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平成ゲーム史まとめ。30年間を年表とコラムで振り返る
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印刷2019/04/30 12:00

企画記事

平成ゲーム史まとめ。30年間を年表とコラムで振り返る



平成9年(1997年)

1月 セガとバンダイが合併を発表。名称は「セガバンダイ」の予定に(同年5月27日に合併合意を解消)
1月14日 エニックス(当時)がPlayStation用ソフト「ドラゴンクエストVII」の開発を発表
1月31日 PlayStation用ソフト「ファイナルファンタジーVII」発売

PlayStationプラットフォームで初めて発売されたファイナルファンタジー。ピーター・モリニュー氏など,本作をNo1 RPGに挙げるクリエイターも多い
※画像はiOS版
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■「ファイナルファンタジー7」:ポリゴン新時代に降臨した超大作。新たな“FF”が見せてくれた、数々のビジュアルショック (ライター:本地健太郎)

 スーパーファミコン後期に発売された「ファイナルファンタジーVI」(以下,FF6)は,ドット絵の極致だった。今見ても美しいと感じるそのグラフィックスは,1994年当時,ただひたすらに衝撃的で,子供心に「これはもう,スーパーファミコンの限界だろう」と感じたものだ。

 その次の「7」が出る,となったとき,もちろん大きな期待……と同時に,不安もあった。
 PlayStationの登場によって迎えた3Dの新時代は,どのソフトも「ポリゴン! 3D!」で,まるで「ドット絵は過去の遺物」といわんばかりの勢いだった。しかも,まだ3D黎明期だったため,ポリゴンで形作られたキャラクターの造形はお世辞にもキレイとは言い難く,無表情で身振り手振りする様は,不気味な人形劇に見えた。正直,当時の自分は「ドット絵のほうがキレイなのに……」と思っていたので,こんな状態で,「あのFF6を超えられるのか……?」という不安があったわけだ。

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 そんな不安は,杞憂に終わった。「ファイナルファンタジーVII」(以下,FF7)の発売から約5か月前,1996年8月に「トバルNo.1」が発売された。鳥山 明氏のデザインによるキャラクターと,スクウェア(現スクウェア・エニックス)発の3D格闘ゲームということで話題になった作品だが,このゲームには「FF7」の体験版が同梱され,そちらの面でも話題性がスゴかった。

 「一足早く,FF7を味わえる」という楽しみもあったが,少なくとも筆者の周囲で話題になっていたのはその部分ではなく,戦闘中に召喚できる,召喚獣・リヴァイアサンの演出だった。

 前作「6」までの召喚獣は,ドット絵で描かれた召喚獣が表示され,主に攻撃のエフェクトで“召喚獣の凄味”を演出していた。ドット絵の召喚獣はもちろん描き込まれていて素晴らしかったが,アニメーションするわけではなく,いうなれば「一枚絵」のような物だった。

 しかし,このリヴァイアサンは違った。「大海嘯」の文字と共に召喚されるリヴァイアサンは,蛇のような体をしならせて絶叫し,その背後から大津波が押し寄せたのだ。これには度肝を抜かれた。イベントシーンなどではなく,戦闘中にこれだけの演出を挟んでくるという衝撃。「え,これ,1回きりじゃなくて,毎回こんなのが召喚できるの?」という驚き。「リヴァイアサンでこれなら,バハムートはどうなっちゃうの?」という期待。
 この体験版は,まるで映画のようなカメラワークを見せるオープニングや,“通常のゲーム画面からムービーシーンへと自然につなげる”といったイベントシーンの見せ方も話題になり,大成功だった。

最も不安だったキャラクターの造形は,頭身が高くなったことと,顔の細部などはハッキリ見えないようにすることで上手く見せていたように思う。当時は今のようにクッキリとしたHDMI接続ではなかったため,いい感じにぼやけていたのも良い方向に作用した(※写真は,「トバルNo.1」に付属していた「FF7」の体験版を,PS3でキャプチャーした物です)
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コンビニでゲームが買える!
革命的な新流通の後押しもしたFF7


 スーパーファミコン時代,ドラクエやFFといった人気の大作は,とにかく入手困難だった。ゲーム雑誌などで発売日が判明してすぐにショップへ予約しに行っても,「発売日に確実に買えるかどうかの保証はない」と言われることも多かった。予約希望者の数が多かったこともあるが,おそらくショップ側も,何本仕入れられるか確証が持てなかったのだろう。そういったことが当たり前の時代でもあった。

 しかし,FF7の発売から約1年前に,スクウェアはデジキューブという会社を設立し,コンビニでゲームが買える仕組みを整えた。最初はラインナップの問題もあり,静かな滑り出しだったが,FF7の発売で火がついた。元々は「24時間,いつでもゲームが買える」というのが大きなウリだったと思うが,予約のキャパシティが尋常ではなく大きかったのだ。筆者も,拍子抜けするくらいにアッサリと予約でき,発売日には何の混雑もなく,普通に受け取れたのを覚えている。

高まった期待に,見事に応えたプロの仕事

 発売してからも,FF7は話題に事欠かなかった。

 リヴァイアサンで衝撃を受けていた我々の想像を超える召喚獣が次々と登場し,バハムートの上位的存在として「バハムート改」が出るわ,さらに上の「バハムート零式」も出て宇宙から攻撃するわ,最強の召喚獣「ナイツオブラウンド」に至っては演出時間が約1分20秒もあるわで,良い意味で,やりたい放題だった。この“召喚獣の演出”は「7」以降,FFシリーズの名物となり,「今度の召喚獣は何をしでかしてくれるんだろうな〜」とワクワクさせてくれたものだ。

ついに宇宙から攻撃し始めた“バハムート零式”
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 ストーリー面の演出でも楽しませてくれた。とあるアイテムの入手方法について友人たちと話していたら,そのうちの1人と,どうも話が噛み合わない。仕方ないので,友人宅でその場面を実際にやってもらい,それを後ろから見ながら教えようということになった。

 「そうそう,ここだよ。ここでムービーになるだろ? 列車が……そうそう,こう来て,ここで止ま……」

 という感じで,事の成り行きを見守っていた筆者と他の友人たちだったが,次の瞬間,「えーっ!」と騒然となった。街の直前で止まるはずの列車が,勢いよく,そのまま街に突っ込んだのである。

 RPGにおいて,「プレイヤーの行動で,その後の展開が変化するイベント」というのは珍しくはないが,まさかムービーが2パターン用意されているとは思わず,完全に予想外の展開だった。これには,友人たちとゲラゲラと笑い合ったものだった。

発売からしばらくして,海外版の要素を逆輸入した「インターナショナル版」が発売された。一筋縄ではいかない強敵も追加され,マテリアシステムを駆使して,いかにして倒すかの工夫が楽しかった。PS4やNintendo Switch,Xbox Oneなど,現行機でリリースされているFF7は,このインターナショナル版が元になっている(※写真はPS4版)
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 「7」は,FFシリーズのベストに挙げる人も多い。FFやドラクエは「何作目が好きか」という話題になることも多いが,世代的には「3」が好きな筆者も,「7」の成した偉業,功績を見れば,シリーズベストという声に対して異論はまったくない。

 PlayStationという新たなハードでの1発目のFFでありながら,今後,FFが挑戦すべき方向性を明確にし,それまでのシリーズファンを失望させることもなく,RPGとしてのゲーム体験でも満足させた。FF7の与えた影響は大きく,以後,FF7チックな戦闘画面のRPGを多く見るようになった。いわば,3D時代におけるRPGのスタンダードを築き上げた作品ともいえる。「そうか,これからのRPGはこうなっていくんだ」という,進化の道筋を見せられた思いだったのだ。

