなんて考えてなかった」

 岡田氏がゲームボーイに通信機能を付ける判断をしていなかったら,のちに世界中で大ヒットし,今もシリーズが続く「ポケットモンスター」(1996年リリース)の重要な要素である「対戦」「交換」が実現することはなかった。
 ポケモンのヒットがなければ,その頃ゲーム機としてのピークを過ぎたと思われていたゲームボーイの復活もなかったかもしれず,ひいては後の携帯ゲーム機の発展も今とはまったく異なる様相になっていたかもしれない。まさにゲーム史上における,偉大な判断の1つである。

 1989年4月に発売されたゲームボーイは,2000年に世界累計販売台数1億台を達成した外部リンク)。

※ゲームボーイブロス,ゲームボーイポケット,ゲームボーイライト,ゲームボーイカラーを含む

 携帯型ゲームとして重要な堅牢性についても度々語られる。ネットでは,湾岸戦争の空爆で倒壊した兵舎から発見されたゲームボーイが問題なく動作したというエピソードが有名だ。山内氏がゲームボーイの試作機を床に放り投げたという話もあるが,そちらについて,岡田氏は聞いたことがないという。だが,それとよく似た話をしてくれた。

 「品質管理部に,ハードを壊すのに長けてる後輩がいてね。そいつが投げよったから,みんなビックリしたんです。そいつとは話が通じんかったなぁ(笑)」


ハードに限らず,面白そうならなんでも


 玩具やゲーム機を主に手がけた岡田氏だが,ファミコン時代にはソフトのプロデュースも担当している。
そのきっかけとなったエピソードの前に,当時の任天堂の状況を説明しておこう。

 岡田氏によると,ファミコンがヒットしたことによって,任天堂のビジネスモデルは大きく変わり,社内にも変化が生まれたそうだ。

 「ファミコンで,任天堂のビジネスモデルが“ハードを変えずにソフトを変える”というものに変わってね。昔みたいに『来年の商品,どうしよう』『家電屋さんは,炊飯器とか洗濯機のモデルチェンジができてええな』というのがなくなって。それで社内の開発の地位が一気に上がりました」

 だが,現在のビジネスモデルとは大きく異なる点が1つあった。

 「最初はサードパーティ製のソフトのことを考えてなかった。自分達だけで商売ができると思っていたんでしょうね」

 そのため任天堂は当初,ファミコンソフトの開発に必要な情報を他社に公開することはなかった。
 だが,ナムコがファミコンを解析し,独自に開発したファミコン用の「ギャラクシアン」を,当時の中村雅哉社長が自ら任天堂に持ち込んで山内氏と交渉し,ロイヤリティ契約を締結した。そのナムコが「ギャラクシアン」「ゼビウス」などを大ヒットさせたことで,任天堂の方針はさらに変わっていくのだが,このあたりの詳細は本連載の第4部で確認してほしい。

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 そして,サードパーティの参入を想定していなかったことで,ファミコン用ソフトの開発難度は高いものになり,岡田氏が駆り出されることになる。

 「自分達だけでやろうと考えてたから,マニュアルもない。任天堂の社内ですらソフトを作るのに苦労していました。問題があると,いちいち担当者に聞きに行ってたんですよ。僕も,上村さんから『ファミコンを売るために,光線銃のソフトを出すから手伝ってくれ』と頼まれて。それで宮本君(宮本 茂氏)に絵を描いてもらったりしながら,ファミコンソフトをプロデュースしました」

 岡田氏はゲームボーイの企画開発が始まるまで,ファミコン用のソフトやハードに関わった。光線銃シリーズに加え,「VS. レッキングクルー」「ファミリーコンピュータ ロボット」の開発に携わり,ディスクシステム用の「メトロイド」「パルテナの鏡」「中山美穂のトキメキハイスクール」「ファミコン探偵倶楽部 消えた後継者 前後編」などをプロデュースしている。

