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板垣伴信氏 追悼企画。「勝つ」ことにこだわり,モノ作りに執着したゲーム開発者人生を辿る ビデオゲームの語り部たち:第44部
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印刷2026/04/08 07:00

インタビュー

板垣伴信氏 追悼企画。「勝つ」ことにこだわり,モノ作りに執着したゲーム開発者人生を辿る ビデオゲームの語り部たち:第44部

■ソフトギア 代表取締役CEO 青木健悟氏

システム営業マンを経て,ゲーム開発会社を起業


 青木氏の経歴は異色だ。現在,氏が経営するソフトギアに至る道筋は,興味の向く方向に進んでいった結果と言える。
 社会人として最初に取り組んだのは,半導体や自動車関係の仕事だ。そこで,マルチターム(※)の社長だった風間政仁氏と知己を得て,「営業を手伝ってほしい」と言われ,転職した。

※オンラインゲームの開発などを手掛けた会社。2007年にNHNJapan(現在のLINEヤフー)に吸収合併された

取材時,生前の板垣氏が愛用した黒いシャツと一緒だった
画像ギャラリー No.007のサムネイル画像 / 板垣伴信氏 追悼企画。「勝つ」ことにこだわり,モノ作りに執着したゲーム開発者人生を辿る ビデオゲームの語り部たち:第44部

 マルチタームは,旧通産省の外郭団体であるIPA(独立行政法人情報処理推進機構)からの助成金などで,仮想空間開発用のシステムを作っていた。
 また,青木氏が元来ゲーム好きだったこともあり,ゲーム会社に数多く営業をかけていた。1998年当時,「ウルティマ オンライン」や「ディアブロ」が流行しており,「オンラインゲームを作りませんか」と営業,提案していくなかで開発したのが,元気とマルチタームで手がけた「首都高バトルOnline」だ。

 また現在のスクウェア・エニックスの前身であるエニックスにも企画提案を行っていた。その企画のなかで承認を得られた作品が「ファンタジーアース ゼロ」である。「ファンタジーアース ゼロ」の開発では,企画だけでなくチーム作りからすることとなり,ここでゲーム開発のプロセスや組織作りのノウハウを得る。
 こうした経験から青木氏は,自身でゲーム開発会社を立ち上げ,現在のソフトギアを創業するに至った。

 「創業時は,フェニックスソフト(FENIX SOFT)という社名でした。これには理由があって,『ファンタジーアース(Fantasy Earth)』の『FE』と,お世話になったエニックスさんの『Enix』を組み合わせています。『ファンタジーアース』に固執し過ぎない開発会社にしていこうと考え,創業から3年目くらいで社名変更しました」


開口一番「あなたも私のことを知っているかもしれないけど」


 板垣氏との接点が生まれたのは,青木氏の営業活動の一環に端を発しているという。

 「フェニックスソフトからソフトギアに社名変更する直前くらいです。THQジャパンのスタッフさんから,『Devil's Third』のサーバー周りを手伝ってくれないかと相談があったんです。ここから僕の“板垣物語”が始まるわけですが,とにかく一度,板垣と会ってほしいと言われました」

 補足しておくと,「Devil's Third」の当初のパブリッシャはアメリカのTHQだった。しかし,「Devil's Third」はその後,難産の予兆を見せる。THQ自体も経営不振の末,2012年に倒産。「Devil's Third」の開発は,迷走を重ねることになる。

話を青木氏と板垣氏の出会いに戻そう。

 「THQジャパンからは『ヴァルハラゲームスタジオは人の熱量を大切にする人たち』ということを事前に聞いたうえで,板垣さんにお会いしに行ったんです。事務所へ入っていくと,板垣さんと岡本さんがいらして。名刺交換をしましたが,とにかく雰囲気がすごかった。黒で統一された会議室に日本刀と海賊旗(ヴァルハラの社旗)のディスプレイで,とにかく圧が強かったんです。
 そうしたら,板垣さんが開口一番『あなたも私のことを知っているかもしれないけど』と,自己紹介とトラブルエピソードがいきなり始まりました。
 別に,こちらが何か聞いたわけではないんですが,『このプロジェクトで勝つんだ!』と連呼され,圧倒されつつ『そうですか』と……。

