平成元年(1989年)
1月7日 昭和天皇崩御
1月8日 元号「平成」が始まる
2月9日 PCエンジン版「ネクタリス」発売
2月28日 富士通,CD-ROMドライブを標準搭載パソコン「FM TOWNS」を発売
2月28日に富士通から世界初のCD-ROMドライブ搭載PCとして発売された「FM TOWNS」。発売後には「電脳遊園地」というイベントを東京ドームで3日間開催し,来場者は18万人を記録した。発売当時の本体価格は33万8000円。
写真提供:富士通クライアントコンピューティング株式会社
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■「FM TOWNS」:丸いマウス以外はけっこういいマシンだった (ライター:金井哲夫)
平成が始まってほやほやの1989年2月,富士通から発売されたFM TOWNSは,日本で初めてCD-ROMを標準装備して,ゲームなどのソフトをCD-ROMで供給するという画期的なパソコンだった。だが,シャープが1987年に発売したX68000ほどは盛り上がらなかった印象がある。
その原因のひとつはCPUにあったという人もいる。当時,日本のホビイストには憧れだったコモドールのAmigaやAtari STなど,グラフィックスとサウンドに優れ,斬新なゲームが数多く揃っていた海外製パソコンは,モトローラのMC68000というCPUを使っていた。シャープのX68000も,それを使っているというので人気が高かった。MC68000は,人気のあるアーケードゲームにも使われていて,マニアはその名前をよく知っていたのだ。
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それに対してFM TOWNSは,IBM-PCやNECのPC-9800シリーズと同じインテルのCPUを使っていたため,海外製パソコンのような革新性を期待していたゲーマーやホビイストたちの間では,「な〜んだ」というガッカリ感があった。
あのころのキーワードは,「32ビット」「68000」「マルチメディア」だ。FM-7でプログラミングの勉強やゲームを楽しんでいた富士通推しの若者たちは,噂の新型パソコンで68000の世界に仲間入りできると楽しみにしていたに違いない。そもそもFM-7はモトローラ製の8ビットパソコンだったし。
余談だが,当時ボクが勤めていたホビー向けパソコン雑誌「ログイン」の編集部では,発表前のFM TOWNSに関する情報を,富士通からちょこちょこと聞いてきていた。だが,全体像が分からない。そこでボクは,自分で担当していた占いコーナーの福田有宵先生(当時日本占術協会副会長,現会長)におうかがいをたててみた。すると,先生は易占用のサイコロをぱっとふって,こう答えた。「スポーティな縦型ですね」と。そして「格子状に並んだものの中に遅いものがあって,それが全体の速度を落としています」とも言ってくれた。
先生はPCの知識なんてまったくないし,ボクも技術的なことはダメなので,聞いたとおりに記事にした。
すると後日,富士通担当の編集者から,富士通の人が「誰に聞いたんだ?」と騒いでたという話を聞いた。確かにFM TOWNSは当時としては珍しい縦型だった。X68000が縦型だったので,その路線でぶつけてくるのだな,と期待が膨らんだ。
「格子状に並んだもの」とは,その担当曰く,メモリチップのことで,アメリカとの貿易摩擦の関係でアメリカ製の遅いチップを使わなければならず,それに合わせるために,泣く泣く全体の処理速度を抑える「ウエイト」を入れたのだと知らされた。いやぁ,福田先生の占い力には鳥肌が立った,本当に。
後にフリーランスになったボクは,FM TOWNS用のゲーム翻訳に携わり,富士通からFM TOWNSを1台借りてしばらく使っていた。Windows 3.1が登場する3年前だから,Macintoshのようなビジュアルシェルが使いやすく,ファイル管理や,富士通のパソコン通信サービス「ニフティサーブ」でアメリカとの連絡にも使え,とても重宝した。ウエイトうんぬんという話はあったが,遅いと感じたことはなかったというのが正直なところだ。
PCは,単体の性能が高いだけでは普及しない。ソフトウェアや周辺機器のメーカーやユーザーからなるエコシステムが出来上がって初めて実用性が出てくる。富士通も,CD-ROMのソフトを増やしてエコシステムを固めようと,海外ゲームを日本語化してFM TOWNS版として多く販売していた。
そんななかに,アメリカのLucasfilmが開発した「Habitat」というサービスがあった。これはCD-ROMゲームではないが,パソコン通信で接続されたバーチャル空間に,ユーザーが「アバター」というキャラクターになって住むという,それだけのものだ。おもにチャットを楽しむのが目的で,2Dの世界がとても可愛らしい。富士通では「ビジュアル通信」と呼んでいた。それまで,MMORPGなんてものはなかったし,対戦ゲームはマニアだけの限られた世界だったから,コンピュータの中の世界に住んで,ゲームキャラクターではない本物の人間(アバター)と話ができるというのはとても画期的だったのだ。
富士通がFM TOWNSでHabitatの日本版を展開するというので,事前にアメリカ版に参加してみた。新規に参加すると,ユーザーには街の中の家が与えられる。試しに外に出てみると,近所の人たちが植木鉢の花を持って訪ねてきてくれた。新しく来た人にプレゼントをするのが習慣なんだと教えてくれ,感動したのを覚えている。可愛くて,楽しくて,新鮮なコミュニケーションの世界だった。そんなふうに富士通は頑張ったのだけど,残念ながら当時の通信事情の悪さなどが災いして,もうひとつ伸び悩んだ。
エコシステムを築くことは,いまだにどのハードウエアメーカーも苦労している。個人的にかなりお世話になり,好きなパソコンだった。ただ,榮太郎飴の缶みたいな丸いマウスはめちゃくちゃ使いづらかったなぁ。
4月1日 消費税導入(3%)
4月11日 川崎市のたけやぶから1億円の札束が発見される(竹やぶ騒動)
4月21日 任天堂,携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」を発売
4月21日に任天堂から発売された携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」は,大ヒット商品となり,発売からしばらくは品薄状態が続いた。価格は1万2500円で,ローンチソフトは「スーパーマリオランド」「アレイウエイ」「ベースボール」「役満」
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■「ゲームボーイ」:初代本体がもたらしてくれたもの (ライター:本地健太郎)
ある日,小学校から帰ってきたら台所の机の上にグレーの色をしたゲームボーイの箱が置かれていてビックリした。ゲームボーイは当時,どこに買いに行っても売り切れで,入手困難な品だったからだ。疲れた様子で「なんとか買えたよ」と笑っていた母の顔が今でも忘れられない。
詳しく話を聞くと,息子(筆者のことだ)が前々から欲しがっていたのを知っていた母親が,ゲームを扱っていそうな店に片っ端から電話して,大きめのホームセンターに入荷されるという情報を得て,朝から並びに行ってくれていたのだった。
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平日の朝9時なので子供は一切おらず,並んでいたのは全員大人。今であれば,整理券が配布される……といったことになりそうだが,まだそういったものが定着していなかった頃だ。