 「『ファミコン探偵倶楽部』は,トーセの齋藤社長(現トーセ代表取締役会長兼CEOの齋藤 茂氏)がアイデアを持ってきたんですわ。アメリカではやってたPCゲームで,サーカスを題材にしたアドベンチャーやったかな。その中の記憶喪失の要素を使って,皆でシナリオを考えようと。ホワイトボードにアイデアを書き出してつじつま合わせをして,それがうまくいったんで,本格的にプロットを作ったんです」

 ここで意外な人物との“すれ違い”があった。

 「そのプロットをもとに,赤川次郎さんのような名のあるミステリー作家にシナリオを書いてもらおうと思って探していたら,糸井さん(糸井重里氏)が興味があると。でも実際に会ってみたら,自分の作りたい『MOTHER』の話をするだけだったんで,『こらあかんわ』と別の部署を紹介しました(笑)。それで独自路線で行こうとなったんです」

 自身ではあまりゲームをプレイしないという岡田氏だが,PCゲームの「オホーツクに消ゆ」「軽井沢誘拐案内」は好きだったとのこと。そののち「大戦略II」にハマり,これをファミコンでプレイできないかと西沢健治氏と一緒に作り上げたのが,1988年発売の「ファミコンウォーズ」だ。

「ファミコンウォーズ」(画像は「ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online」のもの)
画像集#009のサムネイル/元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部 画像集#008のサムネイル/元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部

 「これを『大戦略』として発売できないかと,版権元のシステムソフトに総務部から交渉してもらったんです。でも,システムソフトがボーステックに権利を与えたあとでした」

 そこで任天堂の知財部にプロトタイプを見せ,「大戦略」の権利侵害はないとの判断を得て,オリジナルソフトとして発売した。なお「ファミコンウォーズ」というタイトルは,山内氏が付けたそうだ。

 「社内で10くらい考えたけど,いいタイトルがないと山内社長に相談したら,『ファミコンウォーズ』にしろと。
 山内社長がネーミングしたものは結構多いですよ。ゲーム&ウオッチもそうです。いろいろ考えたけど,なかなか決まらなくて。最初,社長は“時計”という単語に反対したんですよ。時計と付けたら,『お前らセンス悪いな。今どき時計なんて,皆持っとるやないかい』と,えらい怒られました。それが発売直前に誰かから何か言われたのか,『時計と付けろ』と。そのあと,ずっと『時計と付けるのは,自分が考えた』と言ってましたね(笑)」

 話を戻そう。ファミコン市場が多数のサードパーティ参入で拡大するさまを目の当たりにし,その一方でソフト開発の困難を経験した岡田氏らは,ゲームボーイの発売にあたって,きちんと開発環境を整えようと考えた。

 「サードパーティを最優先しようということでね。それまでいなかったドキュメント担当を立てて,仕様などを全部メモさせてマニュアル化して,ツールも作りました」

 ゲームボーイアドバンスの発表時には,ウェスティンホテル東京にセカンドパーティやサードパーティの関係者を集め,機材を展示したり,開発経緯の紹介やスペック解説などを行ったりといった説明会を開催したという。

 岡田氏の仕事は,市場に出る商品だけにとどまらなかった。中でも興味深いのは,任天堂社内へのeメール導入だ。氏によると,1990年のことだったという。
 2000年代以降に社会人となった人は知らないかもしれないが,一般的な企業が業務にeメールを活用し始めたのは,1990年代後半になってからだった。ゲーム関連企業は比較的早期に導入していたと思われるが,それでも1993〜1995年あたりが多かったし,筆者が在職したセガでも1994年頃から徐々に導入が始まった記憶がある。それを踏まえると,任天堂のeメール導入はかなり早かったと言えそうだ。

 「それも勝手にやっとったんです。開発予算をうまくやりくりして1枚10万円もする10BASE-Tのボードを買って(笑)。
 電算室の汎用機を使ってた総務や経理,営業の人間に,eメールがどれだけ便利かを一生懸命説明したけど,なかなか話が通じん。1人か2人興味を示したのを捕まえて,そこから徐々に侵食していって……。面白かったですね(笑)」