 その後,企画の話と板垣さんたちがやりたいことを語られて,『この作品は絶対ビッグにして,1000万人以上が遊ぶタイトルにするんだ』と話されていました。そこから,意外にも数回の打合せで,すんなり開発受注が決まりました。

 ただ,発注が決まる前に一悶着あって,事前に『Devil's Third』の数百ページにおよぶ企画書が送られてきたのですが,僕はそれに全部目を通して赤ペンで添削を入れたんです。
 例えば,企画内で同じ名詞なのに別のものを指していたり,文章の整合性が取れていなかったりするところがあって,それに対して,結構,悪しざまな書き方で修正を入れました。でもそれは板垣さんたちに送り返すわけじゃなくて,自分の確認用のメモだったんです。ところが,当社側の窓口担当者から手違いで罵詈雑言メモが入ったままのファイルが板垣さんのところに送られてしまったんです。

 そうしたら,次の打ち合わせの時,板垣さんに『君はアレだね,日本語にうるさいね』と言われました。すいませんと謝りましたが,板垣さん的には企画書を隅から隅まで読み込んでいるという点を高く評価してくれたみたいです。そこに道理はあると言って,すぐに『岡本,こいつと飲みに行くぞ。セッティングしろ』とその場で飲み会が決まりました」

 以下の飲み会の模様は,2025年11月に行われたお別れ会「板垣伴信をヴァルハラに送る会」で,青木氏が弔辞の中に記したものだ。

 「僕は芋焼酎をロックで飲んでいたんですが,板垣さんがお前は分かってない,飲み方のマナーがなってないぞということになり,『店員さんに迷惑だろう。こういう時は,2〜3個同時にロックを頼むんだよ!』と説教されました。

 そこから,数十分後には板垣さんの長髪がきりたんぽの取り皿に漬かっていて,ベチャベチャになっていましてね。この人,めちゃくちゃ酔っているなぁと思いました。岡本さんは『板垣さん,飲んでますねぇ』なんて笑っていて,帰りも『大丈夫ですか』って言ったら,『僕が送って行くんで,大丈夫です』という感じです。その日はそれで終わったんですけど,その後も錦糸町に呼ばれては飲んでという日々が続きました。

 打ち合わせが終わると毎回飲みになって,ある時,たまたま岡本さんと『サシで飲みましょう』という話で二人で錦糸町のスナックへ行ったんです。別の日に,岡本さんと『あそこはなかなかいい店だったね』なんて話していたら,それを聞きつけた板垣さんが『俺も連れて行け!』と嫉妬していて,『板さん,スナックなんて行くんですか?』とか言いながら一緒に行きました。

 それで,『飲むぞ!歌うぞ!』って盛り上がって,普段,焼酎ばっかり飲むのに「この店で一番おいしいワイン入れろ」って言い始めてオーパスを3,4本入れていました。なんか,会計来て怒っていました。

 その後,岡本さんから聞いたのですが,どうも店が気に入ったらしく,板垣さんが1人で飲みに行ったらしいのですが,会計のあと財布を落としたんです。そうしたら,カード会社から記憶にない錦糸町での会計が請求されたらしく『この請求は俺じゃない,身に覚えがない』と戦ったらしいんです。
 僕的には,本当は板垣さんが飲み歩いたんじゃないんですかって聞いたら,『馬鹿野郎,俺がそんな飲み歩くわけないだろ! 使った記憶がない』って言われましたが,本当の意味で記憶がないんだろうと思いました。
 最終的には『カード会社と戦って勝った』とご機嫌でした。なんの勝ち負けなんだという話ですが,そんなトラブルばかりでしたね。まぁでも,基本的には,一度,居酒屋に入ったら数時間ずっと居酒屋で飲み続けるのが板垣スタイルでした」

“送る会”が開かれた場所でもある「スペインクラブ」での原田氏との写真(2013年頃)
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野生動物みたいな人


 圧倒的な強さと勢い,他者を寄せ付けない雰囲気の板垣氏だが,青木氏にとっては,どんな人物だったのだろうか。

 「一言で言えば,板垣さんは『笑える兄貴』です。
 私自身,新卒で入った会社が相当,滅茶苦茶な環境だったので,そこからすると板垣さんの振る舞いにはそれほど驚きませんでした。ただ,初めの会社ではスーツ姿のサラリーマンの破天荒が主でしたので,板垣さんや兼松さんの独特の風体には,最初は圧倒されていましたね。