開店と同時にお店のドアが開くのだが,ゲームを扱っている売り場はホームセンター内の奥まったところにある。母は店の外で並んでいたものの,店内に入ってからダッシュで移動し,ゲームコーナーにあるレジの前で並びなおす必要があった。母曰く,そこまでの道は「地獄」だったとか。転倒しようものなら大勢に踏みつけられて大怪我をするのではないかという雰囲気の中,死に物狂いで走ってレジ前に改めて並んだらしい。母は「今までで一番必死に走った」と話していた。
面と向かって親に「ありがとう」と言うのは気恥ずかしく,小学生の時分なら尚更だ。しかし,この時ばかりは心の底から「ありがとう」と言ったのを覚えている。
当時はファミコンが大ブームになっていて,いわゆるテレビゲームという遊びが,親達には嫌悪されていた時代だった。「子供は外で元気に遊ぶもの」という考え方が主流で,家の中に閉じこもって遊ぶというだけでも毛嫌いされていた。ACアダプタなどを親に隠された。なんていう話は我々の世代なら必ず聞く鉄板エピソードで,とにかくゲームは親から嫌われていたのだ。
そんな状況はウチも同様で,ちょっとでも成績が下がったりテストの点数が悪かったりすると,ゲームのせいにされたものだった。
しかし,そんな中,息子が欲しがっている物をちゃんと把握し,入手困難なのに,体を張って買ってきてくれた。「やりすぎはいかんからね」とは言われたものの,ある種のフェアさを感じたというか,「それはそれ,これはこれ」を体現し,子供の欲しがる物を買ってくれた親というものに,子供ながらに感動した。こういう思い出は強烈に記憶に残っている。
ゲームボーイは,今の若い世代にとっては「しょぼい画面の携帯ゲーム機」という印象しかないかもしれない。しかし,リアルタイムであの時代に生きていた人ならではの感動がゲームボーイにはあった。
自分の部屋にテレビを置くことを許されていた一部の子供たち以外,ファミコンは基本的にリビングなどで遊ぶ物だった。つまり,家のテレビを「使わせてもらっていた」のだ。
しかし,ゲームボーイは多くの子供にとって初めてのパーソナルなゲーム機で,自分の部屋で遊べる。布団に寝転がりながらでも遊べる。事あるごとに「時間だから,もうやめなさい」と言われ,しぶしぶやめざるを得なかったファミコンとは違い,いつでも遊べる。この嬉しさは,生まれたときからスマホの存在が当たり前になっている今の世代には,伝わりづらいだろう。
画面がモノクロなんていうのは何の問題でもなかった……というか,カラーの携帯ゲーム機が存在していなかった頃であり,イヤホンで聞くサウンドは,音声がモノラルのテレビよりもずっと良い音に聴こえた。本体と一緒に買ってもらった「テトリス」と「スーパーマリオランド」の2本を,延々と交互に遊んでいたことを思い出す。ゲームのクリアが目的ではなく,「ゲームボーイ本体を両手に持って操作する」という,そのこと自体が本当に楽しかったのだ。「カートリッジを差し替える」という,今ではただの手間にしか思えないことすら楽しかった。何度,あのゲームボーイの「ピコーン」という起動音を聞いただろうか。
あえてつらかった思い出を挙げるとすれば,単三電池の消費量が予想以上で,小遣いを切迫する一因だったことだ。当時はミニ四駆が流行っていた頃でもあり,何かと単三電池を使う時代でもあったので,「長い目で見れば,安くつくのでは……」とラジコン用の充電式電池を買ったりしていた。
ゲームボーイには画面の濃淡を調節するツマミがあったが、電池がなくなってくると画面が薄くなっていくので、ツマミで濃くしてギリギリまで耐えていたのも懐かしい。
もちろん、そうなる前に電池を交換するべきなのだが、充電式電池は充電できる回数が決まっていたため、できるだけ使い切ってから充電したかったのだ。
ウチは引っ越しが多い家庭だったので,そのたびにいろいろな物を処分せざるを得なかったり,意図せずさまざまな物がなくなったりしていたのだが,初代ゲームボーイだけは今も大切に取ってある。
このゲームボーイが動いていた最後の記憶でも,すでに画面の両端のドットは欠けまくり,もはやまともには遊べない状態ではあったが。いつぞや,久々に電源を入れてみたものの,まったく電源が入らなかった。「形ある物はいつか壊れる」と言うし,こればかりはどうしようもない。
でも,今後,ゲームボーイだけは何があっても捨てないだろう。内容云々よりも,「ゲームで遊ぶ」という,その行為自体が猛烈に楽しかったということを思い出させてくれる存在であり,子供のことを考えてくれる親への,感謝の気持ちを教えてくれた存在だからだ。形ある物はいつか壊れても,永遠に滅びない大切な思い出を形作ってくれた,偉大なゲーム機なのだから。
多少のへこみはあるが,箱もとっておいてある
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5月 アーケード版「ゴールデンアックス」稼働
6月4日 天安門事件
6月5日 Amiga版「ポピュラス」発売
■「ポピュラス」:最後のスターゲームデザイナーが残した名作 (ライター:金井哲夫)
「ポピュラス」は,プレイヤーが神となって,地上の環境を操作することにより人間の文明を発展させるというところがいかにも「コンピュータ」的で,同じ時期に発売された「シムシティー」と並んで,新しいタイプの知的なシミュレーションゲームとして人気を博した。
ポピュラスではプレイヤーに「マナ」というパワーが与えられる。それが溜まると,土地を隆起させたり沈下させたり,災害を起こしたりできるようになる。基本的には,土地を上げ下げして人が住める平地を広げ,自分を信仰する民の勢力を拡大し,敵対勢力に打ち勝つというゲームだ。
平地を作ってそこに住民が移動してくると家が建つ。そこから小さな人間が出て来て別の平らな場所を見つけてさらに家を建てる。こうして領地を広げてゆくのだが,コンピュータが操る敵対勢力も同じようにやってくるから,そいつとの戦いとなる。
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ポピュラスをあえてジャンル分けすると戦略シミュレーションとなるが,その当時流行っていた戦略ゲームのような数字を多用したものと雰囲気がまったく異なり,「自動将棋」のような感じでゲームプレイは大変にシンプルだった。
ポピュラスは,そのゲームスタイル自体がそれまでになかった斬新なもので,言ってしまえば「誰の真似でもない」ゲームだった。プレイヤーがキャラクターを操作するのではなく,ひとつ上のレベルに立って世界をコントロールする,いわゆる「ゴッドゲーム」の元祖だ(当時,そんな風には呼んでいなかったが)。
この当時,人気のRPGや戦略シミュレーションなどは速いペースで続編が作られ,グラフィックスもシナリオもそれなりに進化していた。しかし同時にパターン化も進み,1980年代前半から比べると,1989年あたりは,イノベーションという点ではゲーム業界が落ち着き出した時代だ。だからこそ,既存のパターンから外れた斬新なスタイルに,PCゲームの新時代の到来を(勝手に)感じてわくわくしていた。
実際,1989年に欧米で大ヒットしていながら,いざ日本に進出となったとき,ファミコンを始めとするコンソールゲームの存在が大きく,人気タイトルがひしめく日本市場にこの斬新なゲームが受け入れられるのかと,作者側は心配していたという。しかし,フタを開けてみれば大ヒットとあいなった。日本人って,こういう将棋的なゲームは好きなんだよね。
余談ながら,仕事の関係でスーパーファミコン版「ポピュラスII」のカートリッジをもらって帰ってきたら,とたんにウチの女房がはまってしまった。子どものスーパーファミコンを独占して,「操作性が悪い」なんて生意気を言ってスーパーファミコン用のマウスを買ってきて,がんがんやりこんでいた。それまで普通のおばさんだったのに……。ポピュラスIIには1000ステージあったそうだが,どこまで遊んだのかは知らない。