2月28日 PlayStation用ソフト「三國無双」発売

3月 アーケードゲーム「電車でGO!」稼働

4月1日  消費税が3%から5%に増税
4月1日 アニメ「ポケットモンスター」が放送開始
4月27日 NINTENDO64用ソフト「スターフォックス64」発売

5月16日 PC-98用ソフト「フォトジェニック」発売
5月23日 PC用ソフト「To Heart」発売

6月26日 携帯育成ゲーム「デジタルモンスター」が発売
6月27日 ゲームボーイ用ソフト「ゲームで発見!!たまごっち」発売

7月10日 PlayStation用ソフト「アーマード・コア」が発売
7月11日 PlayStation用ソフト「サガ フロンティア」が発売
7月11日 セガサターン用ソフト「サンダーフォースV」が発売
7月12日 劇場アニメ「もののけ姫」が公開
7月17日 ソニーが「メモリースティック」を発表
7月17日 PlayStation用ソフト「みんなのGOLF」が発売
7月24日 PC用オンラインゲーム「ウルティマ オンライン」が発売

初めて商業的に成功したと言われるMMORPG「ウルティマ オンライン」。日本では1997年10月17日にパッケージが発売された。写真は初期のログイン画面
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■「ウルティマ オンライン」:夢の世界でウルティマ好きと暮らす「ウルティマごっこ」の世界 (ライター:金井哲夫)

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 1979年,テキサス州に住む高校生,ロード・ブリティッシュことリチャード・ギャリオットが,自室のクローゼットに設置したApple IIでせっせとゲームのプログラムを書き,フロッピーディスクに保存して,それをジップロックに入れて近くのパソコンショップに持ち込んだ。この店にそのゲームを置いてほしいと店主に頼んだところ,それが人気を呼んだという逸話は有名だ。

 その当時,RPGという言葉が表すものは「ダンジョンズ&ドラゴンズ」などのテーブルトークゲームのことで,ギャリオットもそのプレイヤーの一人だった。だが,RPGをPCで遊べるゲームにすれば,ゲームマスターに頼ることなく,一人で遊べると彼は考えたのだ。コンピュータ用のRPGは,そのころすでに存在していたが,それもダンジョンを探索するタイプで,家庭用パソコンで遊べるものでもなかった。

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 ギャリオットが作った「Akalabeth」は,家庭用パソコンで遊べるだけではない。ダンジョンの外の広い世界を冒険できる,まったく新しいタイプのRPGだったのだ。これがウルティマシリーズの原点となり,「ウルティマ オンライン」(以下,UO)へとつながっていく。ちなみに,「Akalabeth」はGoG.comで無料公開されている(関連記事)。

 UOのアメリカでのスタートは平成9年(1997年)。筆者はそのβ版をプレイしたことがあるが,まだ本編であるスタンドアロン版ウルティマのシリーズが続いている最中でもあり,コアなウルティマファンが大勢参加していた。ウルティマは,単に経験値を上げてボスを倒して終わりというゲームではない。1979年から積み上げられてきた世界観があり,UOに至るまでの20年近い歴史がある。一貫したストーリーの中にはウルティマ独自の文化も芽生えており,映画で言えば「スター・ウォーズ」や「ハリー・ポッター」のように,その独特な世界はがっちりと出来上がっていたのだ。

 そんなウルティマの世界観や空気感を愛していたファンたちは,本編のゲームをクリアしたあとも,ずっとあの世界に浸っていたいと思っていた。だからこそ,その憧れの世界で自由に行動できるUOは,涙が出るほど嬉しいものだったのだ。

 β版の「シャード」(サーバー)は英語のみなので,誰もがウルティマで使われていたミドルイングリッシュもどきの英語で会話していた。日本語で言えば,武士の「ござる」口調みたいな感じだ。そんな口調で「ウルティマごっこ」を楽しんでいたのだ。
 あるとき,立派な鎧を着た騎士とすれ違いざまに,こんなことを言われた。「おぬし,鎧がないのか。それでは怪物には勝てぬ。これを使うがよい」と(英語で)言って鎧を恵んでくれた。この人は単に優しいというわけではなく,言葉遣いも含めて,UOという世界を楽しんでいたのだ。
 UOは戦闘で能力を高めてアイテムをゲットするといった単純なゲームではない。その世界での,ノンプレイヤーキャラクターではない,生身の人間との「生活」を味わうゲームだといえる。

 日本語でプレイできる日本シャードも平成10年(1998年)にオープンし,大勢の日本人プレイヤーが参加した。コンピュータRPGは日本で人気だったが,ウルティマは洋ゲーでもあり比較的マイナーな存在だった。そのため,日本シャードはコアなウルティマファンで満たされたわけではない。コアなRPGファンが集まったというイメージで,日本シャードの雰囲気は,アメリカのβ版シャードとはちょっと違っていた。

 筆者は,当時のEA Japan担当者に「みんなもっとロールプレイすればいいのに」と話したことがある。もっと騎士っぽい話し方をするとか,そういう遊び方をリードしてみたらどうかという提案だ。「日本でそれをやると,みんな引くんです」とちょっと残念そうに言っていた。

 UOの魅力は,細かい部分でのリアリティにあった。本編でもUOでも,ギャリオットがこだわっていたのはリアリティだ。それは数値上のリアリティではない。あくまで感覚的なもの。もちろん裏では細かい計算が膨大になされているのだが,数字を前面に出さず,行動と結果の因果関係が自然に感じられる形になっていた。持っている武器はどれくらい強いのか,どうしたらスキルアップができるのか,敵の体力はどれほど残っているか,などが「なんとなく」分かるというのがよかった。

 そもそも本編で,ギャリオットは昔から細部のリアリティを追求していた。ギャリオット本人に会ったときも,テーブルの上のフォークを手に取り人に投げつけると,それなりにダメージが与えられるとか,小さな柱時計の針が本当の時刻を指すとか,食材を集めて鍋に入れると料理ができるといったことを,目をきらきらさせながら話してくれていた。

 本編最後となった「ウルティマIX:アセンション」で,どこが好きかと尋ねたとき,世界の眺望だとギャリオットは答えていた。3Dで作られた広大な世界を歩いて回って,美しい景色に出会うこと。海辺で日の出を見たり,煙を吐く火山を眺めたり。そんな,戦闘とは離れた日々の光景とそこでの冒険が,ギャリオットが描くウルティマの世界にはあった。

 コミュニケーションだってそうだ。ギャリオットは本編で,ノンプレイヤーキャラクターとの自然な会話に力を入れていた。そんな,旅の発見や人との触れあいを楽しんでほしいという彼の気持ちが,初期のUOにも反映されていたのだ。しかし,2000年にギャリオットがUOから手を引くと,UOは一般受けする戦闘主体のRPGへと変わっていった。「ウルティマごっこ」は終わってしまったが,その変革があったからこそ,UOは今も続いているのかもしれない。

7月24日 PlayStation用ソフト「モンスターファーム」が発売。モンスターを音楽CDなどから誕生させられるという仕掛けが話題となった
7月26日 「フジロックフェスティバル」が初開催

8月29日 セガサターン用ソフト「機動戦士ガンダム外伝 THE BLUE DESTINY」が発売

9月30日 ゲームソフトデータ販売サービス「ニンテンドウパワー」が開始

10月9日 セガサターン用ソフト「デッド オア アライブ」が発売
10月11日 総合格闘技イベントPRIDE.1が初開催
10月21日 PC用ソフト「グランド・セフト・オート」が発売
10月26日 PC用ソフト「エイジ オブ エンパイア」が発売
10月30日 セガサターン用ソフト「カルドセプト」が発売

11月22日 山一證券が破綻
12月10日 アーケードゲーム「ビートマニア」が稼働

■「ビートマニア」:リズムに合わせてボタンを押すだけなのに超楽しかった! (ライター:板東 篤)

 平成9年(1997年)末にアーケードで登場したKONAMIの「ビートマニア」に,当時のゲーマーたちは大きな衝撃を受けた。5つの鍵盤とターンテーブルが目を引く専用筐体,そして演奏(DJ)を主目的としたゲーム性で,ビートマニアはかつてない“新時代の幕開け感”を醸し出していた。オシャレ感もビシバシあって,格ゲーマーやシューターにも「ちょいと1回くらいやってみっか!」と思わせることに成功したタイトルでもある。