 僕からすると,板垣さんはとても優しい方で,世間的には『男の中の男』という部分を見せたがっていました。『俺のバイブルだから,映画《さらば愛しのやくざ》(※)を観とくように!』と言われて見たんです。主人公は結局,死んでしまうんですが,それでも板垣さんの人情味がありたいという気持ちは伝わってきました。板垣さんの出身大学が出てきたりもしましたね。
 板垣さんは,僕の目には繊細で,気遣いもできるという印象です。パブリックなイメージは,セルフプロデュースにこだわった結果で,まぁ,ご本人も,それを貫き通すのは大変だったと思います。
 最終的にそのあたりが,優しく温和な板垣さんと板垣ブランドのジレンマになっていたのかなと。人に弱みを見せず,強くいたいというところがある。こうやって話していると,野生動物みたいな人ですね(苦笑)」

※1990年公開の映画。主演 陣内孝則,柳葉敏郎。陣内氏が演じる藤島悟郎は死ぬ運命。柳葉氏が演じる中馬達也は早稲田大学出身という設定

親交のあった,元セガ取締役 鈴木 裕氏と
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 確かに,筆者も板垣氏とは数回しか面識はないが,シャイであり,礼節の伴った人物だったと記憶している。

 「板垣さんがお酒を飲むのも,プレッシャーを紛らわすためだったのかもしれません。印象的だったのは,最初の頃,中国出張に行ったときのことです。
 もうベロベロに酔っ払って,走っているタクシーに因縁つけたり,街中で大声出したりと大変でした。その後,ホテルの部屋で開発の話になって,見解の相違から板垣さんと大喧嘩したんですけど,板垣さん相手に『おまえ,頭おかしいんじゃないのか?』くらいの勢いで食ってかかる僕を見て,岡本さんも,こんなやつ今までいなかったっていう感じで驚いていましたね。

 翌日の帰国便の機内で,『これで仕事はなくなったな』と思っていて,その時,板垣さんと岡本さんはビジネスクラス,僕はエコノミークラスでした。すると板垣さんが『岡本,ちょっと青木と席を代われ』と言い出して。ビジネスクラスの岡本さんと交代して板垣さんの隣に座ることになったんです。
 そこで板垣さんから幼少期の話とか聞かれて,生まれた場所からどんな暮らしをしてきたかとか,そういう話をしていました。すると,板垣さんは前日の二日酔いと機内で飲んでいたお酒も手伝ってか,泣きながら『俺とお前は兄弟だ』みたいに熱く語りかけてくるんですよ。『俺の兄弟は,岡本とお前だ』って言われました,『だからこのプロジェクトは,絶対にお前とやるんだ』と言われました。

 そういう決め事とか,男の約束をした相手に関しては,とにかく違えたくないし,信頼したいという思いが強い人でした。信頼というものを非常に重く捉えていましたね。めちゃくちゃな人でしたけど。
 僕は板垣さんから怒られるというより,叱られることが多かったです。例えば,しゃべり方をたしなめられたり。僕は『いや,〇〇です』と否定から入ってしまう癖があったんですが,『ちょっと待て,お前,その言い方はなんだよ。その口癖は失礼だぞ』と……。
 言葉づかいの荒さうんぬんより,そういう癖に釘を刺されました。

 あとは,『お前は俺と似たところがある。お前が従業員に対して愛情だと思ってかけている言葉も,相手にはそう受け取られないことがあるぞ。逆に恨まれることもあるから気をつけろ』とも言われました。『とにかく,小さな敵を作るな。大きな敵は向かってくるのが見えるが,小さな敵はいつ何をしてくるか分からないからな』と。実体験からの教訓だったんでしょうね。『僕はもう,だいぶ敵を作っちゃっていますね』と返したら,『しょうがないな,お前は』と笑われました」


晩年の板垣氏がやりたかったこと


 晩年の板垣氏を苦しめたのは,大きな会社という庇護がなくなり,すべてを自分たちで執り行うという面だったように思う。分かりやすく言えば,テクモを退職して自身たちで起業したことによる,メリットとデメリットの両方を受け入れることだ。