 岡田氏は,自身が考えたアイデアを実行に移すとき,よくこの手を使ったようだ。

 「『こんなん考えてるんやけど』と少しリークしていろんな人の反応を見るんです。ダメだと言ってる人を説得するのは無理なんで,いい反応を見せた人,味方になってくれる人を集めて。社内でも社外でも,そうやって味方を探していました」

 日本で初めてインターネットサービスプロバイダが事業を開始したのは1992年のことだ。つまり1990年当時の世間一般では,インターネットやeメールがどんなものかを知っている人などほとんどいなかった。
 そんな状況もあってか,任天堂でも導入に疑問を持つ社員は少なからずいたようだが,そんな人たちも,実際に使ってみると,その利便性に気づいた。
 
1994年に任天堂の社員とホノルルマラソンに参加したときの岡田氏
画像集#018のサムネイル/元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部
 「社内の何人かを巻き込んでから役員に話したら,『ええんちゃうか』と言いながら,『俺は使わん』『面白そうだけど,俺はこれで十分や』と,手帳を見せたんです。でも導入してしばらくしたら,『なかなか面白いし,便利やんか』と言いましたね(笑)。
 もう1人,使わんと言ってた工場長も,あるとき「メールした」と電話をくれて。『自分でやったんですか』と聞いたら,『部下にやってもらった。俺は触らん』と(笑)。
 ほかにも,オンラインの電話帳から内線電話をかけられるようにしたり,人事が作った文書を見られるようにしたりもしました。1997年に,広報担当者と一緒に任天堂の公式サイトを立ち上げたのも僕です」


会議では何も決まらない


 ゲームボーイの発売から9年経った1998年,ゲームボーイカラーが発売された。モノクロ画面だったゲームボーイのカラー化は,遊ぶ側からすると“当然の進化”のように思えるが,実は1991年に基礎研究が始まり,発売までに2回頓挫したという。

 「シャープからカラー液晶の売り込みがあって,最初は8ビットCPU,2回めは32ビットCPUを使ってカラーにしようとして,試作まで行ったんです。試作といっても,LSIにしてないからでかいサイズですけどね。だけども,正味としては『売れへんな』と。作っただけで,山内社長や役員には見せてなかったと思います」

 ゲームボーイカラーの試作を任天堂上層部に見せなかったのは,山内氏の打ち出したソフトメインのビジネスモデルを踏まえてのことでもあった。ソフトはサードパーティが作ってくれて,そのロイヤリティやROMカセットの製造収入が任天堂に入ってくる。現行ハードが好調なうちに“次”を出す必要はないというわけだ。

 「(山内氏が)『お前ら,寝ててもええから。お前らが動くと,無駄な金使うだけやから』『余計なこと考えるな』と(笑)。確かに,新しく何かを作ろうとすると何千万円,何億円とかかりましたからね」

 そうした状況が変わったのは,1997年だった。岡田氏によると,バンダイ(当時)が,開発中だったモノクロ液晶搭載の携帯ゲーム機「ワンダースワン」を,「任天堂から販売してもらえないか」と打診してきたという。
 それと同じ時期に,シャープが任天堂にカラー液晶の新製品を売り込みに来ていた。ただ,「余計なこと考えるな」と言われていた岡田氏には,その情報が届いていなかった。

 なぜバンダイが“競合相手”である任天堂にワンダースワンの販売を打診したのか,理由は定かではない。1997年は,任天堂を退職後,ワンダースワンの開発に携わっていた横井氏が死去した年でもあるが,それと関係があるのかどうかも分からない。

 ともあれ,ワンダースワンの存在を知った任天堂では,山内社長以下,常務取締役製造本部長や購買部長,営業本部長など,ほとんどの役員を招集したトップ会議が開かれ,対抗策が検討されることになった。