 筆者もそんな軽い感じで遊んでみたのだが,何とも気持ちよく楽しかったことをよく覚えている。「タイミングよくボタンを押すだけなのに,なんでこんなに楽しいんだ!」とショックを覚えた。普段は全然聞かない音楽ジャンル,ヒップホップやレゲエに触れられることも新鮮だった。スカというジャンルは,本シリーズがなかったら一生知らなかったかもしれない。

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 ゲーム史的には,一般層までもが本作を楽しむ一大ムーブメントとなり,リズムゲームというジャンルの発展に大きく寄与した功績も見逃せない。約1年前に「パラッパラッパー」が登場していたり,もっと前にはファミコンで「オトッキー」や「いきなりミュージシャン」などが出ていたので始祖というワケではなかったが,先述の“目新しさ”や“オシャレ感”が,ゲーマー以外の一般層も興味を持った要因だったのだろう。
 筆者は当時新宿のゲームセンターでバイトをしていたのだが,ゲームセンター内で「ビートマニアありますか?」とやたら聞かれ,「すいませんまだ入荷してなくて……」と何度も答えたことを覚えている。常連さん以外からも注目度が高かった。

 新作の登場がやたらと早いのも記憶に残っている。新作といっても新しいゲームモードが少し追加されたり,新曲が増えたりするぐらいで,今でいうアップデートぐらいの規模なのだが,数か月から半年のサイクルで新曲が楽しめるのは,当時としてはかなり画期的だった。もちろん,我先にと遊び倒したものだ。

 そんな楽曲の中で個人的に強烈に覚えているのが「beatmania 3rdMIX」から収録された「DRUM'N BASS」の「SUPER HIGHWAY」。いわゆる“階段押し”が出てくる譜面で難度がとても高く,何回やってもうまくできなかった。

 しかし,筆者に救世主が登場する。それがPlayStation版の「ビートマニア」だ。これさえあれば,ワンプレイごとに200円を払わず,ずっと遊び続けられるという夢のゲームソフト! 本編に加えて「APPEND」ディスクも登場し,低価格で新曲を遊べたのは本当に助かった。お目当ての「SUPER HIGHWAY」は「beatmania APPEND 3rdMIX」に収録されていたので,これをずっと遊びまくった記憶がある。

 そんな夢のようなゲームである家庭用「ビートマニア」だが,ひとつ弱点があった。コントローラ操作になるため,アーケード筐体の5鍵盤の練習にはならないのだ。なんてこった! 解決策として専用コントローラが販売されていたが,筆者は買いたくなかったので,すでに所持していた格闘ゲーム用コントローラ(いわゆるアケコン)を活用した。レバーをターンテーブル操作に,6ボタンを5鍵盤に見立ててキー設定を行い,“なんちゃって5鍵盤”で練習していたのだ。その甲斐もあってか,無事アーケードでも「SUPER HIGHWAY」をクリアできるまでに上達できた。初クリアは,本当に嬉しかったなあ。

 そうそう,本作のヒットによって,数々のリズムゲームが登場したことも思い出深い。通常の筐体で遊べる「パカパカパッション」や映像に注力したジャレコの「VJ」,本物のギターを利用したナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)の「ギタージャム」など,個性豊かなリズムゲームがいくつも生まれた。ただ,個人的にはやっぱりBEMANIシリーズ,とりわけ「Dance Dance Revolution」と「drummania」にハマった思い出がある。今思い返してみると,それほど長期間プレイしていたワケではなのだが,こうして覚えているのは,やっぱり濃いゲーム体験を楽しめたからなのかもしれない。

 筆者はその後,家庭用「beatmania IIDX」シリーズ,ここ数年だと「アイドルマスター シンデレラガールズ スターライトステージ」などを遊んでおり,リズムゲームはすっかり普通にプレイするジャンルとになってしまっている。ハードが進化したことで,ボタンを押すことに成功したときの気持ちよさや音質など,すべての面でグレードアップしているし,遊びやすさや楽しさも上だ。でも,恐る恐る筐体に200円を投入し,おっかなびっくりボタンを押して楽しめたあの頃の気持ちを,たまにふと思い出してしまうのは,やっぱりそれだけ「ビートマニア」の衝撃が大きかったからだろう。リズムゲームの礎を築いた偉大なる「ビートマニア」に,改めて感謝の気持ちを伝えたい。あ,きれいにまとまった気がする!

12月18日 セガサターン用ソフト「グランディア」が発売
12月20日 セガサターン用オンラインゲーム「Dragon's Dream」の正式サービスがスタート
12月23日 PlayStation用ソフト「グランツーリスモ」が発売。数多くの一般車なども登場することが話題に
12月23日 PlayStation用ソフト「テイルズ オブ デスティニー」が発売
12月23日 PlayStation用ソフト「チョコボの不思議なダンジョン」が発売


平成10年(1998年)

2月2日 郵便番号が7桁化
2月7日 長野オリンピック開幕(第18回オリンピック冬季競技大会)
2月11日 PlayStation用ソフト「ゼノギアス」発売
2月21日 ゲームボーイ用ソフト「ポケットカメラ」発売

3月23日 第70回アカデミー賞で映画「タイタニック」が,作品賞,監督賞,撮影賞,主題歌賞,音楽賞,衣裳デザイン賞,視覚効果賞,音響効果賞,音響賞,編集賞の11部門を受賞
3月26日 PlayStation用ソフト「鉄拳3」発売
3月31日 PC用ソフト「StarCraft」発売

4月3日 任天堂が「ゲームボーイライト」を発売
4月4日 アントニオ猪木選手,引退試合でドン・フライ選手に勝利
4月5日 明石海峡大橋が開通
4月23日 セガサターン用ソフト「スーパーロボット大戦F〜完結編〜」発売
4月28日 スクウェア,Electronic Artsとの合弁会社「Square Electronic Arts」と「エレクトロニック・アーツ・スクウェア」を設立

5月14日 PlayStation用ソフト「FIFA ロード トゥ ワールドカップ98」発売
5月22日 GT InteractiveがPC用FPS「Unreal」を発売

6月10日 1998 FIFAワールドカップ開催。日本が初出場
6月18日 PlayStation用ソフト「XI[sái]」発売
6月25日 PlayStation用ソフト「ダブルキャスト」発売

7月18日 「劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲」公開
7月28日 マイクロソフト「Windows 98」日本語版を発売

8月1日 NINTENDO64用ソフト「ポケモンスタジアム(64GBパック同梱)」発売
8月29日 Appleが「iMac」を日本で発売

9月3日 PlayStation用ソフト「METAL GEAR SOLID」発売
9月12日 ゲームボーイ用ソフト「ポケットモンスター ピカチュウ」発売
9月23日 PlayStation用ソフト「いただきストリート ゴージャスキング」発売
9月25日 ゲームボーイ用ソフト「ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド」発売

10月21日 任天堂が「ゲームボーイカラー」を発売
10月28日 SNKが「ネオジオポケット」発売

11月5日 PlayStation用ソフト「FIFA WORLDCUP98 フランス98総集編」発売
11月12日 PlayStation用ソフト「ワールドサッカー実況ウイニングイレブン3 ファイナルヴァージョン」発売
11月19日 PC用ソフト「Half-Life」発売

■「Half-Life」:複雑なストーリーテリングをFPSに組み込んだ野心作 (ライター:奥谷海人)

 平成9年(1997年)5月,ジョージア州アトランタで開催された3回目のE3に出席した筆者は,Sierra Entertainmentのイベント会場で,ちょっと場違いにも見えたゲーム開発者たちに出会った。20年以上も前のことなので記憶は定かではないが,2階まで吹き抜けになったホテルのロビーにテレビやPCが並べられており,「King's Quest: Mask of Eternity」や,大ヒットとなった「Diablo」などが巨大なバナーとともに,盛大に展示されていた。そんな会場にある階段裏の小さなスペースに,誰にも注目されずに暇そうにしている男性たちがいたのだ。