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 「テクモ時代の板垣さんを存じ上げないのですが,独立後の苦労はあったと思います。晩年はなかなか会えない時間のほうが多くなってしまい,板垣さんが元気なうちに顔を突き合わせてお話できなかったことは,本当に申し訳なく思っていました。

 板垣さんがヴァルハラを辞めて,完全に独立されたとき,企画の取材で『呉に大和を見に行く』と言っていました。僕は生まれが広島なんですが,前日に『お前の出身地の広島に行くぞ! これから呉に行くんだ,大和を見に行くんだ!』と意気揚々と電話がかかってきたんです。それから1日,2日経ってから,岡本さんから板垣さんが呉で入院しているからと連絡があって,お見舞いに行ったこともありました。
 お見舞いに行ったら,透析しながら『ここの看護師さんは優しいぞ』なんて仰っていました。また,旧海軍病院だったので,『大和の乗組員もここで治療を受けていたんだぞ』と楽しそうで,こちらも少し呆れながら,何言っているんだ,この人は……なんて思いました」

 板垣氏が病院に担ぎ込まれることは何度かあったそうだ。その時々で,自身の命と時間を削りながら過ごしていたのかもしれない。

 「E3での登壇の予定で向かったロサンゼルスでも,緊急入院したことがありました。到着した初日の夜,ホテルでE3の前夜祭パーティーをしていたところ,板垣さんがテラス席から外に出て,何を思ったか……『俺は世界を取るぞ! 岡本,お前も言え! 青木もだ!』と大声を出した途端に,LAPD(ロサンゼルス市警察)のパトロールカーが10台くらい集まってきて。警官に拳銃を構えられ,まさに,Dead or Alive状態でした。
 翌日,私はオフだったため,ほかの何人かとユニバーサル・スタジオへ遊びに行っていたところに電話が入り,板垣さんがICUに緊急入院したと一報を受けました。そのまま,板垣さんは40〜50日入院することになっていました。

 板垣さんは,『Devil's Third』のゲームデザインやコンセプト自体は間違っていないはずで,絶対に売れるタイミングがあるはずだから,いつか続編を作るぞって言っていましたね。場合によっては『岡本や青木がリベンジできる時が来たらやってくれ』と言っていました。
 もちろん,ご自身でもやるつもりだったのでしょうけどね。ものづくりには時間とパワーが必要なのを苦々しく思われていたような印象でしたね」

 そんな板垣氏だが,晩年は後進の育成の楽しさを,青木氏に語っていたようである。

 「50歳を過ぎたあたりからは『後進の育成が自分の使命』と言っていました。
 『次世代に自分の道徳やコンテンツへの愛を伝えていきたいという教育者的なことをやるのは,楽しいんだ。俺はこっちをやるべきかもしれない』というお話もされていましたね。クリエイターとしてこのままでは終われないというところと,次世代へのゲームの教育者としての二面性を持っていたように思います」

イタリア,コロッセオでの板垣氏
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 「板垣さんには,ソフトギア社のメタル顧問にもなってもらいました。しかし,亡くなる2年ほど前から,お会いできてないんです。最後に二人で飲みに行った時も,板垣さんがお酒を2杯ほどしか口にせず,あとは水で,ちょっとご飯食べて,2時間ほど語って帰られました。
 その時のやり取りも,共通の知人から『青木とはこんな話した』みたいな内容のLINEのスクショももらいまして,……もう泣けましたね。
 板垣さんが最後にこれをやりたいと言っていたプロジェクトの,いわば助走の部分だけでもお手伝いできればと思っていました。僕にとっては,ゲーム作り云々というよりは,また違ったところでも師匠として心に残っています。“板垣イズム”は僕のなかにしっかり残っているように感じます」