 「僕もその会議に呼び出されて,山内社長から『シャープのカラー液晶が安いらしいんで,これ使ってゲームボーイのカラー版を作れ』と。それで以前,ゲームボーイのカラー化を検討・試作したことを思いだして,そのときのデータをもとに,堅実かつ早急に製品化することを考えました。だからゲームボーイカラーの性能は,ほとんどゲームボーイのままなんです。付加要素はカラー液晶と,少しだけクロックアップできる機能くらいかな」
 
 だが,そのゲームボーイカラーは,「機能アップがなく,制作意欲をかき立てるハードではない」という理由で,社内のソフト開発者達からは好意的に受け入れられなかった。

 「『今のゲームボーイでさんざんやり尽くしてんのに,カラーにしただけ。何考えてんねん』と言われました。僕も『お前らあてにせえへんから,ええわ。こっちで何とかする』と(笑)。
 こんな感じで反対されるのは,あの時代の任天堂の伝統なんですよ。社長が『作れ』といっても,『ほかの仕事が忙しい』とか理由を作って,すぐには始めない。自分の興味があるものは一生懸命やるけどね」

 ゲームボーイカラーは1998年10月21日に発売となった。“仮想敵”であったワンダースワンは1999年3月4日に発売されたが,発売翌年の2000年12月9日にはカラー液晶搭載の「ワンダースワンカラー」が投入された。この動きにはゲームボーイカラーの存在が少なからず影響したのではないだろうか。

 ゲームボーイカラーの発売と前後して,岡田氏はゲームボーイアドバンスの開発に着手する。ゲームボーイアドバンスは,それまでのシリーズとは異なり,横型の筐体が採用されたが,それを知った宮本氏が「なぜ縦型じゃないのか」と岡田氏に電話で問い合わせてきたことがあったそうだ。

 「宮本君に『僕が決めた』『文句ある?』と行ったら,『いや,ないです』と(笑)。宮本君とは,プライベートで一緒にスキーに行ったりしたね」

ゲームボーイアドバンス
画像集#007のサムネイル/元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部

 その後継機であるゲームボーイアドバンスSPは,当時流行していたクラムシェル型(折りたたみ式)フィーチャーフォンのような本体デザインと,ゲームボーイシリーズ初の充電式バッテリー内蔵が特徴だった。
 同機の企画立ち上げ時,岡田氏は10人ほどが集まった会議でコンセプトを説明したが,反応はよくなかったという。

 「充電池にすると売価が高くなる,使い捨ての方が充電の手間がなく分かりやすい,今のままでも十分小さい,薄く小さく作ると強度が心配……とネガティブな意見ばかりで『売れない』と。それで『皆の意見は分かった』と言って会議を終えたんです」

 その後,岡田氏はデザイナーを呼んで自身の構想を伝え,スケッチを何点か描いてもらった。続いて,そのスケッチを機構設計の担当者に渡してアドバンスSPの構想を説明し,コンセプトモデルを大至急作ってほしいと依頼したそうだ。

 「設計担当には,『製造のことを一切考えず,できるだけ小さく薄くしてほしい。コンセプトモデルであることだけを考えてほしい』と伝えました」

 出来上がってきたコンセプトモデルを先の会議に集まったメンバーに見せると,一転して反応は上々で,開発が進めやすくなったという。「百聞は一見にしかず」を地で行くようなエピソードだ。

ゲームボーイアドバンスSP(写真は2005年3月発売の「ピカチュウエディション」)
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 ゲームボーイアドバンスの開発と並行して,岡田氏は携帯ゲーム機の通信機能の可能性を探っていた。

 「携帯電話の機能を取り込むことは,ずっと考えていてね。シャープの紹介で,NTTドコモに説明に行ったりしました。ちょうどiモードが注目されていた頃で。
 任天堂とは組織から何から違う会社でしたね。メインストリームじゃない端末を扱ってる部署しか相手にしてくれなかったんだけど,そこで話してみたら部長が『これはiモードとかぶるから無理だ』と。