 話しかけてみるとにこやかに対応してくれたのが,ゲイブ・ニューウェル(Gabe Newell)氏やジョン・ガースリー(John Guthrie)氏ら,Valveの創設メンバーたちだ。そして,そのゲームこそが「Half-Life」だった。

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 デモそのものは,「Quake」エンジンをライセンスしていたことから,当時多かった“DOOM/Quakeクローン”の1つに見えた。だが,モンスターが色の異なる照明の下に行くと,それに合わせて肌の色も変化させる様子や,関節を表現したスケルレタル・アニメーション,視覚や聴覚を利用するAIなど,ベースエンジンに独自のアップデートが加えられているのを,開発者たちが誇らしげに紹介していたのを覚えている。

 この年は「Quake II」を始めとして,「Unreal」や「SiN」,「Prey」,「Star Wars: Jedi Knight Dark Forces II」,「Duke Nukem Forever」といったFPSがE3デビューを果たした,FPS黎明期の群雄割拠時代だった。Sierra Entertainmentも「Half-Life」のプロモーションを始めていたものの,開発の遅延を理由に,発売時期を1998年に延ばした。結果として,この時間的な余裕が「Half-Life」を名作にしたのではないかと思う。

 実際のゲームプレイや複雑な風景,さらに“会話するキャラクター”が公開されたのはE3 1998となり,そこで「Half-Life」は高く評価された。発売2か月前の9月には,PCの付属CDとして作られた,ゲーム序盤の20%分ほどがプレイできる「Half-Life: Day One」がコアゲーマーやゲーム開発者たちの間で大きな話題となった。id Softwareや3D Realmsといったメーカーでは,Half-Life: Day Oneをプレイするため,会社全体の作業がしばらく滞ったという話もある。

 「Half-Life」のオープニングの,トラムのシーンが始まったときの衝撃は今でも忘れることができない。「Quake」や「Unreal」のような“インゲームエンジン”を活かしたイントロムービーや,「Duke Nukem 3D」のようにいきなりアクションから始まるゲームがスタンダードだったなか,「Half-Life」のオープニングにはアクション性がまったくなく,1人称視点のまま地下坑道をトラムに乗って進んでいくというものだった。

 しばらく経っても何も起きないので,マウスを握ったままじっとさせていた左手を動かすと,視点が変化して車両の中を自由に移動できるのに気付いたときは驚いた。青いシャツを着たセキュリティガードの“バーニー”がドアをたたき続けるといったような,ちょっとしたシーンが車窓に流れていくのも印象的で,トラムが進むにつれて,独特のゲーム世界の中へと引き込まれていくのを感じたのは筆者だけではなかったはずだ。アーケードアクションの流れで始まったFPSというジャンルにおいても,複雑なストーリーテリングが組み込めることを証明したのが,この「Half-Life」であったのは間違いない。

 「Half-Life」は,その後のゲームジャンルやゲーム市場の在り方についても大きな影響を及ぼしている。Valveから受注する形でリリースされた,バーニーの「Blue Shift」と,同じく本編で突撃した海兵隊の1人が主人公という設定の「Opposing Force」を作り出した,Gearbox Softwareは,このプロジェクトを機に躍進していった。

 また,ValveはMOD制作にオープンで,「Counter-Strike」「Day of Defeat」「Team Fortress」「Natural Selection」「Gunman Chronicles」「Sven Co-op」といったファンやアマチュアメイドのゲームが量産された。そして,ファンメイドのMODをサポートすることにより,ゲーマーたちから絶大な人気を勝ち取ることになったわけだ。これがやがて,「Sourceエンジン」を生み出すことになり,さらにはオンライン配信サービス「Steam」が誕生するきっかけにもなったのだろう。

11月21日 NINTENDO64用ソフト「ゼルダの伝説 時のオカリナ」発売
11月27日 セガ「ドリームキャスト」本体発売

セガサターンの後継機として開発されたドリームキャスト(Dreamcast)。名前の由来は,Dream(夢)をBroadcast(広く伝える)という願いを込めた造語だ。最高通信速度33.6Kbpsのインターネット通信用アナログモデムを搭載していた。当時セガ(現:セガゲームス)の専務取締役だった湯川英一氏(湯川専務)によるTVCMが記憶に残っている人も多いだろう
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■「ドリームキャスト」:新たな時代の到来。PSOでは初オンラインゲームにド緊張 (ライター:御簾納直彦)

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 セガサターンで開花した筆者のセガファンとしての魂は,セガハードの最後を飾るドリームキャストに受け継がれた。筆者はドリームキャストを発売日に購入しており,ローンチタイトルの「バーチャファイター3tb」(以下,3tb)と共に我が家に迎え入れた。セガサターンよりも一回り小さく可愛いが,そのパワーは先代を大きく上回る。「3tb」がブラウン管に映し出された瞬間,セガサターン時代を大きく上回る高レベルのグラフィックスに新たな時代の到来を感じたものである。


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 また,ドリームキャストといえば,「北へ。White Illumination」というタイトルが思い出深い。思わず赤面してしまいそうなメロディと歌詞が印象深すぎるメインテーマや,北海道をロケーションにした切ないストーリー,魅力的なデザインのキャラクターたちなど,未だにドリキャスを引っ張り出して遊びたくなる中毒性を秘めた傑作だと思っている。

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 ドリームキャストといえば,ネットワーク機能を標準装備していたことも大きな話題となった。筆者はPCでオンラインゲームを遊んだことがなかったので,ドリームキャストで,初めてネットという広大な世界の一端を感じたのである。
 メインでプレイしていたゲームは「ファンタシースターオンライン」(以下,PSO)だ。筆者はPSOをプレイしていた際,ゲーム自体をめちゃくちゃやり込んでいたというよりは,他のプレイヤーとのコミュニケーションにドップリとハマったクチである。チャットを通じて,顔の見えない相手と意思疎通を図る。これがとにかく面白く,ワクワクが止まらなかったのを今でも覚えている。
 初めてほかのプレイヤーに話しかけるときは緊張が止まらなかったし,逆に話しかけられた時はめちゃくちゃ嬉しかった。「こんな俺に話しかけてくれてありがとう!」本気でそう思ったものだ。

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 「シェンムー」もドリームキャストを語るうえで欠かせないピースの1つだ。「シェンムー」は発表前,「プロジェクト・バークレイ」というコードネームで呼ばれており,ジャンルすらも不明。分かっているのは,「バーチャファイター」の生みの親・鈴木 裕氏が全身全霊をかけて制作しているタイトルだということ。アーケードを主戦場としていた同氏が,コンシューマ機機向けのゲームを作るということも話題になっていた。

 筆者も当然,「シェンムー」を楽しみに待っていた一人であるが,とはいえ,映像だけだと分からない部分があったのも事実。グラフィックスは美麗だし,スケール感もある。しかし,そのポテンシャルには気がついていなかった。
 そして発売日を迎え,筆者は「シェンムー」と向き合うことになるのだが,そこで筆者を待っていたのは,ゲーム内で再現されたもう一つの横須賀だった。本作がそれまでのゲームと決定的に違うのは,「世界」がどこまでも作り込まれているという点だ。背景だと思っていた場所に実際に行け,背景の一部だと思っていた街に暮らす人々に話しかけることができるなど,細かい部分の作り込みが半端じゃなかった。横須賀の人々の自然な生活がそこにあったのだ。
 現在において「シェンムー」はオープンワールドの元祖ともいわれており,若いファンにもその存在が知られ始めている。当時からとんでもない大作感を出していたが,やはり「シェンムー」は伝説になったんだと感じた。