■コーエーテクモゲームス 取締役副社長 早矢仕洋介氏

テクモ時代の板垣氏との思い出


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 1979年生まれの早矢仕氏とゲームの出会いは,幼少期に遡る。
 小学1年生の時,任天堂のファミリーコンピュータに出会い,中学生ではスーパーファミコンをプレイし,高校生になるとPlayStation,大学生でPlayStation 2……と,ずっとゲームが身近にある環境にいた。それらの趣味が高じて自身でゲームを作りたいと思い,東京都立大学の電子情報工学科に進み,ゲーム会社を目指した。
 当時のゲーム会社は,東証上場くらいのタイミングだ。理系の学校からは,推薦で電機メーカーに入社する事例が多かったそうだが,早矢仕氏はテクモに入社を果たす。

 「2001年に新卒で開発スタッフとして入社し,そのまま板垣伴信さんの部署に配属になりました。それが出会いです。
 日本でMicrosoftさんからXboxがローンチするタイミングで,配属されたプロジェクトは『DEAD OR ALIVE 3』。このタイトルでテクモの歴史が変わるぞ……と周囲から言われていましたし,ビル・ゲイツさんがタイトルプレゼンしてくれたというような話もあり,社内も勢いがありました。MicrosoftさんからはXboxのファーストパーティに近い扱いを受けていたと思います」

 その頃を境に,板垣氏が世に出ていく予感を強く感じ,チームは前へ前へと突き進んでいたという。

 「当時のゲーム業界は今とは異なり,とにかくずっと会社にいて開発していました。テクモは,中堅のゲーム会社で,板垣さんのさまざまな行動は,作品への注目を浴びるためのセルフプロデュース的な側面もあったと思います。1人でも多くのお客様に届けるために,自分をどう見せるかというところで,それがご本人のパーソナリティにもなっていったタイミングだったのかなと感じます」


新卒の早矢仕氏に「君の仕事はない」


 早矢仕氏にとって,板垣氏はひと回り上だったからか,弱みを見せるような人ではなかったという。常に何か仮面を被っているようにも見えたが,それも含めて,そういう人なのだろうと思っていたそうだ。
 今回の“送る会”の弔辞で早矢仕氏が話していたが,入社したてでプランナーとして配属された早矢仕氏に,板垣氏は「君の仕事はない」と言ったという。おそらく板垣氏自身がプランナーを務める作品は,他者の介在を許さない側面があったのだろう。現に早矢仕氏も,そのあたりは感覚的に受け止めていた。

 「格闘ゲームは,そもそもゲームプランナーがあまりいらないんです。プログラマーさんとグラフィックス,モーションの人たちが組み上げていけば,ゲームとして成立します。
 板垣さんの持論で,自分以外プランナーはいらないと。それなら,そこに配属しないでください……という話なんですけどね(苦笑)。
 板垣さんは,組織のリーダーとして強引にでも先頭に立って引っ張っていくタイプだったので。特に当時は,部下には常に厳しい言い方をされていましたし,現場のみんなは怖がっていました。
 そんななかで,私は,いつも現場を代表して怒られているという感じでした。開発フロアで誰かが怒鳴られていると思ったら,『また,早矢仕だな』と,開発現場みんなにそう言われていました」

板垣氏のパブリックイメージをそのまま表現したような写真
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 しかし,早矢仕氏はその後,板垣氏との距離が縮まっていくのを感じたという。

 「板垣さんから,ゲームプランナーはいらないと言われましたが,プランニングとプログラミングも両方できますというスタンスで,雑用から何でもやらせてもらいました。
 それが,タイトルにとって良い成果につながったんじゃないかなと思います。 当時の組織は,板垣さんという圧倒的なリーダーが引っ張っていて,ほかにリーダーと呼べる人がほぼいない状態でした。だから,大きくなっていく組織の中で早矢仕に任せればうまく回るという空気が,徐々にできあがっていったように感じました。
 それで,入社3年目ぐらいの時に『NINJA GAIDEN』に取り組んでいたのですが,これが開発として非常に難航していたんです。先輩たちも,あまりにもプロジェクトが難航し過ぎてお手上げのような状態でした。そこで,私と板垣さんが中心となって形にし,リリースまで漕ぎ着けました」