 そこで岡田氏は,携帯電話ではなくPHSにターゲットを変える。

 「協業できひんかとDDIポケットに何度か行きました。山内社長に内緒でゴソゴソやってたのに,どこかで聞きつけたのか『何か面白いことやっとるらしいな』『au(KDDI)に行け。俺が稲盛(京セラ創業者の稲盛和夫氏)に言うたるから』と」

 社長の肝いり案件となれば,仕事に一層身が入りそうなものだが,逆に岡田氏はここでプロジェクトを降りてしまった。

 「僕自身は,そのハードを商品として今一つ面白くないと思い始めたところだったんです。社長が乗り出してきてマズいと思ったんで,いい機会だから止めようと。『いろいろやることがあって専念できんから』と言って,一緒にやっていた大和(現任天堂販売代表取締役社長の大和 聡氏)を後任に推薦して逃げました(笑)。大和からは『こんなええ企画,何で止めるんですか』と聞かれましたが。それで出来上がったのが,『モバイルシステムGB』です」

 モバイルシステムGBは,ゲームボーイカラーやゲームボーイアドバンスを携帯電話やPHS端末に接続してインターネットにアクセスし,離れたプレイヤーとのデータ交換や対戦を可能にするサービスだ。

 それにしても,岡田氏の働き方は独特だ。“社長が乗り出してきたから止めよう”という発想は,普通の社員からはなかなか生まれてこないだろう。あくまで開発者として生きてきた岡田氏の矜持が感じられる。

 「社長がのめり込んできたら,ええ方向に行かへんのです。いろいろ口出ししてくるしね」

画像集#004のサムネイル/元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部

 岡田氏は「会議では何も決まらない」と話す。受け取り方によっては物議を醸しそうな言葉だが,ほかの社員が「できない」と拒否したゲーム&ウオッチを開発したり,ゲームボーイの通信機能の有用性を証明したり,ゲームボーイアドバンスSPのコンセプトモデルでプロジェクトメンバーの反応を一変させたりといった岡田氏のエピソードを踏まえると,実に説得力がある。

 この考え方は,山内氏と岩田 聡氏という,2人の社長に対する言葉にも表れている。

 前述したように,岡田氏は山内氏について「いろいろ口出ししてくるしね」と語ったのだが,それでも人物としては「決断型,こちらに任せてくれる」リーダーだったという。現場の細かいことまで把握していなかったことが「自分の思ったとおりのものができれば,それでよし」という姿勢につながったと分析しているそうだ。

岡田氏(左)が山内氏(右)に退職の挨拶をするため,山内氏宅を訪れたときの写真
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 一方で岩田氏に対しては「協調型」という印象を持っていて,仕事を進めづらいと感じることもあったという。

 「現場でいろいろ会議して決まらないから岩田社長に決めてもらおうとしているのに,『それは会議で決めましょう』と。僕に言わせると,協調を大事にしすぎて,堂々巡りになってしまう。
 僕は僕で勝手にやってしまうところがあって,岩田社長に怒られこそしませんでしたが,『今度からちゃんと手続きを取ってくださいね』と釘を刺されました。手続きを取ったから,あかんかったんやけど(笑)。
 岩田社長は現場を知っていたからね。営業がどう思ってるかも気にするし。けど,開発は営業の意見を聞いたらあかんのですよ」

 この「開発現場は営業の意見を聞いてはいけない」も,岡田氏の経験から来る考え方だ。

 「Nintendo of Americaに社内営業でゲームボーイアドバンスの試作機を持っていったら,荒川さん(元Nintendo of America代表取締役社長の荒川 實氏)が『こんなんアメリカ国内に持って来られても困ります』と。現場に見せたら『大ヒットしているゲームボーイカラーが売れなくなる』と返ってきたというんです。それで僕も『日本だけで売るからいいですよ』と言って帰りました」