ポピュラスを開発したのはイギリス人ゲームデザイナーのピーター・モリニュー氏だ。相棒のグレン・コープス氏が,画面に立方体をいくつか描いたのを見て,モリニュー氏は,この上に地形を作って小さな人間を歩かせようと閃いたそうな。最初から,特定のゲームジャンルを想定していたわけではないことが分かるエピソードだ。
モリニュー氏は生活に苦労しながら自力でポピュラスを開発し,エレクトロニック・アーツ(EA)と販売契約を結ぶことで金持ちになれたという,まさに1980年代のゲームデザイナー・ドリームを果たした一人だろう。
ゲームのタイトルと一緒に,それを作った人の名前が前面に出てくるというのが,1980年代のゲーム業界だった。「ウィザードリィ」のロバート・ウッドヘッド氏,「ウルティマ」のロード・ブリティッシュことリチャード・ギャリオット氏,「ピンボール・コンストラクション・セット」のビル・バッジ氏,「シムシティー」のウィル・ライト氏などなど。ビッグな洋ゲータイトルとデザイナーの名前はセットで知れ渡っていた。彼らは「スターゲームデザイナー」と呼ばれ,当時ゲーム開発者を目指していた若者の憧れの的だった。
そうした流れを後押ししていたのがEAだ。ゲームデザイナーを,ミュージシャンのような「アーティスト」として扱い,前面に押し出すプロモーションを展開していた。EAが設立されてすぐ,カリフォルニアの本社に取材に行ったところ,広報担当の人が大きな手作りクッキーを出してくれて,そんなことを熱っぽく語ってくれたのを思い出す。
ゲームのケースはレコードの紙ジャケットを模したスタイルで,デザイナーのカッコイイ写真が掲載されていたのが,ポピュラスのころには,残念ながら普通のパッケージになっていた。紙ジャケスタイルでは,ゲーム屋さんの棚に並べられたときにぜんぜん目立たないからだと,後で聞いたことがある。
もっとも,ポピュラスの日本版が発売されたとき,まだEAは日本法人がなく,イマジニアがローカライズと販売を行っていた。それでも,ピーター・モリニュー氏の名前は知れわたり,来日時にはまさにスター扱いだった。彼がサインを求められたのも,日本が初めてだったそうだ。
1989年ごろはまだスターゲームデザイナーが大きく扱われていたが,ゲームビジネスが大きくなると,個人での参入が難しくなり,個人の独創的な発想によるゲームの登場機会も少なくなってしまった。音楽,映画,アニメ,ボードゲームなどは,アーティストや監督の名前が前面に出て,ファンは彼らの名前で作品を見たり買ったりしているが,ビデオゲームは,そうしたスタイルにはならなかった。ピーター・モリニュー氏は,最後の世代のスターゲームデザイナーだったといえるかもしれない。
6月14日 ゲームボーイ版「テトリス」発売
6月22日 PCエンジン用ソフト「ファイヤープロレスリング コンビネーションタッグ」発売
6月30日 PCエンジン用ソフト「天外魔境 ZIRIA」発売
7月 PC-98「天下統一」発売
7月12日 東京ディズニーランドに「スター・ツアーズ」がオープン
7月27日 ファミリーコンピュータ用ソフト「MOTHER」発売
8月3日 メガドライブ版「大魔界村」発売
8月30日 MSX2用ソフト「激突ペナントレース2」発売
9月21日 PC-98「提督の決断」発売
10月9日 幕張メッセ開業
11月10日 ベルリンの壁崩壊
11月22日 PCエンジンシャトル発売
12月8日 PCエンジンコアグラフィックス,PCエンジンスーパーグラフィックス発売
12月15日 ゲームボーイ用ソフト「魔界塔士 Sa・Ga」発売
12月10日 PC-88「ドラゴンスレイヤー英雄伝説」発売
平成2年(1990年)
1月13日 第1回大学入試センター試験実施
2月11日 ファミリーコンピュータ用ソフト「ドラゴンクエストIV 導かれし者たち」発売
平成初のドラゴンクエストは,全5章構成や,AIによる戦闘が話題となった。アリーナやトルネコなどの人気キャラクターが登場したのもこの作品
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3月 アーケードゲーム「コラムス」稼働開始
春から夏頃 山形県鶴岡市にある善宝寺の池で「人面魚」が発見され,ブームに
4月 アーケードゲーム「雷電」稼働開始
4月1日 国際花と緑の博覧会が大阪で開幕
4月20日 ファミリーコンピュータ用ソフト「ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣」発売
■「ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣」:ゲイムもCMも脳裏にこびりつくクセのある作品 (ライター:男色ディーノ)
ファイアーエムブレム。いわずと知れたシミュレーションRPGの元祖。ファミコン時代から人気を博し,今でも新作がリリースされているアクティブなタイトルよね。私は平成が終わる時点で41歳なんだけど,私と同世代にしか分からないような話を今から書くわね。
ファイアーエムブレムは,確かにゲイムとして素晴らしいわ。何が凄いって,昔から今までシステムとして変化がないところ。もちろんビジュアルだったり演出だったりは時代を追うごとにパワーアップしてるんだけど,遊びの根幹部分は第1作発売当初から変わってない。つまり,最初からゲイムとして完成していた作品ってことなのよ。それは,みんなが知っている通り。でもね,ここで私が紹介したいのはそういったことじゃないの。シリーズ第1作「ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣」のテレビCM,これがめちゃくちゃいい映像なのよ。ゲイム画面が一切出てこず,ファイアーエムブレムの世界観を模したコスプレをしたオペラ隊がテーマを歌い上げるという,インパクト抜群のCMだったわ。見たことがある人なら,今も頭にこびりついてるんじゃないかしら。私は今でも歌えるわけだからよっぽどだと思うわよ。
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♪ファイアーエムブレム 手ごわいシミュレーション かってくるぞと勇ましく
♪あぶなくなったなら スタコラ逃げろ おごれる者は ドツボにハマる
歌詞で思い出す人もいるでしょうね。これ,私の中で「ファミコンウォーズ」と並ぶ二大ゲイムCMなのよね。そしてこのCMの奥が深いところは,ゲイム画面が一切出てこないのに,歌詞がちゃんとゲイム内容を説明してる部分。
「手ごわいシミュレーション」まさにその通り。当時私はシミュレーションゲイムっていう概念を理解してなかったんだけど,なんならこのCMの歌詞でシミュレーションってワードを覚えたんだけど,基本的にファミコン時代のしかも初期の作品は往々にして難度がやたら高いものが多かった。それはファイアーエムブレムもまたしかりで。一度死んだキャラクターは二度と生き返らないという,妙にリアルな描写があったのよね。魔法で体力は回復するのに,生き返らせる魔法は基本的に存在しない。そういう手ごわさがあったシミュレーションゲイムだった。
「かってくるぞと勇ましく」これ,当時の私は「買ってくるぞ」だと思ってたの。でも,大人になった今では軍歌の歌詞とおなじ「勝ってくるぞ」と捉えているんだけど,実はどちらが正解かは分からないのよね。というのも,世界観的には「勝ってくるぞ」なんだろうけど,前段の「手ごわいシミュレーション」は現実世界の話なのよ。だから,「手ごわいシミュレーションを買ってくる」という文脈でもおかしくはない。答えなんて知る由もないから,いまだに謎よ。別にどっちでも人生に大きな影響はなかったけど,いまだに気にはなってるわよね。