 「現場はぐちゃぐちゃだった」と早矢仕氏がいうほど,「NINJA GAIDEN」は難産だった。そのような状況にも関わらず,板垣氏も早矢仕氏も諦めることはなかった。

 「格闘ゲームしか作ってこなかったテクモの開発メンバーが,『NINJA GAIDEN』というアクションゲームに挑戦するわけですから。確かに格闘ゲームのエンジンを使って3Dで自由に動き回れれば,面白いものができるはずですが,現実はそう簡単にはいきません。
 例えるならば,セガさんが『バーチャファイター』から『シェンムー』を開発した時と同じような状況だったのではないかと。みんな個々に良いと思うものを作っているのですが,そもそもプランナーがほぼいないのも相まって,全然1つにまとまらなくて,混乱していました。会社としては今期中にタイトルを出さなきゃいけないのに,あと半年で本当に完成するのかというような切羽詰まった状態でした」

 そうしたなかで,同じ修羅場を共に闘い,板垣氏との信頼関係が育まれていった。

 「開発が行き詰まると,板垣さんの意地や執念のようなものを感じたんです。この人は本当に逃げないんだなという驚きと,強い意志を持って完成させる姿を見て,やっぱりこういう存在が難しいプロジェクトを達成できるんだなと感じました」


板垣イズムの継承者として


 「そこから信頼してもらったり,プロジェクトを任せてもらったりすることが増えました」

 板垣氏が格闘ゲームやアクションゲームを作る前と後では,テクモの開発ポリシーは変化していったように思う。早矢仕氏はその時代を見て感じてきた,数少ない証人である。早矢仕氏は板垣氏のことを,自身の人生を楽しくしてくれた人であると評する。

 「板垣さんから,言葉で直接教わった記憶はあまりないですが,最初の仕事が『DEAD OR ALIVE 3』だったのは幸運だったと思います。テクモにとって歴史上一番売れたタイトルで,東京の片隅で作ったゲームを,世界の多くの人たちが楽しんでくれていたんです。
 最初から世界を視野に据えた高い視座で,多くの人に楽しんでもらえる経験ができたことは,本当に幸せなことでした。『売れるゲーム』に携わった経験をしていない人は,結局『売れるゲーム』を作れないという話もよく聞きますから」

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 「ただ,板垣さんは,その後,テクモを去ることになりました。板垣さんの手段という部分に関しては,一緒にやっていても全面的には同意できない一面も確かにありました。
 先日,岡本さんとも話しましたが,板垣さんは私にとって『一番最初の師匠でもあり,同時に一番の反面教師』でもあります。
 板垣イズムと呼ぶのが正しいかは分かりませんが,コアの部分に関しては,私はものすごく影響を受けていると思います。
 それらを開発マインドとしてつないでいきたいと思っている一方で,手段の部分に関しては,個性の違う私が表面だけ板垣さんを真似しても,私自身はできません。
 だから表面的な真似はせず,私が正しいと信じられるやり方でやろうと。ただ,そのやり方を選んだ時に私なりに誓ったのは,板垣さんが過去に作ったゲームより,絶対に多くの方に遊んでいただかなければならないということです。それができないと板垣さんのやり方が正しいということになります。だから板垣さんがこれまでに一番売ったゲームを超える実績を残すということは意識していました。師匠を超えるという意味でも」


板垣氏の格闘と苦悩の日々を知る


 筆者の勝手な想像に過ぎないが,テクモを退社し,自身の信じる道を歩みだした板垣氏だが,それは平坦な道ではなかったはずだ。まして,常に自身が「勝つ」ことを目的にしていた板垣氏にとって,すべてを自身の手で行うことは茨の道だったのではないか。
 板垣氏がテクモを退社した当時,早矢仕氏にはどのように見えていたのだろうか。

 「板垣さんのような仕事のやり方を続けると,周りからどんどん人が離れてしまうのではないかと,前から心配していました。私はコーエーテクモになる前から,歴史書をよく読んでいたのですが,同じような生き方の人が栄枯盛衰していく様が書かれています。歴史は繰り返すといいますか,板垣さんが近年,精神的に疲弊した部分は少なからずあったと思います」

2015年,都内でカナダでの株式上場を目指していた頃
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 板垣氏の退社時,早矢仕氏は「一緒に退社して新しいことをやろう」と誘われたことがあるという。

 「板垣さんがテクモを辞める理由は分かりますが,それでは私が辞める理由にはならないんです。私が辞めるかどうかは私の意思で決める。板垣さんから『ついて来いよ』では辞めたくない。シンプルにそれだけです」