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 そしてもう一つ,「シーマン 〜禁断のペット〜」の思い出も記しておきたい。「シーマン」とは,身体が魚,顔が人間という謎の生物・シーマンとマイクデバイスを通してコミュニケーションを図るシミュレーションゲームだ。
 雑誌に掲載された記事を見て以来,発売をずっと楽しみにしていたが,運の悪いことに,シーマンが発売されてすぐに体調を崩して入院をするハメに。そのため,当然プレイは中途半端な状態。そんな時,見舞いに来た父親が「シーマンが成長してたぞ」と言う。実は筆者,何を思ったかシーマンのプレイを父親に引き継がせていたのだ。「成長ということは,成魚に?」。退院して,久しぶりに家に帰ってきてシーマンをプレイしてみると,そこには父の言った通り,成長したシーマンの姿があった。「親はなくとも子は育つ」の心境で少々寂しさはあったが,同時に嬉しさもこみ上げるという複雑な心境だった。

 シーマンに何と言われたかはっきりしていないが,皮肉たっぷりの言葉を投げかけられたのをかすかに覚えている。しかし,筆者にはそれが嬉しくて堪らなかった。そして「これから一緒に,たくさんの思い出を作っていこう。なっ,シーマン!」という言葉を投げかけた,ような気がする……。

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11月27日 ドリームキャスト用ソフト「バーチャファイター3tb」発売

12月3日 プレイステーション用ソフト「R4-RIDGE RACER TYPE4-(ジョグコン同梱用ソフト)」発売
12月12日 NINTENDO64用ソフト「ピカチュウげんきでちゅう(VRS(音声認識システム)マイク同梱)」発売
12月17日 プレイステーション用ソフト「クラッシュ・バンディクー3 ブッとび!世界一周」発売
12月18日 NINTENDO64用ソフト「マリオパーティ」発売
12月18日 ゲームボーイ用ソフト「ポケモンカードGB」発売


平成11年(1999年)

1月1日 携帯電話・PHSの電話番号11桁化
1月21日 NINTENDO64用ソフト「ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ」発売
1月23日 ポケットステーション発売

2月11日 PlayStation用ソフト「ファイナルファンタジーVIII」発売
2月22日 iモードのサービスがスタート

3月 PC用オンラインゲーム「ウルティマ オンライン」でYamato大戦が勃発

「ウルティマ オンライン」で起きたYamato大戦時のスクリーンショット。負けたギルドは解散という条件で行われた戦いは,14日間続いた
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3月3日 CD「だんご3兄弟」発売。大ヒットに
3月4日 バンダイ(当時)が携帯型ゲーム機「ワンダースワン」を発売
3月4日 PlayStation用ソフト「サイレントヒル」発売
3月11日 NINTENDO64用ソフト「悪魔城ドラキュラ黙示録」発売
3月16日 PC用ソフト「EverQuest」発売

Sony Online Entertainmentがサービスを開始したMMORPG。3Dグラフィックスを採用したMMORPGの中で,世界で初めて商業的な成功を収めたタイトルと言われ,熱狂的なファンを生み出した。現在もDaybreak Game Companyによって,サービスが継続されている
※画像は2003年発売の日本語版
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■「EverQuest」:MMORPGが最も熱かった時代 (編集部:aueki)

 数あるMMORPGの中で「Ultima Online」(以下,UO)と「EverQuest」(以下,EQ)というのは別格の存在だ。そうなった理由の一つには,どちらもMMORPGというジャンルの草創期時にサービスが始まったことが考えられるだろう。現時点で見ても特異なシステムを持つUOの独自性は最初にして至高の位置にあり,他者の追随をまったく許していない。一方のEQは3D MMORPGの祖としての位置にあり,多くのフォロワーを生んでいるが,往時のEQの輝きに迫るゲームはほとんどないと言っていいだろう。

 MMORPGの価値を決める要素はたくさんある。コンテンツがやたら豊富で,(前例がないので)システムはどれも斬新で,競合タイトルが少ないのでプレイヤーの量は最近とは桁違いに多く,運営も頑張っていたことを思うと,EQがヒットしたのは必然だったような気はする。ただ,あの「熱さ」は,体験していない人に説明するのはなかなか難しい。

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 グラフィックスはもちろん,ゲームシステムを見れば最近のゲームのほうがEQよりもずっと良くできている部分もあるだろうが,現在のMMORPGの基盤というべきものが,メーカーとプレイヤーの共同作業で作られていたのだ。その過程で流された汗と涙,喜怒哀楽がEQを伝説のゲームとしていると言っていい。

 多くの業界人,そしてMMO古参勢にひときわ峻烈な記憶を残している要因として,「マゾかった」からというのはあると思う。前例がほぼないので,「あの難度が普通」でいられたのだ。アイテム1つを獲得するための労力もかなりかかる。したがって,ゲーム内のあらゆるものの価値が,最近のゲームとは比べ物にならないくらい高いのだ。
 だが,苦労が多い分,報酬効果も大きく,麻薬的なヤバさも合わせ持っていた。ちなみに当時,「Counter-Strike」とEQはとにかく「ヤバいゲーム」としてブラジルで禁止されていたという。

 EQの初期段階では,移動の基本は徒歩だった。ウィザードやドルイドが各地のポータルへのテレポート魔法を覚えると各地へジャンプできるのだが,狩場までは基本マラソンだ。
 冒険しているとおなかが減る。空腹になるといろいろデメリットが大きいので食事は欠かせない。Buff付きの食事というものも存在したが,よほどのとき以外は使われることもなく,腹持ちがよいものが好まれた。

 持てる持ち物の重さはSTRに依存しており,重すぎると移動が遅くなる。アイテムの取引を銅貨で支払われて,一歩も動けなくなったという笑い話もあるくらいだ(お金にも重さがある)。非力な魔法職などは重量軽減バッグを揃えるまでは,わりと切実な問題だった。

 EQには種族対立があり,敵対種族ではKoS(Kill on Sight:見かけたら殺す)になり,NPCやガードが容赦なく襲ってくる(そして強い)。クエストをこなしてFaction(評判)を上げるなどすれば襲われなくなるのだが,それまでは銀行員の視界外から銀行を使ったりと細かい技で切り抜ける必要があった。

 初期のEQにマップシステムはなかった。マップサイトやマップ用のツールが登場してからはかなり楽になったが,標準でマップシステムが搭載されるまでは,マップというのは体で覚えるのが当たり前だったのだ。それでいて,ダンジョンは3次元構造で絡み合っていたりするのだが,分岐の多いGuk下層あたりでも,何度も行けばそれなりに覚えたものだ。

 強いモンスターに追われて逃げ回っているうちに,どこか分からないところで殺されるというのもEQあるあるだ。死ぬと死んだ場所に死体が残される。もちろん,装備一式込みで。一定時間経つと,装備ごと死体は消滅する。死体に復活魔法を使えば,経験値をある程度取り戻すことができた。なので,復活のために街にいたクレリックを雇ってリスポーン場所から裸一貫でマップをいくつも越えて走ることになる。危険なエリアだと2次遭難するというのも,あるあるだ。

 船に乗り込んできた巨人に海の真ん中で殺されたときは,いくら探し回っても死体が見つからず,死体の方向を知るスキルを持ったネクロマンサーにお世話になった。死体は海底の段差に埋もれていて,服の端っこがわずかに見えている状態だった。
 キャラクターの絶対的な死はなくても,装備全損はほぼ同じ意味であり,死体回収の難しさはゲームに独特な緊張感を与えていたと思う。死の意味が軽いゲームでは,プレイヤーは本気にはなれないのだ。

 魔法を使うにはマナが必要になる。体力やマナは時間で回復するが,座っていると回復が速い。座って瞑想をするとさらに速くなる。しかし,初期のEQでは瞑想をすると瞑想用UIで3D表示画面が埋め尽くされ,周りがまったく見えなくなった。ちなみに,座っているときにダメージを食らうと無茶苦茶痛い。

 そもそもの戦闘だが,モンスターは強い。同レベルのキャラクターがソロで倒せるのはゲームのごく序盤だけであり,レベルが下のモンスターをパーティでタコ殴りするのが基本だ。それでも経験値やアイテム的にも,パーティメンバーでギリギリの狩場に行く,ないしはギリギリまで狩場を広げるのが当たり前だったように思う。
 だいたい場所の固定されたモンスター以外にローミングモンスターがいて乱入してくる。1体ずつでギリギリの戦力でやっていると,タイミング次第で事故が起きる。今考えると,みんな安全策はあまり取らず,突発事態にはプレイヤースキルで対処していた気がする。