「危なくなったならスタコラ逃げろ」これも確かにそうで,このゲイムは一度死んだら生き返らないわけだから,体力が少なくなったらいったん戦線離脱したほうがいい。ゲイムのコツとして,本当にそういうゲイムだった。「おごれる者はドツボにハマる」おごりはしないまでも,甘く見て適当にプレイしてたら確かにどうしようもない状況に陥って最初からプレイし直しってケースがあったわ。私も実際にRPG脳で「なんだかんだで生き返るんでしょ?」って思ってたら,次のステージに行っても戻ってこなくて絶望感を抱いた記憶があるわ。キャラを失ったまま進めた場合,中盤以降にはユニットがどんどん少なくなっていくのよね。だから,ステージ序盤から気が抜けない。相性が悪い敵ユニットの攻撃食らったら半分以上体力持ってかれる状況なんていっぱいあったからね。……というように,一見シュールなのに実はしっかりと内容を説明してて,何より30年以上時間が経過しても記憶に残ってるって意味ではゲイムの歴史だけでなく,実はCMの歴史にも名を残すべきものなんじゃないかと本気で思っているわけです。
今なお新作が出続けているファイアーエムブレムシリーズ。シミュレーションRPGというジャンルを作りあげた本作は,ゲイム的側面だけでなく広告的な部分でも時代に風穴を空けたタイトルだったとまとめてみます。そういえば,「ファイアーエムブレム」の大ファンだということでスーパーファミコン版「紋章の謎」のCMに出演していた裕木奈江さんは,今もまだファイアーエムブレムをプレイしているのかしら。
4月26日 SNKが業務用NEOGEO(Multi Video System)の販売およびリースと,家庭用NEOGEO(Advanced Entertainment System)のレンタルを開始
4月27日 ファミリーコンピュータ用ソフト「ファイナルファンタジーIII」発売
平成初のファイナルファンタジーもこの年に発売。ジョブチェンジシステムや召喚魔法など,シリーズの代名詞的な要素が初登場した
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4月27日 PCエンジン用ソフト「フォーメーションサッカー ヒューマンカップ‘90」発売
5月 PC-88「大航海時代」発売
6月29日 礼宮文仁親王と川嶋紀子様がご結婚。秋篠宮家を創設
7月6日 PCエンジン用ソフト「スーパースターソルジャー」発売
7月20日 MSX2用ソフト「メタルギア2 ソリッドスネーク」発売
7月27日 ファミリーコンピュータ/ゲームボーイ用ソフト「ドクターマリオ」発売
8月10日 ファミリーコンピュータ用ソフト「川のぬし釣り」発売
8月11日 ファミリーコンピュータ用ソフト「SDガンダム外伝 ナイトガンダム物語」発売
8月25日 メガドライブ用ソフト/アーケードゲーム「マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー」発売
10月3日 東西ドイツ統一
10月6日 セガ,携帯型ゲーム機「ゲームギア」発売
前年に発売されたゲームボーイに対抗するかのように,カラー液晶(バックライト付き)を引っさげて登場したセガの携帯型ゲーム機。ローンチタイトルは「コラムス」「スーパーモナコGP」「ペンゴ」
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10月25日 F1ブームの中で日本グランプリ開催。鈴木亜久里選手が日本人初の3位入賞
11月12日 今上天皇即位の礼が挙行
11月21日 任天堂,家庭用ゲーム機「スーパーファミコン」を発売
ファミリーコンピュータの発売から7年,待望の次世代機が登場。拡大縮小や回転といったグラフィックス機能によって,演出の幅が大きく広がった。コントローラのボタンも[A][B][X][Y][L][R]となり,[A][B]だけだったファミリーコンピュータから4つ増加。 ローンチタイトルは「スーパーマリオワールド」「F-ZERO」
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■「スーパーファミコン」:2つで十分? いや(オプションを)4つくれ (ライター:津雲回転)
「スーパーファミコン(以下,スーファミ)で熱かったゲームジャンルは何か?」と聞かれたら何を思い浮かべるだろうか。
「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」に代表されるRPG,「ストリートファイターII」の登場で爆発的なブームとなり,その後何作も登場した格闘ゲーム。あるいは「F-ZERO」や「スーパーマリオカート」など,シリーズ化された名作が目立つレースゲームなどを挙げる人は多いだろう。だが個人的には,シューティングゲームを挙げたい。年齢的にも金銭的にもゲームセンターに行けなかった子供時代の筆者にとって,スーファミはまさに「夢のシューティングゲーム用マシン」だったからだ。
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スーファミ発売直後,筆者はあるゲームのデモをおもちゃ屋の店頭で食い入るように眺めていた。そのタイトルは「グラディウス III」だ。
当時ファミコンしかゲーム環境のなかった筆者にとって,グラディウスといえば「オプション2個に短いレーザーと小さいバリアで戦うゲーム」という認識だった。それが長いレーザーで敵をなぎ倒し,4つのオプションが動き回り,そして大きなボスが登場するゲーム画面はまさに「異次元」であり,文字通り“目を丸くして”見ていたと思う。
もちろんご存じのとおり,グラディウスはアーケード版なら初代からレーザーは長かったし,オプションも4個つけられた。だが当時は幼く,ゲームセンターに入れなかった筆者は,それを知るよしもなかったのだ。
余談だが,おもちゃ屋つながりで思い返してみると,スーファミの発売当時は今と違い,個人経営と思われる小さな玩具店がゲームの購入場所としてかなり強い時代だった。もちろん家電量販店などでも購入できたが,「ゲームは子供に買ってやるおもちゃの一種」という共通認識が世間一般では色濃くあり,玩具店でゲームを親に買ってもらう子供は多かった。レジ前にあるショーケースの中に並んでいるパッケージを見て何を買うのか決めていたのは,今となっては懐かしい思い出だ。
閑話休題,スーファミを買ってもらった筆者は,当然ながらグラディウスIIIを遊び倒すことになった。オリジナルのアーケード版「グラディウスIII -伝説から神話へ-」は相当な高難度で知られていたものの,スーファミ版はかなりマイルドに調整されていた。また処理落ちも激しく,「スローになるので敵の弾がよけやすい」ということにもなっていた。シューティングの腕は下手の部類に入る筆者でも,隠し最高難度の「Arcade」でも普通にクリアが可能だったほどで,遊びやすい作品に仕上がっていたのだ。
また装備のカスタマイズも可能だったので,得意な装備で楽々クリアしたり,苦手な装備でプレイしてハードルを上げたりと,いろいろと条件を変えて楽しめたのも良かった。だがその反面,「完全移植」を望んでいた当時のゲーマーには評判があまり良くなかったようで,後年そのことを知ってから随分驚いた記憶がある。