 また早矢仕氏は“送る会”の弔辞のなかで,板垣氏と別れてから,メッセージをやり取りするなか,近年は板垣氏のメールの書き出しのトーンが変わったことが印象に残っていると語っていた。

 「板垣さんとメッセージをやり取りしているなかで,昔は全部,命令口調だったのが,ここ数年は敬語になったということがありました。
 板垣さんから,かしこまったメッセージが届いて,敬語ですけど,どういうことですか? って思いました。
 ここ数年は,私も板垣さんに直接お会いする機会はなかったのですが,周囲のつながりから,お体が悪いというお話は耳に入っていました。今思い返すと,ご自身で死期を悟られていたのかは分かりませんが,最後に私とお話がしたかったということかもしれません」

シアトルにて,得意だったビリヤード。精密なショットだった。当然,板垣氏は「勝つ」のだ
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 板垣氏のDNAを受け継いだ早矢仕氏が,コーエーテクモで実現したことを聞いてみた。

 「『仁王』というプロジェクトで,コーエーらしくもあり,テクモらしくもあるというところが見えるように狙いました。
 テクモの強みである『NINJA GAIDEN』ベースのアクションで,そこにコーエーの強みである戦国時代の歴史ものを融合させたものです。
 シブサワ・コウのアイデアを元に,金髪碧眼の侍が関ヶ原を戦い,徳川家康や織田信長も出てくるというというコンセプトで,両社の要素をうまく盛り込んでいます。これは合併した意義になるし,両社の強みを生かして売れるはずだと信じて作っていました。
 もちろん,お客様にしてみれば,そんな事情は関係なくて,結局タイトルが面白いかどうかがすべてです。ただ『仁王』は,間違いなくテクモで培ってきたことからつながったタイトルでした」

“送る会”で,展示された板垣氏の私物と作品たち
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 昨今は,ゲーム業界全体が厳しい時代だ。最後に,現在のゲームクリエイティブについて質問してみたところ,早矢仕氏は板垣イズムの実例を語ってくれた。

 「ゲーム市場は,世界規模で見れば成長し続けています。
 だからこそ,もっとゲーム市場のど真ん中へ行きたいですし,そこに行けば市場はもっと広がっています。厳しいと言われながらも,結果を出しているところは出し続けているし,デベロップからプロデュースまで,すべての総合力が問われる実力勝負になっていると思います。

 最後に,板垣さんのDNAということで,ひとつ実例をお伝えさせてください。
 『仁王』を今のゲームコンセプトで改めて立ち上げた時は,当時フロム・ソフトウェアさんの『DARK SOULS』が登場した頃でした。まだソウルライクというジャンルが確立される前でしたが,あのゲームの熱狂度と異質さを見て,ここは絶対に伸びると確信しました。テクモには『二匹目のドジョウを狙え』という教えがありました。二番手がまだいない市場を,新しい遊びと共に狙えと。
 これは私なりに,3D格闘ゲームというジャンルにおいて『バーチャファイター』に対する『DEAD OR ALIVE』の戦い方を踏襲したつもりでした。それも1つの板垣イズムなのかなと。反面教師にしていると言いながら,私自身の判断は板垣さんから教わったことと切っても切り離せないんです。

 今回の私の話から,板垣伴信さんという戦い続けた方がいらっしゃったことを,1人でも多くの方に知っていただければ嬉しいです。ありがとうございました」

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板垣氏が友人にSNS投稿を託した「遺す言葉」より

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板垣伴信 遺す言葉

私の命の灯は,いよいよ尽きようとしている。

この文章が投稿されたということは,遂にその時が来たということだ。私はもうこの世にはいない。
(この最後の投稿は,大切な人に託しています。)

私の人生は,戦いの連続だった。勝ち続けた。
たくさん迷惑もかけてしまった。

自分の信念に従い,戦い抜いたと自負している。
悔いは無い。

ただ,ファンのみんなには,新作を届けることができなくて申し訳ない気持ちでいっぱいだ,ごめん。
そういうものだ。
So it goes.

板垣伴信

板垣氏 写真提供:岡本好古,板垣氏のご友人たち
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