 いろいろと「厳しい環境」があったり,「圧倒的に強い敵」が登場したりするのだが,そこまでの理不尽さではなかったと思う。というのも,「ヘイトリストに載っているとランダムで即死」攻撃などは防ぎようがないと思うのだが,総出でメモリブラー(記憶消去)をかけてヘイトリストを初期化するなど,攻略者側も半端なかったからだ。

 MMORPGのゲームバランス調整で,そこまでマゾくはせず,それでいてコンテンツの陳腐化を防ぐために難度自体は上げたいとなると,単純に手順を増やすことが多い。ただ,その方向はプレイしていて面白くないのだ。
 EQの場合は,途中の1個1個がマゾくてなおかつ手順が多く必要だった。より悪いだろと思う人もいるだろうが,マゾい分,途中段階での達成感が大きく,最終的なエクスタシーも大きかったのだ。

 しかし現在では,そこまで苦労させるようなMMORPGはそもそも作られないだろう。
 市場は変わった。易きに流れるのはやむないことだ。MMORPGでプレイヤー数は絶対的な正義である。MMORPGが乱立して,プレイヤー数の確保が見込めなくなると,高難度仕様のゲームを企画すること自体が無謀といえる。それが成り立つ市場ではなくなったのだ。

 ゆえに,EQがとてつもなく熱く輝いた時代にノーラスを駆けることができた人は幸せだったと思う。PC向けのMMORPGは下火になりつつあるが,今後,3D MMORPGに匹敵するようなゲームチェンジャーが現れるまで市場は変わらないだろう。近い未来において革命的なVR MMORPGを作る人には,くれぐれも量産型をベースにして作らないでほしいと願いたい。

4月8日 セガサターン用ソフト「デビルサマナー ソウルハッカーズ」発売

5月29日 ファービー人形が日本発売

6月1日 子犬型ペットロボット「AIBO」が発売
6月17日 PlayStation用ソフト「俺の屍を越えてゆけ」発売
6月24日 PlayStation用ソフト「ペルソナ2 罪」発売

7月1日 PlayStation用ソフト「ディノクライシス」発売
7月10日 映画「スター・ウォーズエピソード1 ファントム・メナス」公開
7月21日 クラムシェル型の初代iBookが発売
7月22日 PlayStation用ソフト「どこでもいっしょ」発売
7月23日 全日空61便ハイジャック事件が発生
7月29日 ドリームキャスト用ソフト「シーマン〜禁断のペット〜」発売

9月11日 映画「マトリックス」日本公開。バレットタイムなどの撮影技術が話題に

10月30日 上信越自動車道が全線開通

11月11日 PlayStation用ソフト「Medal of Honor」発売
11月24日 PC用ソフト「Ultima IX: Ascension」発売

Origin Systemsが開発し,Electronic Artsから発売された,Ultimaシリーズの9作め。またしてもブリタニアに呼び戻されたアバタール(=プレイヤー)と,宿敵・ガーディアンとの最後の戦いが描かれる。のちに発表された「Ultima X: Odyssey」が発売中止されたため,正統なシリーズとしては最後の作品となってしまった
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11月21日 ゲームボーイ用ソフト「ポケットモンスター 金・銀」発売
11月30日 PC用ソフト「Unreal Tournament」発売
12月16日 ドリームキャスト用ソフト「スペースチャンネル5」発売
12月22日 PlayStation用ソフト「ヴァルキリープロファイル」発売
12月29日 ドリームキャスト用ソフト「シェンムー 一章 横須賀」発売

ゲームクリエイターの鈴木 裕氏がディレクターを務め,セガ・エンタープライゼス(現在のセガゲームス)から発売されたアクションアドベンチャー。3Dで再現された横須賀で自由に行動できるシステムが画期的で,オープンワールドゲームの元祖とも呼ばれている。ストーリーは現在も未完のままで,2019年8月27日に「シェンムーIII」が発売予定
※画像は2018年11月22日発売の「シェンムー I&II」のもの
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■「シェンムー」:あるゲームライターの回顧録。「シェンムー」と過ごした1年間 (ライター:柴山道久)

 「なんじゃこの葉っぱ?」――。かれこれ20年ほど前,ドリームキャストマガジン(ソフトバンクパブリッシング)のライターをしていた自分は,ページにデカデカと掲載されている一枚の葉っぱを見て,そう思った。それが,「プロジェクト・バークレイ」こと,「シェンムー」との初めての出会いだった。

 「この葉っぱ,なんなんスか?」と,(鈴木)裕さん番だった編集長に聞いてもニヤニヤするばかりでちっとも教えてもらえず,その後の記事に掲載されるのも黒電話や電柱,物干し台と,意味の分からないパーツばかり。妙に作り込まれているのは確かだが,これらでどんなゲームが出来上がるのだろうと,あまりの全貌の見えなさにモヤモヤしていたのをよく覚えている。

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 1998年末,各ゲーム情報誌にて正式タイトル「シェンムー 一章横須賀」が発表となってからは,怒涛のプロモーションが繰り広げられた。全国5大都市での発表会(お土産はTシャツやシェンファのフィギュアなど)を皮切りに,町中を逃げ回る湯川専務を追いかける販促ディスク「What's シェンムー」が配布されたり,アート系イベントにハイポリゴンCGデモを出展したりと,「ドリームキャストはコレで勝負をするぞ!」という空気が渦巻いていた,ように思う。

 そんな1999年の夏頃,気がつけば僕はドリマガのシェンムー担当ライター(たしか3代目)として記事執筆を手がけるようになっていた。当時のドリマガは週刊誌ということもあって,記事をこしらえるのには苦労した。肝心のゲーム素材がちょろちょろとしか出ず,出演する役者さんのグラビアやインタビュー記事を作るため,毎週のように大鳥居駅にあるセガに通っていた。

 秋になり発売日が近づいてきても,メーカーから貸し出されるサンプルROMは到着せず,初めて開発中のROMをさわったのはたしか晩秋になってから。しかも,セガ本社に出向いて限られた時間の中でプレイするという状況で「これ,ホントに完成するのかな?」という不安な気持ちになったりもした。

 その後も年末近くまで発売日が二転三転し,あやうく白ページを作りそうなこともあったが,それはさておき。ついに見て,触ることのできたシェンムーは,ひとことで表現するなら“いびつなゲーム”だった。

 ひとつの街を再現するなんてゲームはそれまで聞いたことがなかったし,そこに並ぶ建物の形はひとつひとつが異なり,街に住まう300人オーバーの住人たちは時間の流れに沿って行動している。そうした,ちっとも合理的ではない,執念じみた作り込みが,画面を通してにじみ出てきていて圧倒されたものだ。一方,ストーリーは濃密だが地味,インタフェースやバトルのシステムは正直古臭かった。それでも「この世界をウロウロしたい」という欲求がそうした欠点を些細なものにしていたように思う。今でも目を閉じると蘇るのは,ライター仲間と手分けしてパンチラスポットを探すために,あちこちの階段下で張り込みをし続けた思い出だ(ゲス)。

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 そうして発売となったシェンムーは,国内販売本数は約50万本と振るわなかった(当時はヒット作=ミリオン超え)ものの,一部に熱狂的なファンを生み出した。革新的なチャレンジを評価する傾向の強い海外ではその熱量は強かったようで,イノベーティブな姿勢を称える賞にも輝いている。また,ゲーム開発者が集まるイベント会場で,BiowareのRay Muzyka氏から「シェンムーからは影響を受けた」という発言を聞いたことは,せっかくのこの機会に書き残しておきたい。