さて,その後もスーファミには,同じく難度をマイルドにして遊びやすくした「パロディウスだ!」が移植されたり,「がんばれゴエモン2 奇天烈将軍マッギネス」で「XEXEX」の2面だけをプレイできたり(当時は元ネタが何なのか分かっていなかった),R-TYPEシリーズのナンバリングである「R-TYPE III:THE THIRD LIGHTNING」が投入されたり,縦シューティングならこれまた人気シリーズだった「Pop'nツインビー」が登場したりと,長期にわたって筆者を楽しませてくれた。
スーファミは,ハード的には決してシューティングゲームには向いていなかったらしい。だがそれでも,アーケードという“本場”を知り得なかった筆者にとって,非常に豊かなシューティング体験をさせてくれたゲーム機だったのは間違いない。
余談だが,PlayStation 2で発売された「グラディウスV」に,スーファミ版グラディウスIIIのオリジナルボス“ビーコン”が再登場した。非常に懐かしかったのだが,実はこのビーコン,異常にパワーアップしており,筆者は毎度コイツに悩まされていた。その勇姿(?)っぷりに「お前そんなに強くなかっただろ!」と思わずツッコんでしまったのは,筆者だけじゃなかったはずだ。
12月1日 PCエンジンGT発売
12月2日 TBS記者の秋山豊寛さんが日本人初の宇宙飛行
12月12日 PC-88「信長の野望・武将風雲録」発売
12月14日 ゲームボーイ用ソフト「Sa・Ga2 秘宝伝説」発売
12月14日 ファミリーコンピュータ用ソフト「暴れん坊天狗」発売
12月21日 ファミリーコンピュータ用ソフト「ファミスタ'91」発売
12月23日 競走馬のオグリキャップが引退レースとなった有馬記念で勝利
12月31日 第41回NHK紅白歌合戦で,長渕 剛さんが同番組としては異例の3曲を歌う
平成3年(1991年)
1月11日 TVアニメ「ドラゴンクエスト」が放送開始
1月17日 イラクによるクウェート侵攻で,湾岸戦争が勃発
2月14日 「レミングス」が発売
3月 アーケードゲーム「E.D.F.」が稼働
3月 アーケードゲーム「ストリートファイターII -The World Warrior-」が稼働
対戦格闘ゲームというジャンルの基礎を作り上げたと言っても過言ではない「ストリートファイターII -The World Warrior-」。基本的には1人プレイ用のゲームとしてリリースされたが,オマケ要素的な対戦プレイが盛り上がったことから,対戦を重視したシリーズ展開が行われていった
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4月1日 日本初の衛星放送局WOWOWの本放送が開始
4月20日 ゲームボーイ用ソフト「スーパーロボット大戦」発売
4月26日 メガドライブ用ソフト「ラングリッサー」が発売
5月20日 アーケードゲーム「バーニングファイト」が稼働
5月31日 ジュリアナ東京(JULIANA'S TOKYO British discotheque in 芝浦)がオープン
6月17日 メガドライブ用ソフト「アドバンスド大戦略 ドイツ電撃作戦」が発売
6月21日 家庭用ゲーム機「PCエンジンコアグラフィックスII」が発売
6月28日 ゲームボーイ用ソフト「聖剣伝説 〜ファイナルファンタジー外伝〜」が発売
7月1日 SNKが家庭用ゲーム機「NEOGEO」(Advanced Entertainment System)を発売
■「NEOGEO」:凄いゲームを連れて帰れるゲーム機の,栄光と衰退 (ライター:徳岡正肇)
1991年にSNKから発売されたハードウェア「NEOGEO」は,家庭用ゲーム機ととして見るとハード/ソフトともに高価ながらも,ゲームセンターのゲームがほぼそのまま家庭でプレイできるという点がマニアに高く評価された製品だった。
1990年,SNKはゲームセンター向けにMVS(Multi Video System)をリリースした。これはゲームがカートリッジで提供されるシステムで,最大6種類のゲームをプレイヤーが選択して遊べるという構造になっていた。
カートリッジの値段がゲームセンター向けのゲームとしては安値だったこと(初回作は3万円程度),1台の筐体で複数のゲームをサービスできることなど,小規模店舗(ないしはゲームコーナー)でアーケードゲームをサービスするにあたって,MVSは多くのオーナーに好まれるプラットフォームとなった(売り上げがゲーム単位で集計されていたため,不人気ゲームを的確に入れ替えできるというメリットもあった)。
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MVSを家庭用にしたものがAES(Advanced Entertainment System)で,ゲームカセットが同時に1つしか装着できない以外は,MVSとほぼ同一のマシンといえる。AESが「100メガショック」「凄いゲームを連れて帰ろう」のキャッチフレーズで知られる「NEOGEO」である。
ちなみに初期はソフトとハードの値段が他社プラットフォームに比べてあまりに高かった(本体が5万8000円,ソフトが3万円前後。同時代のスーパーファミコンは本体2万5000円で,ソフトは8000円〜1万円が中心,最高値でも2万円未満だった)ため,レンタルビデオ店でのレンタルで運用されていた。
とはいえ1987年〜1990年付近の,同時代のコンシューマプラットフォームを眺めてみると「PCエンジン」(1987年)「メガドライブ」(1988年)「スーパーファミコン」(1990年)と,いずれもアーケードゲームを完全移植するには力不足が目立つプラットフォームだった。
そんななか,アーケードゲームとほぼ同じゲームが楽しめるNEO・GEOは,本体とゲームソフト1本を定価で購入しても合計で「10万円に届かない」マシンだ。もしそのゲームをゲームセンターで遊ぶと考えた場合,「たった1000回のプレイで,もとが取れてしまう(1プレイ100円を想定)」というハイコストパフォーマンスっぷりである。
しかもNEO・GEOでは「餓狼伝説」や「サムライスピリッツ」といった当時人気の対戦格闘ゲームがリリースされており,「たった1000試合で収支がプラスになる」という考えは,少なからぬ対戦格闘ゲーマーにとって強すぎる誘惑となった(実際にプラスにはならないが)。
筆者の場合「サムライスピリッツ」を目当てに購入し,購入してから1週間以内に「もとがとれた」状態になったと記憶している(後に「サムライスピリッツ」のカートリッジ価格が大暴落を起こすが,悔いを感じることはなかった――3万円が0円だったところで誤差に近いくらいに何度もプレイしたからだ)。
かくしてマニアからの絶大な支持のもと,2004年まで生産が続けられ,最終的に100万台を売り上げるに至ったNEOGEOだが,さらなる普及を目指すとなるとハード・ソフトともに高額すぎるという問題が立ちはだかった。
この問題に対する回答が1994年に発売された「NEOGEO CD」だった。こちらは本体こそ標準価格4万9800円と決して安くはなかったものの,ソフトはCDで提供され,1本7000〜8000円程度と大幅な値下げが行われた。
しかしながらCDドライブが等倍速だったことなどが災いし,ゲームの開始までに分単位で待ち時間が発生することも珍しくなかった。特に対戦格闘ゲームにおいてはキャラクターを選択してからマッチ開始までに1分以上待つといった事態も発生し,ゲームのテンポを著しく損なうことになった。後にドライブが2倍速になった「NEOGEO CD-Z]が発売されたが,劇的に待ち時間が減少することはなく,「ロードを待つのもゲームのうち」と言い切れる超絶コアユーザーでもなければ,あまりにも現実的ではないプレイ環境となってしまった。
「凄いゲームを連れて帰ろう」という言葉が示すとおり,NEOGEOは「ゲームセンターと同じ楽しさが家で味わえる」点が最大のセールスポイントだった。長大なダウンタイムの発生によって,その体験が「ゲームセンターと同じ」から程遠くなってしまった段階で,「NEO・GEO CD」の苦戦は確定していたと言えるだろう。