 だが,その後アメリカでもゲームボーイアドバンスが発売され,大ヒットしたことは言うまでもない。

 「それから何年か経って,開発に関する何かの会議で荒川さんと同席したんです。荒川さんに『営業からの意見をいいなさいよ』と言ったら,『いやあ,開発のことは開発に任せたほうがいいんですよ。自分らは足下しか見えてない。開発みたいに遠くを見ていない』『あのときゲームボーイアドバンスを作ってくれていなかったら,今の売上はない』と」


「自分が納得するもん」だけを作ってきた


 玩具にゲーム機,ソフトウェアなど,長年にわたって幅広い仕事を手がけてきた岡田氏が感じることの1つは,「自分が納得するもんじゃないと,ものづくりは難しい」ということだという。

 「任天堂を辞めるとき,岩田さんから『いろんな人を見てきたが,たいていの人はヒット作を持っていても1つか2つくらい。ずっとヒットを出せる秘訣を教えてください』と聞かれたんです。でも『分かりません』と答えました(笑)。
 今思えば,いろんなもん『やれ』といわれたけど,嫌なやつはやらんかったからかな。嫌なやつは,やってる振りして逃げる(笑)」

 岡田氏が手がけてきたゲームのジャンルは,アクション,アドベンチャー,ストラテジーと多岐にわたる。それらもすべて「自分が納得するもんだけをやる」「嫌なやつはやらん」という選択の結果だ。

 「例えば『中山美穂のトキメキハイスクール』は,スクウェア(当時)の社長だった宮本さん(宮本雅史氏)が山内さんに相談に来てね。それで『話聞いたれ』と僕が呼ばれたんですけれども,原案を聞いて『これはあかんな,断ろう』と思たんです」

 「中山美穂のトキメキハイスクール」は,タイトル名通り,アイドルの中山美穂さんを起用した学園ものの恋愛アドベンチャーだ。ゲーム内で表示される番号に電話すると,中山さんの声が聞けるシステムがウリとなっていたが,原案の時点ではアイドルを起用することすら決まっていなかった。

 「社内で意見を聞いたら『アイドルを使ってみたらどうですか』という案が出て。それで坂本君(任天堂 企画開発本部 企画開発部統括の坂本賀勇氏)らが,『この声が聞けたら面白いんちゃいます?』とアイドルがしゃべっているレコードをかけたんです。それが面白そうだったから,売れても売れなくても企画化しようと」

 ちなみに,“主演”が中山さんに決まった経緯は分かりやすい。

 「電通に頼んでリストを出してもらったけど,当時トップランクの小泉今日子さんや南野陽子さんあたりだとスケジュールが押さえられないんですよ。
 その次くらいのランクでスケジュールを押さえられるのが,中山美穂さんだったんです。それも1年のうち,この日とこの日とこの日を数時間ずつしか押さえられない,といった感じでしたが」

 この決定がいつだったのか,またランクの基準がどのようなものだったのかは不明だが,少なくともソフトが発売された1987年12月だと,中山さんはもうトップアイドルと呼んでも差し支えない存在だったと思う。タイミングとしてはかなりよかったのではないだろうか。

 話を戻そう。「自分が納得するもん」を基準に仕事をしてきた岡田氏だけに,後進のゲーム開発者は少々“行儀がよすぎる”と感じることもあるようだ。

 「例えば今の任天堂の人に,何か企画を話そうとしても『聞いてしまって,ほかの部署がやっていることと被ったりするといろいろまずいから,聞きません』『話をするんだったら,ちゃんとNDA(秘密保持契約)を結んでから』となるんです。
 逆に『こういう企画があるんですけど,どう思いますか』と聞かれて『まず,勝手にやってみたら』と答えたら,『それやると怒られます』と。
 建前はそうかも分からんけど,コンプライアンスに縛られすぎてる」

 かつて筆者が在籍していたセガでも,開発者が勝手にデモやプロトタイプを作り,「こんなものができました」と上司に見せるようなことが多かった。それが独創的,革新的なゲームにつながっていったのだ。