 発売から20年近くが経ったいま,「シェンムーとはなにか」と振り返ってみれば,それは芭月 涼という人物となって,世界をロールプレイする遊びだったように思う。日本伝統のコマンド選択戦闘・レベルアップ方式のアレではなく,役割を演じることでの疑似体験という本来の意味で。つまり裕さんは“RPGの再設計”をしようとしていたのではないだろうか。実際,この原稿を執筆するにあたってほじくり返したドリームキャスト版「バーチャファイター3tb」の特典ディスクのインタビューでも「シェンムーは僕なりの(解釈で作った)RPGという言い方ができるかもしれない」と語っている。

 さて,その後の僕はといえば,シェンムーの記事執筆からは離れてひとりのプレイヤーとしてシリーズに接してきた。初代と比べると“普通”になったうえ「俺たちの戦いはこれからだ!」エンドに愕然とした「シェンムーII」。出る出る詐欺(失礼!)となってしまった「シェンムー オンライン」。モバゲー版「シェンムー街」ではサンタ姿の榎を倒しまくったっけ。

 そうして一度は命脈が絶たれたかと思えたシェンムーだが,2015年に「シェンムーIII」の発売が発表された。どんな味わいのゲームになるかは分からないが,旅の続きをまだ味わえると思うと感慨深い。



平成12年(2000年)

1月7日 成人向けPC用ソフト「Kanon」発売
1月30日 平成仮面ライダー第1作「仮面ライダークウガ」 放送開始

2月4日 PC用ソフト「The Sims」( 邦題:シムピープル)発売
2月18日 マイクロソフトが「Windows 2000」を発売
2月24日 アーケードゲーム「MARVEL VS. CAPCOM 2 NEW AGE OF HEROES」稼働

3月4日 ソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)が家庭用ゲーム機「PlayStation 2」を発売

ソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)から3万9800円で発売された「PlayStation 2」。3月4日の発売日は,各店舗に長蛇の列ができるほどの熱狂ぶりだった。同時発売は「リッジレーサーV」「A列車で行こう6」など。ゲーム機としてのみならず,当時普及しはじめていたDVDプレイヤーとして買い求める人が多かったようだ。最終的な販売台数は1億5000万台超で,家庭用ゲーム機の販売台数で歴代1位となる
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■「PlayStaion 2」:ホームエンターテイメントの中心となった初めてのコンシューマ機 (ライター:徳岡正肇)

 2000年3月4日(=平成12年3月4日,つまり1234の良い並び)に発売されたPlayStation 2(以下プレステ2)は,最終的には世界で最も売れたコンシューマ機となった。全世界の累計販売数が1億5700万台という数字は,匹敵するものとしてニンテンドーDSの1億5400万台,少し離れてPlayStationの1億2400万台,ゲームボーイの1億1800万台,Wiiの1億1600万台と続く。これはこれで錚々たるラインナップだが,プレステ2はその筆頭に位置しているわけだだ。

 PlayStationの後継機として作られたプレステ2だが,ハードウェアのアーキテクチャは一新されている。一方で下位互換性は(一部の例外はあったものの)確保されており,PlayStationのゲームをプレステ2で遊ぶことが可能であり,このことはプレステ2の立ち上がりを支えるのに大きなプラスになった。実際,プレステ2がリリースされた段階では開発者向けのライブラリは十分に揃っておらず,3月のローンチタイトルこそ11作品あったものの,5月の発売タイトルはわずか1本,6月にようやく32本になった。この一種の「空白期間」を,下位互換性が大いに支えたわけだ。

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 プレステ2のもう1つの大きな魅力が,「(当時としては)安いDVDプレイヤー」だった点だ。発売時の小売価格は3万9800円だったが,当時の安いといわれるDVDプレイヤーでもだいたい5万円前後だったため,「ゲームも遊べるDVDプレイヤー」として,一種のホームコンピュータのポジションを獲得した。

 かくして,同時代のコンシューマ機の中でも圧倒的なシェアを獲得したプレステ2だったが,このプラットフォームは日本のゲーム史における重要な作品を数多くもたらしている。
 中でも巨大な一歩になった作品が「ファイナルファンタジーXI」(以下,FF11)と「信長の野望Online」だった。プレステ2は,周辺機器の「PlayStation BB Unit」を使用することでネットワーク接続が可能になり,これによってMMORPGをプレイすることができたのだ。

 もちろん,「コンシューマ機でオンラインゲームを遊ぶ」という試みそのもは,プレステ2のはるか前,ファミリーコンピュータ時代から続いている。また,セガが2000年にドリームキャスト向けにリリースした「ファンタシースターオンライン」は,コンシューマ機でオンラインゲームを遊ぶというビジネスモデルの最初の成功例だったといえるだろう(全世界で30万ユーザーが契約したとされる)。

 しかし,2002年5月に正式サービスが始まった「FF11」は,2004年になるとサービスの契約者数が50万人を超え,また,2003年にスタートした「信長の野望Online」も,2004年にはユーザー数が10万人を超えるなど,「コンシューマ機でMMORPGを遊ぶ」というプレイスタイルは,比較的カジュアルにゲームを楽しむ層にまで急激に広がっていった。ちなみに,日本のMMORPG人口が爆発的に増えるきっかけとなった「ラグナロクオンライン」のβ開始は2001年末,正式リリースは2002年末のことだった。

 また,2004年3月には,カプコンから「モンスターハンター」が発売されており,ソロプレイも可能だったが,最大4人のオンラインマルチプレイ機能も用意されていた。

 プレステ2側もオンラインゲーム需要への対応を着実に進め,2004年11月に発売されたSCPH-70000以降のモデルにはイーサネット端子が内蔵されて,「PlayStation BB Unit」なしでもネットワーク接続が可能になった。同時期,通信インフラも発展し,「月あたり定額でネット使い放題」のサービスが急速に普及し,2003年末には1000万回線を突破したという。

 このようにハードとインフラが揃ったことで,いわゆる「廃プレイ」が可能な環境がカジュアル層にも整えられていった。もちろん,この段階でもオンラインゲームがコンシューマ向けタイトルの主流というわけではなかったのだが,コンシューマ機がより「濃い」ゲームをより広いユーザーに向かって開く一方,日本のカジュアルゲームの中心が,次第に据え置き型コンシューマ機から離れていくことになる。

 実際,日本国内の歴代ゲームソフト売り上げランキングを見ると,ゲームボーイやニンテンドーDSの「ポケットモンスター」シリーズが650万〜800万本近くを売っているのに対して,プレステ2で最も売れたタイトル「ドラゴンクエストXIII 空と海と大地と呪われし姫君」でも360万本前後と,ソフト1本あたりの価格差はあるとはいえ,日本のカジュアルゲームシーンの中心が,携帯機に移っていったのが分かる。そして,そのきっかけを作ったのもプレステ2だったのではないだろうか。
 とはいえ,プレステ2はその後も長らく「最も安いDVDプレイヤー」であり続け,ホームコンピュータとしてゲーマーの生活に寄り添い続けた。オンラインゲームからDVD鑑賞まで一台で楽しめるプレステ2は,初めてホームエンターテイメントの中心になったコンシューマ機として忘れることのできない存在だ。


3月4日 映画「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」公開

4月6日 PlayStation用ソフト「遙かなる時空の中で」発売
4月27日 NINTENDO64用ソフト「ゼルダの伝説 ムジュラの仮面」発売

5月 ILOVEYOUウイルスが流行

6月9日 Yahoo!オークションに「タイムマシン(本物)」が出品される
6月22日 PlayStation用ソフト「ぼくのなつやすみ」発売

6月29日 PC用ソフト「Diablo II」発売

Blizzard Entertainmentが2000年に発売した「DiabloII」。前作からの期待が大きいタイトルだったが,それを裏切らない完成度で世界中のPCゲーマーを熱狂の渦に巻き込んだ。いわゆる「ハック&スラッシュ」というジャンルを確立し,オンラインRPGの一つの完成形として,後のMO/MMORPGに大きな影響を及ぼしたタイトルでもある
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■「Diablo II」:アクションRPGの黒船。深夜販売も実施された洋ゲー (ライター:箭本進一)