その後SNKは,アーケードでは「ハイパーネオジオ64」(1997年),携帯機では「ネオジオポケット」(1998年)で商業的な失敗を重ね,テーマパーク事業での大きな失敗もあって,2001年には倒産してしまう。
ともあれSNKならではの個性的なゲームが,ゲームセンターと同じクオリティで楽しめるという環境は,多くのゲーマーを魅了した。その形跡は今も残っており,2018年に発売された「NEOGEO mini」は多くのオールドSNKファンに評価されると同時に,コントローラ関係の仕様を批判されたり,「なぜ『クイズ大捜査線』が入っていないのか」的な声があがったり(後者はおそらく筆者の周辺のみ)と,マニアックな愛情を感じる世界が浮き彫りにされている。
7月19日 スーパーファミコン用ソフト「ファイナルファンタジーIV」が発売
7月26日 メガドライブ用ソフト「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」が発売 ※ソニックチーム誕生
■「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」:平成の時代を超音速で駆け抜けた青いハリネズミ (ライター:稲元徹也)
元号が昭和から平成に変わって2年後の1991年。後にセガの顔となる青いハリネズミが主人公のアクションゲーム「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」は,同年7月の国内発売日よりも一足早く,筆者の前にその姿を現していた。当時筆者は「BEEP!メガドライブ」というゲーム雑誌の編集部にアルバイトとして勤務しており,記事制作のために事前に届いたサンプルロムでプレイしていたのだ。
聞き慣れた「セーガー♪」のフレーズがメガドライブから聞こえてきたことにまず驚かされ,「SONIC TEAM PRESENTS」というメッセージに続き表示されるロゴの中に,躍動感のある動きで現れてカメラ目線で指を振るソニック,そしてステージのデモが流れるように映し出されていく演出に,編集部全員の目が釘付けとなった。
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当時のセガやメガドライブのブランドイメージにマッチしたクールなソニックのデザイン,それまで見たこともなかった高速スクロールを主体としたアクション,そして当時すでに高い人気を得ていたDREAMS COME TRUEの中村正人氏が手がけたサウンドなど,売れない理由が考えられず,心の中で意味もなく「勝った」などとつぶやいたことを覚えている。実際に本作は全世界で400万本を超えるセールスを記録した。
1992年には相棒のマイルス“テイルス”パウアーが登場し,二人プレイにも対応した「ソニック・ザ・ヘッジホッグ2」が発売。これが,メインプログラマーの中 裕司氏ら,前作の主要開発スタッフがアメリカへと渡って製作したナンバリングの正統続編だったのに対し,1993年には国内スタッフにより,メガCDの機能を駆使して独自の進化を遂げた「ソニック・ザ・ヘッジホッグCD」も発売されている。
そして1994年の「ソニック・ザ・ヘッジホッグ3」(以下,ソニック3)発売の顛末も衝撃的だった。ソニック3は,ロムカートリッジに最新の「SVP(Sega Virtua Processor)チップ」を採用し,当時注目を集めていたポリゴンを用いたゲームデザインで開発が進められていた。だが,タイアップ絡みの発売スケジュールに生産が間に合わなかったSVPチップでの開発が断念され,従来の2Dグラフィックスで一から作り直されたのだ。
発売日まで残り半年と押し迫るスケジュールの中,ナンバリングタイトルとしてのボリュームを維持することができず,仕方なく予定の半分となる6ゾーンを収録した状態でのリリースを余儀なくされる。それを良しとしなかった開発陣は,ソニック3の発売直前にプログラム的な仕掛けを施し,残る6ゾーンとラストシーンを収録した「ソニック&ナックルズ」をソニック3の後編に当たる作品として製作。カートリッジ本体に別のカートリッジを挿入できる前代未聞の「ロックオンカートリッジ」仕様で発売し,ソニック3を完結させたのである。
ソフト2本を物理的に合体させることで完結するという仕様には驚かされたが,端子や開閉式のフタが付いたメカニカルなカートリッジの形状に心惹かれたメガドライバーは多いはず。この仕様の恩恵として,前作のソニック2をロックオンさせることで,ソニック3で登場したナックルズ・ザ・エキドゥナをソニック2でプレイできるという,近年のダウンロードコンテンツの先駆けのようなおまけ要素が用意されていたのは,個人的に嬉しかった。ナックルズはスピンジャンプからの滑空ができ,その状態でぶつかった壁を登れるというキャラクターだったので,新しいプレイフィールで,ソニックやテイルスが行けなかった未知のルートの開拓ができたのだ。
筆者は年齢的にどうしてもメガドライブで発売されたシリーズに愛着が湧いてしまうのだが,ソニックが初めて3D作品になったときの話にも触れておきたい。
ポリゴンによる3Dグラフィックス表現が一般的となっていたセガサターンでは,オムニバスタイトルの「ソニックジャム」が発売されたのみで,完全新作と呼べる作品は登場しなかった。時計はドリームキャストが発売された4年後の1998年まで進み,その12月に満を持して登場したのが「ソニックアドベンチャー」だ。
同年8月には東京国際フォーラムで,入場無料の発表会(2回公演:入場者数合計1万人)がファンに向けて大々的に行われた。そこで流されたソニックアドベンチャーのデモ映像に度肝を抜かれた人は多いだろう。ソニックシリーズではおなじみのループが3Dグラフィックスで表現され,そこを超高速で駆け抜けていくソニックをダイナミックなカメラワークで捉えた演出は今も鮮明に覚えている。
この作品からソニックのビジュアルが上川祐司氏のデザインによる細身で等身の高い「モダン」スタイルへと変わり,ボイスも金丸準一さんに定着した。この姿となってからすでに20年以上が経過しているという事実は,ちょっと意外に感じる人もいるもいるだろう。
平成の時代を超音速で駆け抜けてきたソニックは,2021年6月に30歳の誕生日を迎える。ソニックよりも年下の若いファンも増えつつある今,彼の生い立ちを一から振り返るときがきているのかもしれない。
7月26日 ゲームボーイ用ソフト「ロックマンワールド」発売
9月21日 家庭用ゲーム機「PCエンジンDuo」が発売
10月4日 スーパーファミコン用ソフト「超魔界村」発売
10月17日 TVアニメ「DRAGON QUEST -ダイの大冒険-」が放送開始
11月1日 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)が発足
11月21日 スーパーファミコン用ソフト「ゼルダの伝説 神々のトライフォース」発売
11月25日 アーケードゲーム「餓狼伝説」が稼働
12月6日 スーパーファミコン用ソフト「ロックマン4 新たなる野望!!」発売
12月12日 メガドライブの周辺機器「メガCD」が発売
12月13日 家庭用ゲーム機「PCエンジンLT」とPCエンジンシリーズの周辺機器「SUPER CD-ROM2」発売
12月20日 NEOGEO用ソフト「餓狼伝説」発売
12月20日 ゲームボーイ用ソフト「ロックマンワールド2」発売
12月21日 ファミリーコンピュータ用ソフト「ベスト競馬・ダービースタリオン」発売