 だが,時代の変化もあってか,こののような働き方は難しくなっているのかもしれない。

 かつて岩田氏が尋ねたように,岡田氏が自分が納得するものだけを選択して数々のヒット作を生むことができたのは何故だろうか。そもそも,岡田氏のような人物が会社という“枠の中”で働き続けられたことも不思議に思える。
 それについて,岡田氏は「たまたまちゃうかな」「何も考えずに生きてきたからね」と語ったが,退職を考えたことは2回あったという。

 「1回めは入社3年めやったかな,次どんな玩具を作るか考えるのが苦痛でね。ちょうど同じ頃,レーザークレーから外されて会社の不満を言ってたら,役員が『辞めるくらいなら異動するか』と。それで,また横井さんと一緒にレーザークレーをやれることになったんです」

※光線銃の技術を用いた任天堂の大型レジャー施設。任天堂が1973年に設立した子会社,任天堂レジャーシステムが展開していた

 2回めはゲーム&ウオッチをやるちょっと前,任天堂の経営がうまくいってないときに,友達のコネで半導体企業の試験を受けるところまで行ったんです。
 でも,その頃ビアバーに行ったら,たまたま任天堂の下請け会社の社長がいて。『どんどん人が辞めてくし,僕ももう辞めよう思とるんやけど』と漏らしたら,『辞めたらあかん』と。
 その社長はもともと労働組合長で,会社が一度潰れて更生法で再建したときに社長になったんです。それで『うちを見てください。会社はそう簡単に潰れませんよ』『今なんぼ悪くっても,任天堂はそうそう潰れません。もうちょっと頑張ってみたら』言うてね。それで続けることにしたんです」

 「もうちょっと頑張ってみたら」と諭された岡田氏は,2007年の定年退職まで任天堂で勤め上げた。そして2010年まで同社の非常勤アドバイザーとして活動した後,自身の会社・ボクセルを設立している。現在はゲーム会社の顧問なども務めているが,その契約終了後に引退を考えているそうだ。

岡田氏はプライベートでもアクティブに活動している。上はエアーズロックに登頂したとき,下は黒部峡谷の登山道「下ノ廊下」を1泊2日で縦走したときの写真
画像集#016のサムネイル/元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部
画像集#017のサムネイル/元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部

取材日の前日(1月10日)が岡田氏の誕生日だったため,筆者からケーキを贈った
画像集#019のサムネイル/元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部
 「家族から,『いつまで仕事してるの』と言われてね(笑)。仕事は好きだけど,重荷になってきたかなとも思うし。なければないで何か寂しくなるけどね。
 そのへんのバランスを考えると,重荷に思うほうが少し増えたかな。昔のことをしゃべる仕事ならいいんだけど,意見を求められるのはもう難しい。何か調べるのも,じゃまくさなってきたし。
 家族からは『サラリーマンとしては,ありえへん生活してた』と言われます。言いたいこと言ってたみたいですよ。休みたかったら休むし。社長から投げられた仕事でも,『明日からしばらく休みますから,何かあったら誰々に』とかね(笑)」

 その振る舞いが許されたのも,氏の力量があってのことだろうか。奔放な働き方だったろうが,退職後もアドバイザーへの就任を請われたのだから,任天堂も岡田氏を必要としていたことは間違いない。
 任天堂で過ごした時間をどう思っているか聞くと,こんな言葉が返ってきた。

 「振り返ってもしゃあないと思てますけど,自由に生きて来れてよかったなと」

画像集#005のサムネイル/元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部

取材協力:たけだむねのり(まめ)
参考資料:横井軍平ゲーム館「世界の任天堂」を築いた発想力(横井軍平,インタビュー・構成 牧野武文)

著者紹介:黒川文雄
画像集#012のサムネイル/元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 後編 ひたすらに意志を貫いたゲームボーイ&ゲームボーイアドバンス開発 「ビデオゲームの語り部たち」:第28部
 1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
 現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
 プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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