 僕にとっての「Diablo」は,アクションRPGにおける“黒船”のような存在である。当時の僕はアクションRPG=日本のお家芸という印象を抱いていたが,これを覆したのが「Diablo」だったからだ。日本製アクションRPGの多くでは,デフォルメされたキャラクターと明るい画面で戦っていた。一方,「Diablo」は,頭身の高いキャラクターが不気味なBGMをバックに,鬱々としたダンジョンを潜っていくのだから対照的だ。ギリギリの戦いが続く中,ゲームにもやや慣れたかな……と思ったところに,「フレッシュミート!」と叫ぶButcherがやってくる。接近すれば包丁で切り刻まれて肉にされ,逃げれば地の果てまでも追ってくる。ゲームを遊ぶというよりは,悪夢に迷い込んだような感覚があった。

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 「Diablo」はとにかくプレイヤーに厳しい。武器や防具は使うと耐久力が減っていく。ダンジョン内にある祭壇ではマイナス効果のあるイベントが起こる(しかもメッセージが英文なので,慣れない内は何が起こったのか気づきづらい)。死ぬとアイテムをぶちまけ,状況によっては回収が困難になる。

 さらに厳しかったのがマルチプレイだ。「Diablo」では味方にも攻撃を当てられるうえ,ほかのプレイヤーを殺害すれば,その耳を手に入れられる。そのため,冒険の最中で裏切ってこちらを殺しにくるような人もいた。現代であれば“迷惑プレイヤー”と糾弾されるようなスタイルが当たり前にあり,回線の向こうにいるのが友好的な仲間なのか,冒険の途中で裏切りを狙う敵なのかすら分からなかった。初めてほかのプレイヤーに殺害された時などは,本当に心が傷ついた。「地球のどこかに自分を殺害して喜びを得た者がいる」という事実が恐ろしく,しばらくゲームを遊べなかったほどだった。時間が経つと,これがゲームであるということを受け入れることがで,やがて,マルチプレイという名の自分の命を的にしたギャンブルにハマっていったのだ。

 実のところ,今も僕がアクションRPGを遊んでいるのは「DiabloII」に熱狂した日々の幻影を追っているからかもしれない。2000年7月1日,僕は秋葉原で「Diablo II」の深夜販売に立ち会っていた。そこには期待を胸に並んでいる人たち,そして,彼らのために「Diablo II」の入った大きなダンボールを運んだり,列を整理したりと,忙しく準備を整えているショップの店員さんたちがいた。ゼロアワーになるとお客さんたちは粛々と店に入り,素早く会計を済ませては,一刻も早くゲームを遊ぶため,足早に駅へと歩いて行く。ミイラのような,ガイコツのような黒衣の男がドアップになった不気味なパッケージを手に,皆が幸せそうに笑っていた。学園祭前夜を思わせる熱気と一体感がそこにはあった。

 発売日以降,「Diablo II」のCD-ROMはPCに入りっぱなしとなり,生活はゲームを中心に回るようになった。僕はガイコツとゴーレムを操る新クラスNecromancerでプレイをスタートし「こんなキャラで遊んでいるのは少数派だよな!」などと勝手な優越感を抱いていた。しかし,翌週の休日に皆に話を聞いてみると,全員がNecromancerを使っていて,それぞれ自分こそがイカした少数派だ,などと思っていたのだからお笑いだ。外出時には,攻略本「DIABLO II公式ガイド」を持ち歩くのが習慣になり,電車移動のたびに読みふけっていた。それは攻略に役立てるというよりは世界観に浸るためで,ゲームから少しでも離れたくないという気持ちの表れだったのだ。

 プレイが進むにつれてキャラクターの数は増えていき,手放すのに惜しいアイテムを預けておくための倉庫役を作るようなこともした。彼らの重要な役割は,ひと揃いを同時に装備することで特殊効果が発動する「セットアイテム」を保管すること。「Isenhart's Armory」や「Sigon's Complete Steel」といった低レベル用セットアイテムの使い心地を試すうちにプレイが楽しくなり,倉庫役から正式育成に“昇格”するようなこともしばしばあった。アイテム収集には麻薬のような楽しさがあり,黄色(レア)が出た時などはぎゅっと心臓を掴まれたかのような驚きと喜びを味わうことができたのだ。

 「Diablo II」の魅力を書き記していくと,スペースがどれだけあっても足りないのだが,重要なのは「育成における自由度の高さ」ではないかと思う。強いスキルを無難に育てていくのも,ネタっぽいスキルで修羅の道をいくのも自由なのだ。例えばBarbarianの場合,普通は近接武器で戦うのがセオリーなのだが,斧やナイフを投げつける専門家にもできるし,敵の死体からアイテムを取り出す「Find Item」に特化して採掘師のようにも育てられる。Paladinなら,盾やハンマーで無難に進めることもできるし,ライフを犠牲にして高火力を発揮する「Sacrifice」を上げ,血をまき散らしながら戦ってもいい。前述したNecromancerも,ガイコツの召喚に特化し,最大40体の手下を引き連れる(そしてガイコツは弱いので一瞬で灰にされて絶望する)ような育て方をしてもOKだ。もちろん,こうしたネタビルドは王道ビルドと比べてプレイが辛いのだが,自己責任のうえであらゆる可能性を追求できる。長く遊べるのが嬉しいのはもちろんのこと,作り手がプレイヤーをリスペクトしている姿勢を感じられた。

 本作の開発/運営元であるBlizzard Entertainmentは今も「Diablo II」のサービスを続けており,発売から19年が経った今も新品を買え,オンラインプレイもできる。さすがに現在の作品と比べると古さはあるが,この偉大な作品をぜひプレイしてほしい。

7月1日 セガの開発部門が独立し,9社に分社化。ソニックチーム,オーバーワークス,ヒットメーカーなど
7月7日 PlayStation用ソフト「ファイナルファンタジーIX」発売
7月7日 PlayStationの廉価版「PS one」発売
7月19日 新紙幣として二千円札が発行される
7月21日 NINTENDO64用ソフト「マリオテニス64」発売
7月28日 米連邦地裁が音楽交換ソフトのNapsterにサービス停止命令

8月3日 PlayStation 2用ソフト「真・三國無双」発売
8月18日 4Gamer.netが誕生する

皆さんご存じの4Gamer.netが誕生したのもこの年だ。「DOS/V magazine」(旧ソフトバンクパブリッシング)のPCゲームコーナーの担当者(現編集長)が独立し,半ば趣味でゲーム情報サイトとして立ち上げたのがこの8月18日である。ちなみに当初は海外PCゲームだけを取り扱う超硬派(?)なサイトだった。この白い背景を知っている読者は,最初期からの4Gamer読者だと言ってもよいだろう
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8月26日 PlayStation用ソフト「ドラゴンクエストVII〜エデンの戦士たち〜」発売

9月8日 PC用ソフト「AIR」発売
9月12日 検索エンジン「Google」の日本語版サービスが開始
9月15日 シドニーオリンピック開幕。日本は18個のメダルを獲得し,国別順位は15位
9月28日 PlayStation用ソフト「高機動幻想ガンパレード・マーチ」発売

10月1日 DDI・KDD・IDOが合併しKDDIが発足する

11月1日 Amazon.co.jpのサービスが開始

12月1日 BSデジタルの本放送を開始
12月9日 バンダイが携帯用ゲーム機「ワンダースワンカラー」を発売
12月12日 NTT「フレッツADSL」の本格提供を開始
12月12日 「都営地下鉄 大江戸線」全線開通
12月21日 ドリームキャスト用ソフト「ファンタシースターオンライン」発売
“「はじめまして」から始まるRPG”というキャッチコピーで売り出された「ファンタシースターオンライン」。インターネットを介して世界中の人と3D空間を冒険できるというゲームは,当時のゲーマー(とくにPCゲームに馴染みのない層)にとって衝撃的だった(写真はPC版のもの)
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12月29日 成人向けPC用ソフト「月姫」発売
12月31日 インターネット博覧会「インパク」が開幕。2001年12月31日まで開催された
 
 
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