12月29日 ファミリーコンピュータ用ソフト「第2次スーパーロボット大戦」発売
平成4年(1992年)
1月28日 スーパーファミコン用ソフト「ロマンシング サ・ガ」発売
2月8日 アルベールビルオリンピック開幕(最後の夏冬オリンピック同年開催)
2月29日 ナムコ・ワンダーエッグ開園(東京都世田谷区)
3月7日 スーパーファミコン用ソフト「弟切草」発売
3月13日 PC-98「太閤立志伝」発売
3月14日 東海道新幹線で「のぞみ」運転開始
3月20日 メガドライブ用ソフト「シャイニング・フォース 神々の遺産」発売
3月 PC用ソフト「Ultima Underworld: The Stygian Abyss」発売
4月5日 スーパーファミコン用ソフト「エアーマネジメント」発売
4月24日 メガドライブとメガCDを一体化した「ワンダーメガ」発売
4月27日 ゲームボーイ用ソフト「星のカービィ」発売
5月2日 PC用ソフト「Wolfenstein 3D」発売
7月14日 任天堂,「マリオペイント」発売(スーパーファミコン初のマウス専用ソフト。「スーパーファミコンマウス」同時発売)
7月25日 バルセロナオリンピック開催。日本は合計22個のメダルを獲得し,国別順位は17位
7月30日 PC-88「蒼き狼と白き牝鹿・元朝秘史」発売
8月 アーケードゲーム「バーチャレーシング」稼働開始
セガ・エンタープライゼスのAM2研によって開発されたレースゲーム「バーチャレーシング」。黎明期の3D描画向け基板「MODEL1」の第1弾タイトルだ。 鈴木 裕氏は,本作においてピットクルーという形で“ポリゴンの人間”を作ったことから,格闘ゲーム(翌年リリースの「バーチャファイター」)を作れるという手応えを得た(※画像はNintendo Switch「SEGA AGES バーチャレーシング」のもの)
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8月8日 アーケードゲーム「Mortal Kombat」稼働開始
8月27日 スーパーファミコン用ソフト「スーパーマリオカート」発売
■「スーパーマリオカート」:あの素晴らしい「マリオカートパーティー」をもう一度 (ライター:津雲回転)
ゲームで遊ぶのは楽しい。友達と遊ぶのも楽しい。では友達とゲームを遊んだらどうだろうか? 楽しい×楽しいで「もの凄く楽しい」に決まっている。この「スーパーマリオカート」(以下,マリオカート)は,そんな対戦プレイの記憶がとくに残っている一作だ。
マリオカート発売当時,新作ソフトをすぐに買ってもらえる……なんて立場ではなかった筆者は,週末や学校が終わったあとに,ソフトを持っている友達の家に集まるのが日課となっていた。ピーク時は,週末はもちろん,1日おきぐらいにその家で“ゲーム大会”が開かれていたような気がする。
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さてご存じのとおりマリオカートは,それぞれ性能の違うマリオシリーズのキャラが搭乗するカートを操作して,上位でゴールしたら勝ちというシンプルなルールのゲームだ。風船を割り合う対戦モードもあったが,熱かったのは2人でプレイするグランプリモードで,NPCの微妙なお邪魔感もさることながら,下位になるほどイナズマやスーパースターという一発逆転アイテムが出やすくなるのも楽しかった。
実際はそこまで差がつくとアイテムが出ても追いつきにくく,純粋に相手に勝つことを考えると「少し下の順位でアカこうらを温存し,最終ラップで当てる」辺りが確実性の高い戦法になるのだが,それもバナナやミドリこうらで(運がよければ)ガードできたりして,「やった」「やられた」の絶叫がしょっちゅう飛び出していた。たとえ勝てなくても,最後にスターやイナズマで勝負を引っかき回せたときは,それはそれでちょっとした達成感があったりもした。
個人的には落下するコースが苦手で,開始早々何度も落ちて冗談みたいに上位から離される,なんてこともしばしばだった。だが,前述のように本作は下位にいるほど強力なアイテムが出やすく,また最大速度も上がるように調節されていて,たまに「連続イナズマで大逆転」なんてことが起きると,本当に爽快だ。逆にやられたときはたまったものじゃないが,実は「1位で独走」もゲームとしては緊張感がなくなるため,勝ったときよりいい勝負をしたときのほうが楽しかった。
当時集まっていた友達の家は,結構広めのリビングを自由に使え,筆者の自宅と違い大きめのテレビでプレイできるのも嬉しかった。だがそういったいい環境には,自然と人も集まりやすくなるので,同時に2人までしかプレイできないマリオカートだと,順番が回ってくる頻度も少なくなる。友達が多いのは楽しいことだが,肝心のゲームがプレイできる頻度は少なくなるため,腕前は全然上がらず大概負けていたように思う。
だが,そんな筆者には強い(?)味方があった。それはマリオカートの攻略本で,どの出版社から発売されたものを買ったのかは覚えていないが,自宅でしっかり「予習」していたのをよく覚えている。各カートの特徴やコースの全体図,難しいポイントの解説などがかなりしっかりと解説されていた。
とはいえ,マリオカートはレースゲームであり,あくまで「操作してナンボ」のゲームだ。座学がそんなに役に立つわけでもなく,また前述のとおりにランダム性の高い戦いになるため,知識がそのまま役に立つわけでもない。そもそも本の情報をフィードバックしようにも,プレイできる回数や時間自体が限られているのだから,根本的に限界がある。攻略本を買ったあとでも,対戦の成績は多分大して変わらなかったんじゃなかろうか。
ただ,それが「攻略本が役に立たなかった」ということになるかといえば,話は別だ。攻略本には画面写真やマップがいくつも掲載されていて,それだけで「ちょっとしたゲームのプレイ感覚」が味わえた。高いゲームソフトが買えない代わりに,攻略本やゲーム雑誌を買って,何とかイメージトレーニングで我慢する,そんな子供は筆者も含め,当時は結構いたのではないだろうか。
さてそんな友人宅に通い詰める日々がしばらく続いたあとに,何とか筆者もソフトを買ってもらうことに成功する。これで自宅で練習できるし,友達にも上手いところを見せてやれるぜ! と思っていたのだが,ちょうどその辺りを境に,マリオカートの対戦会が開かれる頻度が目に見えて落ちた。同時期に大ブームが起こっていた,「ストリートファイターII」(以下,ストII)にプレイするソフトが変わっていったのだ。それでも最初はマリオカートのほうがプレイ時間が長かったと思うのだが,所有者(集まっていた家の友達)の好みもあってか,段々にストIIの対戦会のような感じになっていった。
実は今もそうなのだが,筆者は格闘ゲームが大の苦手だった。とにかく必殺技が出せず,CPU相手にも負けるありさまだ。少しは練習もしたと思うが,結局は自分に合ってないとスッパリ諦め,その後に続く格闘ゲームブームもまったく乗らずに現在まで来ている。当然,友人宅に行く頻度もみるみる落ちていった。
自宅にプレイ環境が整ったので,その後もマリオカートはプレイし続けていたし,別の友人を呼んで対戦を楽しむことも結構あった。ソフト購入前に買った攻略本は“実際に”役に立つようになったし,ゆっくりプレイできるので,タイムアタックなどにも手を出していたと思う。プレイ時間自体は,当然ぐっと増えたはずだ。
だがそれでも,友人宅でプレイした「マリオカートパーティー」レベルの面白さが再び体験できることは,ほとんどなかった。順番はすぐに回ってこなかったし,ろくに勝てもしなかったが,それでも抜群に楽しかったのだ。ソフトを持っていないからこそ,強くあった「プレイしたい」という気持ちが,楽しさの強いスパイスになっていたのかもしれない。
現在,ゲームはネット対戦機能を使えば,フレンドはもちろん世界中の人とプレイできる。また筆者の年齢的にも,気心が知れた友人宅に何人も集まってゲームで対戦する……というのもだいぶ難しいだろう。だがそれでも,マリオカートの文字を見かけると「あの時のマリオカートパーティーをもう一度体験したい」と思ってしまう。マリオカートはそんな記憶を呼び起こすゲームなのだ。
9月14日 NEOGEO用ソフト「龍虎の拳」発売(100メガショック第1弾)
9月30日 日本最初のホームページ公開
10月15日 メガドライブ用ソフト「Night Trap」発売
10月30日 スーパーファミコン用ソフト「真・女神転生」発売
■「真・女神転生」:悪魔合体もいいけれど,銃で撃ちまくるのが好きだったんスよ!! (ライター:板東 篤)
1992年に登場した作品で思い出深いのは,スーパーファミコン用ソフトの「真・女神転生」だ。筆者はファミコン版「デジタル・デビル物語 女神転生」,とりわけ続編の「デジタル・デビル物語 女神転生II」に大ハマリして,当然ながら「真・女神転生」の発売を楽しみにしていた。そして,見事期待に応えてくれた作品だ。
当時は多数のRPG作品が生み出されていた時代だが,中でも本作は“現代の日本”を舞台にしたことで,異彩を放っていた。ゲーム開始時が異世界の村ではなく,東京の吉祥寺。所持金は円。そしてコンピュータで悪魔を召喚する。これらの設定を美しい映像で表現した本作が超クールで,遊んでいるだけで不思議な優越感を得られたのだ。
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またシナリオのインパクトも絶大だった。街に悪魔が現れたなと思ったら母親が悪魔に食い殺されていたり,東京にICBMが落ちて壊滅したりと,序盤から刺激的な展開の連続。中盤から一気に世紀末的な雰囲気へ変化する世界には,大きなショックを受けた。
さらに主人公は行動によって属性がLAW(秩序),NEUTRAL(中庸),CHAOS(混沌)と変化し,歩む道も変わってくる。当時ではまだ珍しかったストーリー分岐も採用されていたワケだ。前作では初プレイ時にバエルのカエルを踏みつぶす選択をしてしまい,ルシファーを仲魔にできなかったという苦い思い出があったためか,「真・女神転生」ではLAWルートを選んだ記憶がある。
「女神転生」シリーズの主役と呼んでも差し支えない,悪魔たちの魅力も大きく増大した。ファミコンからスーパーファミコンへと,よりスペックの高いプラットフォームに変更されたため,金子一馬氏が描く悪魔たちも,より原画に近い美しい姿で登場した。ヴィシュヌやシヴァなど最強クラスの悪魔たちはパラメータも強烈で外見も格好よく,“いつかは仲魔にしたい!”と憧れつつゲームを進めたものだ。結局,レベルが足りず仲魔にできなかったが。
悪魔たちとの会話もバリエーションが増え,悪魔ごとの個性を出すことにも成功していたように思うし,そういった悪魔たちとの交渉も楽しかった。中でも個性的だったのは,“ヒーホー!”と脳天気な口調で話すジャックフロストだ。ブフ系魔法が使える有用な悪魔だが,それ以上に口調と性格でプレイヤーの心に爪痕を残し,アトラスのマスコットキャラクターにまで上り詰めたのは感慨深い。初期の「プリント倶楽部」では,このジャックフロストがイメージキャラクターとなっていたため,一般層への認知度も高かった。そういえば,外伝的な作品である「真・女神転生if...」だと,学生になった“ヒーホーくん”としても登場してたっけ。
個人的に「女神転生」シリーズの好きなポイントは,武器で“銃”を使えることだ。剣より入手しやすく,派手なエフェクトも格好よく,ずーっと愛用していた記憶がある。当時はヒノカグツチの入手方法なんて分からなかったし。「真・女神転生」では,銃の追加装備として弾丸が登場したことが印象深い。これを装備すると銃での攻撃に追加効果を加えられ,中でも相手を眠らせる“しんけいだん”と,相手をバインド状態にする“せんこうだん”が強かったなあ。
確か続編の「真・女神転生II」も銃が強力だったけれど,「真・女神転生III-NOCTURNE」では削除されてしまった(といか武器防具自体が装備できなくなった)。世間的には傑作と言われている「真・女神転生III」だが,個人的にはこの“銃が使えない”という理由だけでいまいちハマれず,シリーズ自体への興味が薄れていった記憶がある。
そうそう,サウンドについても触れておかねばならない。本作はオシャレな雰囲気のフィールド曲,バロック調で荘厳な印象を受ける邪教の館のテーマ曲など名曲揃い。個人的に外せないのは,ベタすぎるけれど“銀座”のテーマだ。初代「デジタル・デビル物語 女神転生」のバトル曲から続くメタル魂が引き継がれた楽曲で,メロディはもちろんギターリフも超カッコイイ。筆者がメタラーになってしまった要因のひとつは,間違いなく「女神転生」シリーズが影響している。
さて,ここまでさも「真・女神転生」を発売日から遊び倒したように書いてきたが,実はそうではなかった。当時筆者はスーパーファミコン本体を所持しておらず,でも我慢できなくて「真・女神転生」のソフトだけを発売日に購入していたのだ。代わりに,ソフトの中に入っていた「真・女神転生」公式ファンクラブ“DDS-NET”の申込書は,即送ったが。会報やトランプがたまに送られてきて,嬉しかった思い出がある。ちなみにゲーム自体は友達の家で遊ばせてもらったり,本体を借りたりしてゆっくりプレイしたような……。
「真・女神転生」発売から数年後の話になるが,本シリーズをモチーフにしたカードゲーム「真・女神転生トレーディングカード」にもハマり,遊び倒した思い出がある。当時筆者は新宿のゲームセンターでアルバイトをしていたのだが,そこのバイト仲間の間で大流行し,筆者もその流れに乗ったわけだ。バイトで稼いだお金で,ゲームセンターの上にあったゲーマーズでカードを箱買いし,休憩時間に対戦するという黄金パターンができていた。ゾンビコップ,強かったなあ。
アレコレ思い出を綴ってきたら,久々に本作をプレイし直したい思いが強くなってきた。今遊ぶならPS3のゲームアーカイブスか,Wii Uのバーチャルコンソールが現実的な選択肢だろうか。それとも新作の「V」まで我慢するか,初代以降手を出していない「ペルソナシリーズ」に触れてみるか。う〜ん。悩みどころである。
10月21日 ゲームボーイ用ソフト「スーパーマリオランド2 6つの金貨」発売
11月3日 アーカンソー州知事のビル・クリントン氏が大統領選挙に当選
11月23日 IBM,世界初と言われるスマートフォン「Simon Personal Communicator」をCOMDEXで発表(発売は1994年8月)
12月6日 スーパーファミコン用ソフト「ファイナルファンタジーV」発売
12月25日 PCエンジン用ソフト「超兄貴」発売
メサイヤからリリースされた横スクロール型シューティングゲームの「超兄貴」。PCエンジンの描画力とCD-ROM媒体ゆえの豪華なサウンドが,惜しみなく(おかしい方向に)使われている。日本コロムビアからリリースされているサウンドトラックCD「超兄貴〜兄貴のすべて〜」は,ゲーム音楽屈指のロングランヒットとなった
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12月 PC-9801シリーズ,累計出荷台数500万台突破
※2019年4月30日18:00,※初出時,1991年8月に「コミックマーケット(C40)が開催前に幕張メッセから使用中止を通達される」と記載しておりましたが,明確な時期が不明瞭だったため年表から削除いたしました。お詫びして訂正いたします